朝、ルクレツィアが執務室で書類に目を通していると、慌ただしくノックの音が響いた。
「お嬢様、大変です!」 扉の向こうからリリーの切迫した声がする。その緊迫感に、ルクレツィアは胸騒ぎを覚えた。 「入りなさい」 扉を開けて飛び込んできたリリーは、青ざめた顔で一枚の書簡を差し出した。 「これが……王宮からの正式な通達です」 王宮の封蝋が押されたそれを受け取り、ルクレツィアはそっと封を切った。視線を走らせた瞬間、思わず喉の奥が固まる。 (……やられた) そこに記されていたのは、 『アルモンド公爵令嬢ルクレツィアが、聖女ソフィア殿下に対し陰湿な嫌がらせを継続的に行っていた疑いが浮上。証言者複数名による証言が確認されており、事実確認のため速やかに王宮への出頭を命ずる』 という文面だった。 「嫌がらせ、ですって……?」 ルクレツィアは低く呟いた。もちろん、そんな事実は一切ない。だが、証言者が「複数名」いると書かれている。 (証言者……。つまり、証拠は作られた。周到に、計画的に。) 手の込んだ罠だった。証拠となる物証ではなく、証言。誰かに口裏を合わせさせるだけで、それは容易に成立する。そして「聖女を虐げる悪役令嬢」という筋書きは、世間にも受け入れられやすい。 「……誰が動いたの?」 「お嬢様……まさか、王太子殿下が……?」 リリーが恐る恐る口にする。だがルクレツィアはゆっくりと首を振った。 「王太子殿下本人が、こんな露骨な手は使わないでしょう。でも――殿下を取り巻く誰か、でしょうね。ソフィア様の背後にいる派閥……あるいは、もっと別の誰かが」 (私はてっきり、王太子殿下は正式に聖女様を妃に迎えるとともに、穏やかに婚約を解消するつもりだと思っていたのに……まさか、こんな露骨な悪役令嬢の筋書きを使うなんて) そう考えれば、先日のベルントの報告とも繋がる。商会への圧力も、計画の一部だったのだ。ベルントの報告によれば、レンツ商会の業績はここ1ヶ月で明らかに右肩下がりだった。取引先の契約破棄が相次ぎ、新たな流通経路も塞がれてきている。……逃げ道は無さそうだ。 「……どうなさいますか?」 「もちろん、出頭するわ」 ルクレツィアは毅然と言った。 「逃げれば有罪を認めたことになる。今はまだ、潔白を訴える姿勢を見せるしかないの。証拠が捏造された以上、私にはもうあまり選択肢がないわ」 胸中は不安で渦巻いていたが、表情だけは微塵も崩さない。ここで取り乱せば、本当に悪役令嬢にされてしまう。 (追放の未来は変えられない――そんなことはとっくに覚悟していた。けれど、まさかこんな筋書きで追い詰められるなんて) そう思いながら、ルクレツィアは静かに一息をついた。 ❖❖❖ 通達を受け取ってから数日後―― 王宮への出頭命令に従い、ルクレツィアは馬車に揺られながら王都の中心部へ向かっていた。窓の外には華やかな街並みが広がるが、今の彼女にはそれが遠い世界の出来事のように感じられる。 (本来なら、殿下は正式に聖女ソフィア様を妃に迎えるために、穏やかに婚約破棄を切り出すはずだった。それが、よりにもよって私を悪役に仕立て上げるなんて――) この展開は完全に予想外だった。王太子アズライルが直接こうした卑劣な手を使うとは思えない。だが、その背後にいる派閥――聖女派、あるいは新興貴族の一部が暗躍している可能性は高い。 (そして――レンツ商会への圧力も、おそらくは同じ手によるもの) 全てが繋がっていた。静かにため息をつき、ルクレツィアは心を決める。 (でも、私は最後まで公爵令嬢であり続ける。どんな結末でも、誇りだけは失わない) 馬車が王宮の正門前に停まり、重厚な門が開かれる。集まった廷臣たちの視線が、ルクレツィアに突き刺さった ❖❖❖ 王宮の審問の間。 重々しい空気が場を支配していた。列席しているのは王族の重鎮、貴族たち、そして当事者たち――。 玉座の傍らには王太子アズライルが冷ややかに佇み、その隣には控えめに立つ聖女ソフィアの姿がある。証言者として出席しているのは、ルクレツィアの知らぬ顔ぶれの女官や貴族令嬢たち。 ルクレツィアは姿勢を正して中央に立った。