そうと決まれば、行動に移すのは早かった。
ルクレツィアは舞踏会が終わったその翌朝、まだ陽が昇り切らぬうちに起き上がると、すぐに行動を開始した。 「リリー、厨房を使わせていただくわ」 朝の支度を手伝っていた侍女のリリーは、思わず目を丸くする。 「えっ……お嬢様が、ですか?」 「ええ。少し作りたいものがあるの」 「そ、そんな……! 料理は厨房の者にお任せくださいませ。もし火傷でもされたら――」 慌てるリリーの言葉を、ルクレツィアは軽やかに遮る。 「大丈夫よ。ほんの少しの間だけよ? 料理長にも伝えてちょうだい。厨房を借りるわと」 「ですが……っ」 リリーはそれでも食い下がったが、ルクレツィアは小さく首を傾げ、わざとらしく上目遣いを向ける。 「ね? リリー?」 その潤んだ瞳と甘えたような声音に、リリーは思わず息を飲んだ。 (お、お嬢様……ずるいです) 顔を赤らめながらも、結局は根負けする。 「わ、わかりました……。ですが本当にお気をつけくださいませね!」 「ええ、ありがとう、リリー」 にっこりと微笑むルクレツィア。 だが内心はわくわくと高鳴っていた。 最初に作るのは――マヨネーズ。 前世で料理人の娘だった頃、何度も父の手伝いをしながら作った馴染み深い調味料。特別な道具や魔法のような技術も不要、火さえ使わず、卵・油・酢・塩というシンプルな材料で完成する。しかも保存が利き、料理の幅を一気に広げられる万能調味料だ。 幸いにも、材料に似たものならこの世界にもちゃんと揃っていた。多少風味に違いはあれど、基本の工程さえ守れば問題はないはず。 (これさえ作れれば、今後の計画が大きく進むわ) 厨房に足を踏み入れると、料理長と数人の使用人たちがすでに準備を整え、控えめに立っていた。貴族令嬢が厨房に立つなど前代未聞の事態に、皆一様に驚いた表情を浮かべている。だが、それでも貴族令嬢の命令には逆らえない。 料理長が緊張した面持ちで一歩前に出る。 「お嬢様……本当にお料理を?」 「ええ、大丈夫よ。難しいものじゃないから」 ルクレツィアは柔らかく微笑みながら袖を軽くまくり、調理台の上の卵、酢、油、塩を確認した。 (ここからが勝負――) 泡立て器を手に取り、ボウルに卵黄を落とす。そこに酢と塩を加え、ゆっくりと混ぜ合わせる。最初は滑らかな液体だが、油を少しずつ加えながら混ぜ続けると、次第に質感が変わり始める。 リズミカルに腕を動かしながら、乳化の加減を慎重に見極める。前世で何度も作った経験が、自然と手を動かしてくれていた。ほんの少し力を入れて攪拌すれば、艶のあるクリーム色が浮かび上がる。 (よし、順調……あともう少し) 数分後、滑らかでつややかなマヨネーズが完成した。 「……できたわ」 ボウルの中のクリーム状のソースを見つめ、ルクレツィアは小さく息を吐く。 料理長と使用人たちは、半ば呆然としながらその出来栄えを見つめていた。料理長がそっと声を上げる。 「お、お嬢様……これが、料理でございますか?」 「そうよ。まずは一口、味見してみてくれる?」 料理長は戸惑いながらも、小さなスプーンですくい口元に運んだ。途端に、その表情が一変する。 「……!?」 目を大きく見開き、驚きと感動が入り混じったような声が漏れた。 「こ、これは……! まろやかな酸味と深いコクが絶妙に調和しております! まるで……まるで今まで経験したことのない調味料でございます……!」 料理長が感嘆の声を上げると、周囲の使用人たちもそっと身を乗り出し、興味津々の眼差しを向けてきた。 「ふふ、喜んでもらえて嬉しいわ」 ルクレツィアは満足げに微笑んだ。 (これで第一歩は成功。まだまだ作りたいものは山ほどあるわ) 「これからもいくつか新しい料理を試してみたいの。協力してくださるかしら?」 料理長は興奮冷めやらぬ様子で、深々と頭を下げる。 「ぜひとも、お力添えさせていただきます! お嬢様の発想は、まさに新たな時代を切り拓くものでございます!」 「ありがとう。では、さっそく次の準備を始めましょうか」 ルクレツィアの目がきらりと輝いた。 ❖❖❖ 市場は今日も賑わっていた。