客間の扉の前で、ルクレツィアは深く息を吸い込み、ゆっくりとノブに手をかけた。
「失礼いたします」 静かに扉を開けると、柔らかな陽光が差し込む室内に、一人の見慣れぬ男性が静かに腰掛けていた。彼は肩にかかるほどの長さの、スモーキーアッシュの髪を自然なウェーブで揺らしながら、ゆったりとした所作で立ち上がる。髪はセンターよりややずれた分け目で、落ち着いた印象を与える。淡い青色の瞳は春の空のように澄んでおり、その視線は静かな安心感をもたらした。整った顔立ちは儚げな優雅さを漂わせつつも、その奥に鋭い知性が宿っていた。 その眼差しを、ルクレツィアはどこかで知っているような気がした。 身に纏う衣服は控えめながら上質な布地で仕立てられており、動きやすさを意識したシンプルなデザインが彼の落ち着いた人柄を引き立てている。 彼は礼儀正しく一礼して、柔らかな微笑みを浮かべた。 「初めまして、ルクレツィア・アルモンド公爵令嬢。噂に違わぬ美しさだね」 「はじめまして、エリアス・モンルージュ殿。あなたのことは存じ上げませんが、どのようなご用件でしょうか?」 「俺は、ただの放浪者さ」 ルクレツィアの問いに、彼は静かに微笑みながら答えた。 「『聖なる光と堕ちた神』……この言葉を聞いたことはあるかな?」 その言葉を耳にした瞬間、ルクレツィアの眉がわずかにひそめられた。 (その名は……) それは、この世界の土台となっている乙女ゲームのタイトルだった。彼女が前世で何度も遊んだゲーム、そしてこの世界の運命を知る唯一の拠り所でもある。それを、この男が――。 (この世界に生きる人間が、知るはずのない言葉……どうして?) 胸の奥に冷たいざわめきが広がる。状況を飲み込みきれないまま、まずはこの場を整理する必要があると判断した。 控えていた侍女に、ルクレツィアは静かに目線を送り、落ち着いた声で命じる。 「リリー、少し席を外してちょうだい。」 「かしこまりました、お嬢様。」 リリーは少し戸惑いながらも丁寧に一礼し、足音を忍ばせて部屋を後にした。扉が静かに閉まる音が、まるで重くのしかかるように室内の空気を支配する。 ルクレツィアはわずかに身を乗り出し、エリアスへと鋭い視線を向けた。微笑を浮かべる男の表情の裏を読み取ろうとするかのように、じっと彼を見据える。 「――あなたが何故それを知っているの? それに、あなたは一体何者なの?」 エリアスは一瞬だけ目を伏せ、静かに息を吐いた。そしてゆっくりと、少し寂しそうに、どこか悲しげに微笑んだ。 「まずは、君に謝罪をしなくてはならない。こんなことに巻き込んでしまって、本当に……ごめんね。」 その声音には、明らかな悔恨の色が滲んでいた。 ルクレツィアは僅かに戸惑う。今まで数多くの策略家を見てきたが、目の前の男のこの表情は、打算や芝居には見えなかった。 「……まず、俺は君と同じ、日本を知っている。いや、正確には――日本でたしかに生きていたよ」 「……日本を?」 「そうだ。君と同じ前の世界の人間だった。」 「それじゃあ……あなたも、転生者?」 ルクレツィアの声がほんのわずか震えた。まさか自分以外にも――。 「転生か……まあ、たしかにそうとも言えるかな。」 エリアスは肩をすくめるように言った。 「その世界で、俺はとある乙女ゲームを作り出した。それが――『聖なる光と堕ちた神』だ。君もやってくれてたのかな?」 「ええ、やっていたわ。まさか、あなたが開発者本人とは思わなかったけど」 「それは良かった。なら、話が早い。」 軽く微笑むエリアスとは裏腹に、ルクレツィアの胸の内では次々と疑問が膨れ上がっていく。 耐えきれず、とうとう核心を突く問いをぶつけた。 「ねえ……そんなことより、なんで私なの?」 その問いに、エリアスの表情が僅かに歪んだ。まるで胸の奥を抉られたかのように、苦しげな、悲しげな瞳をこちらに向ける。 (この表情――どこかで、見たことがある……) 次の瞬間、前世の最後、歩道橋の上で男が倒れ込みながら微笑んでいたあの光景が脳裏に重なる。あの時、命を落とした男の顔――。 「……まさか」 小さく漏らしたルクレツィアの言葉に、エリアスは苦しげに微笑む。 「……ごめんね。きっと、そのまさかだよ」 彼はそっと目を伏せ、まるで自嘲するように言葉を継ぐ。 「あの時来たのが君で良かった、なんて言ったら……君は怒るんだろうな」 その声は、どこまでも静かで、痛みを孕んでいた。 ルクレツィアは、その苦しげな表情を前にして、責めようとした言葉を飲み込んだ。怒る理由はいくらでもある。彼は自ら命を絶とうとし、結果的に彼女を巻き込んだのだ。だが――。 (この人はきっと、自分の罪を誰よりも重く背負っている……) その哀しさと後悔が滲む眼差しに、踏み込むべきではない何かを感じた。繊細すぎる過去に深入りする気にはなれず、ルクレツィアは意識的に話題をそらす。 「……まあいいわ。それで、これはどういう状況? まず、私はなぜこの世界の悪役令嬢として転生したのか。そして、たしかに私は死に戻りをしたわ。これはどういうこと?」 エリアスは小さく息をつき、ゆっくりと頷いた。 「……ごめんね。そうだね。一度整理しようか。」 彼の声色は静かだが、慎重に言葉を選んでいるのが伝わってくる。 エリアスは少し椅子に背を預け、青く澄んだ瞳で彼女を見据えた。 「まず、なぜ君がこの世界の悪役令嬢として生まれ変わったのか――」 そこで一瞬言葉を切る。その表情はわずかに曇った。 「――それは……正直に言えば、詳しくは俺にも説明できない。けれど、今の俺に言えるのはただ一つ。君が『ルクレツィア・アルモンド』だったからだ」 「……答えになってないわね」 ルクレツィアは冷静に切り返した。核心に触れていない説明に苛立ちを覚えつつも、感情は表に出さなかった。 「それは……そうだね。君にとっては釈然としないだろう。でも……いずれきっと分かる日が来るよ」 エリアスは苦しげに微笑み、少し目を伏せる。その仕草はまるで何か重大な秘密を抱えているかのようだった。 「それから――君が死に戻ったことは、俺も知っている。だから、こうして君の前に現れたんだ」 ルクレツィアの眉がわずかに上がる。 「……どうしてあなたが知っているの?」 「それを説明するには、君がこれから直面する役割を話した方が早い」 エリアスはゆっくりと言葉を選びながら続けた。 「まず君は――あの乙女ゲームにおける攻略対象者については、すでに把握しているね?」 「えぇ。それは当然よ」 ルクレツィアは静かに頷いた。 前世で何度も周回した乙女ゲーム。その中で攻略対象となる男たちの名前と背景は、今でもはっきり覚えている。 「良かった。なら話が早い。……君は彼ら5人を、救わなければならない」 「……救う?」 思わずルクレツィアは問い返す。 その言葉は、これまでのゲームの知識とは異なる意味を持って聞こえた。 「ゲームのシナリオを知っているなら、わかるはずだ」 エリアスは淡々と語るが、声の奥には微かな焦りも混じっていた。 「これからの3年間で、彼らの人生には様々な事件が起こる。君も覚えているだろう?それらはすべて、彼らの過去に深く突き刺さっているトラウマを抉る形で展開する」 ルクレツィアは自然と唇を噛みしめた。 (たしかに……それが、この世界のシナリオだった。でも……) エリアスは続けた。 「放っておけば、君が知っている通り、彼らは次々に病み、崩れ、そして……最終的に聖女ソフィアに救われていく。でも――それじゃダメなんだ」 エリアスは静かに告げた。淡々とした声音の奥に、どこか苦い諦めが滲んでいる。 「つまり、君の役割は、彼らが堕ちる前に手を差し伸べ、彼らを正しく救済することだ」 静かな客間に、再び重たい沈黙が落ちた。 