あれから2週間程がたった。ルクレツィアはあれからも2度寄進という名目で教会を訪れていたが、相変わらずイザヤには出会えていない。
ルクレツィアは執務机の前に座り、手元の文書に静かに目を通していた。 昼下がりの柔らかな日差しが、薄く開かれたカーテン越しに差し込み、彼女の金糸のような髪に淡い光を落としている。 彼女が読んでいるのはリリーに頼んでいたちょっとした調査書だ。教会に出入りする平民たちの噂、納入業者の帳簿、ささいな奉仕者の証言――それらを丹念に整理するのは、すでに日課となりつつあった。 ふと、隣からリリーが声をかける。 「お嬢様……少々、気になる噂がございます」 「噂?」 「ええ。最近になって、異端審問官たちがやけに活発に動いているようなのです。各地の小教区でも審問が強化されているとか……」 ルクレツィアの手がぴたりと止まった。 胸の奥に冷たいものが走る。 (異端審問――やはり始まったのね) 異端審問は、イザヤの事件の影に常に付きまとっていた。 それが早々に活発化してきたという事実は、想定よりも事態が動く速度が早いことを意味していた。 「……具体的には、どの程度活発に?」 「まだ表立って処刑や大規模な粛清には至っておりませんが、内部調査や査問の数が増えていると、納品に出入りする商人たちが噂しております」 ルクレツィアは静かに唇を噛んだ。 こうなると、教会への頻繁な出入りが自らの身にも危険を招きかねない。 (ベルントには思ったより危険な役割を任せてしまったわね……) 「お嬢様。恐れながら……しばらくの間、寄進という名目で教会に出向くのは、お控えになった方が良いのではないでしょうか」 リリーが、控えめながらも真剣な眼差しで進言する。 ルクレツィアは黙って考え込んだ。 (ここで私が目立てば、異端審問官の目に留まる可能性もある。今はまだ“外部の貴族”でいられる立場を利用しなければならないのに……) 「……ええ、わかったわ。しばらく寄進の訪問は控えましょう」 ルクレツィアはそう答えたが、胸の内は焦燥に駆られていた。 残された時間は、刻一刻と削れていく。 (急がないと――イザヤにたどり着く前に、彼が闇に飲まれてしまう) その夜。 ルクレツィアは寝台に身を横たえても、まるで浅い水面に浮かんでいるかのように、眠りの底へと沈むことができなかった。 胸の奥で渦巻く焦燥が、静かに彼女を責め立てる。 どれほどの時が流れたのだろう。 ぼんやりと揺れる蝋燭の灯の中で、控えめなノックの音が響いた。 「お嬢様、お休みのところ失礼いたします。ベルント様がお見えです」 リリーの静かな声が扉越しに告げる。 ルクレツィアは静かに身を起こし、わずかに胸の奥に灯る緊張を押し殺しながら返事をした。 「通して」 こうして、ベルントは最初の報告を携えて、ルクレツィアの元へ現れたのだった。 ❖❖❖ 「すんません、思ったより時間がかかっちまいました」 客間には、以前よりまた少し顔色の悪いベルントの姿があった。目の下にはうっすらと隈が浮かび、疲労の色が隠しきれていない。 「いえ、構わないわ。それにしてもどうしてこんな夜遅くに?」 ルクレツィアは優しく問いかけるが、時計の針は既に日付を越している。客間の蝋燭の淡い灯りが、二人の間で静かに揺れていた。 ベルントは溜め息混じりに肩を竦める。 「異端審問については知ってますね?」 「えぇ、噂には聞いているわ」 ルクレツィアは慎重に相槌を打つ。ベルントは小さく頷きながら、苦笑いを浮かべた。 「それですよ。実は俺、ちょっとしたヘマをかましちまって、どうやら疑いをかけられてるらしいんですよ。そんな異端もどきが堂々とアルモンド公爵家の門をくぐれるわけないんです」 「あなたは……大丈夫なの?」 大丈夫ではないことくらい、ルクレツィアにはわかっていた。だが、あえてそう尋ねると、ベルントは片手をひらひらと振る。 「まぁ、何とか。ご心配には及びませんよ。今のところはまだ本格的な取調べには呼ばれてません。ただ……用心はしておきます」 彼の表情には、商人らしい腹の据わりと、ほんのわずかな恐れが滲んでいた。 