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13.聖女の力

Author: 斎藤海月
last update Last Updated: 2025-07-07 19:00:00

 乙女ゲームのヒロイン、聖女と称えられる少女の姿が、目の前にあった。

 ルクレツィアは静かに歩み寄る。

「こんにちは」

 優しく声をかけると、少女はビクッと小さく肩を震わせた。驚いたように顔を上げて、慌てて立ち上がる。

「っ……こんにちは」

 緊張にこわばった表情で、か細い声を返すソフィア。

 その様子を見て、ルクレツィアは微笑んだ。まるで壊れやすいガラス細工でも扱うように、やわらかな声を向ける。

「そんなに緊張しなくていいのよ。聖女ソフィア様」

「い、いえ……。アルモンド令嬢とお話しするだなんて、私なんか……」

 伏し目がちにおどおどと答えるソフィアに、ルクレツィアは心の中で小さく息を吐く。

(うーん……。ゲームの中では主人公だったからあまり気にならなかったけど、思っていたよりずっと気が小さいのね)

 できるだけ威圧感を与えないように、柔らかな微笑みを浮かべながら優しく声をかける。

「あなたとお話してみたかったの。どうかしら、少しの間、お時間をいただけないかしら?」

 おずおずとソフィアは小さく頷いた。まるで怯えた小鳥のようだ。

「……はい」

(よし、とりあえず、第一歩は踏み出せたわね)

 ルクレツィアは内心で安堵しつつ、自然な会話を心がける。

「シュトラウス子爵領は王都から少し離れているわよね? 急にこんな賑やかな場所に出てきて、不安なことは無いかしら?」

 乙女ゲームの知識をフル活用する。確かソフィアは17歳になるまでずっと地方の子爵領で何不自由なく育てられた箱入り娘だった。

 それがある日突然、「あなたこそが聖女だ」と神殿の使者に告げられ、王都に呼び寄せられたのだ。その後、簡単な儀式と説明を受けただけで、お披露目舞踏会――つまり、ゲーム本編が始まった。

 ソフィアは胸の前で指を絡めながら、小さく答えた。

「そ、その……皆さんとても親切にしてくださるのですが、やっぱりまだ慣れなくて……」

 声も細く、今にも消え入りそうだった。

 ルクレツィアはその不安定な様子に、少しだけ胸が痛むのを感じた。

(本当に、ソフィアは何も知らされずに放り込まれたのね……。ゲームでは描かれていなかった彼女の戸惑いが、こんなにも強かったなんて)

 だが、その内心を表には出さず、微笑みを浮かべたまま続ける。

「そう……無理もないわね。急に全てが変わってしまったのだもの。戸惑うのは当然よ。でも――ねぇ、もし良ければ、お友達にならないかしら?」

 ソフィアは驚いたように目を見開いた。

「え? い、いえ……私なんかが……そんな……」

 消え入りそうな声で首を横に振るソフィア。だが、ルクレツィアはゆっくりと一歩踏み出し、優しく微笑み続けた。

「私が王太子の婚約者であることはご存知でしょう? そのおかげで、ほとんどのご令嬢方は私に気後れしてしまって、なかなかお友達になってくださらないの。けれどあなたなら、この寂しさを少しはわかってくださるのではないかしら?」

 ソフィアは一瞬戸惑いを浮かべたが、ルクレツィアの柔らかな微笑みと真摯な眼差しに、そっと背中を押されるように小さく頷いた。

「わ、私なんかでよければ……お、お友達になりましょう……!」

 その声はわずかに震えていたが、そこには確かな誠意が宿っていた。

「ありがとう、ソフィア。これからよろしくね。」

 優しく微笑みながら、ルクレツィアはそっとソフィアの手に自分の手を重ねる。その仕草に、ソフィアの頬がわずかに朱に染まった。

「は、はい。ルクレツィア様……」

「ルクレツィア、と呼んで?」

「……ルクレツィア」

「ふふっ。そう、それでいいのよ。」

 短いやり取りの中にも、ゆっくりと二人の距離が縮まっていくのが感じられた。

 しばし柔らかな沈黙が流れた後、ルクレツィアは自然な調子で切り出した。

「ところで、聖女の力というのは……一体どのような力なの?」

 その瞬間、ソフィアの表情から血の気が引いていくのがわかった。目を伏せ、小さく唇を噛み締める。

「あっ……えっと……」

 ルクレツィアはすぐに、その動揺に気づいた。

「あ、ごめんなさい。本当に気になっていただけなの。もし嫌な思いをさせたなら謝るわ」

 慌ててフォローを入れるが、ソフィアはなおも顔を強張らせたまま、かすかな声でつぶやいた。

「……わ、私には……そんな力、ありません」

「え……?」

 意外な答えにルクレツィアが僅かに目を見開くと、ソフィアは追い詰められたように立ち上がる。

「ご、ごめんなさい。思い出した用事があって……失礼しますっ」

 ソフィアは小さく頭を下げると、そのまま逃げるように足早に立ち去っていった。軽やかな足音が中庭の奥へと消えていく。

 ルクレツィアは、去っていくその背中を静かに見送ったまま、わずかに目を細めた。

(……やはり、違和感があるわ)