窓から差し込む柔らかな陽光が、二人の間に流れる張り詰めた空気を余計に際立たせる。 ルクレツィアは、ゆっくりと息を吸い込んだ。 「……それは、どういうこと? それに……なぜ私なの?」 鋭い視線をエリアスへと向ける。 彼はしばし言葉を探すように口を噤み、そして静かに首を横に振った。 「それも……今の俺には言うことができない。けれど、ただ一つだけ言える。君が――『ルクレツィア・アルモンド』だから、だ」 曖昧で腑に落ちない答えに、胸の奥がじりじりと焦れるようだった。 唇を引き結び、ルクレツィアはさらに踏み込む。 「……どうしてあなたは、ルクレツィア・アルモンドを悪役令嬢にしたのよ? それなら、最初から聖女にでもしておけばよかったでしょう? あなたが作ったゲームでしょう?」 その声には微かな怒りと困惑が滲んでいた。 エリアスは視線を伏せ、苦笑ともつかぬ表情を浮かべる。 「……ごめんね。本当にその通りだ。そのせいで君には、より面倒で困難な役割を押し付けることになってしまった。俺の責任だ」 わずかに握った拳が震えた。彼もまた、葛藤を抱えているのだとわかる。 「……君は、これから彼らを救わなければならない。そして、それが遂行されるまで、君は死に戻りを繰り返す」 エリアスの声が静かに響くたびに、重く現実感がのしかかってくる。 「……どうして」 ルクレツィアは小さく呟く。 その問いに、エリアスは少しだけ微笑を浮かべて答えた。 「ゲームと同じようなものだよ。エンディングを迎えたら、もう一度最初に戻ったりするだろう?」 「……セーブポイントでも付けてちょうだいよ」 皮肉交じりに告げるルクレツィア。だが、その言葉にエリアスは少し肩の力を抜いたように笑った。 「もちろんだ。攻略対象者を一人救うたびに、セーブポイントは上書きされていく」 「……なるほどね」 ルクレツィアはわずかに目を伏せ、短く息を吐いた。 頭の中は次々と整理されていく情報でいっぱいだったが、今は冷静であろうと努めた。 「ともかく、私が彼らを救えばいいのね? ……それにしても、どうしてソフィアじゃダメなの? あなたが考え出した聖女なのに」 その問いに、エリアスの表情がほんの僅かに陰る。 「……彼女じゃダメなんだ」 短く、しかし断固とした答えだった。 「理由を説明するのは、今はまだできない。でも君じゃなきゃダメだ。君だからこそ救えるんだ」 「……そう」 ルクレツィアはそれ以上問い詰めなかった。今はまだ、得られる情報に限りがあると悟ったからだ。 けれど、胸の奥では得体の知れぬ不安が静かに渦巻いていた。 エリアスは少し間を置き、表情を和らげて問いかけた。 「――攻略対象者について、分からないことはあるかい?」 ルクレツィアは静かに目を閉じ、頭の中で一人ずつ思い浮かべていく。 ――王太子、アズライル・ヴェルディア。ヴェルディア王国の第一王子。 漆黒の髪に深紅の瞳。誰も信じず、冷酷で冷徹な態度を貫き、ソフィア以外の人を人とも思わぬ冷たい人。 ――騎士のアシュレイ・ヴォルク。王太子の護衛を務める凄腕の剣士。 ダークブラウンの短髪に、スチールグレーの冷たい瞳。無口で寡黙、自分に課せられた義務を淡々と果たす男。ソフィアにだけはその熱情を見せたんだっけ。 ――聖女ソフィアの幼なじみである伯爵子息、テオドール・グランチェスター。 ミルクティーブラウンの髪に琥珀色の瞳。誰にでも優しく明るく接し、特にソフィアには弱さを見せることもある。 ――神官イザヤ・サンクティス。 白銀の髪に淡い金の瞳。せラフィス教の大司教であり、誰も寄せ付けず、神以外は信じない。ただソフィアに対してのみ狂信的な執着を抱く。 ――そして最後がルーク・グレイヴン。裏社会に精通し、情報屋として数多くの貴族から信頼を得て伯爵に成り上がった男。 