人々の声、物売りの呼び込み、焼きたてのパンの香ばしい匂い―― 華やかな貴族の社交界とは全く違う、活気に満ちた庶民の世界。 ルクレツィアはリリーの借りた質素なワンピースに身を包み、頭には布を巻いて簡易的に髪を隠していた。普段の貴族の煌びやかな衣装とは違うが、かえって目立たず、庶民の少女に紛れるにはうってつけだ。横には侍女のリリーが付き添う形で控えている。もちろん、両親には内緒である。 「お嬢様、本当に大丈夫なんですか……?」 リリーは落ち着かない様子で周囲をきょろきょろと見回す。 「ええ、大丈夫よ。貴族の屋敷に届く食材だけでは不十分だもの。市場には珍しい素材がたくさんあるわ」 (それに、こういう現地調達の方が創作意欲も湧くのよね) ルクレツィアの胸は期待と高鳴りでいっぱいだった。マヨネーズを皮切りに、プリンやクッキーといったお菓子も作り出し、手応えを感じていた。しかしそれ以外の料理は少し頭打ちになりつつあった。前世の料理人の父とパティシエの母から教えられた知識を最大限活かすためには、まず食材の幅を広げることが何より重要だ。チーズ、発酵バター、まだ見ぬ果物、香草、蜂蜜、酢――想像できるすべてが、彼女の新しい料理への扉を開いている。 そんな折――不意に、背後から男の声がかけられた。 「――おや。これはまた……ずいぶんと面白いことをなさってますね、お嬢さん?」 思わず肩が跳ねる。驚いて振り返った先に立っていたのは、あの男――ルーク・グレイヴン。 濃紺のロングコートを風になびかせ、ダークワインレッドの髪が柔らかく揺れている。深緑の瞳は彼女をじっと見つめ、どこか楽しげな光を宿していた。 (確か彼は表向き商人として身を立て、伯爵にまで成り上がったはず。市場に姿を見せるのはそう珍しくもないのかもしれないけど……それでも、こんなところで会うなんて) ルークは軽く笑みを浮かべ、声を続けた。 「商用で少々立ち寄っておりまして。まさか貴族のお嬢様が、こうして庶民の格好で市場を歩き回っているとは。いやはや、世の中は退屈しませんね」 「別に、たまには外の世界を見たくなるものですの。学びの一環ですわ」 ルクレツィアは平然と微笑んで答えたが、その心は少しも油断していなかった。この男に隙を見せたらどうなるか――乙女ゲームのシナリオで、嫌というほど思い知っているのだ。 「学び、ですか――なるほど。好奇心旺盛なのは結構ですが、あまり危険な真似はなさいませんように。世の中、表向きより裏の方がずっと賑やかですから」 ルークは相変わらず柔らかな笑みを浮かべながら、どこか含みのある目でこちらを見てくる。肩を軽くすくめる仕草すらどこか芝居がかっている。 「……貴方が言うと、妙に説得力がありますわね」 「ふふ、誉め言葉と受け取っておきましょう。――ですが、もし何かあれば、多少はお力になれるかもしれませんよ?」 一歩踏み込んできそうなルークの言葉を、ルクレツィアはにこりと微笑んで受け流した。 「それはありがたいお申し出ですわ。でも今のところ、自分の足で楽しませていただきます」 「では――ご無事をお祈りしています、麗しのお嬢さん」 ルークはひとつ優雅に会釈し、そのまま軽やかな足取りで人混みの中へと消えていった。 (ほんと、何を考えているのか読めない人……) 内心で呟いたところで、隣に控えていたリリーが小声で問いかけてきた。 「……大丈夫ですか、お嬢様?」 「えぇ、大丈夫よ。何の問題もないわ。――さあ、続けましょう」 ルクレツィアは軽やかに微笑み返すと、バスケットを持ち直して歩き出した。目的はまだまだ終わらない。 市場の奥へ進むと、見たことのない食材が並ぶ露店がいくつも現れる。形の不揃いな小さな果実、香りの強い草、濃厚そうな蜂蜜の瓶まで。 (この果物、レモンに似てるわね。酸味があればドレッシングやお菓子にも応用できそう) 品定めをしながら、ルクレツィアは次々と新たな可能性を思い描いていく。 「お嬢様、このチーズはどうでしょう? 少し癖がありますが、熟成させたらきっと面白い風味になりますよ」 リリーが興味深そうに勧めてくる。 