 柔らかな微笑を浮かべながらも、心の内では冷静に思考を巡らせる。

(聖女の力――物語の中でも最も重要なはずの要素なのに。ゲームでは、彼女――私たちプレイヤーが操作する主人公は迷いなく聖女として振る舞っていた。でも今の彼女は、まるで自分に力があることすら信じていないようだった。いや、本当にないのかもしれない)

 カツン、と足元の石畳にヒールの音が小さく響く。

(やはり、あの乙女ゲームを開発した彼に問い詰める必要がありそうね。この世界はゲームとはどこか違う。いや、ゲーム内で明かされなかった設定が多すぎる。それは、一体なぜ?)

 唇を引き結びながら、ルクレツィアは静かに呼吸を整える。

(……ともかく、急がなくては。イザヤの心の奥底に辿り着くには、今日の機会を見逃す訳にはいかないわ)

 その時だった。

「――お待たせ致しました」

 背後から落ち着いた低い声がかかった。

 振り返ると、静かな微笑を浮かべたイザヤが、まるで最初からそこにいたかのように立っていた。

 整った顔立ちに淡い白銀の髪、僧衣の端正な皺も乱れていない。優雅に歩み寄るその姿は、まさしく聖職者として完璧な佇まいだった。

「さぁ、参りましょう、ルクレツィア様」

「ええ、お願いいたしますわ」

 ルクレツィアは表面上は穏やかな微笑を返し、内心の警戒をそっと押し隠す。

 イザヤの柔らかな声や穏やかな仕草の奥に――彼女は既に別の冷たいものを感じ取りつつあった。

 イザヤに導かれ、聖堂の奥へと進む。

 人目の少ない回廊、厳かな空気。柔らかな光が長い廊下のステンドグラスを染めていた。やがて、重厚な扉の前でイザヤが立ち止まる。

「こちらが私の書斎でございます。公爵令嬢をこのような場所にお通しするのは恐縮ですが……どうぞ、お入りください」

 イザヤは丁寧に扉を開け、ルクレツィアを中へ招き入れる。

 書斎の中は質素でありながら清潔に整えられていた。

 重厚な緋色の絨毯に、びっしりと神学書や古文書が詰められた書棚。神学机の上には整理された書簡や羊皮紙。香のほのかな香りが漂い、重苦しいはずの部屋に不思議な静けさを与えていた。

(まるで、彼の内面そのものね……表面は穏やかで、整然としている。でも、奥底には何かが沈んでいる)

 イザヤは席を勧め、自らは机の向かいに静かに腰掛けた。

 書斎の窓からは柔らかな光が差し込み、静謐な空気が二人の間を満たしている。

「本日はお忙しい中、ご足労いただき光栄です。ルクレツィア様。……先ほどは、聖女様と少しお話を?」

「ええ。少しだけ、お話しする機会を頂きましたの。とてもお優しい方ですね」

「……はい、聖女様は大変お健やかにお育ちです。神のご加護と、導きのおかげでございます」

 イザヤは柔らかく微笑んだ。その表情は穏やかに見えたが、わずかに緊張の色が滲んでいる。

 ルクレツィアはその微かな綻びを見逃さなかった。

「ところで、大司教様。私はひとつ教えていただきたいことがありまして」

「どうぞ、何なりと」

「――聖女の力について、です」

 その瞬間、イザヤの目がわずかに揺れた。ほんの一瞬の硬直。

 けれどすぐに、それは穏やかな微笑みへと戻る。だがその笑みの奥には、ほんの僅かな落胆の翳りが浮かんでいた。

「聖女の力……でございますか」

「ええ。正直、私のような凡人には神秘の領域は到底理解できませんわ。でも、どうしても興味が湧いてしまうのです。あの力とは一体、どのようなものなのでしょう?」

 イザヤはゆっくりと視線を伏せ、小さく息を吐いた。

 その指先は机の上で静かに組まれているが、その仕草には微かな緊張が滲んでいる。

「聖女の力は――神の奇跡の現れに他なりません。それ以上の詳細は……我々聖職者の口から語ることは許されておりません。……聖女様ご自身でさえ、未だ十分に自覚されてはおりませんゆえ」

(……やはり、簡単には話してくれないわね)

