あれから2週間程がたった。ルクレツィアはあれからも2度寄進という名目で教会を訪れていたが、相変わらずイザヤには出会えていない。
ルクレツィアは執務机の前に座り、手元の文書に静かに目を通していた。 昼下がりの柔らかな日差しが、薄く開かれたカーテン越しに差し込み、彼女の金糸のような髪に淡い光を落としている。 彼女が読んでいるのはリリーに頼んでいたちょっとした調査書だ。教会に出入りする平民たちの噂、納入業者の帳簿、ささいな奉仕者の証言――それらを丹念に整理するのは、すでに日課となりつつあった。 ふと、隣からリリーが声をかける。 「お嬢様……少々、気になる噂がございます」 「噂?」 「ええ。最近になって、異端審問官たちがやけに活発に動いているようなのです。各地の小教区でも審問が強化されているとか……」 ルクレツィアの手がぴたりと止まった。 胸の奥に冷たいものが走る。 (異端審問――やはり始まったのね) 異端審問は、イザヤの事件の影に常に付きまとっていた。 それが早々に活発化してきたという事実は、想定よりも事態が動く速度が早いことを意味していた。 「……具体的には、どの程度活発に?」 「まだ表立って処刑や大規模な粛清には至っておりませんが、内部調査や査問の数が増えていると、納品に出入りする商人たちが噂しております」 ルクレツィアは静かに唇を噛んだ。 こうなると、教会への頻繁な出入りが自らの身にも危険を招きかねない。 (ベルントには思ったより危険な役割を任せてしまったわね……) 「お嬢様。恐れながら……しばらくの間、寄進という名目で教会に出向くのは、お控えになった方が良いのではないでしょうか」 リリーが、控えめながらも真剣な眼差しで進言する。 ルクレツィアは黙って考え込んだ。 (ここで私が目立てば、異端審問官の目に留まる可能性もある。今はまだ“外部の貴族”でいられる立場を利用しなければならないのに……) 「……ええ、わかったわ。しばらく寄進の訪問は控えましょう」 ルクレツィアはそう答えたが、胸の内は焦燥に駆られていた。 残された時間は、刻一刻と削れていく。 (急がないと――イザヤにたどり着く前に、彼が闇に飲まれてしまう) その夜。 ルクレツィアは寝台に身を横たえても、まるで浅い水面に浮かんでいるかのように、眠りの底へと沈むことができなかった。 胸の奥で渦巻く焦燥が、静かに彼女を責め立てる。 どれほどの時が流れたのだろう。 ぼんやりと揺れる蝋燭の灯の中で、控えめなノックの音が響いた。 「お嬢様、お休みのところ失礼いたします。ベルント様がお見えです」 リリーの静かな声が扉越しに告げる。 ルクレツィアは静かに身を起こし、わずかに胸の奥に灯る緊張を押し殺しながら返事をした。 「通して」 こうして、ベルントは最初の報告を携えて、ルクレツィアの元へ現れたのだった。 ❖❖❖ 「すんません、思ったより時間がかかっちまいました」 客間には、以前よりまた少し顔色の悪いベルントの姿があった。目の下にはうっすらと隈が浮かび、疲労の色が隠しきれていない。 「いえ、構わないわ。それにしてもどうしてこんな夜遅くに?」 ルクレツィアは優しく問いかけるが、時計の針は既に日付を越している。客間の蝋燭の淡い灯りが、二人の間で静かに揺れていた。 ベルントは溜め息混じりに肩を竦める。 「異端審問については知ってますね?」 「えぇ、噂には聞いているわ」 ルクレツィアは慎重に相槌を打つ。ベルントは小さく頷きながら、苦笑いを浮かべた。 「それですよ。実は俺、ちょっとしたヘマをかましちまって、どうやら疑いをかけられてるらしいんですよ。そんな異端もどきが堂々とアルモンド公爵家の門をくぐれるわけないんです」 「あなたは……大丈夫なの?」 大丈夫ではないことくらい、ルクレツィアにはわかっていた。だが、あえてそう尋ねると、ベルントは片手をひらひらと振る。 「まぁ、何とか。ご心配には及びませんよ。今のところはまだ本格的な取調べには呼ばれてません。ただ……用心はしておきます」 彼の表情には、商人らしい腹の据わりと、ほんのわずかな恐れが滲んでいた。 