ドレスの裾が微かに揺れるが、その表情は毅然としている。 「アルモンド公爵令嬢ルクレツィア。汝が聖女ソフィア殿下に対して、長らく陰湿な嫌がらせを繰り返していたとの訴えが上がっている」 王国司法長官が低く読み上げる。 「それらの証言は複数に及ぶ。女官長、証言を」 女官長が進み出て、静かに証言を始めた。 「……確かに、聖女様におかれましては、度重なる無礼な振る舞いを受けておられました。贈られた品に細工が施されていたことも一度や二度ではなく……」 「それは事実ではありません」 ルクレツィアは落ち着いた声で即座に遮った。 「私は一度たりとも、聖女様に対し不敬な振る舞いをしたことはございません。贈り物も献上の品も、全て家令を通して公式な手続きを踏んだもののみですわ」 静寂が落ちる。だが、次々に証言者たちが名乗りを上げていく。 「私も目撃しました。公の場で聖女様を侮辱する言葉を……」 「私も聞きました」 証言は重なる。用意されたかのように、次々と。 (完全に出来上がっている……) 胸中でルクレツィアは静かに悟った。これは計画的な冤罪。彼らは既に結論を出しているのだ。 「弁明はあるか」 司法長官が問う。 「――私は、聖女様に何一つ非礼を働いておりません。証言は全て虚偽です」 それ以上に言葉を重ねれば、「言い逃れ」として受け止められるだけだった。 その時、アズライルが口を開いた。 「これだけの証言が揃った以上、もはや疑う余地はないだろう」 アズライルの隣では、聖女ソフィアが俯き、震える声で囁いた。 「私は……できれば穏便に済ませたかったのです。ですが、これ以上耐えるのは難しく……」 その控えめな姿に、廷臣たちから同情のため息が漏れる。ソフィアは完全に「慈悲深い被害者」として仕上げられていた。 アズライルは厳かに宣言した。 「アルモンド公爵令嬢ルクレツィア。この場をもって貴女との婚約は破棄する。そして、公爵令嬢の爵位も剥奪とする。期限は3日だ。それまでに、王都を退去せよ」 重苦しい沈黙が流れる中、ルクレツィアは静かに頭を下げた。 「御意のままに。」 言葉は簡潔だったが、その声音には微塵の動揺もない。最後まで誇り高き公爵令嬢であり続ける――その覚悟を示す言葉だった。 (これが、私のバッドエンド、というわけね……) ❖❖❖ 翌日、正式な勅命が下された。 『アルモンド公爵令嬢ルクレツィアは、聖女ソフィア殿下への悪行の罪により、王太子妃候補としての資格を剥奪、婚約破棄とする。 さらに、公爵令嬢としての爵位剥奪。アルモンド公爵家の家名より除籍し、領地内よりの追放を命ず』 外交で隣国に赴いているアルモンド公爵夫妻はすでに何者かの圧力に屈し、抗弁すら許されなかった。公爵家の家名は辛うじて守られたが、娘であるルクレツィアは家名から切り捨てられたのだ。 (……これで終わり) 自室に戻ったルクレツィアは、ただ静かにため息をつく。 追放先については、商人ベルント・レンツの庇護を受ける手筈になっている。もっとも、商会の業績は依然として不安定な状態が続いている。しかし、爵位を失った今、すでに公爵令嬢ではない。 だが――生き延びられればそれで良い、と覚悟していた。 ❖❖❖ 追放を翌日に控えた晩。 ルクレツィアは最後の夕食を、寝室隣の小さな部屋で一人静かに取っていた。テーブルの上には、豪華とは言い難いが、それでも丁寧に整えられた簡素な献立が並んでいる。 (これで、公爵家の屋敷ともお別れね……) 胸に広がるのは、悔しさでも恐怖でもなく――ただ、空虚に近い静けさだった。 侍女のリリーが気遣わしげに控えていたが、ルクレツィアは柔らかく微笑んで言った。 「大丈夫よ、リリー。今夜はもう静かに休みたいの。」 「……はい」 ワインのグラスに手を伸ばす。深紅の液体が蝋燭の灯に揺らめき、不気味なほど美しい光を放っていた。 鼻をくすぐる香りは芳醇で、それでいてどこか甘ったるい――普段よりも、妙に甘い。 (……今日のワイン、少し甘いわね) 小さな違和感を覚えつつも、ルクレツィアは静かに一口を含んだ。 だが次の瞬間―― ――カァァァッ! 灼けつくような熱が喉奥から逆流し、全身を駆け巡った。 