ダークワインレッドの髪に深緑の瞳。表向きは商人として知られるが、ソフィア以外には本音を見せない謎多き人物。 頭の中で彼らの姿と性格が鮮明に浮かび上がる。誰一人として軽く扱える相手ではない。 「……彼らは、ソフィアじゃなくても本音を話すのかしら」 思わず口にしたその言葉に、エリアスは軽く肩をすくめる。 「さぁね。でも、君ならきっとうまくやれるさ」 「あなたが作ったゲームなんでしょう?」 問いかけるルクレツィアに、彼は少し表情を曇らせて言った。 「――それは、少し違うんだ。ごめん。今はまだ、そのことも話せない」 「いつか話してくれるんでしょうね」 揺るがぬ視線でルクレツィアが問いかけると、 「もちろんだよ。話せる時が来たら、すぐに」 エリアスはその視線に応えるように、じっと彼女を見つめ返した。 「じゃあ、いいわ。話はこれで終わりにしましょう」 「あぁ、あとは君に任せたよ」 「えぇ」 そう答えると、エリアスは静かに席を立ち、扉を開けて部屋を後にした。 その背を見送りながら、ルクレツィアはゆっくりと深く息を吐いた。 静かな客間に漂う余韻が、心の奥の緊張をほんの少しだけ和らげる。 (まずは、今夜の舞踏会ね。……これから3年間無事にやり過ごさなければ。なるべく、死なないように……) 固く決意したその言葉が、胸の奥で静かに燃え始めていた。テオドールと別れた後も、胸の内に違和感を抱えたままルクレツィアは歩き続けていた。(次は――) 自然と足が、舞踏会場の奥、人気の少ないテラスへと向かう。 柔らかな夜風がレースの袖を揺らし、月明かりが静かに白い大理石の床を照らしている。(前回の舞踏会でも、ここで彼に出会ったのよね……) 思い返せば、あの夜の会話が彼との最初の接点だった。 ルーク・グレイヴン。裏社会に精通し、商人として成り上がり伯爵となった男。 ダークワインレッドの髪と深緑の瞳を持ち、物腰は柔らかく穏やかだが、その本心は決して他人に悟らせない。 そして――「こんばんは、アルモンド公爵令嬢」 月光の下、すでに彼はそこにいた。 石造りの欄干に片肘をつきながら、穏やかな微笑みを浮かべている。(……やっぱりいたわ) 内心、僅かに息を吐く。 ルクレツィアはドレスの裾を静かに持ち上げ、彼に向き直った。「こんばんは、グレイヴン伯爵。今宵は月が綺麗ですわね」「ええ、月も星も、貴女のドレスに映えてより一層輝いて見えます」 相変わらず流れるように巧みな口ぶりだ。 だが、前回と全く同じ言葉ではなかった。(――ここも違う) それでも、ルクレツィアは笑顔を崩さずに返す。「お上手ですこと」「商売柄、口先だけは少し自信がありまして」 ルークは軽く肩をすくめてみせた。その仕草もまた、どこか計算されているようでいて、自然だ。「このような華やかな場所では、どうにも落ち着かなくてね。つい、こうして人の少ない場所に逃げてしまうのです」「わかりますわ。私も時折、こうして風にあたりたくなりますもの」「……お互い似た者同士、というところでしょうか」 その言葉に、ルクレツィアの心がわずかに揺れた。 前回の周回で、この男がこんな風に距離を縮めてきたことはなかった。む
夜の帳が下り、王宮は一層の華やかさに包まれていた。 クリスタルのシャンデリアが幾重にも輝き、まるで星々が天井に降りてきたかのようだ。貴族たちの宝石が光を受けて煌めき、豪奢なドレスと燕尾服が舞踏会の広間を彩っている。 ルクレツィアは、公爵令嬢としての完璧な微笑みを浮かべながら入場した。 今日のドレスは淡いローズピンクのシルクに繊細なレースが重ねられ、煌びやかすぎず、品のある華やかさを演出している。背筋を伸ばし、静かに視線を巡らせると、見慣れた顔ぶれが次々と目に入った。(ここが始まりの舞踏会……) ここからすべてが動き出す。