「ともかく、こっからが本題です。教会についてと、イザヤ・サンクティス大司教について」 ベルントはそう切り出すと、苦笑いを消して、真剣な眼差しをルクレツィアに向けた。 「まず初めに謝罪を入れさせて貰います。申し訳ありませんが、どちらも核心を突くには至りませんでした」 「……そう。構わないわ。今は断片でもいいの」 ルクレツィアは微笑みを保ちながらも、その奥にわずかな焦燥を滲ませた。 「わかったことをまとめさせていただきます。まず、イザヤ・サンクティス大司教についてです」 ベルントは胸元から取りだした小さなメモ帳をめくりながら、淡々と語り始めた。 「彼は22歳という若さで、すでに聖女付きの大司教という破格の地位に就いています。これ自体、教会内でも異例中の異例です」 「そうよね」 ルクレツィアは小さく頷く。乙女ゲームでも、その出世の早さは特徴的に語られていた。 「神学の分野でも優秀だったようですが、加えて、彼を強力に推した後ろ盾があるらしいです。ただ、その後ろ盾が誰なのかは掴めませんでした」 「……ふむ」 ルクレツィアは考え込むように顎に指を添える。 ゲーム内では、イザヤが『神に選ばれた逸材』とだけ描写され、政治的な後ろ盾など一切語られなかった。 だがこの世界では、彼の立場はより現実的で、複雑に絡み合っているらしい。 「それから……出自についても、妙な話がありました」 ベルントは一瞬言葉を選ぶように口を噤んだ後、慎重に続けた。 「イザヤ・サンクティス――今でこそ高潔な大司教と称えられていますが、彼が教会に保護されたのは、ほんの幼い頃のことだったそうです。拾われたのは、貧民街の外れ……今では地図にも載らない旧区画だとか」 「……孤児、だったの?」 ルクレツィアの胸の奥に、小さな違和感が灯る。 乙女ゲーム内では、そのあたりの詳細はほとんど描かれていなかった。 イザヤは一度たりともソフィアに自らの素性を語ろうとはせず、自分の過去を『穢れたもの』とだけ表現していた。 それはトゥルーエンドで結ばれた後も変わらず、彼の闇の奥底までは決して触れられなかった部分だ。 「ええ。ただ、その出自については教会の公式記録も曖昧です。むしろ……意図的に消された形跡があると言った方が正確かもしれません」 ベルントはさらに声を潜める。 「異端絡みだった可能性もある、という噂も耳にしました」 「……異端」 ルクレツィアの眉がわずかに動く。 異端――この世界において、それは単なる宗教上の反逆者ではなく、時に禁忌の儀式や闇の実験、古の神への背信行為すら含まれている。 「詳しいところまではまだ掴めていません。ただ――孤児でありながら、当時の大司教たちの間でも特別視されていたようです。『天啓を受けた子』だとか、『神に選ばれた証』だとか……」 「……証?」 ルクレツィアはわずかに眉をひそめ、ベルントの言葉を促す。 「古い教義によれば、生まれながらに神の加護を宿す者には“聖痕”が現れる、とされています。もっとも、それがどのようなものかは曖昧で、記録にも具体的な描写はほとんど残っていません。実際に確認した者も、公式には存在しないことになっている。神学者たちの作り話だという意見も根強いですが――」 ベルントは肩をすくめ、苦笑を浮かべた。 「ただの神話なのか、本当にそういう存在が現れるのか、今となっては誰にも分からない。教会の記録もかなり整理されていて、都合の悪い部分はことごとく欠落しているようです。どうにも、誰かが意図的に情報統制している気配がある」 「……隠されているのね」 ルクレツィアは静かに呟き、組んでいた指先に力を込めた。 「はい。それに、これは余談になりますが――異端審問局との関わりも妙に少ない」 「異端審問局?」 「ええ。彼の昇進の速さに対して、本来ならもっと厳しく監査が入ってもおかしくないはずなのに、ほとんど素通りに近い。普通の大司教なら、信仰の純粋性を確認する審問が何度も行われますから」 「なるほど……たしかに。普通じゃあり得ないわ」 ルクレツィアは瞳を細め、思案に沈む。 