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5話

Author: 東雲桃矢
last update publish date: 2026-06-15 22:53:45

 百合は疲れ切った顔で家に帰る。あの後、秋明と情報を共有していて遅くなってしまった。彼は百合が矢絃の家に住んでいると知ると、新しい家を用意するからすぐに出られるようにしろと言っていた。

 これは百合にとって嬉しい話だ。1秒でもはやく、この家から出たいと思っている。

(色々話したいけど、母さんはもう、寝てるだろうな……)

 腕時計を見ると、もう12時になろうとしている。早朝から仕事がある母はきっと寝ているはずだ。

(私も、シャワー浴びてはやく寝よう……)

 自室に戻ることを考えながら玄関の前に立つと、ドアが開いた。

「母さん……!」

「おかえり、百合」

 パジャマにカーディガンを羽織った母・藤子が玄関を開けて出迎えてくれた。

「母さん、起きてたの?」

「矢絃さんが、他の子を婚約者として発表するって言ってるのを聞いてしまったの。そんなこと聞いたら、心配で眠れないわ」

 藤子は力なく笑う。その笑みが百合の胸を締め付けた。

「母さん。私達、近いうちにここを出ることになるわ」

「どういうこと?」

「詳しい話は、私の部屋でしましょう」

 百合は家の中を見回す。寒々しい廊下には誰もいないが、どこで他の使用人達が耳をそばだてているか分かったものではない。

「お母さんは先に部屋で待ってるから、お風呂入ってきなさい。着替えも用意してあるから、そのまま行って」

「ありがとう、母さん。カバン、お願いね」

 百合はカバンを藤子に預けると、浴室に向かった。温かい風呂に入ると、緊張して固まっていた心と体がほぐれていく。気に食わない男の家であることが腹立たしいが、足を伸ばして入れる浴槽が、百合を回復させた。

 風呂から出ると、髪をざっと乾かして部屋に戻る。藤子が冷たいお茶を用意して待っててくれた。

「喉渇いてるでしょ?」

「ありがとう、母さん」

 お茶を半分飲み干すと、冷たい液体が胃に落ち、体内が潤っていく感じがする。お茶を注ぎ直してテーブルを挟んで母の向かいに腰を落ち着ける。

「実はね……」

 百合は藤子に今日の出来事を説明した。矢絃がマキと婚約発表したこと、秋明が2年の契約結婚を持ちかけたこと。そしてその条件で藤子が自由になること。

「私、この話に乗ろうと思う」

「百合! ダメよ、そんなこと……」

「どうして!? このままじゃ母さんは、一生あの人達の言いなりじゃない!」

「それでいいの。百合、私のことは気にしないで。あなただけでもここから出て、自分の幸せを追いかけなさい」

 藤子は怯えたような、諦めたような顔をしていた。

(こんな顔、母さんにさせたくない。絶対、ここから連れ出さないと)

「なんで、そんなこと言うの……?」

「契約書をちゃんと読まなかった私が悪いの。矢絃さんがあんなひどい人だと見抜けなかったのも私。私のせいで、百合につらい思いさせちゃったわね」

「母さん……」

 まさか母がこんなに自分を責めていたなんて、思ってもみなかった。それでも藤子には、幸せになってほしい。彼女は多くの苦難を乗り越えながら、百合を専門学校まで行かせてくれた。今の百合があるのは、藤子のおかげだ。

「母さん、もうあの人たちの足元で生きるわけにはいかない。妻夫木秋明は別の深淵かもしれない。でも、これが唯一、そこから抜け出すチャンスなの。私はこのチャンスに賭けたい」

「百合……」

 藤子は苦しそうに百合を見つめる。どうすれば安心してもらえるか考えていると、無遠慮な足音が聞こえ、乱暴にドアが開けられた。

 怒りで目をギラつかせた矢絃は、部屋に入ってくるなり、百合の首を掴む。

「あがっ、ぐうぅ!」

「やめて!」

「うるせぇババア!」

 百合が苦しくてもがくと、藤子が助けようと矢絃の手を掴む。矢絃は藤子を突き飛ばし、百合に顔をぐっと近づけた。

「お前があの男とどんな話をしていたのか知らない。だが、ここから出ていくつもりなんだろ? さっき聞こえたぞ」

 百合はせめてもの抵抗で押し黙り、睨みつける。

「情けで教えてやる。お前にまったく情がないってわけじゃないしな。夫木秋明は、人を骨までしゃぶり尽くす男だ。アイツに救いを求めてついて行って、地獄に落ちた奴は何人もいる。お前なんか二週間ももたないぞ!」

