LOGIN
またどこかで間違えた。
────痛い。
あてもなく走り続けて思った。
許されるなら倒れたい。しかしそれだけは駄目だと脳内で告げている。
なのにどうして追われて、どうして逃げているのか。
それすらも理解できなくなっていた。
◇
『お前、男が好きなんだろ?』
そう言われたのはいつだっただろう。
言ってきた奴は当時の親友で、中学のときだ。俺は確か……そうだ、高校受験を間近にした三年生だった。
長い間隠してきた秘密がバレてショックだったことを覚えてる。だけどそれ以上に、親友に浴びせられた言葉にショックを受けた。
なのに何を言われたのか肝心な内容は思い出せない。多分、意識的に記憶から消した。
重く暗い出来事。一番仲が良かったから……話せば分かってくれる、なんて淡い期待を抱いたのがそもそもの間違いだった。崩れ落ちた友情から学んだことは、良くも悪くもその後の自分を守る術となった。
あの日から、絶対に男を好きにならないと決めた。
永遠に独りでもいい。自分の力で生きていくんだと。
「清水さん、お疲れさまでした」
「おぉ、お疲れ。また明日」
……もう二十二時時か。
勤め先のスポーツジムから外に出てスマホを一瞥する。
堤俊紀(つつみとしき)、二十五歳。
大学を卒業し、インストラクターとして今の職場に就職した。仕事の内容には満足しているし、多少収入が少なくても何とかなっている。
それに意外と出会いもあるから楽しかった。スポーツをやってる爽やかな好青年。恐らくそれが、傍から見た自身の印象。
でも実際はそんなことない。爽やかよりは、いくらか過去を引きずるタイプだ。
個人的には恵まれてると思う。スポーツが好きだから頑張って体育大学に行ったけど、勉強が苦手なわけではなくむしろ得意な方だ。
……今日は別の道から帰るか。
普段の帰り道である大通りからそれて、人気の少な雑木林沿いの道に入った。
何でこの日に限ってこの道を選んだのか。これは後になって、一生の疑問点となる。
違う道を行っていれば、また別の人生を歩んでいたんじゃないか。そう思えてならない。
この道は林のせいで昼も薄暗い為、女性が夜歩くのは危険かもしれない。
まぁ俺が歩くぶんには大丈夫だ。
ゆったりしたペースで進んでいると、森の奥から何かが近付いてくる音が聞こえた。
ガサガサと草木を掻き分けている。
鳥? 猫……にしては音が大きすぎる。
少し不安になって、横にずれた。
「わっ!?」
それと同時に、真正面から何かとぶつかる。
やはり猫なわけがなく、人だった。
「痛……っ」
暗くてよく見えないが、声から相手が男だとわかった。それも、恐らくまだ若い。
彼は息を切らしており、腹を押さえている。しかしそれは走り疲れによるものではないと気付いた。
彼とぶつかった際に互いの手が触れたからだ。指にある感触は、さらりとした液体。暗がりでも赤く光るそれは、……血だった。
「お、おい。怪我してるのか?」
相手は距離をとっていたが、俊紀は構わず彼に近付いた。
よく眼を凝らすと、やはりまだ子どもだ。制服を着た金髪の少年が、鋭い眼つきで睨んでいる。しかし疲弊しているからか逆に弱々しく感じた。
俊紀は傷の具合を見ようとしたが、林の中から聞こえた声にたじろいた。
「おい、そっちも探してみろ! 近くに隠れてるはずだ!」
……っ?
一体何事かと少年から眼を外した瞬間、強く腕を掴まれ、近くの大木の影に引き込まれてしまった。
「わっ! ちょっ……何すんだ!」
少年の行動に驚き、俊紀は大声で叫んだ。
「おい、今声したよな!?」
「あぁ……でもあいつの声だったか?」
そのせいで、声の主はこちらに気付いたようだ。
よく分からないが、この少年は彼らに見つかったらまずい状況にいるのだ。なら今自分が大声を出したことを怒ってるかもしれない。恐る恐る彼の顔を見た。
しかし彼は怒るどころか優しい顔で、唇に人差し指を当てていた。
あれ、怒ってないぞ?