「ともかく、こっからが本題です。教会についてと、イザヤ・サンクティス大司教について」 ベルントはそう切り出すと、苦笑いを消して、真剣な眼差しをルクレツィアに向けた。 「まず初めに謝罪を入れさせて貰います。申し訳ありませんが、どちらも核心を突くには至りませんでした」 「……そう。構わないわ。今は断片でもいいの」 ルクレツィアは微笑みを保ちながらも、その奥にわずかな焦燥を滲ませた。 「わかったことをまとめさせていただきます。まず、イザヤ・サンクティス大司教についてです」 ベルントは胸元から取りだした小さなメモ帳をめくりながら、淡々と語り始めた。 「彼は22歳という若さで、すでに聖女付きの大司教という破格の地位に就いています。これ自体、教会内でも異例中の異例です」 「そうよね」 ルクレツィアは小さく頷く。乙女ゲームでも、その出世の早さは特徴的に語られていた。 「神学の分野でも優秀だったようですが、加えて、彼を強力に推した後ろ盾があるらしいです。ただ、その後ろ盾が誰なのかは掴めませんでした」 「……ふむ」 ルクレツィアは考え込むように顎に指を添える。 ゲーム内では、イザヤが『神に選ばれた逸材』とだけ描写され、政治的な後ろ盾など一切語られなかった。 だがこの世界では、彼の立場はより現実的で、複雑に絡み合っているらしい。 「それから……出自についても、妙な話がありました」 ベルントは一瞬言葉を選ぶように口を噤んだ後、慎重に続けた。 「イザヤ・サンクティス――今でこそ高潔な大司教と称えられていますが、彼が教会に保護されたのは、ほんの幼い頃のことだったそうです。拾われたのは、貧民街の外れ……今では地図にも載らない旧区画だとか」 「……孤児、だったの?」 ルクレツィアの胸の奥に、小さな違和感が灯る。 乙女ゲーム内では、そのあたりの詳細はほとんど描かれていなかった。 イザヤは一度たりともソフィアに自らの素性を語ろうとはせず、自分の過去を『穢れたもの』とだけ表現していた。 それはトゥルーエンドで結ばれた後も変わらず、彼の闇の奥底までは決して触れられなかった部分だ。 「ええ。ただ、その出自については教会の公式記録も曖昧です。むしろ……意図的に消された形跡があると言った方が正確かもしれません」 ベルントはさらに声を潜める。 「異端絡みだった可能性もある、という噂も耳にしました」 「……異端」 ルクレツィアの眉がわずかに動く。 異端――この世界において、それは単なる宗教上の反逆者ではなく、時に禁忌の儀式や闇の実験、古の神への背信行為すら含まれている。 「詳しいところまではまだ掴めていません。ただ――孤児でありながら、当時の大司教たちの間でも特別視されていたようです。『天啓を受けた子』だとか、『神に選ばれた証』だとか……」 「……証?」 ルクレツィアはわずかに眉をひそめ、ベルントの言葉を促す。 「古い教義によれば、生まれながらに神の加護を宿す者には“聖痕”が現れる、とされています。もっとも、それがどのようなものかは曖昧で、記録にも具体的な描写はほとんど残っていません。実際に確認した者も、公式には存在しないことになっている。神学者たちの作り話だという意見も根強いですが――」 ベルントは肩をすくめ、苦笑を浮かべた。 「ただの神話なのか、本当にそういう存在が現れるのか、今となっては誰にも分からない。教会の記録もかなり整理されていて、都合の悪い部分はことごとく欠落しているようです。どうにも、誰かが意図的に情報統制している気配がある」 「……隠されているのね」 ルクレツィアは静かに呟き、組んでいた指先に力を込めた。 「はい。それに、これは余談になりますが――異端審問局との関わりも妙に少ない」 「異端審問局?」 「ええ。彼の昇進の速さに対して、本来ならもっと厳しく監査が入ってもおかしくないはずなのに、ほとんど素通りに近い。普通の大司教なら、信仰の純粋性を確認する審問が何度も行われますから」 「なるほど……たしかに。普通じゃあり得ないわ」 ルクレツィアは瞳を細め、思案に沈む。 