聖女ソフィアの登場も、そして攻略対象たちの物語も――。 遠くに王太子アズライルの姿が見えた。漆黒の髪に深紅の瞳。その鋭い眼差しは今日も氷のように冷たい。 その隣には騎士アシュレイが控え、ダークブラウンの髪にスチールグレーの瞳を光らせながら、厳かに警戒を怠らない。 王太子アズライルは、ふとルクレツィアの姿に気づいたのだろう。遠くからその深紅の瞳がわずかに細められた。 いつもなら近づいても形ばかりの挨拶しか交わさない彼が、自ら数歩を踏み出してルクレツィアの前に現れる。「ルクレツィア・アルモンド」 低く響く声。 冷ややかさは変わらぬものの、どこか妙に柔らかい。 いつものように距離を取るわけでも、無関心を装うわけでもなく、彼はわざわざルクレツィアの目の前で足を止めた。「アズライル殿下。今宵もご機嫌麗しゅうございます」 完璧な所作で礼を取るルクレツィア。 だが、その内心はわずかに困惑していた。――これは、今までにない展開だ。(……前回この舞踏会で私はアズライルに挨拶したかしら?) アズライルは彼女の礼にゆるやかに頷くと、視線を絡めたまま口を開く。「随分と控えめな装いだな。だが――よく似合っている」 一瞬、胸の奥がざわつく。 褒め言葉。しかもこの王太子の口から――。 冷徹で人を称えるなど滅多にしない彼が、だ。
客間の扉の前で、ルクレツィアは深く息を吸い込み、ゆっくりとノブに手をかけた。「失礼いたします」 静かに扉を開けると、柔らかな陽光が差し込む室内に、一人の見慣れぬ男性が静かに腰掛けていた。彼は肩にかかるほどの長さの、スモーキーアッシュの髪を自然なウェーブで揺らしながら、ゆったりとした所作で立ち上がる。髪はセンターよりややずれた分け目で、落ち着いた印象を与える。淡い青色の瞳は春の空のように澄んでおり、その視線は静かな安心感をもたらした。整った顔立ちは儚げな優雅さを漂わせつつも、その奥に鋭い知性が宿っていた。 その眼差しを、ルクレツィアはどこかで知っているような気がした。 身に纏う衣服は控えめながら上質な布地で仕立てられており、動きやすさを意識したシンプルなデザインが彼の落ち着いた人柄を引き立てている。 彼は礼儀正しく一礼して、柔らかな微笑みを浮かべた。「初めまして、ルクレツィア・アルモンド公爵令嬢。噂に違わぬ美しさだね」「はじめまして、エリアス・モンルージュ殿。あなたのことは存じ上げませんが、どのようなご用件でしょうか?」「俺は、ただの放浪者さ」 ルクレツィアの問いに、彼は静かに微笑みながら答えた。「『聖なる光と堕ちた神』……この言葉を聞いたことはあるかな?」 その言葉を耳にした瞬間、ルクレツィアの眉がわずかにひそめられた。(その名は……) それは、この世界の土台となっている乙女ゲームのタイトルだった。彼女が前世で何度も遊んだゲーム、そしてこの世界の運命を知る唯一の拠り所でもある。それを、この男が――。(この世界に生きる人間が、知るはずのない言葉……どうして?) 胸の奥に冷たいざわめきが広がる。状況を飲み込みきれないまま、まずはこの場を整理する必要があると判断した。 控えていた侍女に、ルクレツィアは静かに目線を送り、落ち着いた声で命じる。「リリー、少し席を外してちょうだい。」「かしこまりました、お嬢様。」