膝が震え、思わず手からグラスを落とす。カラン、と甲高い音が静寂の中に響き渡る。身体が重く、思うように動かない。呼吸は浅く、胸の奥が焼けるように苦しい。 「っ……!」 床に崩れ落ちる中、必死に意識を保とうとするも、視界はぐにゃりと歪み、蝋燭の炎が滲んで揺らめいていた。 「お嬢様!? どうなさったのですか!? 誰か! 誰か来てください!」 リリーの叫び声が遠ざかっていく。 朦朧とした意識の中で、ルクレツィアはただ一つの確信に至る。 (――仕組まれたのね) あの妙に甘いワイン。 何者かが、確実に始末しに来たのだ。 (それでも……一体何のために?) 指先から力が抜け、冷たい床の感触だけが鮮明に残る。 最後に見えたのは、滲んで揺れる蝋燭の光だった。 やがて、ルクレツィアの意識は、闇の底へと静かに沈んでいった――。夜の帳が下り、王宮は一層の華やかさに包まれていた。 クリスタルのシャンデリアが幾重にも輝き、まるで星々が天井に降りてきたかのようだ。貴族たちの宝石が光を受けて煌めき、豪奢なドレスと燕尾服が舞踏会の広間を彩っている。 ルクレツィアは、公爵令嬢としての完璧な微笑みを浮かべながら入場した。 今日のドレスは淡いローズピンクのシルクに繊細なレースが重ねられ、煌びやかすぎず、品のある華やかさを演出している。背筋を伸ばし、静かに視線を巡らせると、見慣れた顔ぶれが次々と目に入った。(ここが始まりの舞踏会……) ここからすべてが動き出す。聖女ソフィアの登場も、そして攻略対象たちの物語も――。 遠くに王太子アズライルの姿が見えた。漆黒の髪に深紅の瞳。その鋭い眼差しは今日も氷のように冷たい。 その隣には騎士アシュレイが控え、ダークブラウンの髪にスチールグレーの瞳を光らせながら、厳かに警戒を怠らない。 王太子アズライルは、ふとルクレツィアの姿に気づいたのだろう。遠くからその深紅の瞳がわずかに細められた。 いつもなら近づいても形ばかりの挨拶しか交わさない彼が、自ら数歩を踏み出してルクレツィアの前に現れる。「ルクレツィア・アルモンド」 低く響く声。 冷ややかさは変わらぬものの、どこか妙に柔らかい。 いつものように距離を取るわけでも、無関心を装うわけでもなく、彼はわざわざルクレツィアの目の前で足を止めた。「アズライル殿下。今宵もご機嫌麗しゅうございます」 完璧な所作で礼を取るルクレツィア。 だが、その内心はわずかに困惑していた。――これは、今までにない展開だ。(……前回この舞踏会で私はアズライルに挨拶したかしら?) アズライルは彼女の礼にゆるやかに頷くと、視線を絡めたまま口を開く。「随分と控えめな装いだな。だが――よく似合っている」 一瞬、胸の奥がざわつく。 褒め言葉。しかもこの王太子の口から――。 冷徹で人を称えるなど滅多にしない彼が、だ。
客間の扉の前で、ルクレツィアは深く息を吸い込み、ゆっくりとノブに手をかけた。「失礼いたします」 静かに扉を開けると、柔らかな陽光が差し込む室内に、一人の見慣れぬ男性が静かに腰掛けていた。彼は肩にかかるほどの長さの、スモーキーアッシュの髪を自然なウェーブで揺らしながら、ゆったりとした所作で立ち上がる。髪はセンターよりややずれた分け目で、落ち着いた印象を与える。淡い青色の瞳は春の空のように澄んでおり、その視線は静かな安心感をもたらした。整った顔立ちは儚げな優雅さを漂わせつつも、その奥に鋭い知性が宿っていた。 その眼差しを、ルクレツィアはどこかで知っているような気がした。 身に纏う衣服は控えめながら上質な布地で仕立てられており、動きやすさを意識したシンプルなデザインが彼の落ち着いた人柄を引き立てている。 彼は礼儀正しく一礼して、柔らかな微笑みを浮かべた。「初めまして、ルクレツィア・アルモンド公爵令嬢。噂に違わぬ美しさだね」「はじめまして、エリアス・モンルージュ殿。あなたのことは存じ上げませんが、どのようなご用件でしょうか?」「俺は、ただの放浪者さ」 ルクレツィアの問いに、彼は静かに微笑みながら答えた。「『聖なる光と堕ちた神』……この言葉を聞いたことはあるかな?」 その言葉を耳にした瞬間、ルクレツィアの眉がわずかにひそめられた。(その名は……) それは、この世界の土台となっている乙女ゲームのタイトルだった。彼女が前世で何度も遊んだゲーム、そしてこの世界の運命を知る唯一の拠り所でもある。それを、この男が――。(この世界に生きる人間が、知るはずのない言葉……どうして?) 胸の奥に冷たいざわめきが広がる。状況を飲み込みきれないまま、まずはこの場を整理する必要があると判断した。 控えていた侍女に、ルクレツィアは静かに目線を送り、落ち着いた声で命じる。「リリー、少し席を外してちょうだい。」「かしこまりました、お嬢様。」