「ええ、とても良いわ。試してみましょう」 そうして、バスケットの中身はあっという間に食材でいっぱいになっていった。 (この世界でも、工夫すればもっともっと美味しいものが作れる。私の追放後のスローライフの準備は、着実に進んでいるわ) ルクレツィアは、心の中で静かに満足そうに笑った。 ❖❖❖ 王宮の回廊に差し込む陽光が、白亜の大理石を眩く照らしていた。 (……やっぱり、何度来ても落ち着かないわね) ルクレツィアは静かに息を整えながら歩を進める。彼女がこうして王宮に足を運ぶのは、王太子アズライルの婚約者という立場上、当然の義務であった。だが最近は呼び出される機会も減り、こうして顔を出すのも久しぶりだった。 そのとき―― 「ルクレツィア嬢、最近――何やら面白いことをしているそうだな」 背後からかけられた低く冷ややかな声に、ルクレツィアは思わず心臓が跳ねるのを感じた。 振り返れば、そこに立っていたのは王太子アズライル・ヴェルディア。そしてその隣には、常に彼に付き従う近衛騎士――アシュレイ・ヴォルクの姿もあった。護衛である彼は無表情なまま、鋭い視線だけをルクレツィアへ向けている。 アズライルは相変わらず、真紅の瞳に一切の感情を宿さず、氷のように冷たい雰囲気を纏っていた。 「ごきげんよう、殿下。面白いこと……と仰いますのは?」 ルクレツィアは微笑みを浮かべ、努めて平静に問い返す。だが内心では警戒の色が走っていた。 (まさか、もう商業の準備まで気づかれて?……いえ、そこまでは知られていないはず) この一年間、ルクレツィアは着実に準備を進めてきた。料理の試作を重ね、信頼できる商人たちと水面下で契約を結び、商品の流通計画まで練っている。もちろん、公爵令嬢が直接厨房に立つなど、本来であれば眉をひそめられる振る舞いだ。だからこそ、その事実はごく限られた者しか知らず、すべては秘密裏に進められていた。 「アルモンド公爵家に、最近商人の出入りが盛んだと聞いている」 アズライルは淡々と告げる。感情を感じさせない声音が、逆にじわじわとプレッシャーを与えてくる。 (やっぱり商人の出入りくらいは把握してるのね……でも、それならまだ探りの段階) 「ええ。父や母がしばしば外交で留守がちでございますので、屋敷の管理や細かな雑事を任されることも増えておりますの。そのために取引先との打ち合わせなども必要になりまして」 「……雑事のため、か」 アズライルの瞳がわずかに細められる。その仕草は問い詰めるでもなく、ただ静かに観察している捕食者のようだった。 「えぇ、それに、流行りものなどを知ることも外交において必要なことかと」 ルクレツィアは涼やかに付け加えた。これは用意していた常套句だ。外交官の家に生まれた彼女なら、多少の経済や文化への関心を示すのも不自然ではない。 「外交の教養、か……」 アズライルは小さく呟くように繰り返し、視線を一瞬だけ逸らした。その横で控えるアシュレイは、相変わらず鋭い眼差しでルクレツィアを静かに見つめ続けている。 この重い沈黙を断ち切るべきかどうか一瞬迷った末に、ルクレツィアはあえて話題を切り替えた。 「――そんなことより、殿下はやはり聖女様を慕っていらっしゃるのですか?」 わずかに声の調子を柔らかくし、自然な関心を装って問いかける。だが内心では冷静に展開を見極めていた。 (ここで確かめておきたいわ。この流れが、あのゲームの王太子ルートに入っているのかどうか――) 乙女ゲームでは、ソフィアが王太子ルートに入らなければ、ルクレツィアとの婚約は破棄されず、穏やかな政略結婚に収まる。だが、ソフィアがルートに入れば王太子は婚約破棄に突き進む。ただ、その際ルクレツィアが追放される直接の理由は、聖女への陰湿ないじめであった。 (今の私、ソフィアに何もしていない。ならば一体どんな形になるのか……?) アズライルは一瞬だけ表情を動かした。だがそれもすぐに冷たく均された氷の面持ちに戻る。 「ソフィアは神に選ばれた特別な存在だ。国のため、彼女を大切にするのは当然の責務だ」 「まあ……さすがは殿下。