教会へ向かう馬車の中。
柔らかな陽光がレースのカーテンを透かして差し込み、ルクレツィアの膝上のドレスを金糸のように照らしていた。車輪の心地よい揺れが、かすかに彼女の身体を揺らす。春先の空気はまだ少し冷たいが、窓越しの日差しは穏やかで、どこか現実感の薄い静けさがあった。 (まずはこの世界について、改めて整理しておきましょう) ここは乙女ゲーム『聖なる光と堕ちた神』の世界だ。 “聖なる光”は聖女ソフィアを意味し、物語は彼女が五人の攻略対象たちを救い、そのうちの一人と結ばれて、そして世界を救うまでを描いている。 何も干渉しなければ、物語は王太子ルートへ自然に流れていく。そのため、プレイヤーの間ではこれを「王道ルート」と呼んでいた。 事件が起こる順番は決まっている。 最初がイザヤ、次いでアシュレイ、テオドール、アズライル、そして最後にルーク――。 ソフィアはそれぞれの心の闇に寄り添い、救い、そのうちの誰かと恋愛関係に発展していく。 だが、事件で救えなかった場合、その対象者のルートへ進もうとするとバッドエンドが発生する仕様だ。 そして、悪役令嬢・ルクレツィアはと言えば――ほとんどモブのような存在だった。 たまに王太子の正式な婚約者として登場しては、周囲に聖女として持て囃されるソフィアに嫉妬し、嫌がらせを仕掛けたり、攻略対象たちとのイベントを邪魔したりする。 それが、彼女の役割の全て。 (私の出番なんて、最初から限られていたのよね) そして必ず訪れる婚約破棄―― それはどのルートでも、各事件がすべて解決した物語の中盤に用意されていた。 このゲームが他の乙女ゲームと一線を画していたのは、攻略対象たちとの「救い」が序盤で完結する点だろう。 では後半は何を描くのか? それは堕ちた神を浄化し、世界を救う聖女としての戦いだ。 ここで、序盤に救った攻略対象たちが再び重要な役割を担う。 誰を救い、誰を救えなかったのか――その選択が神の浄化の難易度やストーリー展開そのものを大きく左右していく。 だからこのゲームはエンディングがプレイヤーの選択により、無数に存在していると言われている。それが魅力の一つでもあるのだ。 救われた彼らはソフィアに力を貸してくれるが、もし誰かが救済に失敗していれば、その者は闇に堕ち、時に彼女の前に敵として現れることさえある。 やがて訪れる最終局面。 最後に神を浄化できるか否かは、選ばれたたった一人の愛する相手と築いた絆の力に委ねられる。 この展開はプレイヤーから賛否両論を呼んだ。 「そこまで重厚な物語を作っておいて、結末が愛の力だなんて」と批判する声も少なくなかった。 けれどルクレツィアは思う。 (でも私は、あの綺麗な終わり方、嫌いじゃなかったわ) 堕ちた神についても、ゲーム内で多くが語られることはなかった。 だが、ファンの間で囁かれていたのは、イザヤの所属していたセラフィス教の影――つまり、ルクレツィアが今関わりつつある教会の闇だった。 それも決定的な証拠はなく、あくまで陰謀論めいた噂に過ぎなかったが。 (エリアスにもう少し詳しく事情を聞いておけばよかったかしら……) 小さく唇を噛み、ルクレツィアはふと空を仰いだ。けれど、もう後戻りはできない。いや――したくもない。 「お嬢様、もうすぐ到着いたしますよ」 侍女のリリーが馬車の向かいの席から静かに告げる。 「ええ、わかったわ」 やがて馬車は滑らかに停止し、扉が静かに開かれた。 眩い陽光が、一気に溢れ出すように馬車の中へと流れ込む。黄金の光が差し込み、ルクレツィアの髪とドレスの布地に柔らかな輝きを纏わせる。 暖かな風がカーテンをわずかに揺らし、光と影が優美な模様を刻んだ。 ルクレツィアは一瞬、目を細めながらも、扉の外に身を乗り出す。 「お手を」 差し出された手に目をやると、そこにはよく知る騎士――ダークブラウンの短髪に、鋭さを湛えた灰色の瞳を持つ男、アシュレイが立っていた。 「……アシュレイ?」 思わず名を口にすると、侍女のリリーが説明を補う。 「今朝、ルクレツィア様の護衛として、騎士団に一名の派遣を要請しておきました。