 ルクレツィアは微笑を保ちながらも、慎重に次の糸口を探していた。

 だが――先に口を開いたのはイザヤの方だった。

「ですが――ルクレツィア様。」

 イザヤは静かな声で、けれどもどこか楽しげに言葉を紡ぐ。

 その眼差しはじっとルクレツィアを捉え、どこまでも穏やかに、逃げ場を与えない。

「貴女は本当に、それだけをお尋ねになりたくて、ここへ?」

「……? どうして、そう思われますの?」

 ルクレツィアはわずかに首を傾げる。演技ではない。彼の問いは、彼女にとっても予想外だった。

 イザヤは僅かに目を細める。その瞳の奥に、ごく僅かに灯る愉悦の色。

「ふふ……わざわざ、捨て駒になりそうな商人を雇ってまで、ね」

 柔らかく微笑むイザヤの声音は、どこまでも穏やかで優しい。それなのに、背後に何か底知れぬものが透けて見える。まるで――すべてを見透かしているかのようだった。

 その瞳が、ルクレツィアをじっと見つめる。品のある微笑を湛えながら、それでいて、まるで彼女が既に手のひらの上にいると言わんばかりに。

 ルクレツィアは、ほんのわずかに背筋を強張らせた。

 この男は、何をどこまで気付いているのか――。

「……私には貴方のようなお方の聖務は到底計り知れませんけれど。大司教様、私のような無力な者が少しでも理解を深めようとすることまで、咎められてしまいますの?」

 ルクレツィアは丁寧な笑みを保ちながら、探るように言葉を選ぶ。

 するとイザヤはゆったりと、まるでそれが心からの喜びであるかのように微笑み返した。

「いいえ。咎めなど致しませんよ。むしろ――嬉しいのです。」

 その声は深く、静かで、どこか異様に優しかった。

「貴女が、私を知りたいと願ってくださるのなら――それは何よりの喜びです。私は、誰かに理解されたいと……そう、ずっと願ってきたのですから」

 その言葉は、あまりに唐突で――重かった。

 そして、どこか歪んでいる。

 ルクレツィアは一瞬、返す言葉を失う。

 その間隙を縫うように、イザヤは静かに立ち上がった。

「……っ」

 彼女の椅子の側に回り込むと、膝をつき、目線を合わせてきた。

「なっ……」

 イザヤの瞳が彼女を覗き込む。ルクレツィアの中で、理性と本能の警鐘がかすかに鳴り始める。

 そして――彼は微笑を深めた。

 その表情は、まるで子供のような無垢さと、何か禍々しいものの同居だった。

「……今の、その目。恐れているのですね?」

 イザヤの声には、ほんのわずかに愉悦の色が混じっていた。

 それは相手の感情に触れることを楽しんでいるかのような、柔らかくも異質な響きだった。

「でも、それでいいのです。恐れも、戸惑いも、拒絶さえも――私は、貴女のすべてが欲しいのです」

 そう言って、イザヤはそっとルクレツィアの手を取った。

 その手つきは丁寧で、まるで繊細な宝物に触れるようだったが、そこには微かな執着と熱が宿っていた。

 そして、唇をその手に近づける。

 一見すれば、それは敬虔な信徒が神の加護を乞うかのような、清らかな仕草だった。

 けれど、その目に宿る光は、明らかに狂気を孕んでいた。

「――ああ……貴女こそが、私の求めていた神だ」

 その言葉は、まるで吐息に溶けるように、肌を這うように響いた。

 ルクレツィアの背筋を、冷たいものが這い上がっていく。

(――狂っている)

 言葉にこそ出さなかったが、心の中ではっきりとそう断じた。

 ただの信仰ではない。ただの崇拝でもない。

 これは、何かが歪んだ先にある執念。

 理性と狂気の境目を、微笑みながら歩く者の目だった。

「イザヤ様……」

 できるだけ動揺を見せないように声を発する。だが、喉の奥がかすかに震えていた。

「わたくしは、ただ……聖女様の奇跡に惹かれ、真実を知りたいと――」

「知ってどうするのです? それを、何に使うおつもりです?」

 イザヤの声音がふと冷える。

「貴女のような方が、ただの好奇心で動くとは思えない。……だから、私も知りたくなるのです。貴女という存在の、底の底を」

 鋭く観察するような瞳で、ルクレツィアを見つめる。

 まるで心の奥を覗き込まれているかのような、圧力を伴う眼差しだった。

(この男……やはり、ただ者じゃない)

 ルクレツィアは内心で慎重に警戒の度を強めながら、ふっと微笑んだ。

「それは……いずれ、お話しする機会があるかもしれませんわ。けれど今は――」

「今は、まだ秘密ですか」

 イザヤは再び微笑む。

 先ほどまでの熱の気配は抑えられ、今はただ、静かに燃える灯のような穏やかさを装っていた。

「ええ。それぞれに、時というものがありますから」

 ルクレツィアはそう言って、そっと手を引いた。

 イザヤは無理に引き止めようとはせず、名残惜しげに指先を宙に残すだけだった。

 そして、まるで何事もなかったかのように、柔らかな声で告げた。

「……またお会いできるのを楽しみにしております、ルクレツィア様」

 ルクレツィアはその言葉に短く頷き、静かにその場を後にした。

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