民も聖女様も、きっとお喜びでしょうね」 ルクレツィアは表情を崩さず穏やかに微笑んだが、心の中ではすでに確信していた。 (やっぱり、もう完全に王太子ルートに入っているわね……) これでもう彼の心はほぼ決まったも同然だ。あとは聖女がバッドエンドに入らなければ、自分が陰湿ないじめなどせずとも、いずれ破棄の勅命は下されるはずだ。 「殿下のご公務とご配慮に、陰ながら敬意を表しますわ」 ルクレツィアは深く優雅に一礼した。アズライルはそれ以上何も言わず、踵を返す。アシュレイもまた無言で彼に従い、二人の背が静かに回廊の奥に消えていった。 静けさが戻った空間に、ルクレツィアはそっと小さく息を吐く。 (もう少し慎重にやらなくてはならないわね……) これ以上余計な疑念を抱かせるわけにはいかない。万が一、王宮の諜報網に尻尾をつかまれれば計画は水泡に帰す。商人たちとの水面下の取引も、今はまだ拡大しすぎぬよう細心の注意を払わなければならなかった。 (婚約破棄まで――もう二年を切っている) 乙女ゲームのシナリオ通りなら、ソフィアが正式に聖女として神殿での任を果たし始める頃に、王太子は婚約破棄を申し出るはずだ。その瞬間が来る前に、準備を万全に整えておかなければならない。追放されても生きていけるだけの資産と基盤を――いや、むしろそこから新しい人生を築き上げるための力を。 ルクレツィアはそっと前を向き直すと、再び静かに歩みを進め、王宮を後にした。あれから、気付けば丸二年が経っていた。 王太子との婚約破棄まで、いよいよ残りわずか数ヶ月。 ルクレツィアは屋敷のバルコニーから静かに庭を眺めながら、内心で状況を整理していた。(商会の準備は整ったわ。名も顔も出さず、すべては信頼できる商人ベルント様に任せている。あとはこのまま静かに破滅を待つだけ――) 自ら厨房に立つことも、今ではもうない。 若手の新興商人ベルント・レンツと出会ってから、多額の出資を行い、新たにレンツ商会を立ち上げさせた。以後は商会の運営をすべて彼に一任している。 最初の試作品はすでに高い評価を得ており、生産も安定して供給体制が整った。商人たちは着実に取引の幅を広げ、地方貴族の間では「新興の珍味商会」として徐々に名を知られるまでになっている。 だが、その商会がルクレツィア・アルモンド公爵令嬢と繋がっている事実は、いまだ誰の耳にも入っていない。すべては周到に、慎重に、慎重に進めてきたのだ。「お嬢様、今日の予定でございます」 侍女リリーが手帳を差し出す。ルクレツィアは静かに頷いた。「ありがとう、リリー」 予定表には今日の社交行事が記されている。王宮主催の茶会。主賓はもちろん――聖女ソフィア。(ソフィアは……完全に王道ルートに入ったわね) 王宮の公式な行事にソフィアが頻繁に同席するようになって、すでに一年以上が経っていた。今や彼女はすっかり「未来の王太子妃」として周囲の扱いも変わってきている。もちろん、ルクレツィアとアズライルの婚約は未だ正式に解消されていないが、それも時間の問題だろう。 王太子は、ここ最近ルクレツィアにほとんど会おうともしない。公務以外では、必要最低限の形式的な会話のみ。代わりに、隣には常にソフィアの姿があった。(これで、私がソフィアに何かしていれば即婚約破棄になったけれど……今回はそうはいかない。あくまで自然に、殿下の意志で破棄を切り出してもらうのを待つしかないわ) 本来の乙女ゲームなら、悪役令嬢ルクレツィアが聖女に陰湿な嫌がらせを繰り返し、それ
そうと決まれば、行動に移すのは早かった。 ルクレツィアは舞踏会が終わったその翌朝、まだ陽が昇り切らぬうちに起き上がると、すぐに行動を開始した。「リリー、厨房を使わせていただくわ」 朝の支度を手伝っていた侍女のリリーは、思わず目を丸くする。「えっ……お嬢様が、ですか?」「ええ。少し作りたいものがあるの」「そ、そんな……! 料理は厨房の者にお任せくださいませ。もし火傷でもされたら――」 慌てるリリーの言葉を、ルクレツィアは軽やかに遮る。「大丈夫よ。ほんの少しの間だけよ? 料理長にも伝えてちょうだい。