「そして教会の内部事情も、少しずつですが掴めてきました」 ベルントは声を潜め、さらに続けた。 「表向きは寄進も増え、聖女様の評判も上々です。だが裏では、大枢機卿派と教皇派が水面下で勢力争いを繰り広げています。その中心に彼がいるわけではありませんが……いえ、むしろ『聖女付き』という立場上、誰よりも中立に位置している。だからこそ、双方から監視されているようにも見えます」 「……派閥に属さず、けれど影響力だけは保っている、と?」 「その通りです、お嬢様。まだ若いにも関わらず、どちらの派閥からも一定の敬意と警戒を向けられている。それが余計に不気味なんですよ」 ベルントは疲れたように肩を落とし、息を吐いた。 「……まるで最初から計算され尽くした立ち位置に収まっているかのように、です」 ルクレツィアの表情は、ますます深い思索に沈んでいった。 「それがイザヤ・サンクティスの思惑通りなのか、それとも彼を傀儡としたい誰かの思惑なのか。それは俺には分かりません」 ベルントは重いため息を吐き、疲れたように肩を落とす。 「……正直に言えば、これ以上深入りすると俺の商会も危険です。異端審問局だけじゃありません、派閥闘争も絡んでいますから……この先は命がいくつあっても足りません」 ルクレツィアは静かに頷いた。 「……いいわ。ここまで調べてくれただけでも十分よ、ベルント」 彼女の声は柔らかかったが、その内心は冷たい霧に包まれていた。 (やはり……乙女ゲームで描かれていたイザヤは、ほんの氷山の一角だったのね。彼の純粋な祈りの裏に、もっと深い――リアルな教会の闇そのものが広がっている) 「ありがとう。貴重な情報を運んできてくれて感謝するわ」 「……お役に立てたなら、光栄です」 ベルントはわずかに安堵の笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。 「これからは、教会の件には深入りしなくていいわ。もちろん、約束した融資はすぐに出しましょう」 「それは助かります、お嬢様」 「その代わり――また別の頼み事があれば、お願いすることもあるわ」 「ええ、もちろん。お任せください」 ベルントの目には、僅かにだが以前にはなかった自信の光が宿り始めていた。 ルクレツィアはその様子に静かに微笑み、部屋から出ていくベルントの背を見送った。 ❖❖❖ (ともかく、残り二ヶ月と少し。やるべきことは決まったわ) ルクレツィアは部屋に戻ると、静かに窓際へ歩み寄った。 夜の静寂の中、澄んだ空には爛々たる月が孤高に浮かんでいる。 淡い月光が彼女の金の髪と頬を照らし、凛とした美しさを際立たせた。 「リリー。前に言ったことを撤回するわ」 「……と言いますと?」 侍女の声にはわずかな緊張が滲んでいる。 「朝になったら教会へ行くわ。寄進という建前じゃなく、正式にね」 「……左様ですか」 リリーは一拍の沈黙ののち、わずかに表情を引き締めた。その瞳には忠義と憂慮が交錯している。 「お嬢様。不敬を承知で申し上げますが――お立場を、どうかお忘れになりませんように」 「……」 「お嬢様は王太子殿下の正式な婚約者であらせられます。今、教会の内部で何が起きているのかは存じませんが……もし聖職者たちが、公爵家の令嬢を何らかの思惑に利用しようとしたならば、それは殿下の政敵にとって好機となりかねません」 リリーの声音には、慎重さと切実さが混ざっていた。 ルクレツィアはその忠告を黙って受け止め、静かに微笑んだ。 「ありがとう、リリー」 「……」 「もちろん、それも覚悟の上よ。けれど、だからこそ私が行くの。誰も手を出せぬ均衡の中にあるなら――踏み込めるのは、私しかいないわ」 リリーはなおも唇を引き結び、逡巡するように一度俯いた。 けれど、やがて顔を上げ、毅然とした声で応じた。 「……でしたら、せめて十分な護衛をお付けくださいませ。そして私も、必ずお供いたします。何があっても、お嬢様をお守りいたします」 リリーはきりりと背筋を伸ばし、決意に満ちた眼差しで言った。 ルクレツィアはふっと微笑む。 「ええ。