安全のために」 「でも……あなたほどの騎士が私の護衛だなんて……」 困惑するルクレツィアに、アシュレイは静かに微笑みを浮かべる。 「私では、不満ですか?」 「……そういう意味じゃないの。ただ驚いただけ。――ええ、よろしくね、アシュレイ」 ルクレツィアは小さく息を整え、彼の手を取って馬車から降り立つ。 目の前には、荘厳な教会の大理石の階段が続いていた。 その石段を優雅に踏みしめる彼女の前に、教会の扉がゆっくりと開く。 そこに現れたのは、白銀の美しい長髪を束ねた青年――イザヤ・サンクティスその人だった。 「こんにちは、ルクレツィア様。先日はわざわざ私を訪ねてくださったそうですが、お会いできず失礼をいたしました」 「いえ、とんでもありませんわ。聖女付きという重責を担っていらっしゃるのですもの。お忙しいのは当然のことです。むしろ、私の方が配慮を欠いておりました」 ルクレツィアは柔らかく微笑み、淑女の所作で軽く頭を下げた。 「いえ、こちらこそ短慮でした。今日はわざわざお越しくださり感謝いたします。――さあ、お入りください」 イザヤが静かに招き入れる。 白亜の大聖堂内に入ると、高い天井まで伸びる荘厳な柱列と、色とりどりのステンドグラスが神秘的な光を落としていた。ここは主礼拝堂――一般信徒が日々祈りを捧げる、神殿内で最も広く開かれた神聖な空間だ。 ルクレツィアたちはその主礼拝堂を静かに通り抜ける。すると、奥へ向かう通路の手前で、イザヤの声色がわずかに低くなる。 「……ここから先は、ルクレツィア様お一人でよろしいでしょうか? この先は教職者の居所、神に近き聖域にございます。血に塗れし剣士や、俗世の卑しき身分の者をお通しするのは――教義上、慎むべきことでございますので」 その言葉に、リリーとアシュレイは一瞬身じろぎしたが、ルクレツィアは微笑を絶やさず、静かに頷いた。 「ええ、構いませんわ。リリー、アシュレイ。ここで待っていて」 「……承知しました」 アシュレイは一礼し、ルクレツィアの背を見送りながら一歩後ろへ下がった。リリーも静かに頷く。 ルクレツィアはそのままイザヤに導かれ、静謐な教会の奥へと進んでいった。 足を踏み入れるたび、教会内部の空気がわずかに変わる。木の床は磨き上げられ、わずかなきしみすらも荘厳な静寂の一部として耳に届く。重厚な石壁には古びた聖遺物や宗教画が整然と飾られ、静かに信仰の歴史を物語っていた。 通路の両脇に並ぶ燭台の炎がわずかに揺れ、オイルの微かな香りが漂う。 イザヤは無駄のない静かな歩みで先を進み、時折振り返っては、ルクレツィアの歩みを穏やかに確認していた。その視線は、どこか柔らかさを含みながらも常に制御されている。 「ここから先は、教会でもごく限られた者しか立ち入れない区域となります」 イザヤはそう説明すると、静かに片手で小さな扉を開いた。 扉の先に広がっていたのは、ルクレツィアが想像していた堅苦しい執務室でも、厳かな祭壇でもなかった。 そこはまるで隠された楽園のような、美しい庭園だった。 高い石壁に四方を囲まれた静寂の空間。朝露をまとった白百合や薄紫のラベンダーが整然と咲き誇り、控えめに流れ落ちる泉の音が静かに響いている。澄みきった空気の中に、どこからか鳥たちの囀りが微かに混じる。わずかな風が緑を撫で、光の粒が葉の隙間から零れ落ちていた。 「……まあ。なんて素敵な庭園なの」 思わずルクレツィアは小さく感嘆の息を漏らした。乙女ゲームの中でも語られたことのない、未知の景色だった。 「祈りと瞑想のために造られた特別な区画です。ここなら俗世の喧騒に心乱されることなく、神にのみ向き合うことができます」 イザヤの声も、まるでこの静謐に合わせるように穏やかだった。 「申し訳ありませんが、ここでしばしお待ちください。奥の許可申請を進めてまいりますので」 「わざわざ、ありがとうございますわ」 ルクレツィアは優雅に微笑み、軽く頭を下げた。 「いえ……本当は、私の方こそ貴女とお話がしたかったのです」 イザヤは優しげな声でそう囁くと、一礼し静かに踵を返して去っていった。 (……イザヤ推しの人って、こういうところに惚れたのかしら) 残されたルクレツィアは、微苦笑を浮かべつつ、花咲く庭をゆっくりと歩き始めた。 柔らかな芝生を踏みしめ、薔薇の香りが漂う小道を進む。その視線の先、ふと茂みの陰に人影が揺れる。 小さな泉のほとり。そこにそっと腰を下ろしていたのは1人の華奢な少女だった。 蜂蜜色のストレートヘアが、降り注ぐ陽光に透けてきらめいている。そして静かに白百合の花弁を撫でている。 (……ソフィア) 乙女ゲームのヒロイン、聖女と称えられる少女の姿が、目の前にあった。教会へ向かう馬車の中。 柔らかな陽光がレースのカーテンを透かして差し込み、ルクレツィアの膝上のドレスを金糸のように照らしていた。車輪の心地よい揺れが、かすかに彼女の身体を揺らす。春先の空気はまだ少し冷たいが、窓越しの日差しは穏やかで、どこか現実感の薄い静けさがあった。(まずはこの世界について、改めて整理しておきましょう) ここは乙女ゲーム『聖なる光と堕ちた神』の世界だ。 “聖なる光”は聖女ソフィアを意味し、物語は彼女が五人の攻略対象たちを救い、そのうちの一人と結ばれて、そして世界を救うまでを描いている。 何も干渉しなければ、物語は王太子ルートへ自然に流れていく。そのため、プレイヤーの間ではこれを「王道ルート」と呼んでいた。 事件が起こる順番は決まっている。 最初がイザヤ、次いでアシュレイ、テオドール、アズライル、そして最後にルーク――。 ソフィアはそれぞれの心の闇に寄り添い、救い、そのうちの誰かと恋愛関係に発展していく。 だが、事件で救えなかった場合、その対象者のルートへ進もうとするとバッドエンドが発生する仕様だ。 そして、悪役令嬢・ルクレツィアはと言えば――ほとんどモブのような存在だった。 たまに王太子の正式な婚約者として登場しては、周囲に聖女として持て囃されるソフィアに嫉妬し、嫌がらせを仕掛けたり、攻略対象たちとのイベントを邪魔したりする。 それが、彼女の役割の全て。(私の出番なんて、最初から限られていたのよね) そして必ず訪れる婚約破棄―― それはどのルートでも、各事件がすべて解決した物語の中盤に用意されていた。 このゲームが他の乙女ゲームと一線を画していたのは、攻略対象たちとの「救い」が序盤で完結する点だろう。 では後半は何を描くのか? それは堕ちた神を浄化し、世界を救う聖女としての戦いだ。 ここで、序盤に救った攻略対象たちが再び重要な役割を担う。 誰を救い、誰を救えなかったのか――その選択が神の浄化の難易度やストーリー展開そのものを大きく左右していく。
あれから2週間程がたった。ルクレツィアはあれからも2度寄進という名目で教会を訪れていたが、相変わらずイザヤには出会えていない。 ルクレツィアは執務机の前に座り、手元の文書に静かに目を通していた。 昼下がりの柔らかな日差しが、薄く開かれたカーテン越しに差し込み、彼女の金糸のような髪に淡い光を落としている。 彼女が読んでいるのはリリーに頼んでいたちょっとした調査書だ。教会に出入りする平民たちの噂、納入業者の帳簿、ささいな奉仕者の証言――それらを丹念に整理するのは、すでに日課となりつつあった。 ふと、隣からリリーが声をかける。「お嬢様……少々、気になる噂がございます」「噂?」「ええ。最近になって、異端審問官たちがやけに活発に動いているようなのです。各地の小教区でも審問が強化されているとか……」 ルクレツィアの手がぴたりと止まった。 胸の奥に冷たいものが走る。(異端審問――やはり始まったのね) 異端審問は、イザヤの事件の影に常に付きまとっていた。 それが早々に活発化してきたという事実は、想定よりも事態が動く速度が早いことを意味していた。「……具体的には、どの程度活発に?」「まだ表立って処刑や大規模な粛清には至っておりませんが、内部調査や査問の数が増えていると、納品に出入りする商人たちが噂しております」 ルクレツィアは静かに唇を噛んだ。 こうなると、教会への頻繁な出入りが自らの身にも危険を招きかねない。(ベルントには思ったより危険な役割を任せてしまったわね……)「お嬢様。恐れながら……しばらくの間、寄進という名目で教会に出向くのは、お控えになった方が良いのではないでしょうか」 リリーが、控えめながらも真剣な眼差しで進言する。 ルクレツィアは黙って考え込んだ。(ここで私が目立てば、異端審問官の目に留まる可能性もある。今はまだ“外部の貴族”でいられる立場を利用しなければならないのに……)「……ええ、わかったわ
