テオドールと別れた後も、胸の内に違和感を抱えたままルクレツィアは歩き続けていた。
(次は――) 自然と足が、舞踏会場の奥、人気の少ないテラスへと向かう。 柔らかな夜風がレースの袖を揺らし、月明かりが静かに白い大理石の床を照らしている。 (前回の舞踏会でも、ここで彼に出会ったのよね……) 思い返せば、あの夜の会話が彼との最初の接点だった。 ルーク・グレイヴン。裏社会に精通し、商人として成り上がり伯爵となった男。 ダークワインレッドの髪と深緑の瞳を持ち、物腰は柔らかく穏やかだが、その本心は決して他人に悟らせない。 そして―― 「こんばんは、アルモンド公爵令嬢」 月光の下、すでに彼はそこにいた。 石造りの欄干に片肘をつきながら、穏やかな微笑みを浮かべている。 (……やっぱりいたわ) 内心、僅かに息を吐く。 ルクレツィアはドレスの裾を静かに持ち上げ、彼に向き直った。 「こんばんは、グレイヴン伯爵。今宵は月が綺麗ですわね」 「ええ、月も星も、貴女のドレスに映えてより一層輝いて見えます」 相変わらず流れるように巧みな口ぶりだ。 だが、前回と全く同じ言葉ではなかった。 (――ここも違う) それでも、ルクレツィアは笑顔を崩さずに返す。 「お上手ですこと」 「商売柄、口先だけは少し自信がありまして」 ルークは軽く肩をすくめてみせた。その仕草もまた、どこか計算されているようでいて、自然だ。 「このような華やかな場所では、どうにも落ち着かなくてね。つい、こうして人の少ない場所に逃げてしまうのです」 「わかりますわ。私も時折、こうして風にあたりたくなりますもの」 「……お互い似た者同士、というところでしょうか」 その言葉に、ルクレツィアの心がわずかに揺れた。 前回の周回で、この男がこんな風に距離を縮めてきたことはなかった。むしろ、初対面の当時はもっと慎重で、探り合うような雰囲気だったはずだ。 (やっぱり、おかしい……) それでも警戒心を隠しながら、ルクレツィアは微笑を保ったまま言葉を続けた。 「伯爵は、今宵はどなたかお目当ての方でも?」 「さあ……今夜は運命の女神に導かれて、貴女とこうしてお話しできている――それが何よりの幸運ですよ」 冗談めかして言う彼の緑の瞳は、どこまでも深く、底を覗かせない。 (この男も、やはり……何かが違う) 静かな夜風がルクレツィアの髪を揺らす中、胸の内にはまた一つ、違和感の種が積み重なっていく。 そのとき、不意に―― 会場から流れていた音楽が途切れた。 「あら、何かが始まるみたいですわね」 ルクレツィアがふと顔を上げると、ルークは微笑を浮かべたままゆっくりと視線を舞踏会場へと向けた。 「そのようですね。どうやら、これからお披露目が始まるのでしょう。ですが――」 そこで一拍置いて、彼は柔らかな口調のまま言葉を続けた。 「本音を言えば、私にはあまり興味の湧かない催しです。あなたこそ、もうお戻りになりますか?」 (……奇妙ね) 彼は本来、この場で新たな聖女――ソフィアを初めて目にするはずだった。 それが、あのゲームにおける彼の転機のはずなのに。どうして今もなお、こんなふうにテラスに留まろうとするのか。 (まるで聖女には興味がないみたい。……どうしてかしら) 「お気遣いありがとうございます、伯爵。けれど貴族としての礼節ですもの。私も少しだけ顔を出してまいりますわ」 「それは残念です。……ですが、またどこかでお話しできるのを楽しみにしていますよ」 緑の瞳が、月明かりの下で微かに笑う。 どこまでも穏やかで紳士的な態度は崩れないが、やはりその奥底は読めないままだ。 ルクレツィアは優雅に会釈を返し、再び舞踏会場へと足を進めた。 (全員が、少しずつ違う――) 胸の奥の警戒心は、静かに、けれど確実に膨らみ続けていた。 会場に戻ると、すでに貴族たちは静まり返り、慎重な面持ちで中央の大階段に視線を集中させていた。 煌びやかなシャンデリアの光が、まるで舞台のスポットライトのように階段を照らしている。 (いよいよ……聖女ソフィアのお披露目) 張り詰めた静寂が会場を支配する中、ゆっくりと重厚な扉が開かれた。 やがて、柔らかな光に包まれながら、一人の少女が姿を現す。 そのすぐ後ろからアズライル・ヴェルディア王太子が進み出て、優雅に彼女の手を取った。二人は寄り添うようにして、階段をゆるやかに降りていく。 (……やっぱり、美しいわ) ルクレツィアは思わず小さく息を呑んだ。 蜂蜜色の髪はまるで光そのものを宿したように柔らかく輝き、雪のように透き通る白い肌が繊細なドレスに美しく映えている。 宝石のように澄んだ青い瞳は、緊張の色を含みながらも、凛と前を見据えていた。 だが――違和感は、この場にも静かに顔を覗かせていた。 アズライルの表情が、ルクレツィアの知るはずのものと微妙に異なっていたのだ。 本来ならば、このような場では形式的にでも穏やかな微笑を浮かべるはずだった。 だが今の彼は、冷ややかな眼差しのまま、隣のソフィアを一度も振り返ることなく階段を下り続けている。 (……どういうこと?) やがて、司会役の神官が高らかに声を響かせた。 「――新たなる聖女、ソフィア・シュトラス殿の御前である!」 その瞬間、貴族たちは一斉に恭しく頭を垂れた。広間は厳粛な沈黙に支配され、神々しさすら漂わせた少女の姿だけが、眩く浮かび上がっている。 アズライルとソフィアはゆるやかに階段を降り切ると、厳粛な空気の中、まっすぐに正面の壇上――神託が告げられる特別な玉座の間へと進んでいった。 そしてその壇上には、すでにもう一人の男が静かに佇んでいた。 白銀の髪がシャンデリアの光を受けて柔らかく煌めき、淡い金色の瞳が静かに会場を見下ろしている。 セミロングの髪は後ろで緩やかに束ねられ、純白の神官服の裾がわずかに揺れていた。まるで神の代弁者そのもの――イザヤ・サンクティス。 (イザヤ・サンクティス……。彼にも早々に接触しなければならないわね) 攻略対象者の中でも、特に神秘性と危うさを併せ持つ男。そして、ゲームの中で最も早くに聖女ソフィアに救われる攻略対象者だ。 重々しく、イザヤが一歩前に進み出ると、会場全体がぴたりと静まり返った。 その瞬間――彼の淡い金色の瞳がルクレツィアの視線を捉える。 ほんのわずかに、その瞳が揺れたのをルクレツィアは見逃さなかった。 (……今のは) だがその疑念が形を成す前に、イザヤの静かな声が空気を震わせた。 「――神の信託を、ここに述べる」 低く、澄んだ声音はまるで会場全体を包み込むように響き渡る。 貴族たちは誰ひとり言葉を発せず、固唾を呑んでその続きを待った。 「この世界の混乱を鎮めるべく、ソフィア・シュトラウス子爵令嬢が、聖女として選ばれた」 荘厳な宣言とともに、ソフィアが一歩前に進み出た。 柔らかな蜂蜜色の髪が揺れ、緊張の中にも毅然とした表情で口を開く。 「皆さま――本日、このように神の御前にて、聖女としてお披露目いただきました、ソフィア・シュトラウスと申します。未熟な身ではございますが、神より授けられた役目を、心を尽くして果たして参る所存です。どうかこれから、私を導き、支えてくださいますよう、よろしくお願い致します。この国が、神の加護と平和のもとにあらんことを――」 その最後の一言とともに、会場には大きな嗚咽と拍手が沸き起こった。 誰もが感動と畏敬の念に包まれ、熱狂的に新たな聖女を讃えた。 ただひとり――ルクレツィアを除いて。 彼女の視線は、ただ壇上のイザヤに注がれ続けていた。 神妙な面持ちのまま、イザヤもまた視線を逸らさず、じっとルクレツィアを見つめ返していた。 ――やがて、舞踏会が儀式の余韻を残しながら再開され、貴族たちは再び賑やかに語らい始めた。煌びやかな音楽と笑い声が交錯する中、ルクレツィアは舞踏会場の隅を静かに歩き、出口へと向かっていた。儀式は終わり、もう十分すぎるほど情報は得た。 (今宵はもう……充分情報を得たわ。