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17.夢

Auteur: 斎藤海月
last update Date de publication: 2025-07-14 19:00:00

「イザヤ!」

 ――私の声が、風より先に花野を駆け抜けた。

 その名を呼んだ瞬間、男はゆっくりと振り返った。

 白銀の髪が風に揺れ、淡く金の光をたたえた瞳が、静かにこちらを捉える。

 その視線の先には、一人の少女が立っていた。

 そこにいたのは、私だった。

 けれど、それは今の私でも、過去の私でもない――私も知らない私。

 聖女の装束を身に纏い、柔らかな桃色の瞳に歓喜の色を宿したその少女は、まるで愛する者に再会したかのように、純粋な笑みを浮かべた。

 そして、迷いも躊躇もなく、彼女は駆け出す。

 足元の花々を踏まず、風とともに舞うように。

 イザヤはその姿を、ただ黙って見つめていた。

 まるで、愛する娘の成長を見守る父のような、穏やかな眼差しで。

 赦しと慈しみと、深い親愛が交錯した、その眼差し。

 その光景は、美しく、安らかだった。

 そう、ほんのひととき――夢のように。

 だが、夢は長くは続かない。

 彼女の走る背後から、世界が音を立てて崩れていく。

 一輪、また一輪と花が萎れ、色彩が失われていく。

 空が砕け、陽が沈み、光が黒に染まっていく。

 音が消え、風が止み、命の匂いすら薄れていく。

 世界そのものが、皮膚のように剥がれ、崩れ落ちていった。

 やがて視界には、ただの虚無が広がっていた。

 私の足元さえも、朧げになっていく。

 崩壊はやがて、全体を飲み込み――そして、

 次の瞬間、私は“そこ”にいた。

 冷たい石床。湿り気を帯びた空気。鉄と錆の匂いが、肌にまとわりつく。

 天井も窓もない。四方は鉄格子で囲まれた、牢獄のような空間。

 否、これは――まるで、地下に繋がれた獣の檻だった。

 その奥に、気配があった。

 闇に滲むようにして壁際に蹲っていたのは、一人の少女。……いや、少年だ。中性的な顔立ちと、その長い髪でどちらか一瞬分からなかった。

 白銀の髪は煤けて汚れ、淡い金の瞳は焦点を失い、虚ろに宙を彷徨っている。

 ――知っている。その髪。その瞳。

 私は思わず、手を伸ばしていた。

 その仕草に応えるように、闇がほんの少しだけ輪郭を与える。

 少年の身に纏う服は、かつては聖職者か、あるいは教会の奉仕者のものだったのだろう。

 だが今は、原型をとどめぬほどに擦り切れ、裂け、膝も袖も泥と血で黒ずんでいる。

 細い肢体が布の隙間から覗いていた。

 飢えと疲労、そしてなにより心を削がれた者だけが纏う“静けさ”が、彼を覆っていた。

 それでも彼は、生きていた。

 呼吸し、瞬きし――そして、私を見ていた。

「あなたは――」

 私の声に、少年が微かに眉をひそめた。

 金の瞳が、焦点を求めて揺れる。

 まるで、深い水底から這い上がろうとする魂のように。

 しばらくの沈黙のあと、彼はぽつりと、つぶやいた。

「……聖女様……?」

 掠れた声だった。けれど、はっきりとそう呼んだ。

 なぜ――? なぜ、私を「聖女」と?

 私は聖女などではない。

 そして、今ここがいつで、どこで、何の意味を持つのかすら分からない。

 それなのに彼は、まるで幾度も私を見てきたかのように、その名を口にした。

「……私のこと、知ってるの?」

 そう問いかけた。だが少年は、首を横に振った。

「……わからない。でも……夢で、何度も……貴女を……」

 その言葉に、胸が強く脈打った。

 きっとこれはただの夢じゃない。

 ――思い出す。私は確かに、イザヤの手の中で死んだ。

 狂おしいほど甘やかな声に包まれて、自ら命を絶った。

 そうして、私は今夢を見ている。また新たな物語が始まるまでの幕間の夢。

 そして、目の前にいる彼は――

「こ、来ないで……!」

 少年が突然、目を見開いたかと思うと、その顔が恐怖に引き攣れ、身を縮めて蹲った。

「やめて……もうやめて……痛いのは、嫌だ……お願い、来ないで……!」

 その声が、私の胸を鋭く突き刺した。

 掠れたその懇願の意味を、私は知らない。

 彼が誰に何をされたのか、どんな過去を抱えているのか。

 それは何ひとつ分からなかった。

 でも――この瞬間だけは分かる。

 目の前の少年が、なにかに怯え、苦しんでいること。

 それだけが、今の私にとってのすべてだった。

 どこが痛むのか、何を怖れているのか、なぜここにいるのか。

 何も分からない。分からないからこそ、踏み込めなかった。

 けれど、見てしまった。

 震える肩、擦り切れた衣服、土と血に汚れた手足。

 そして、消え入りそうな声で助けを求めるように繰り返される拒絶の言葉。

 私はその場にしゃがみ込み、そっと膝をついた。

 ただ一つだけはっきりしていた。

 この子を、これ以上怯えさせたくない――それだけだった。

 私は、そっと手を伸ばした。

 怯える少年の肩に、触れるか触れないかの距離で、一瞬だけ迷った。

 けれど――ためらいを押し殺して、その小さな体を、そっと抱きしめた。

 少年はびくりと震えた。

 逃げようとする気配もあった。けれど、腕に力をこめず、ただそっと包み込むように抱くと、彼の身体から、かすかな震えと呼吸の音だけが伝わってきた。

 細く痩せた背。骨ばった肩。

 それでも確かに、温もりがあった。

 生きている。この子は、生きている。

「大丈夫。もう、怖くないわ」

 囁くようにそう言った。

 それはきっと、救いの言葉ではない。

 でも、私の中から自然とこぼれた、ほんの少しの祈りだった。

 そのときだった。

 足元が軋む音がして、世界にまた、ひびが入った。

 空気が揺れ、空間が歪み、辺りが黒く崩れ始める。

 鉄格子が砕け、壁が溶け、空間そのものが音もなく崩れていく。

 まるで夢の終わりのように。

 けれど私はもう、怯えてはいなかった。

 腕の中の少年の存在が、確かなものとしてそこにあったから。

「……聞こえる?」

 私は彼の耳元に顔を寄せた。

「ごめんね。もう少しだけ時間がかかる。でも、それでも、私は、あなたを必ず救ってみせる」

 それは約束ではない。

 祈りでもない。

 この手で必ず成し遂げると、ただ強く、静かに刻んだ私のこと覚悟だ。

 崩れ落ちる世界の最中で、少年の身体から、わずかに力が抜けた気がした。

 その一瞬の温度を胸に抱いたまま――

 私は、再び目を覚ました。

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