「そして教会の内部事情も、少しずつですが掴めてきました」 ベルントは声を潜め、さらに続けた。 「表向きは寄進も増え、聖女様の評判も上々です。だが裏では、大枢機卿派と教皇派が水面下で勢力争いを繰り広げています。その中心に彼がいるわけではありませんが……いえ、むしろ『聖女付き』という立場上、誰よりも中立に位置している。だからこそ、双方から監視されているようにも見えます」 「……派閥に属さず、けれど影響力だけは保っている、と?」 「その通りです、お嬢様。まだ若いにも関わらず、どちらの派閥からも一定の敬意と警戒を向けられている。それが余計に不気味なんですよ」 ベルントは疲れたように肩を落とし、息を吐いた。 「……まるで最初から計算され尽くした立ち位置に収まっているかのように、です」 ルクレツィアの表情は、ますます深い思索に沈んでいった。 「それがイザヤ・サンクティスの思惑通りなのか、それとも彼を傀儡としたい誰かの思惑なのか。それは俺には分かりません」 ベルントは重いため息を吐き、疲れたように肩を落とす。 「……正直に言えば、これ以上深入りすると俺の商会も危険です。異端審問局だけじゃありません、派閥闘争も絡んでいますから……この先は命がいくつあっても足りません」 ルクレツィアは静かに頷いた。 「……いいわ。ここまで調べてくれただけでも十分よ、ベルント」 彼女の声は柔らかかったが、その内心は冷たい霧に包まれていた。 (やはり……乙女ゲームで描かれていたイザヤは、ほんの氷山の一角だったのね。彼の純粋な祈りの裏に、もっと深い――リアルな教会の闇そのものが広がっている) 「ありがとう。貴重な情報を運んできてくれて感謝するわ」 「……お役に立てたなら、光栄です」 ベルントはわずかに安堵の笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。 「これからは、教会の件には深入りしなくていいわ。もちろん、約束した融資はすぐに出しましょう」 「それは助かります、お嬢様」 「その代わり――また別の頼み事があれば、お願いすることもあるわ」 「ええ、もちろん。お任せください」 ベルントの目には、僅かにだが以前にはなかった自信の光が宿り始めていた。 ルクレツィアはその様子に静かに微笑み、部屋から出ていくベルントの背を見送った。 ❖❖❖ (ともかく、残り二ヶ月と少し。やるべきことは決まったわ) ルクレツィアは部屋に戻ると、静かに窓際へ歩み寄った。 夜の静寂の中、澄んだ空には爛々たる月が孤高に浮かんでいる。 淡い月光が彼女の金の髪と頬を照らし、凛とした美しさを際立たせた。 「リリー。前に言ったことを撤回するわ」 「……と言いますと?」 侍女の声にはわずかな緊張が滲んでいる。 「朝になったら教会へ行くわ。寄進という建前じゃなく、正式にね」 「……左様ですか」 リリーは一拍の沈黙ののち、わずかに表情を引き締めた。その瞳には忠義と憂慮が交錯している。 「お嬢様。不敬を承知で申し上げますが――お立場を、どうかお忘れになりませんように」 「……」 「お嬢様は王太子殿下の正式な婚約者であらせられます。今、教会の内部で何が起きているのかは存じませんが……もし聖職者たちが、公爵家の令嬢を何らかの思惑に利用しようとしたならば、それは殿下の政敵にとって好機となりかねません」 リリーの声音には、慎重さと切実さが混ざっていた。 ルクレツィアはその忠告を黙って受け止め、静かに微笑んだ。 「ありがとう、リリー」 「……」 「もちろん、それも覚悟の上よ。けれど、だからこそ私が行くの。誰も手を出せぬ均衡の中にあるなら――踏み込めるのは、私しかいないわ」 リリーはなおも唇を引き結び、逡巡するように一度俯いた。 けれど、やがて顔を上げ、毅然とした声で応じた。 「……でしたら、せめて十分な護衛をお付けくださいませ。そして私も、必ずお供いたします。何があっても、お嬢様をお守りいたします」 リリーはきりりと背筋を伸ばし、決意に満ちた眼差しで言った。 ルクレツィアはふっと微笑む。 