あとは屋敷に戻って整理を――) その時だった。背後から、静かな、しかし否応なく耳に届く張りのある声がかかった。 「――ルクレツィア・アルモンド様」 思わず足を止め、振り返る。 そこに立っていたのは、淡い金色の瞳をたたえたイザヤ・サンクティス。神官服の裾がわずかに揺れ、白銀の髪がシャンデリアの光を淡く受けている。 「イザヤ大司教……?」 (この場で私に声を?公の場で?) 内心の戸惑いを隠し、ルクレツィアは静かに返事を待つ。 イザヤは落ち着いた表情のまま、丁寧に続けた。 「ご無礼をお許しください。少しだけ、お言葉を賜りたく思いまして」 「……私に?」 「はい。王太子殿下のご婚約者として、今後教会と接する機会もおありになるでしょう。僭越ながら、今宵のご挨拶の機会を頂戴できればと」 穏やかでありながら、どこか隙のない言葉遣いだった。だが、その金の瞳の奥にはわずかに奇妙な揺らぎがある――まるで、何かを測るように。 (……私に対して、単なる礼儀以上の関心を抱いている?) ルクレツィアは小さく微笑み、優雅に会釈を返した。 「それでは僅かの間だけ――よろしくてよ」 イザヤは静かに頷き、すっと隣へと歩を進めた。 静かな隅に移動すると、イザヤは舞踏会の喧騒から隔てるようにルクレツィアへ向き直った。 近づいてみると、その金の瞳は思った以上に静謐で――同時に、得体の知れない底知れなさを孕んでいる。 「改めまして……ルクレツィア・アルモンド様。今宵は突然の無礼をお許しください」 「いえ。教会の要職にあられる貴方とお話しできる機会など、滅多にございませんわ」 ルクレツィアはにこやかに応じたが、その内心は慎重そのものだった。 (彼は……前の周回でもこうして私に話しかけることはなかった。それどころか、こうして話したことなんて……) イザヤは一瞬目を細め、まるでその思考を見透かすような穏やかな微笑を浮かべる。 「私としても、殿下の婚約者様にご挨拶を申し上げるのが遅れておりましたこと、気がかりでございました」 「お気遣い、光栄に存じますわ」 イザヤは相変わらず穏やかな微笑を浮かべたまま、静かに口を開く。 「今宵の神託の場――ご覧になって、いかがでしたか?」 突然の問いに、ルクレツィアは一瞬だけ眉を動かす。 「ええ、とても厳粛で神々しいものでしたわ。……あのような場に立ち会えたこと自体が、既に奇跡のようです」 「そう仰っていただけるのは、僭越ながら神官として光栄です。ですが――」 イザヤはほんのわずかに間を置き、視線を深くした。 「殿下の婚約者である貴女にとっては、また少し違った思いもおありなのではないかと……そう感じておりました」 ルクレツィアは静かに微笑を返す。 (……探っている?) 「まあ。確かに、殿下の婚約者としては――これから新たな聖女殿下と、どのように関わっていくべきか。そうした思案はございますけれど」 「ええ。まさにそれです」 イザヤは微笑を崩さぬまま、だが瞳の奥には何か測るような光を宿して続ける。 「聖女殿下は特別な存在。ですが、この国にとって貴女もまた同じく、特別なお立場におられる方。……近くで拝見していると、不思議と――私には、貴女の方が導かれているようにすら感じられるのです」 「導かれて……?」 「ええ。神の御意志の流れが、ほんの僅かですが、貴女の方へ向いているような感覚とでも申しましょうか」 ルクレツィアは心中で息を呑んだ。 (神の流れ……?イザヤは、何を感じ取っているの?) イザヤは静かに微笑んだまま、深く一礼をした。 「不躾なことを申し上げました。……どうかお気になさらず。神託を日々拝する者の、独り言のようなものです」 「……いいえ。興味深いお話でしたわ。今宵は貴重なお時間、ありがとうございました」 「こちらこそ――また、いずれ」 淡い金の瞳は最後まで柔らかく光りながらも、底知れぬ揺らぎを残していた。 ルクレツィアは静かにその場を後にする。 (――ともあれ、こうしてひとまず接触は果たせた。