厨房を借りるわと」「ですが……っ」 リリーはそれでも食い下がったが、ルクレツィアは小さく首を傾げ、わざとらしく上目遣いを向ける。「ね? リリー?」 その潤んだ瞳と甘えたような声音に、リリーは思わず息を飲んだ。(お、お嬢様……ずるいです) 顔を赤らめながらも、結局は根負けする。「わ、わかりました……。ですが本当にお気をつけくださいませね!」「ええ、ありがとう、リリー」 にっこりと微笑むルクレツィア。 だが内心はわくわくと高鳴っていた。 最初に作るのは――マヨネーズ。 前世で料理人の娘だった頃、何度も父の手伝いをしながら作った馴染み深い調味料。特別な道具や魔法のような技術も不要、火さえ使わず、卵・油・酢・塩というシンプルな材料で完成する。しかも保存が利き、料理の幅を一気に広げられる万能調味料だ。 幸いにも、材料に似たものならこの世界にもちゃんと揃っていた。多少風味に違いはあれど、基本の工程さえ守れば問題はないはず。(これさえ作れれば、今後の計画が大きく進むわ) 厨房に足を踏み入れると、料理長と数人の使用人たちがすでに準備を整え、控えめに立っていた。貴族令嬢が厨房に立つなど前代未聞の事態に、皆一様に驚いた表情を浮かべている。だが、それでも貴族
夜の帳が静かに下り始め、王都の中心――王城は、まるで宝石箱のように煌びやかな光で彩られていた。無数のランプが灯り、白亜の石造りの城壁がやわらかな光を反射して輝く。 宮廷の正門前には、次々と馬車が滑り込んでくる。貴族たちが乗り込み、絢爛なドレスと礼服に身を包み、笑みを浮かべて舞踏会の夜に臨んでいた。 ルクレツィアもまた、宮廷御用達の豪奢な馬車に揺られながら、窓の向こうに広がる王城を見上げていた。(……何度も訪れたはずなのに、今日の王城はどこか違って見えるわ) 胸の奥がふわりと高鳴る。これから始まる物語の序章のように。 馬車がゆっくりと止まり、扉が開かれる。「お嬢様、到着いたしました」 従者の声に促され、ルクレツィアは静かに足を踏み出す。 ドレスの裾がふわりと広がり、光を受けて柔らかく輝いた。 今宵、彼女が身に纏うのは――淡いローズピンクのドレス。胸元から裾にかけて繊細なレース刺繍が広がり、まるで朝露に濡れた薔薇の花弁のように瑞々しい。ウエストには優美なリボンが結ばれ、背中のレースアップが華奢な背中のラインをより引き立てていた。 プラチナブロンドの長い髪は、ゆるくウェーブがかけられ、サイドを編み込んだハーフアップに。輝く銀細工のヘアアクセサリーが夜の光に煌めく。 一歩、また一歩と赤絨毯を踏みしめて進む。 巨大な扉が開かれ、まばゆい光が溢れ出す。 広間の天井には、巨大なクリスタルのシャンデリアがいくつも吊るされており、無数の蝋燭の光が反射して星空のように瞬いていた。壁際には精緻な金細工と大理石の柱が並び、中央の舞踏フロアは鏡のように磨き上げられている。オーケストラの奏でる優雅な音楽が流れ、甘く華やかな香水の香りが漂っていた。 貴族たちの視線が、次々と彼女に集まる。 それでもルクレツィアは自然な微笑みを浮かべ、ゆったりと首を傾げて歩みを進めた。貴族令嬢としての所作は、幼い頃から身体に染み込んでいる。 今夜の舞踏会には、相当数の貴族が招かれているようだった。――まるで王国中の有力貴族が一堂に集っているかのような賑わいだ。 (これだけ人が多いと、挨拶だけでも骨が折れそうね……) そう思いながらも、ルクレツィアはゆっくりと周囲を見回す。 ふと、一際人だかりの大きな輪ができているのが目に留まった。 何事かと視線を向けた先に、彼はいた。