頼りにしているわ、リリー。……あなたがいてくれるだけで、心強いわ」 「お嬢様……!」 リリーの頬がわずかに紅潮する。だがすぐに表情を引き締め、深々と一礼した。 「それでは――少しの時間ではございますが、ごゆっくりお休みくださいませ」 「ええ。ありがとう。おやすみなさい、リリー」 優しく言葉を返し、ルクレツィアは寝台に身を預けた。 静寂が広がる部屋の中、灯りが静かに揺れる。だがその胸の内には、まだ消えぬ熱と焦燥が微かに渦巻いていた。 (明日、イザヤに会えるかしら……?そして、彼女ともいずれ話をしなければ) 彼女の中で絡み合う思考が、ゆっくりと溶けていく。 長い一日に区切りを打つように、ルクレツィアは静かに目を閉じた。 寝室の奥には、変わらぬ夜の静寂だけが残っていた。「イザヤ!」 ――私の声が、風より先に花野を駆け抜けた。 その名を呼んだ瞬間、男はゆっくりと振り返った。 白銀の髪が風に揺れ、淡く金の光をたたえた瞳が、静かにこちらを捉える。 その視線の先には、一人の少女が立っていた。 そこにいたのは、私だった。 けれど、それは今の私でも、過去の私でもない――私も知らない私。 聖女の装束を身に纏い、柔らかな桃色の瞳に歓喜の色を宿したその少女は、まるで愛する者に再会したかのように、純粋な笑みを浮かべた。 そして、迷いも躊躇もなく、彼女は駆け出す。 足元の花々を踏まず、風とともに舞うように。 イザヤはその姿を、ただ黙って見つめていた。 まるで、愛する娘の成長を見守る父のような、穏やかな眼差しで。 赦しと慈しみと、深い親愛が交錯した、その眼差し。 その光景は、美しく、安らかだった。 そう、ほんのひととき――夢のように。 だが、夢は長くは続かない。 彼女の走る背後から、世界が音を立てて崩れていく。 一輪、また一輪と花が萎れ、色彩が失われていく。 空が砕け、陽が沈み、光が黒に染まっていく。 音が消え、風が止み、命の匂いすら薄れていく。 世界そのものが、皮膚のように剥がれ、崩れ落ちていった。 やがて視界には、ただの虚無が広がっていた。 私の足元さえも、朧げになっていく。 崩壊はやがて、全体を飲み込み――そして、 次の瞬間、私は“そこ”にいた。 冷たい石床。湿り気を帯びた空気。鉄と錆の匂いが、肌にまとわりつく。 天井も窓もない。四方は鉄格子で囲まれた、牢獄のような空間。 否、これは――まるで、地下に繋がれた獣の檻だった。 その奥に、気配があった。 闇に滲むようにして壁際に蹲っていたのは、一人の少女。……いや、少年だ。中性的な顔立ちと、その長い髪でどちらか一瞬分
「……質問に答えていただきたいのです、イザヤ大司教」 静かに凛とした声で話しかける。 背筋を真っ直ぐに伸ばしたその姿は、動じる様子を見せぬように見えたが、内心では全神経を尖らせていた。「ええ、もちろん。貴女の問いなら、何であれ」 イザヤは相変わらず優雅な微笑を浮かべていた。金の瞳は油のような鈍い光を湛え、ルクレツィアの顔をじっと見つめている。「ベルント・レンツに下された異端の断罪――その根拠を、教えてください」 イザヤの微笑が、ほんの少し深まった。だが、それは決して喜びの微笑ではなかった。「なるほど。貴女は“正義”を求めてここへ来たのですね」「私が求めているのは、“真実”です」 ルクレツィアははっきりと言い放つ。その声は静かだったが、明確な意志を帯びていた。 イザヤは椅子にもたれ、組んだ指先を顎の前で組み直した。「……ふむ、そうですか。正直に答えると、異端審問というのは私の直接の職掌ではありません。ですが、関係書類にはすべて目を通しております。要するに、彼は教会に対して踏み込みすぎた。そういうわけです」「たったそれだけ?」 ルクレツィアの声に、怒気はなかった。少し拍子抜けしたような、思わず漏れ出たような、そんな声。「えぇ、それだけ」 イザヤは涼やかに笑った。まるで、その一言で事足りると確信しているかのように。 その姿を見て、ルクレツィアは悟った。この男は何もかもを知っている。だが、それをルクレツィアに語る気は毛頭ないらしい。 これ以上ベルントのことを問うても、核心には届かない。むしろ、無意味に消耗するだけだ。「……あなたは一体、どうして私に執着するの?」 ルクレツィアが静かにそう問いかけると、イザヤの指がぴたりと止まった。 驚いたように、彼は彼女の顔を見つめる。戸惑い、揺らぎ、どこか痛ましいものすら浮かんだその表情は、ほんの一瞬の出来事だった。 すぐに、彼はいつもの微笑みを取り