それだけでも上出来ね。 ……それより問題は、最初の事件まで、残りせいぜい3ヶ月ほど。 それまでに何としても計画を練り上げないと――) 静かな決意を胸に、ルクレツィアはゆるやかに舞踏会場を後にした。 煌びやかな宴はまだ続いている。 だが彼女の戦いは、すでに幕を開けていた。テオドールと別れた後も、胸の内に違和感を抱えたままルクレツィアは歩き続けていた。(次は――) 自然と足が、舞踏会場の奥、人気の少ないテラスへと向かう。 柔らかな夜風がレースの袖を揺らし、月明かりが静かに白い大理石の床を照らしている。(前回の舞踏会でも、ここで彼に出会ったのよね……) 思い返せば、あの夜の会話が彼との最初の接点だった。 ルーク・グレイヴン。裏社会に精通し、商人として成り上がり伯爵となった男。 ダークワインレッドの髪と深緑の瞳を持ち、物腰は柔らかく穏やかだが、その本心は決して他人に悟らせない。 そして――「こんばんは、アルモンド公爵令嬢」 月光の下、すでに彼はそこにいた。 石造りの欄干に片肘をつきながら、穏やかな微笑みを浮かべている。(……やっぱりいたわ) 内心、僅かに息を吐く。 ルクレツィアはドレスの裾を静かに持ち上げ、彼に向き直った。「こんばんは、グレイヴン伯爵。今宵は月が綺麗ですわね」「ええ、月も星も、貴女のドレスに映えてより一層輝いて見えます」 相変わらず流れるように巧みな口ぶりだ。 だが、前回と全く同じ言葉ではなかった。(――ここも違う) それでも、ルクレツィアは笑顔を崩さずに返す。「お上手ですこと」「商売柄、口先だけは少し自信がありまして」 ルークは軽く肩をすくめてみせた。その仕草もまた、どこか計算されているようでいて、自然だ。「このような華やかな場所では、どうにも落ち着かなくてね。つい、こうして人の少ない場所に逃げてしまうのです」「わかりますわ。私も時折、こうして風にあたりたくなりますもの」「……お互い似た者同士、というところでしょうか」 その言葉に、ルクレツィアの心がわずかに揺れた。 前回の周回で、この男がこんな風に距離を縮めてきたことはなかった。む
夜の帳が下り、王宮は一層の華やかさに包まれていた。 クリスタルのシャンデリアが幾重にも輝き、まるで星々が天井に降りてきたかのようだ。貴族たちの宝石が光を受けて煌めき、豪奢なドレスと燕尾服が舞踏会の広間を彩っている。 ルクレツィアは、公爵令嬢としての完璧な微笑みを浮かべながら入場した。 今日のドレスは淡いローズピンクのシルクに繊細なレースが重ねられ、煌びやかすぎず、品のある華やかさを演出している。背筋を伸ばし、静かに視線を巡らせると、見慣れた顔ぶれが次々と目に入った。(ここが始まりの舞踏会……) ここからすべてが動き出す。聖女ソフィアの登場も、そして攻略対象たちの物語も――。 遠くに王太子アズライルの姿が見えた。漆黒の髪に深紅の瞳。その鋭い眼差しは今日も氷のように冷たい。 その隣には騎士アシュレイが控え、ダークブラウンの髪にスチールグレーの瞳を光らせながら、厳かに警戒を怠らない。 王太子アズライルは、ふとルクレツィアの姿に気づいたのだろう。遠くからその深紅の瞳がわずかに細められた。 いつもなら近づいても形ばかりの挨拶しか交わさない彼が、自ら数歩を踏み出してルクレツィアの前に現れる。「ルクレツィア・アルモンド」 低く響く声。 冷ややかさは変わらぬものの、どこか妙に柔らかい。 いつものように距離を取るわけでも、無関心を装うわけでもなく、彼はわざわざルクレツィアの目の前で足を止めた。「アズライル殿下。今宵もご機嫌麗しゅうございます」 完璧な所作で礼を取るルクレツィア。 だが、その内心はわずかに困惑していた。――これは、今までにない展開だ。(……前回この舞踏会で私はアズライルに挨拶したかしら?) アズライルは彼女の礼にゆるやかに頷くと、視線を絡めたまま口を開く。「随分と控えめな装いだな。だが――よく似合っている」 一瞬、胸の奥がざわつく。 褒め言葉。しかもこの王太子の口から――。 冷徹で人を称えるなど滅多にしない彼が、だ。