《セラフィス教神聖序列書 抜粋》【第1位】教皇(Pope)教会の最高統治者。宗教教義の最終決定者であり、破門や教会法の執行権を持つ。王族にも影響を及ぼす。【第2位】大枢機卿(Grand Cardinal)教皇の最側近で、教会の実務と政策運営を担う枢機卿団の統括者。【第3位】枢機卿(Cardinal)教皇の顧問として政治・外交・教義運営に関与。・枢機卿団枢機卿の集まりのこと。【第4位】大司教(Archbishop)地方教会の統括者であり、異端審問局や神聖法廷を指揮することも。【第5位】司教・司祭(Bishop / Priest)各地の教会で信徒の導きや儀式を担当。民衆に最も近い存在。《セラフィス教 補助組織概要》【異端審問局(Inquisition)】異端思想・魔術・禁忌の研究など、教義に背く行為を摘発・処罰する組織。強力な調査権と秘密裁判の権限を持ち、時に王族すら対象とする。原則では大司教の指揮下であるが――【教義監察局(Doctrine Office)】教義の純粋性を守るための監視機関。聖職者の教育、査問、異端的思想の抑制を担う。教皇派が強く影響を持つが、中立的な立場を貫こうとする動きもある。枢機卿団の監視下にある。【神聖法廷(Ecclesiastical Court)】教会法に基づく裁判機関。信徒・聖職者問わず違反者を裁く。地方では大司教の管轄、重大案件は教皇庁の裁可が必要となる。本来は教皇直属の組織。【対外使節局(Diplomatic Office)】他国の教会・王侯貴族・異文化との交渉を担当する外交部門。教皇庁直属の組織ではあるが、教会の「顔」として諜報任務を担うこともあり、大枢機卿派の強い影響下にある。【財務管理局(Treasury)】教会の財産・寄付金・荘園収支を管理。莫大な資産と現場の運営力を有する。腐敗の温床とされることも
舞踏会から帰った夜。ルクレツィアは重たいドレスを脱ぎ捨て、ゆったりとした部屋着に着替えた。カーテンをわずかに開けたままの大きな窓のそばに立ち、ほの暗い月光の中でグラスを傾ける。赤く輝く液体――ワインが好物だった。けれど、今は怖くて飲めない。代わりに用意させた白桃のハーブティーの柔らかな香りだけが、ほのかに部屋に漂っている。カラン、と氷がグラスの中で音を立てた。(イザヤの事件まで、あと3ヶ月……。まずは計画を練りましょう)月に照らされた庭園は静寂に包まれていた。銀色の月光が、闇の中で静かに花々を照らしている。(乙女ゲーム…ソフィアが本来なら事件を解決して、イザヤを救うはず。でも、エリアスによるとそれだけじゃ足りないらしい……)(ただ予定通りに物語が進んでも――私は、きっとまた殺される)指先がわずかに震え、氷が再び揺れて淡い音を奏でた。冷たい液体が喉を滑るたび、微かな恐怖と焦りがじわじわと胸を満たしていく。(私はイザヤについて、トゥルーエンドで語られた話しか知らない。バッドエンドや隠しエンドはやる前に死んじゃったからなぁ……)彼の名が脳裏に浮かぶ。イザヤ・サンクティス。銀白の髪と金の瞳、神の寵愛を受けたかのような穢れなき存在。(彼は神以外、何も信じることが出来ない。神の選んだ聖女ソフィアを除いて)けれど、ルクレツィアは知っている。神にすがりながらも、決して癒されぬ彼の心の奥底に、どれほど深く闇が巣食っているのかを。(それを、ゲームの中でソフィアは優しく包み込んで救った。けれど――)その先は、誰にも語られていない。闇の本当の核心までは、誰一人として踏み込むことは許されなかった。何が彼を、あの狂気へと追い詰めたのか。なぜ彼は、神以外のすべてを信じることができなくなったのか。いや神すらも彼は――その答えは、まだ霧の奥に沈んだままだ。(それを、私は知らなければならない)