気がつけば、教会を訪れてから一週間が過ぎていた。 とある朝、執務室に入ってきた侍女のリリーは、手にした書状を胸元に抱えたまま、沈痛な面持ちでルクレツィアの前に立った。「お嬢様……異端審問が活発になっていた件ですが……」 リリーは一拍、言葉を飲み込むように息を吸い、慎重に口を開いた。「……先日、ついに初の処刑者が出たそうです」 ルクレツィアは、その報せに驚きも動揺も見せず、まるでそれを予期していたかのように小さく頷いた。「そう」 遅かれ早かれ、犠牲は避けられないと覚悟していた。あの不気味な沈黙の裏に、確かに粛清の波が忍び寄っていた。 それは、乙女ゲームのシナリオ通り。それ以上でも、以下でもない。 だが、リリーが次に発した名が、その冷静を鋭く打ち砕いた。「……その異端者の名は、ベルント・レンツ。……ベルント様でございます」「……っ!」 反射的に顔を上げたルクレツィアの瞳に、動揺の色が浮かぶ。胸の奥で、心臓がひときわ大きな音を立てて脈打った。「ベルントが……処刑されたですって……?」「はい。詳細は伏せられておりますが、教会内部で異端認定が下された後、即日、極秘裏に処刑が執行されたとのことです」 リリーは唇を固く結び、視線を伏せながら続けた。「今のところ、お嬢様とベルント様との関係は露見しておりません。ただ、彼の周囲を洗う動きはすでに始まっているようです。今後、どこまで広がるかは……」 リリーの報告に、ルクレツィアの指がわずかに震えた。だが彼女は何も言わず、椅子を押しのけて静かに立ち上がる。「……馬車の手配を。すぐに」「お嬢様……?」「教会へ向かうわ。……イザヤに、会わなければならない」 その声は低く抑えられていたが、かえってその奥に潜む焦りと痛みが滲み出ていた。張り詰めた糸のような声音に、リリーの顔が強ばる。 驚きと戸惑いが入り混じった表情の
(まだ2ヶ月残ってる……されど、たった2ヶ月でもあるのね) 教会からの帰り道、馬車の中でルクレツィアは静かに瞼を閉じながら思索に耽っていた。車輪の音と馬蹄のリズムが心を微かに落ち着けてくれる。「何か……ございましたか?」 隣に座るリリーが、心配そうにルクレツィアの顔を覗き込んでくる。「……いいえ、何も。大丈夫よ」 小さく微笑んでみせたが、その言葉の奥にある動揺をリリーが見抜いていないはずがない。けれど彼女は、それ以上何も聞かなかった。信頼がそこにあった。 あれから、ルクレツィアが一人で奥から戻ってきたとき、リリーとアシュレイが無言で迎えに来てくれた。そしてリリーとルクレツィアはそのまま黙って馬車に乗り込んだ。(アシュレイにはほとんど出番がなかったわね……少し悪いことをしたかしら) そんなことを思いながらも、心の中には別の人物の姿が強く焼き付いて離れなかった。(……イザヤ。あの男の本心、やっぱりまだ掴めない) 乙女ゲームの中では決して語られなかった彼の過去。 それを探っていることをイザヤは知っていて、そのうえで彼はなぜか「嬉しい」と微笑んだ。 あの言葉に偽りはなかった。けれど、それと同時に――。(あの瞳……あれは、狂気。なのに、壊れそうなくらい脆くて) 確かに見たことがある気がする。ゲームの中で、何度かソフィアにだけ見せたことのある顔だ。 けれど記憶は曖昧で、霞がかかったように思い出せない。(そう……少しずつ、前世の記憶が揺らいできている) 転生してから、死に戻る前も合わせてもう3年以上経っている。おまけに、ルクレツィアとしての人生での記憶の方がやはり前世の記憶より勝っているようで、乙女ゲームの筋書きだった記憶がところどころ曖昧だ。登場人物たちのセリフ、彼らの表情、エンディングの条件――すべてが少しずつ、ぼやけてきていた。(それでも……この道を進むしかない) ゲームの記憶が曖昧でも、今の彼らは生きていて、彼らの運命は確