客間の扉の前で、ルクレツィアは深く息を吸い込み、ゆっくりとノブに手をかけた。「失礼いたします」 静かに扉を開けると、柔らかな陽光が差し込む室内に、一人の見慣れぬ男性が静かに腰掛けていた。彼は肩にかかるほどの長さの、スモーキーアッシュの髪を自然なウェーブで揺らしながら、ゆったりとした所作で立ち上がる。髪はセンターよりややずれた分け目で、落ち着いた印象を与える。淡い青色の瞳は春の空のように澄んでおり、その視線は静かな安心感をもたらした。整った顔立ちは儚げな優雅さを漂わせつつも、その奥に鋭い知性が宿っていた。 その眼差しを、ルクレツィアはどこかで知っているような気がした。 身に纏う衣服は控えめながら上質な布地で仕立てられており、動きやすさを意識したシンプルなデザインが彼の落ち着いた人柄を引き立てている。 彼は礼儀正しく一礼して、柔らかな微笑みを浮かべた。「初めまして、ルクレツィア・アルモンド公爵令嬢。噂に違わぬ美しさだね」「はじめまして、エリアス・モンルージュ殿。あなたのことは存じ上げませんが、どのようなご用件でしょうか?」「俺は、ただの放浪者さ」 ルクレツィアの問いに、彼は静かに微笑みながら答えた。「『聖なる光と堕ちた神』……この言葉を聞いたことはあるかな?」 その言葉を耳にした瞬間、ルクレツィアの眉がわずかにひそめられた。(その名は……) それは、この世界の土台となっている乙女ゲームのタイトルだった。彼女が前世で何度も遊んだゲーム、そしてこの世界の運命を知る唯一の拠り所でもある。それを、この男が――。(この世界に生きる人間が、知るはずのない言葉……どうして?) 胸の奥に冷たいざわめきが広がる。状況を飲み込みきれないまま、まずはこの場を整理する必要があると判断した。 控えていた侍女に、ルクレツィアは静かに目線を送り、落ち着いた声で命じる。「リリー、少し席を外してちょうだい。」「かしこまりました、お嬢様。」
……静寂。 どこまでも深く、冷たく、暗い闇の中を漂っていた。 終わりのない落下のような感覚。体も意識も溶けていくかのような虚無――。 けれど――不意に、微かな光が差し込んだ。 遠くで鳥のさえずりが聞こえ始める。朝の始まりを告げるような、穏やかな囀り。「……ぁ……」 ルクレツィアの唇が微かに動いた。まぶたが重くゆっくりと開かれる。差し込む朝の日差しが眩しくて、一瞬、思わず目を細めた。 そこに映ったのは、見慣れた天井――白亜の装飾、繊細な彫刻が施されたドーム型の天井。金の縁取りと淡いクリーム色の壁が朝の光に柔らかく照らされている。(……ここは……私の部屋?) 首をゆっくりと巡らせる。刺すような痛みも、焼けつく苦しみもない。昨夜のあの焼けるような毒の苦痛も、冷たい床の感触も、全く存在しない。ただ、静かに、柔らかな朝が広がっていた。(……生きてる? でも、どうして?) 戸惑いを抱えたまま、ルクレツィアはベッドを抜け出し、大きな姿見の前へと足を運んだ。 鏡の中に映る自分の姿――艶やかなブロンドの髪、整った顔立ち、健康的な血色。そこには確かにルクレツィア・アルモンドが立っていた。けれど、どこか違和感が胸の奥をざわつかせる。(……何かが、おかしい) 違和感の正体がすぐには掴めず、しばらく鏡の中の自分を見つめ続けた。 その時だった。 コン、コン、コン―― 軽やかなノックの音が静寂を破った。「お嬢様、朝食のご用意が整っております」 リリーの、馴染み深い声が扉の向こうから届いた。「えぇ……。いえ、入ってきてリリー」 返事をしながらも、ルクレツィアの心はさらに混乱を深めていく。まるで、現実感が薄れていくようだった。 扉が開き、リリーが静かに部屋に入ってくる。相変わらず柔らかな微笑みを浮かべた、幼い頃から仕える侍女だ。「いかが致しましたか、お嬢様? 少しお顔色