……静寂。 どこまでも深く、冷たく、暗い闇の中を漂っていた。 終わりのない落下のような感覚。体も意識も溶けていくかのような虚無――。 けれど――不意に、微かな光が差し込んだ。 遠くで鳥のさえずりが聞こえ始める。朝の始まりを告げるような、穏やかな囀り。「……ぁ……」 ルクレツィアの唇が微かに動いた。まぶたが重くゆっくりと開かれる。差し込む朝の日差しが眩しくて、一瞬、思わず目を細めた。 そこに映ったのは、見慣れた天井――白亜の装飾、繊細な彫刻が施されたドーム型の天井。金の縁取りと淡いクリーム色の壁が朝の光に柔らかく照らされている。(……ここは……私の部屋?) 首をゆっくりと巡らせる。刺すような痛みも、焼けつく苦しみもない。昨夜のあの焼けるような毒の苦痛も、冷たい床の感触も、全く存在しない。ただ、静かに、柔らかな朝が広がっていた。(……生きてる? でも、どうして?) 戸惑いを抱えたまま、ルクレツィアはベッドを抜け出し、大きな姿見の前へと足を運んだ。 鏡の中に映る自分の姿――艶やかなブロンドの髪、整った顔立ち、健康的な血色。そこには確かにルクレツィア・アルモンドが立っていた。けれど、どこか違和感が胸の奥をざわつかせる。(……何かが、おかしい) 違和感の正体がすぐには掴めず、しばらく鏡の中の自分を見つめ続けた。 その時だった。 コン、コン、コン―― 軽やかなノックの音が静寂を破った。「お嬢様、朝食のご用意が整っております」 リリーの、馴染み深い声が扉の向こうから届いた。「えぇ……。いえ、入ってきてリリー」 返事をしながらも、ルクレツィアの心はさらに混乱を深めていく。まるで、現実感が薄れていくようだった。 扉が開き、リリーが静かに部屋に入ってくる。相変わらず柔らかな微笑みを浮かべた、幼い頃から仕える侍女だ。「いかが致しましたか、お嬢様? 少しお顔色
朝、ルクレツィアが執務室で書類に目を通していると、慌ただしくノックの音が響いた。「お嬢様、大変です!」 扉の向こうからリリーの切迫した声がする。その緊迫感に、ルクレツィアは胸騒ぎを覚えた。「入りなさい」 扉を開けて飛び込んできたリリーは、青ざめた顔で一枚の書簡を差し出した。「これが……王宮からの正式な通達です」 王宮の封蝋が押されたそれを受け取り、ルクレツィアはそっと封を切った。視線を走らせた瞬間、思わず喉の奥が固まる。(……やられた) そこに記されていたのは、『アルモンド公爵令嬢ルクレツィアが、聖女ソフィア殿下に対し陰湿な嫌がらせを継続的に行っていた疑いが浮上。証言者複数名による証言が確認されており、事実確認のため速やかに王宮への出頭を命ずる』 という文面だった。「嫌がらせ、ですって……?」 ルクレツィアは低く呟いた。もちろん、そんな事実は一切ない。だが、証言者が「複数名」いると書かれている。(証言者……。つまり、証拠は作られた。周到に、計画的に。) 手の込んだ罠だった。証拠となる物証ではなく、証言。誰かに口裏を合わせさせるだけで、それは容易に成立する。そして「聖女を虐げる悪役令嬢」という筋書きは、世間にも受け入れられやすい。「……誰が動いたの?」「お嬢様……まさか、王太子殿下が……?」 リリーが恐る恐る口にする。だがルクレツィアはゆっくりと首を振った。「王太子殿下本人が、こんな露骨な手は使わないでしょう。でも――殿下を取り巻く誰か、でしょうね。ソフィア様の背後にいる派閥……あるいは、もっと別の誰かが」(私はてっきり、王太子殿下は正式に聖女様を妃に迎えるとともに、穏やかに婚約を解消するつもりだと思っていたのに……まさか、こんな露骨な悪役令嬢の筋書きを使うなんて) そう考えれば、先日のベルントの報告とも繋がる。商会への圧力も、計画の一部だったのだ。ベルントの報告によ