 矢絃は投げ捨てるように百合を開放すると、乱暴にドアを閉めて出ていく。

「百合、大丈夫!?」

「私は平気よ」

 藤子に抱えられながら身を起こし、お茶を飲む。矢絃に喉を掴まれたダメージが、少しだけマシになった気がする。

「やっぱり、ここにいるわ。私が我慢すればいいだけなんだから」

「それは絶対ダメ! 私に任せて。今度は私が母さんを助ける番」

「でも……」

「これだけは譲れない。私が、母さんを守るから」

 百合は藤子を抱きしめる。これ以上母に、しなくていい苦労をさせたくない。

「部屋まで送るわ」

「ありがとう、百合。けど、無理はしないで……」

「大丈夫だから。おやすみ、母さん」

 藤子を部屋まで送ると、自室に戻る。スマホを充電してから、ベッドに潜り込む。

「大丈夫、全部うまく行く」

 百合は自分にそう言い聞かせると、目を閉じた。

 翌朝、起きてスマホを確認すると、秋明からメールが届いている。朝10時、矢絃の会社の前で待つようにとのこと。

「何をするつもりなのかしら?」

 気になりはするが、昨晩話した感じだと、彼は詮索されるのを嫌う。百合は了承の返信だけすると、職場に休むと連絡をし、身支度を整えた。

 朝食を食べてから、少しはやめに熊谷グループのビルに向かう。熊谷グループは矢絃の父が経営している大手企業だ。ブティックやジュエリーショップをメインに、様々な事業を展開しているらしいが、百合は詳細を知らないし、知りたくもない。

 ビルの前には秋明の他に、スーツを着た男が数名おり、物々しい雰囲気だ。声をかけることをためらっていると、百合に気づいた秋明が手招きをする。

「来たか。早かったな」

「何をするつもり? この人達は?」

「弁護士とボディガードだ。いい報告を聞かせてやれる。ところで、このビルに入ったことは?」

「えぇ、何度かあるわ」

「それなら、休憩スペースがどこにあるか分かるな?」

「1階、3階、5階に」

「1階の休憩スペースで待ってろ」

「あなたは、何をするの?」

「お前は俺を信じて待っていればいい」

 秋明は百合の唇にキスをすると、彼女の腰に手を回して歩き出す。ビルに入ると、受付嬢が目を丸くしてこちらを見ている。

「百合、休憩スペースで待っててくれるか?」

 秋明は甘い恋人の顔になり、百合に笑いかける。百合は驚きながらも頷き、休憩スペースに向かうフリをして、物陰に隠れて受付を見る。

 受付嬢と2、3やり取りをすると、受付嬢と共にエレベーターに乗る。彼らが何階に行くかは見当はつけど、尾行は危ない。

 百合は休憩スペースで大人しく待つことにした。

 事態は想像よりも遥かに進んだらしく、10数分もすると、秋明からメールが届く。

『受付前で待っててくれ。すぐ向かう』

 指示通り受付前に行く。2分もするとエレベーターが開き、秋明、弁護士、ボディガードと、矢絃が出てきた。

「なんで、矢絃さんが? どういうこと……?」

「熊谷、彼女に言うことがあるだろ?」

 秋明が矢絃に声を掛けると、ボディガードのひとりが矢絃の背中を押す。矢絃は百合の前に立つと、深々と頭を下げた。

「すまなかった……」

「え……?」

 あのプライドエベレストの矢絃が、ずっと見下していた百合に頭を下げた。想定外のことに、百合は困惑する。

「他に、言うことあるよな?」

「君と、君の母親を解放する。違約金も、無しだ」

 顔を上げた矢絃は、悔しそうな顔でそれだけ言うと、踵を返して再びエレベーターに乗った。

「なにがあったの……?」

 聞いてみても、秋明は涼しい顔をするだけで、答えてくれない。

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