「ええ。頼りにしているわ、リリー。……あなたがいてくれるだけで、心強いわ」 「お嬢様……!」 リリーの頬がわずかに紅潮する。だがすぐに表情を引き締め、深々と一礼した。 「それでは――少しの時間ではございますが、ごゆっくりお休みくださいませ」 「ええ。ありがとう。おやすみなさい、リリー」 優しく言葉を返し、ルクレツィアは寝台に身を預けた。 静寂が広がる部屋の中、灯りが静かに揺れる。だがその胸の内には、まだ消えぬ熱と焦燥が微かに渦巻いていた。 (明日、イザヤに会えるかしら……?そして、彼女ともいずれ話をしなければ) 彼女の中で絡み合う思考が、ゆっくりと溶けていく。 長い一日に区切りを打つように、ルクレツィアは静かに目を閉じた。 寝室の奥には、変わらぬ夜の静寂だけが残っていた。乙女ゲームのヒロイン、聖女と称えられる少女の姿が、目の前にあった。 ルクレツィアは静かに歩み寄る。「こんにちは」 優しく声をかけると、少女はビクッと小さく肩を震わせた。驚いたように顔を上げて、慌てて立ち上がる。「っ……こんにちは」 緊張にこわばった表情で、か細い声を返すソフィア。 その様子を見て、ルクレツィアは微笑んだ。まるで壊れやすいガラス細工でも扱うように、やわらかな声を向ける。「そんなに緊張しなくていいのよ。聖女ソフィア様」「い、いえ……。アルモンド令嬢とお話しするだなんて、私なんか……」 伏し目がちにおどおどと答えるソフィアに、ルクレツィアは心の中で小さく息を吐く。(うーん……。ゲームの中では主人公だったからあまり気にならなかったけど、思っていたよりずっと気が小さいのね) できるだけ威圧感を与えないように、柔らかな微笑みを浮かべながら優しく声をかける。「あなたとお話してみたかったの。どうかしら、少しの間、お時間をいただけないかしら?」 おずおずとソフィアは小さく頷いた。まるで怯えた小鳥のようだ。「……はい」(よし、とりあえず、第一歩は踏み出せたわね) ルクレツィアは内心で安堵しつつ、自然な会話を心がける。「シュトラウス子爵領は王都から少し離れているわよね? 急にこんな賑やかな場所に出てきて、不安なことは無いかしら?」 乙女ゲームの知識をフル活用する。確かソフィアは17歳になるまでずっと地方の子爵領で何不自由なく育てられた箱入り娘だった。 それがある日突然、「あなたこそが聖女だ」と神殿の使者に告げられ、王都に呼び寄せられたのだ。その後、簡単な儀式と説明を受けただけで、お披露目舞踏会――つまり、ゲーム本編が始まった。 ソフィアは胸の前で指を絡めながら、小さく答えた。「そ、その……皆さんとても親切にしてくださるのですが、やっぱりまだ慣れなくて……」
教会へ向かう馬車の中。 柔らかな陽光がレースのカーテンを透かして差し込み、ルクレツィアの膝上のドレスを金糸のように照らしていた。車輪の心地よい揺れが、かすかに彼女の身体を揺らす。春先の空気はまだ少し冷たいが、窓越しの日差しは穏やかで、どこか現実感の薄い静けさがあった。(まずはこの世界について、改めて整理しておきましょう) ここは乙女ゲーム『聖なる光と堕ちた神』の世界だ。 “聖なる光”は聖女ソフィアを意味し、物語は彼女が五人の攻略対象たちを救い、そのうちの一人と結ばれて、そして世界を救うまでを描いている。 何も干渉しなければ、物語は王太子ルートへ自然に流れていく。そのため、プレイヤーの間ではこれを「王道ルート」と呼んでいた。 事件が起こる順番は決まっている。 最初がイザヤ、次いでアシュレイ、テオドール、アズライル、そして最後にルーク――。 ソフィアはそれぞれの心の闇に寄り添い、救い、そのうちの誰かと恋愛関係に発展していく。 だが、事件で救えなかった場合、その対象者のルートへ進もうとするとバッドエンドが発生する仕様だ。 そして、悪役令嬢・ルクレツィアはと言えば――ほとんどモブのような存在だった。 たまに王太子の正式な婚約者として登場しては、周囲に聖女として持て囃されるソフィアに嫉妬し、嫌がらせを仕掛けたり、攻略対象たちとのイベントを邪魔したりする。 