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第3話

Author: ごはんまん
結衣が目を覚ましたとき、家の中はまだ静まり返っていた。

スマートフォンには風真からのメッセージが届いていた。

【結衣、今日は病院が忙しくて、せっかくの休みがダメになっちゃった。怒らないでね。明日、どんなに忙しくても絶対に一緒にいる。プレゼントも用意したから、待ってて】

そのメッセージのすぐ下には、一時間ほど前に玲奈が送ってきた写真が表示されていた。

ふたりが温泉の露天風呂で肩を並べて写るツーショット。幸せそうな笑顔が、結衣の胸を刺した。

スマホを握る指先が熱くなり、今にも電話をかけて「本当に手術が忙しいの?それとも妹さんと温泉デート?」と問い詰めそうになった。

けれど、心の中の計画を思い出して、どうにか気持ちを抑え、【わかった】とだけ返事をした。

帰ってこないのも都合がいい。ちょうど荷物をまとめるのに邪魔されずに済む。

風真が買い揃えた服も、きれいに箱詰めして寄付に出す準備をした。

壁にかかっていたふたりの写真は外してシュレッダーへ。かつて書き溜めた「風真への百の願いごと」カードも、ベランダで灰になるまで燃やした。

あまりにも物を処分しすぎて不審に思われるのが怖くて、あとはそっと片付けるだけにした。

翌日、風真がやっと帰ってきた。

結衣の顔を見た瞬間、彼は手にしていたケーキを玄関に置き、両腕を広げて歩み寄ってきた。

「結衣、今日は本当に疲れた。癒やしの充電がほしいな」

けれど結衣は一歩、さりげなく後ろに下がった。その腕の中に飛び込むことはしなかった。

風真は眉を上げて、少し困ったように言う。

「まだ怒ってるの?もういいだろう、さあ、君のために用意したサプライズを見せてあげる」

結衣が何か言う前に、彼は結衣の手を引いて車へと連れていった。

車はトレーニング場へと向かう。到着すると、彼女を車から引っ張り出した。

「どう?気に入った?」

風真が指差した先には、派手に改造されたレーシングカー。

車体にはピンク色のラメとダイヤモンドがびっしり貼りつけられていて、眩しいほどだった。

結衣は驚きを隠せず、クラブのコーチたちが側でざわめいている。

「この車、改造費でほぼ1億円かかったらしいよ。すごい愛だね」

「値段なんて関係ないさ。聞いた話だと、このダイヤ全部、藤崎さんがひとつひとつ手で貼ったんだって。ほとんど寝ずに作業したってさ」

「結衣、ちょっと試してみてよ。乗り終わったら俺たちにも運転させて!藤崎さん、本当に奥さん大事にしてるんだなぁ」

周りの声を聞きながら、結衣の驚きはやがて冷めていき、胸の奥がじわりと熱くなった。

口元を引きつらせて、どこか自嘲気味に笑う。

みんなが「愛されてる」って言うけど、本当の「妻」は一体誰なの?

風真の愛は、たしかに真夏の太陽みたいに激しい。でも、その熱は自分だけに注がれているわけじゃない。それだけは、結衣にも痛いほど分かっていた。

何日も押し殺してきた感情が、今になって一気に溢れ出しそうになる。

結衣は運転席に座ると、思いきりアクセルを踏み込んだ。レーシングカーは矢のようにコースを駆け抜けていく。

ぐるぐるとサーキットを回り続け、悔しさも、怒りも、やりきれなさも、全部エンジンの轟音にぶつけた。

風真はコース脇で両手をポケットに突っ込み、微笑みながら結衣の走りを見守っている。

四十周目、結衣がふと視線を上げると、風真が彼女に向かってハートマークを作って見せていた。

一瞬気を取られ、ハンドルを握り損ねて、車体が「ガン」とサイドフェンスにぶつかった。

足の指先に鋭い痛みが走る。

呆然としていると、すぐに風真が駆け寄り、結衣を抱き上げて休憩室へと運んだ。

「大丈夫?」風真は眉をひそめ、そっと結衣の足を持ち上げる。消毒液をコットンに含ませ、傷口にやさしく塗りながら、「無理させてごめん。俺のせいだね」とつぶやく。

その仕草はまるで壊れやすいガラス細工を扱うように繊細で、瞳には溢れるほどの優しさが宿っていた。

でも、結衣の心は冷え切ったままだった。

愛って、こんなにも巧みに演じられるものなんだ。

ぼんやりと風真の髪に手を伸ばそうとしたとき、彼がその手首を掴み、ふいに唇を寄せてきた。

「ドン!」

突然、休憩室のドアが勢いよく開かれた。

風真は顔も上げず、テーブルのミネラルウォーターを手に取り、入り口に向かって投げつける。

「出ていけ!」

結衣が顔を向けると、そこには玲奈が立っていた。

ようやく風真も顔を上げ、驚いたように言った。

「玲奈?どうした、こんなところに」

玲奈は額を押さえながら、唇を噛みしめてうつむいている。服には泥がついていて、見るからにボロボロだった。

「練習中にブレーキを踏み損ねて、クラッシュしちゃって……救急箱を取りに来たの」

風真は数秒黙り、玲奈を無視して絆創膏を取り出すと、結衣の足の指に優しく貼った。

「ここで座ってて。足を怪我してるんだから、無理しちゃダメだ」

そう言って結衣の耳元の髪を撫で、そっと頬にキスを落とす。「ちょっと様子見てくる。すぐ戻るから、すぐそこにいる。何かあったら呼んで」

救急箱を手に、風真は部屋を出ていった。

休憩室は急に静かになり、外からは風の音だけが聞こえてくる。

しばらくして結衣がそっとドアを開けてみると、誰もいなかった。

「すぐそこにいる」なんて、やっぱり嘘だった――

そんなわずかな失望も、すぐに胸の奥に押し込めた。

最初から分かっていたことなのに。

壁をつたってゆっくりと歩き、結衣はあのレーシングカーのほうへと向かう。

本当にあの車が好きだった。空が曇ってきたから、ガレージにしまっておこうと思った。

けれど、車の近くまで来たとき、結衣の足がぴたりと止まった。

車体がかすかに揺れている。閉まりきっていない窓からは、誰かの話し声が漏れ聞こえていた……
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