――ふっと、何かが途切れた。 落下の衝撃は来なかった。ただ、薄明るい光が静かにまぶたに差し込んでくる。 ゆっくりとまぶたを開けると、目に映ったのは白亜の天井。だが、それは見知った無機質な天井ではなく、繊細な彫刻と金の縁取りに彩られた、美しくも異質な空間だった。まるで中世の城の一室にいるかのような、優雅で異様な現実。(……どこ、ここ……) 記憶は混濁している。 けれど、それでも胸の奥から自然と浮かび上がってくる名前があった。(ルクレツィア。ルクレツィア・アルモンド) そう名乗った瞬間、脳裏に二重の記憶が広がる。 父と母に愛され、公爵家の令嬢として育った華やかな日々。 そして同時に、現代日本で「綾瀬凛花」として生きた17年間。 どちらも“私”であり、どちらも本物だった。(私……転生、したんだ……) 唐突な実感が胸を打ち、私は慌てて身を起こした。 室内には、優雅な調度品と大理石の柱。 壁に掛けられた絵画はどれも見たこともないタッチで、背後には天蓋つきのベッドが静かに佇んでいた。(夢……じゃない。ここは……) 立ち上がり、大きな姿見の前に向かう。 そこに映ったのは、絹糸のように滑らかなプラチナブロンドの髪と、淡く煌めくピンクゴールドの瞳を持つ少女。(……嘘。まさか) 見覚えがあった。その容姿に。 前世で夢中になってプレイしていた乙女ゲーム――『聖なる光と堕ちた神』。 その中に登場する悪役令嬢、ルクレツィア・アルモンド。(私……あのゲームの……?) 背筋が凍る。 ルクレツィア。 高慢で冷酷、聖女の恋路を邪魔する悪女。 物語の中盤で断罪され、追放される――それが、彼女の決まった運命だった。(……でも、命までは取られないはず) ルクレツィアは確かに悪役だけど、最終的に断罪されて“追放”されるだけ。命を失うようなバッドエンドじゃなかったはずだ。 それに私は前世で料理好きだったし、料理人の娘でもある。マヨネーズもパンも作れる。現代知識を駆使すれば、追放後に食堂でも開いて、のんびり異世界スローライフを送れるかもしれない。(それに、この世界には三年の猶予がある) 断罪イベントは、ルクレツィアが二十歳になったとき。 今の私は十七歳。つまり、三年も準備期間がある。(なんだかんだで、むしろ前世より幸せかも?) 未来設計がう
「ああ、今日はずいぶん遅くなっちゃったな――」 夕暮れの空を仰ぎ見ながら、綾瀬凛花はふと小さく息を吐いた。 高校三年生の彼女は、最後の試合に向けた部活動で少し居残り練習をしていたせいで、すっかり帰宅が遅くなってしまっていた。 西の空は茜色に染まり、沈みかけた夕陽がビルの輪郭を柔らかく浮かび上がらせている。高層ビルの窓に反射した光がきらきらと瞬き、車のテールランプが赤い光の帯を作ってゆっくりと流れていく。それはまるで、街の中を静かに流れる宝石の川のようだった。 心地よい微風が頬を撫で、さらさらと葉擦れの音が耳に優しく届く。遠くからは自転車のベルがチリンと軽やかに響き、昼間の喧騒とは違った穏やかさが街を包んでいた。 (……帰ったら、またあのゲームをやり直そうかな) ふと頭に浮かんだのは、最近クリアしたばかりの乙女ゲーム『聖なる光と堕ちた神』のことだった。 聖女ソフィアとなり、傷ついた攻略対象たちを救いながら、最後には堕ちた神さえも浄化して世界を救う――そんな壮大な物語。全員のトゥルーエンドは無事に回収したものの、まだバッドエンドまでは手をつけていなかった。 (今度はバッドエンド含めて、全部コンプリートしてみようかな……) そんなことを考えれば、気づけば自然と足取りが軽くなる。早く家に帰りたくなっていた。 凛花はいつもより少しだけ近道――人気の少ない歩道橋へと足を向けた。そこを通れば、ほんのわずかだけ早く家に着ける。 薄闇の中、歩道橋の入口へと差しかかる。コンクリートの階段は昼間の熱をまだわずかに残していて、踏みしめるたびに乾いた足音が響いた。手すりの銀色が街灯の光を受けて、冷たく鈍く光っている。 ひとつ、またひとつと階段を上るたびに、街の喧騒が少しずつ遠ざかっていく。風が少し強くなり、髪がふわりと揺れた。 やがて頂上に辿り着き、凛花はふと振り返る。背後には、ビル群の隙間から沈みかけた太陽が橙色の残光を滲ませ、街を淡く染め上げていた。 ――もうすぐ夜になる。 そんなことを思ったその時だった。 ふと前方に目を向けると、歩道橋の先――薄闇の中に、ぼんやりと浮かぶ人影があった。(え……?) その男は、欄干に両手をかけ、身を大きく前に乗り出していた。今にもバランスを崩して落ちそうな、不安定な姿勢だった。 まるで――飛び降りようとしているかの