テオドールと別れた後も、胸の内に違和感を抱えたままルクレツィアは歩き続けていた。(次は――) 自然と足が、舞踏会場の奥、人気の少ないテラスへと向かう。 柔らかな夜風がレースの袖を揺らし、月明かりが静かに白い大理石の床を照らしている。(前回の舞踏会でも、ここで彼に出会ったのよね……) 思い返せば、あの夜の会話が彼との最初の接点だった。 ルーク・グレイヴン。裏社会に精通し、商人として成り上がり伯爵となった男。 ダークワインレッドの髪と深緑の瞳を持ち、物腰は柔らかく穏やかだが、その本心は決して他人に悟らせない。 そして――「こんばんは、アルモンド公爵令嬢」 月光の下、すでに彼はそこにいた。 石造りの欄干に片肘をつきながら、穏やかな微笑みを浮かべている。(……やっぱりいたわ) 内心、僅かに息を吐く。 ルクレツィアはドレスの裾を静かに持ち上げ、彼に向き直った。「こんばんは、グレイヴン伯爵。今宵は月が綺麗ですわね」「ええ、月も星も、貴女のドレスに映えてより一層輝いて見えます」 相変わらず流れるように巧みな口ぶりだ。 だが、前回と全く同じ言葉ではなかった。(――ここも違う) それでも、ルクレツィアは笑顔を崩さずに返す。「お上手ですこと」「商売柄、口先だけは少し自信がありまして」 ルークは軽く肩をすくめてみせた。その仕草もまた、どこか計算されているようでいて、自然だ。「このような華やかな場所では、どうにも落ち着かなくてね。つい、こうして人の少ない場所に逃げてしまうのです」「わかりますわ。私も時折、こうして風にあたりたくなりますもの」「……お互い似た者同士、というところでしょうか」 その言葉に、ルクレツィアの心がわずかに揺れた。 前回の周回で、この男がこんな風に距離を縮めてきたことはなかった。む
夜の帳が下り、王宮は一層の華やかさに包まれていた。 クリスタルのシャンデリアが幾重にも輝き、まるで星々が天井に降りてきたかのようだ。貴族たちの宝石が光を受けて煌めき、豪奢なドレスと燕尾服が舞踏会の広間を彩っている。 ルクレツィアは、公爵令嬢としての完璧な微笑みを浮かべながら入場した。 今日のドレスは淡いローズピンクのシルクに繊細なレースが重ねられ、煌びやかすぎず、品のある華やかさを演出している。背筋を伸ばし、静かに視線を巡らせると、見慣れた顔ぶれが次々と目に入った。(ここが始まりの舞踏会……) ここからすべてが動き出す。聖女ソフィアの登場も、そして攻略対象たちの物語も――。 遠くに王太子アズライルの姿が見えた。漆黒の髪に深紅の瞳。その鋭い眼差しは今日も氷のように冷たい。 その隣には騎士アシュレイが控え、ダークブラウンの髪にスチールグレーの瞳を光らせながら、厳かに警戒を怠らない。 王太子アズライルは、ふとルクレツィアの姿に気づいたのだろう。遠くからその深紅の瞳がわずかに細められた。 いつもなら近づいても形ばかりの挨拶しか交わさない彼が、自ら数歩を踏み出してルクレツィアの前に現れる。「ルクレツィア・アルモンド」 低く響く声。 冷ややかさは変わらぬものの、どこか妙に柔らかい。 いつものように距離を取るわけでも、無関心を装うわけでもなく、彼はわざわざルクレツィアの目の前で足を止めた。「アズライル殿下。今宵もご機嫌麗しゅうございます」 完璧な所作で礼を取るルクレツィア。 だが、その内心はわずかに困惑していた。――これは、今までにない展開だ。(……前回この舞踏会で私はアズライルに挨拶したかしら?) アズライルは彼女の礼にゆるやかに頷くと、視線を絡めたまま口を開く。「随分と控えめな装いだな。だが――よく似合っている」 一瞬、胸の奥がざわつく。 褒め言葉。しかもこの王太子の口から――。 冷徹で人を称えるなど滅多にしない彼が、だ。