朝、ルクレツィアが執務室で書類に目を通していると、慌ただしくノックの音が響いた。「お嬢様、大変です!」 扉の向こうからリリーの切迫した声がする。その緊迫感に、ルクレツィアは胸騒ぎを覚えた。「入りなさい」 扉を開けて飛び込んできたリリーは、青ざめた顔で一枚の書簡を差し出した。「これが……王宮からの正式な通達です」 王宮の封蝋が押されたそれを受け取り、ルクレツィアはそっと封を切った。視線を走らせた瞬間、思わず喉の奥が固まる。(……やられた) そこに記されていたのは、『アルモンド公爵令嬢ルクレツィアが、聖女ソフィア殿下に対し陰湿な嫌がらせを継続的に行っていた疑いが浮上。証言者複数名による証言が確認されており、事実確認のため速やかに王宮への出頭を命ずる』 という文面だった。「嫌がらせ、ですって……?」 ルクレツィアは低く呟いた。もちろん、そんな事実は一切ない。だが、証言者が「複数名」いると書かれている。(証言者……。つまり、証拠は作られた。周到に、計画的に。) 手の込んだ罠だった。証拠となる物証ではなく、証言。誰かに口裏を合わせさせるだけで、それは容易に成立する。そして「聖女を虐げる悪役令嬢」という筋書きは、世間にも受け入れられやすい。「……誰が動いたの?」「お嬢様……まさか、王太子殿下が……?」 リリーが恐る恐る口にする。だがルクレツィアはゆっくりと首を振った。「王太子殿下本人が、こんな露骨な手は使わないでしょう。でも――殿下を取り巻く誰か、でしょうね。ソフィア様の背後にいる派閥……あるいは、もっと別の誰かが」(私はてっきり、王太子殿下は正式に聖女様を妃に迎えるとともに、穏やかに婚約を解消するつもりだと思っていたのに……まさか、こんな露骨な悪役令嬢の筋書きを使うなんて) そう考えれば、先日のベルントの報告とも繋がる。商会への圧力も、計画の一部だったのだ。ベルントの報告によ
あれから、気付けば丸二年が経っていた。 王太子との婚約破棄まで、いよいよ残りわずか数ヶ月。 ルクレツィアは屋敷のバルコニーから静かに庭を眺めながら、内心で状況を整理していた。(商会の準備は整ったわ。名も顔も出さず、すべては信頼できる商人ベルント様に任せている。あとはこのまま静かに破滅を待つだけ――) 自ら厨房に立つことも、今ではもうない。 若手の新興商人ベルント・レンツと出会ってから、多額の出資を行い、新たにレンツ商会を立ち上げさせた。以後は商会の運営をすべて彼に一任している。 最初の試作品はすでに高い評価を得ており、生産も安定して供給体制が整った。商人たちは着実に取引の幅を広げ、地方貴族の間では「新興の珍味商会」として徐々に名を知られるまでになっている。 だが、その商会がルクレツィア・アルモンド公爵令嬢と繋がっている事実は、いまだ誰の耳にも入っていない。すべては周到に、慎重に、慎重に進めてきたのだ。「お嬢様、今日の予定でございます」 侍女リリーが手帳を差し出す。ルクレツィアは静かに頷いた。「ありがとう、リリー」 予定表には今日の社交行事が記されている。王宮主催の茶会。主賓はもちろん――聖女ソフィア。(ソフィアは……完全に王道ルートに入ったわね) 王宮の公式な行事にソフィアが頻繁に同席するようになって、すでに一年以上が経っていた。今や彼女はすっかり「未来の王太子妃」として周囲の扱いも変わってきている。もちろん、ルクレツィアとアズライルの婚約は未だ正式に解消されていないが、それも時間の問題だろう。 王太子は、ここ最近ルクレツィアにほとんど会おうともしない。公務以外では、必要最低限の形式的な会話のみ。代わりに、隣には常にソフィアの姿があった。(これで、私がソフィアに何かしていれば即婚約破棄になったけれど……今回はそうはいかない。あくまで自然に、殿下の意志で破棄を切り出してもらうのを待つしかないわ) 本来の乙女ゲームなら、悪役令嬢ルクレツィアが聖女に陰湿な嫌がらせを繰り返し、それ