乙女ゲームのヒロイン、聖女と称えられる少女の姿が、目の前にあった。 ルクレツィアは静かに歩み寄る。「こんにちは」 優しく声をかけると、少女はビクッと小さく肩を震わせた。驚いたように顔を上げて、慌てて立ち上がる。「っ……こんにちは」 緊張にこわばった表情で、か細い声を返すソフィア。 その様子を見て、ルクレツィアは微笑んだ。まるで壊れやすいガラス細工でも扱うように、やわらかな声を向ける。「そんなに緊張しなくていいのよ。聖女ソフィア様」「い、いえ……。アルモンド令嬢とお話しするだなんて、私なんか……」 伏し目がちにおどおどと答えるソフィアに、ルクレツィアは心の中で小さく息を吐く。(うーん……。ゲームの中では主人公だったからあまり気にならなかったけど、思っていたよりずっと気が小さいのね) できるだけ威圧感を与えないように、柔らかな微笑みを浮かべながら優しく声をかける。「あなたとお話してみたかったの。どうかしら、少しの間、お時間をいただけないかしら?」 おずおずとソフィアは小さく頷いた。まるで怯えた小鳥のようだ。「……はい」(よし、とりあえず、第一歩は踏み出せたわね) ルクレツィアは内心で安堵しつつ、自然な会話を心がける。「シュトラウス子爵領は王都から少し離れているわよね? 急にこんな賑やかな場所に出てきて、不安なことは無いかしら?」 乙女ゲームの知識をフル活用する。確かソフィアは17歳になるまでずっと地方の子爵領で何不自由なく育てられた箱入り娘だった。 それがある日突然、「あなたこそが聖女だ」と神殿の使者に告げられ、王都に呼び寄せられたのだ。その後、簡単な儀式と説明を受けただけで、お披露目舞踏会――つまり、ゲーム本編が始まった。 ソフィアは胸の前で指を絡めながら、小さく答えた。「そ、その……皆さんとても親切にしてくださるのですが、やっぱりまだ慣れなくて……」
教会へ向かう馬車の中。 柔らかな陽光がレースのカーテンを透かして差し込み、ルクレツィアの膝上のドレスを金糸のように照らしていた。車輪の心地よい揺れが、かすかに彼女の身体を揺らす。春先の空気はまだ少し冷たいが、窓越しの日差しは穏やかで、どこか現実感の薄い静けさがあった。(まずはこの世界について、改めて整理しておきましょう) ここは乙女ゲーム『聖なる光と堕ちた神』の世界だ。 “聖なる光”は聖女ソフィアを意味し、物語は彼女が五人の攻略対象たちを救い、そのうちの一人と結ばれて、そして世界を救うまでを描いている。 何も干渉しなければ、物語は王太子ルートへ自然に流れていく。そのため、プレイヤーの間ではこれを「王道ルート」と呼んでいた。 事件が起こる順番は決まっている。 最初がイザヤ、次いでアシュレイ、テオドール、アズライル、そして最後にルーク――。 ソフィアはそれぞれの心の闇に寄り添い、救い、そのうちの誰かと恋愛関係に発展していく。 だが、事件で救えなかった場合、その対象者のルートへ進もうとするとバッドエンドが発生する仕様だ。 そして、悪役令嬢・ルクレツィアはと言えば――ほとんどモブのような存在だった。 たまに王太子の正式な婚約者として登場しては、周囲に聖女として持て囃されるソフィアに嫉妬し、嫌がらせを仕掛けたり、攻略対象たちとのイベントを邪魔したりする。 それが、彼女の役割の全て。(私の出番なんて、最初から限られていたのよね) そして必ず訪れる婚約破棄―― それはどのルートでも、各事件がすべて解決した物語の中盤に用意されていた。 このゲームが他の乙女ゲームと一線を画していたのは、攻略対象たちとの「救い」が序盤で完結する点だろう。 では後半は何を描くのか? それは堕ちた神を浄化し、世界を救う聖女としての戦いだ。 ここで、序盤に救った攻略対象たちが再び重要な役割を担う。 誰を救い、誰を救えなかったのか――その選択が神の浄化の難易度やストーリー展開そのものを大きく左右していく。