あれから、気付けば丸二年が経っていた。 王太子との婚約破棄まで、いよいよ残りわずか数ヶ月。 ルクレツィアは屋敷のバルコニーから静かに庭を眺めながら、内心で状況を整理していた。(商会の準備は整ったわ。名も顔も出さず、すべては信頼できる商人ベルント様に任せている。あとはこのまま静かに破滅を待つだけ――) 自ら厨房に立つことも、今ではもうない。 若手の新興商人ベルント・レンツと出会ってから、多額の出資を行い、新たにレンツ商会を立ち上げさせた。以後は商会の運営をすべて彼に一任している。 最初の試作品はすでに高い評価を得ており、生産も安定して供給体制が整った。商人たちは着実に取引の幅を広げ、地方貴族の間では「新興の珍味商会」として徐々に名を知られるまでになっている。 だが、その商会がルクレツィア・アルモンド公爵令嬢と繋がっている事実は、いまだ誰の耳にも入っていない。すべては周到に、慎重に、慎重に進めてきたのだ。「お嬢様、今日の予定でございます」 侍女リリーが手帳を差し出す。ルクレツィアは静かに頷いた。「ありがとう、リリー」 予定表には今日の社交行事が記されている。王宮主催の茶会。主賓はもちろん――聖女ソフィア。(ソフィアは……完全に王道ルートに入ったわね) 王宮の公式な行事にソフィアが頻繁に同席するようになって、すでに一年以上が経っていた。今や彼女はすっかり「未来の王太子妃」として周囲の扱いも変わってきている。もちろん、ルクレツィアとアズライルの婚約は未だ正式に解消されていないが、それも時間の問題だろう。 王太子は、ここ最近ルクレツィアにほとんど会おうともしない。公務以外では、必要最低限の形式的な会話のみ。代わりに、隣には常にソフィアの姿があった。(これで、私がソフィアに何かしていれば即婚約破棄になったけれど……今回はそうはいかない。あくまで自然に、殿下の意志で破棄を切り出してもらうのを待つしかないわ) 本来の乙女ゲームなら、悪役令嬢ルクレツィアが聖女に陰湿な嫌がらせを繰り返し、それ
そうと決まれば、行動に移すのは早かった。 ルクレツィアは舞踏会が終わったその翌朝、まだ陽が昇り切らぬうちに起き上がると、すぐに行動を開始した。「リリー、厨房を使わせていただくわ」 朝の支度を手伝っていた侍女のリリーは、思わず目を丸くする。「えっ……お嬢様が、ですか?」「ええ。少し作りたいものがあるの」「そ、そんな……! 料理は厨房の者にお任せくださいませ。もし火傷でもされたら――」 慌てるリリーの言葉を、ルクレツィアは軽やかに遮る。「大丈夫よ。ほんの少しの間だけよ? 料理長にも伝えてちょうだい。厨房を借りるわと」「ですが……っ」 リリーはそれでも食い下がったが、ルクレツィアは小さく首を傾げ、わざとらしく上目遣いを向ける。「ね? リリー?」 その潤んだ瞳と甘えたような声音に、リリーは思わず息を飲んだ。(お、お嬢様……ずるいです) 顔を赤らめながらも、結局は根負けする。「わ、わかりました……。ですが本当にお気をつけくださいませね!」「ええ、ありがとう、リリー」 にっこりと微笑むルクレツィア。 だが内心はわくわくと高鳴っていた。 最初に作るのは――マヨネーズ。 前世で料理人の娘だった頃、何度も父の手伝いをしながら作った馴染み深い調味料。特別な道具や魔法のような技術も不要、火さえ使わず、卵・油・酢・塩というシンプルな材料で完成する。しかも保存が利き、料理の幅を一気に広げられる万能調味料だ。 幸いにも、材料に似たものならこの世界にもちゃんと揃っていた。多少風味に違いはあれど、基本の工程さえ守れば問題はないはず。(これさえ作れれば、今後の計画が大きく進むわ) 厨房に足を踏み入れると、料理長と数人の使用人たちがすでに準備を整え、控えめに立っていた。貴族令嬢が厨房に立つなど前代未聞の事態に、皆一様に驚いた表情を浮かべている。だが、それでも貴族