それが、彼女の役割の全て。(私の出番なんて、最初から限られていたのよね) そして必ず訪れる婚約破棄―― それはどのルートでも、各事件がすべて解決した物語の中盤に用意されていた。 このゲームが他の乙女ゲームと一線を画していたのは、攻略対象たちとの「救い」が序盤で完結する点だろう。 では後半は何を描くのか? それは堕ちた神を浄化し、世界を救う聖女としての戦いだ。 ここで、序盤に救った攻略対象たちが再び重要な役割を担う。 誰を救い、誰を救えなかったのか――その選択が神の浄化の難易度やストーリー展開そのものを大きく左右していく。
あれから2週間程がたった。ルクレツィアはあれからも2度寄進という名目で教会を訪れていたが、相変わらずイザヤには出会えていない。 ルクレツィアは執務机の前に座り、手元の文書に静かに目を通していた。 昼下がりの柔らかな日差しが、薄く開かれたカーテン越しに差し込み、彼女の金糸のような髪に淡い光を落としている。 彼女が読んでいるのはリリーに頼んでいたちょっとした調査書だ。教会に出入りする平民たちの噂、納入業者の帳簿、ささいな奉仕者の証言――それらを丹念に整理するのは、すでに日課となりつつあった。 ふと、隣からリリーが声をかける。「お嬢様……少々、気になる噂がございます」「噂?」「ええ。最近になって、異端審問官たちがやけに活発に動いているようなのです。各地の小教区でも審問が強化されているとか……」 ルクレツィアの手がぴたりと止まった。 胸の奥に冷たいものが走る。(異端審問――やはり始まったのね) 異端審問は、イザヤの事件の影に常に付きまとっていた。 それが早々に活発化してきたという事実は、想定よりも事態が動く速度が早いことを意味していた。「……具体的には、どの程度活発に?」「まだ表立って処刑や大規模な粛清には至っておりませんが、内部調査や査問の数が増えていると、納品に出入りする商人たちが噂しております」 ルクレツィアは静かに唇を噛んだ。 こうなると、教会への頻繁な出入りが自らの身にも危険を招きかねない。(ベルントには思ったより危険な役割を任せてしまったわね……)「お嬢様。恐れながら……しばらくの間、寄進という名目で教会に出向くのは、お控えになった方が良いのではないでしょうか」 リリーが、控えめながらも真剣な眼差しで進言する。 ルクレツィアは黙って考え込んだ。(ここで私が目立てば、異端審問官の目に留まる可能性もある。今はまだ“外部の貴族”でいられる立場を利用しなければならないのに……)「……ええ、わかったわ
《セラフィス教神聖序列書 抜粋》【第1位】教皇(Pope)教会の最高統治者。宗教教義の最終決定者であり、破門や教会法の執行権を持つ。王族にも影響を及ぼす。【第2位】大枢機卿(Grand Cardinal)教皇の最側近で、教会の実務と政策運営を担う枢機卿団の統括者。【第3位】枢機卿(Cardinal)教皇の顧問として政治・外交・教義運営に関与。・枢機卿団枢機卿の集まりのこと。【第4位】大司教(Archbishop)地方教会の統括者であり、異端審問局や神聖法廷を指揮することも。【第5位】司教・司祭(Bishop / Priest)各地の教会で信徒の導きや儀式を担当。民衆に最も近い存在。《セラフィス教 補助組織概要》【異端審問局(Inquisition)】異端思想・魔術・禁忌の研究など、教義に背く行為を摘発・処罰する組織。強力な調査権と秘密裁判の権限を持ち、時に王族すら対象とする。原則では大司教の指揮下であるが――【教義監察局(Doctrine Office)】教義の純粋性を守るための監視機関。聖職者の教育、査問、異端的思想の抑制を担う。教皇派が強く影響を持つが、中立的な立場を貫こうとする動きもある。枢機卿団の監視下にある。【神聖法廷(Ecclesiastical Court)】教会法に基づく裁判機関。信徒・聖職者問わず違反者を裁く。地方では大司教の管轄、重大案件は教皇庁の裁可が必要となる。本来は教皇直属の組織。【対外使節局(Diplomatic Office)】他国の教会・王侯貴族・異文化との交渉を担当する外交部門。教皇庁直属の組織ではあるが、教会の「顔」として諜報任務を担うこともあり、大枢機卿派の強い影響下にある。【財務管理局(Treasury)】教会の財産・寄付金・荘園収支を管理。莫大な資産と現場の運営力を有する。腐敗の温床とされることも