案外優しいのかもしれない。ちょっと静かにして、みたいなノリなんだと。
でも違った。
首筋に当たる冷たい感触は、何がなんでも口を開くことを禁じようとしている。
彼は俊紀の耳元に顔を近付けると、小声で諭すように囁いた。
「大丈夫、何もしないから。……その代わりじっとしててよ」
彼の手元で銀色に光ったそれは、一本のナイフだった。
夜の森で、知らない少年と息が当たりそうなほど密着してる。
何だこの状況は……っ。
意味不明だけど、首元で光る鋭利なものがチラついて他には何も考えられない。
ひとまず息を殺し、大人しくすることにした。
少年は額に汗を浮かべ、今も苦しそうにしている。それもやはり気になった。
「……、……」
声は次第に遠ざかっていった。二人組だったのか三人組だったのか、今いち分からないまま。
いなくなった……のか。
やっと深呼吸ができる。そう思った瞬間、少年は地面に崩れるようにその場に倒れた。
「おい! 大丈夫か?」
何とか抱き起こし、少年の顔を窺う。しかし彼は俊紀の予想に反する質問を投げかけてきた。
「ねぇ、……この近くで一番近い駅ってどこかな」
少年は血色の悪いまま、俊紀に訊ねた。
「駅って……それより病院が先だろ? 救急車呼ぶからちょっと待」
「待って、救急車は無理」
俊紀が言い終わるより前に、少年は強く却下した。
「病院も駄目だ。今行ったら捕まる」
「あぁ、何か事情があるみたいだけど……傷、そのままはまずいだろ。せめて手当てしないと」
「……」
息も絶え絶えに、彼は何も言わずに俯いた。
「おい、しっかり……」
俊紀は焦って大声を出しかけた。しかし、今度は言葉を失う。
わずかに聞き取れる程度の声を出して、彼は泣いていた。
初めて会ったというのに、その泣き顔は彼の弱さを指し示しているようで、見てていいのか分からなかった。
だけど、今はそばにいてやった方がいい。
この時は何故か、そう思った。
「……うん。傷は浅かったから大丈夫だと思うけど、しばらくは安静にするように言っておいてね」
「サンキュー。夜中に呼んで悪かったな」
「いいよ、今度奢ってくれれば」
二時間後。俊紀は自宅のマンションに安着していた。部屋に戻り、ベッドで眠っている少年の隣に腰をおろす。
結局少年を放っておけず、家に連れ帰った。しかし自分一人ではどうしようもなくて、高校時代から付き合いのある研修医の友人を呼んだ。諸事情で病院に行けないことを伝えるのは気まずかったが、応急処置をしてもらうだけでも助かった。
「ふぅ……」
俊紀はテーブルの上の時計を見て溜め息をもらした。時刻はもう零時を回っている。
この子の家族は心配してるだろう。そう思ったら頭より先に体が動いて、彼の上着にスマホが入ってないか探そうとしていた。ところが。
「あのぉ」
「うわっ!?」
背後から突然かかった声に、心臓が跳ね上がった。振り返ると、寝ていたはずの彼がドアの前に立って、こちらを見ていた。
「お、起きられたんだ……。大丈夫?」
「はい。おかげさまで」
少年の淡白な返答に素直な安心していいのか、微妙な気持ちになった。
「あのう……すいません、実はお願いがあるんです。今日は泊まらせてもらえませんか?」
やや違和感のある言い方で、彼は俊紀に深く頭を下げた。
「それは構わないよ。そしたら、とりあえずご両親に連絡を」
「大丈夫です。俺一人暮らしなんで」
「え。珍しいね。君高校生だろ? 寮とか?」
そう言うと、彼は近くの椅子にもたれて、無邪気な笑顔を見せた。
「いえ、実家ですけど家族が帰ってこないんで、ほとんど一人暮らしみたいな感じなんです。それより俺、梁瀬夕都(やなせゆうと)っていいます。助けてくれて本当にありがとうございました」
無邪気な笑顔と、明るく元気な声。そこには、初めて会った時のような空気は存在しなかった。
どこにでもいそうな高校生。……よりは、いくらか荒んでる気がするけど。
「あぁ。俺は堤俊紀。よろしくね」
「俊紀さんかぁ。すごい優しいんですね」
「ん? 何が?」
夕都の言葉の意味が分からず、俊紀は純粋に聞き返した。
「何があったか聞かないのは、面倒事に巻き込まれたくないからかもしれないけど……何も俺の要望通りに助ける筋合いはなかったでしょ? 助けてもらった身でこんなこと言うの、限りなく失礼だけど。よく知らない俺なんかの為に、何でここまで気をつかってくれたんですか?」
「何でって言われてもな……」
俊紀は頭を掻いて、困ったように首を傾げる。
「俺の勘違いかもしれないけど、あの時の君、すごい必死に見えたから……相当やばい事情があるんじゃないかなって思って」
あと逆らったらホントに刺される気がした。とは言わないでおこう。口は災いの元。
「そう……ですか」
「あぁ、あと敬語じゃなくていいよ。そっちこそ、あんまり気を遣わなくていいから」
むしろ敬語を使っている方が不自然に見えた。気を遣えるみたいだけど、やはり第一印象に振り回される。
髪ぐらい高校生なら染めてる方が多いけど、着崩してることもありヤンチャに見える。いつもなら進んで関わりたい人種じゃないのに……何故だか、彼のことは気になる。
だからこんな事を言ってしまった。
「色々あるみたいだけど、俺ができる事なら何でも言ってくれよ。……力になるから」
余計な事は本当に言うべきじゃない。という事を俺はわかっていない。
「本当? じゃあちょっとだけ、頼みがあるんだけど!」
「あ、あぁ。何?」
「しばらく、俊紀さんの家に泊まらせてくれないかな」
は?
彼のお願いは、予想していたどのお願いよりも斜め上をいっていた。
「き、今日初めて会ったんだぞ。知らない大人の家に泊まるべきじゃないって」
「あぁ。でも大丈夫、俊紀さんなら」
「はぁ?」
大丈夫って、何を根拠に言ってるんだ。
根っから悪そうには見えない、けど……それもあくまでただのカンだ。
「もちろん生活費は全部自分で出すよ。ただちょっとの間、家に帰れないんだ」
そう言うと、夕都は俯いた。わずかに見える表情はひどく不安げなもので、ただの少年みたいだった。いや、ただの少年なんだろうけども。
うーん……。
いくら彼が一人暮らしだとしても、問題だらけ。いや、非常識だ。彼の親だって、本当は家にいるかもしれない。ただの家出少年だったらどうする。
……なんて、いつに間にか本気で頭を悩ませてる自分がいることに戸惑った。
「ちょっと、考えさせてくれ。今日は、その……泊まってってもいいけど」
だけど彼の返事は、またまた俺の予想外な内容だった。
「いや、急ぎの話なんだ。……少なくとも今日から一週間ぐらいの」
「そりゃまた急な話だな……」
俊紀は夕都から視線を外す。情けないものの、このままだと息が詰まりそうだったからかもしれない。
「その、せめて理由を話してくれないか。簡単でいいからさ」
そう訊くと彼は黙った。しかしただ黙っているのではなく、何か考えている様に見える。
俊紀が心配するより先に、夕都は口を開いた。
「多分気付いてると思うけど、今ちょっと厄介な事に巻き込まれててさ。家に帰れないのは単純に……俺を待ち伏せしてる奴らがいるかもしれないから。まぁ、逃げる為」
夕都は可愛らしい、無垢な笑顔を浮かべる。が、内容が内容なだけに俊紀は引き攣った笑顔しか返せなかった。
「そんな物騒な話なら警察とかに頼めない?」
「駄目駄目、ガキ同士の喧嘩に協力したりしないよ。それに……」
と、なにか言いかけて彼はやめてしまった。
「それに?」
「いや、今話した通り。一週間だけ、俊紀さん。だめかな……?」
彼は捨てられた子犬のような眼で俊紀を見上げる。
……っ。
数秒の後、俊紀は静かに溜め息をついた。
「怪我してることもあるし……とりあえず、な」
「ありがとうございます! やっぱり俊紀さん良い人!」
そう言って喜ぶ彼は素直に可愛かった。普段の切れ長な眼が特徴的だからか、子どものような笑顔を浮かべると別人に見える。
こうして話す分には何も問題がない高校生に見えるのに……どこかに隠し持ってるナイフの存在が、完璧に信用させない。
「ほら、じゃあ今日はもう寝な。傷が開いたらまた大事になるぞ」
「でもここ、俊紀さんのベッドじゃないの?」
「敷き布団があるし俺は大丈夫だよ。……大人しく寝るんだぞ」
「了解!」
返事を聞き、電気を消して部屋を出ようとする俊紀を夕都は呼び止めた。
「俊紀さん!」
「うん?」
「ありがとうございます」
静かな廊下に出て、パンクしそうな頭で考えた。
……。
自分が下した決断に今さら頭を抱えた。
素性の分からない、それも確実になにか問題を抱えてる(※ナイフも持ってる)少年を家に入れるなんて。
何が起こっても言い訳できない。百パーセント自分のせいだ。
それでも、彼を疑いたくない自分もいる。
むしろ彼を救ってやりたいとすら思ってることに気づいて、混乱していた。
「ふあ、さむ……っ」仕事が終わり、俊紀は早足で自宅を目指した。今日は仕事に集中できない理由があり、一日中ソワソワしていた。 その理由はひとつ。やっぱまずい気がしてきた……!何がまずいかと言うと、昨日から始まった男子高校生との同居のこと。恐ろしい話、今のところ彼について分かってることは名前と年齢、住所だけ。それだって微妙だ。嘘をついてる可能性もあるが、確かめる術もない。……にもかかわらず、普通に彼に留守を任せて今日は出勤してしまった。でも家で休んでるように言ったのは自分だし……。気付けばもうマンションの前まで来ていた。彼は家にいるだろうか。