舞踏会から帰った夜。ルクレツィアは重たいドレスを脱ぎ捨て、ゆったりとした部屋着に着替えた。カーテンをわずかに開けたままの大きな窓のそばに立ち、ほの暗い月光の中でグラスを傾ける。赤く輝く液体――ワインが好物だった。けれど、今は怖くて飲めない。代わりに用意させた白桃のハーブティーの柔らかな香りだけが、ほのかに部屋に漂っている。カラン、と氷がグラスの中で音を立てた。(イザヤの事件まで、あと3ヶ月……。まずは計画を練りましょう)月に照らされた庭園は静寂に包まれていた。銀色の月光が、闇の中で静かに花々を照らしている。(乙女ゲーム…ソフィアが本来なら事件を解決して、イザヤを救うはず。でも、エリアスによるとそれだけじゃ足りないらしい……)(ただ予定通りに物語が進んでも――私は、きっとまた殺される)指先がわずかに震え、氷が再び揺れて淡い音を奏でた。冷たい液体が喉を滑るたび、微かな恐怖と焦りがじわじわと胸を満たしていく。(私はイザヤについて、トゥルーエンドで語られた話しか知らない。バッドエンドや隠しエンドはやる前に死んじゃったからなぁ……)彼の名が脳裏に浮かぶ。イザヤ・サンクティス。銀白の髪と金の瞳、神の寵愛を受けたかのような穢れなき存在。(彼は神以外、何も信じることが出来ない。神の選んだ聖女ソフィアを除いて)けれど、ルクレツィアは知っている。神にすがりながらも、決して癒されぬ彼の心の奥底に、どれほど深く闇が巣食っているのかを。(それを、ゲームの中でソフィアは優しく包み込んで救った。けれど――)その先は、誰にも語られていない。闇の本当の核心までは、誰一人として踏み込むことは許されなかった。何が彼を、あの狂気へと追い詰めたのか。なぜ彼は、神以外のすべてを信じることができなくなったのか。いや神すらも彼は――その答えは、まだ霧の奥に沈んだままだ。(それを、私は知らなければならない)
テオドールと別れた後も、胸の内に違和感を抱えたままルクレツィアは歩き続けていた。(次は――) 自然と足が、舞踏会場の奥、人気の少ないテラスへと向かう。 柔らかな夜風がレースの袖を揺らし、月明かりが静かに白い大理石の床を照らしている。(前回の舞踏会でも、ここで彼に出会ったのよね……) 思い返せば、あの夜の会話が彼との最初の接点だった。 ルーク・グレイヴン。裏社会に精通し、商人として成り上がり伯爵となった男。 ダークワインレッドの髪と深緑の瞳を持ち、物腰は柔らかく穏やかだが、その本心は決して他人に悟らせない。 そして――「こんばんは、アルモンド公爵令嬢」 月光の下、すでに彼はそこにいた。 石造りの欄干に片肘をつきながら、穏やかな微笑みを浮かべている。(……やっぱりいたわ) 内心、僅かに息を吐く。 ルクレツィアはドレスの裾を静かに持ち上げ、彼に向き直った。「こんばんは、グレイヴン伯爵。今宵は月が綺麗ですわね」「ええ、月も星も、貴女のドレスに映えてより一層輝いて見えます」 相変わらず流れるように巧みな口ぶりだ。 だが、前回と全く同じ言葉ではなかった。(――ここも違う) それでも、ルクレツィアは笑顔を崩さずに返す。「お上手ですこと」「商売柄、口先だけは少し自信がありまして」 ルークは軽く肩をすくめてみせた。その仕草もまた、どこか計算されているようでいて、自然だ。「このような華やかな場所では、どうにも落ち着かなくてね。つい、こうして人の少ない場所に逃げてしまうのです」「わかりますわ。私も時折、こうして風にあたりたくなりますもの」「……お互い似た者同士、というところでしょうか」 その言葉に、ルクレツィアの心がわずかに揺れた。 前回の周回で、この男がこんな風に距離を縮めてきたことはなかった。む