もし金目当ての不良だったら、なんて良からぬ妄想まで浮かんでしまう。だけど、そう思う度に彼の辛そうな表情が脳裏にチラつく。それに後悔するにしたって、彼を家に置いて出てきてるんだからもう遅い。……昨日の自分が信じてみようと思ったんだ。ここは腹を括るしかない。中に入ると、いつもと同じく静まり返っていた。「……た、ただいま?」リビングにひょこっと顔を出すも、荒れた形跡は一切ない。いつも通りの景色だけど、一つだけ明らかに違う、新しい存在がある。「……夕都くん?」白いダブルのソファで静かに寝息を立てる少年。今日一日ずっとソファで寝ていたんだろうか。 でも朝はワイシャツ一枚だったのに、今はしっかりブレザーを着ている。怪我してんのにどこか出掛けてたのか?彼は高校二年生。世間的には、あと少しで大人の括り。……こんなに幼い寝顔をしてるのに。ひとり息をつき、軽く首を傾げた。とまぁ、とにかく。「夕都くん、こんな所で寝てたら風邪ひくぞ。寝るならベッドで」軽く揺さぶって起こそうとした。しかし夕都の内ポケットから、何かが重い音を立てて床へと落ちる。それが何なのか、理解するのに時間はかからなかった。ナイフ!!一応、拾った。想像していたより重い。この時点で心拍数はかなり上がったが、さらに恐ろしいことに気付いて息を飲んだ。よく見ると、昨日見たものより一回り大きい。マジかよ……。物騒なナイフと少年の穏やかな寝顔を交互に見つめ、俊紀は重たい溜め息をもらした。やっぱり、信頼できない一番の原因はここにあるみたいだ。「……ん」そうこうしてる間に、夕都は目を覚ました。「あ、俊紀さん。おかえり……」彼は明る
またどこかで間違えた。────痛い。あてもなく走り続けて思った。許されるなら倒れたい。しかしそれだけは駄目だと脳内で告げている。なのにどうして追われて、どうして逃げているのか。それすらも理解できなくなっていた。◇『お前、男が好きなんだろ?』そう言われたのはいつだっただろう。言ってきた奴は当時の親友で、中学のときだ。俺は確か……そうだ、高校受験を間近にした三年生だった。長い間隠してきた秘密がバレてショックだったことを覚えてる。だけどそれ以上に、親友に浴びせられた言葉にショックを受けた。なのに何を言われたのか肝心な内容は思い出せない。多分、意識的に記憶から消した。重く暗い出来事。一番仲が良かったから……話せば分かってくれる、なんて淡い期待を抱いたのがそもそもの間違いだった。崩れ落ちた友情から学んだことは、良くも悪くもその後の自分を守る術となった。あの日から、絶対に男を好きにならないと決めた。永遠に独りでもいい。自分の力で生きていくんだと。「清水さん、お疲れさまでした」「おぉ、お疲れ。また明日」……もう二十二時時か。勤め先のスポーツジムから外に出てスマホを一瞥する。堤俊紀(つつみとしき)、二十五歳。大学を卒業し、インストラクターとして今の職場に就職した。仕事の内容には満足しているし、多少収入が少なくても何とかなっている。それに意外と出会いもあるから楽しかった。スポーツをやってる爽やかな好青年。恐らくそれが、傍から見た自身の印象。でも実際はそんなことない。爽やかよりは、いくらか過去を引きずるタイプだ。個人的には恵まれてると思う。スポーツが好きだから頑張って体育大学に行ったけど、勉強が苦手なわけではなくむしろ得意な方だ。……今日は別の道から帰るか。普段の帰り道である大通りからそれて、人気の少な雑木林沿いの道に入った。何でこの日に限ってこの道を選んだのか。これは後になって、一生の疑問点となる。 違う道を行っていれば、また別の人生を歩んでいたんじゃないか。そう思えてならない。この道は林のせいで昼も薄暗い為、女性が夜歩くのは危険かもしれない。まぁ俺が歩くぶんには大丈夫だ。ゆったりしたペースで進んでいると、森の奥から何かが近付いてくる音が聞こえた。ガサガサと草木を掻き分けている。鳥? 猫……にしては音が大きすぎる。少