……静寂。 どこまでも深く、冷たく、暗い闇の中を漂っていた。 終わりのない落下のような感覚。体も意識も溶けていくかのような虚無――。 けれど――不意に、微かな光が差し込んだ。 遠くで鳥のさえずりが聞こえ始める。朝の始まりを告げるような、穏やかな囀り。「……ぁ……」 ルクレツィアの唇が微かに動いた。まぶたが重くゆっくりと開かれる。差し込む朝の日差しが眩しくて、一瞬、思わず目を細めた。 そこに映ったのは、見慣れた天井――白亜の装飾、繊細な彫刻が施されたドーム型の天井。金の縁取りと淡いクリーム色の壁が朝の光に柔らかく照らされている。(……ここは……私の部屋?) 首をゆっくりと巡らせる。刺すような痛みも、焼けつく苦しみもない。昨夜のあの焼けるような毒の苦痛も、冷たい床の感触も、全く存在しない。ただ、静かに、柔らかな朝が広がっていた。(……生きてる? でも、どうして?) 戸惑いを抱えたまま、ルクレツィアはベッドを抜け出し、大きな姿見の前へと足を運んだ。 鏡の中に映る自分の姿――艶やかなブロンドの髪、整った顔立ち、健康的な血色。そこには確かにルクレツィア・アルモンドが立っていた。けれど、どこか違和感が胸の奥をざわつかせる。(……何かが、おかしい) 違和感の正体がすぐには掴めず、しばらく鏡の中の自分を見つめ続けた。 その時だった。 コン、コン、コン―― 軽やかなノックの音が静寂を破った。「お嬢様、朝食のご用意が整っております」 リリーの、馴染み深い声が扉の向こうから届いた。「えぇ……。いえ、入ってきてリリー」 返事をしながらも、ルクレツィアの心はさらに混乱を深めていく。まるで、現実感が薄れていくようだった。 扉が開き、リリーが静かに部屋に入ってくる。相変わらず柔らかな微笑みを浮かべた、幼い頃から仕える侍女だ。「いかが致しましたか、お嬢様? 少しお顔色
朝、ルクレツィアが執務室で書類に目を通していると、慌ただしくノックの音が響いた。「お嬢様、大変です!」 扉の向こうからリリーの切迫した声がする。その緊迫感に、ルクレツィアは胸騒ぎを覚えた。「入りなさい」 扉を開けて飛び込んできたリリーは、青ざめた顔で一枚の書簡を差し出した。「これが……王宮からの正式な通達です」 王宮の封蝋が押されたそれを受け取り、ルクレツィアはそっと封を切った。視線を走らせた瞬間、思わず喉の奥が固まる。(……やられた) そこに記されていたのは、『アルモンド公爵令嬢ルクレツィアが、聖女ソフィア殿下に対し陰湿な嫌がらせを継続的に行っていた疑いが浮上。証言者複数名による証言が確認されており、事実確認のため速やかに王宮への出頭を命ずる』 という文面だった。「嫌がらせ、ですって……?」 ルクレツィアは低く呟いた。もちろん、そんな事実は一切ない。だが、証言者が「複数名」いると書かれている。(証言者……。つまり、証拠は作られた。周到に、計画的に。) 手の込んだ罠だった。証拠となる物証ではなく、証言。誰かに口裏を合わせさせるだけで、それは容易に成立する。そして「聖女を虐げる悪役令嬢」という筋書きは、世間にも受け入れられやすい。「……誰が動いたの?」「お嬢様……まさか、王太子殿下が……?」 リリーが恐る恐る口にする。だがルクレツィアはゆっくりと首を振った。「王太子殿下本人が、こんな露骨な手は使わないでしょう。でも――殿下を取り巻く誰か、でしょうね。ソフィア様の背後にいる派閥……あるいは、もっと別の誰かが」(私はてっきり、王太子殿下は正式に聖女様を妃に迎えるとともに、穏やかに婚約を解消するつもりだと思っていたのに……まさか、こんな露骨な悪役令嬢の筋書きを使うなんて) そう考えれば、先日のベルントの報告とも繋がる。商会への圧力も、計画の一部だったのだ。ベルントの報告によ
あれから、気付けば丸二年が経っていた。 王太子との婚約破棄まで、いよいよ残りわずか数ヶ月。 ルクレツィアは屋敷のバルコニーから静かに庭を眺めながら、内心で状況を整理していた。(商会の準備は整ったわ。名も顔も出さず、すべては信頼できる商人ベルント様に任せている。あとはこのまま静かに破滅を待つだけ――) 自ら厨房に立つことも、今ではもうない。 若手の新興商人ベルント・レンツと出会ってから、多額の出資を行い、新たにレンツ商会を立ち上げさせた。以後は商会の運営をすべて彼に一任している。 最初の試作品はすでに高い評価を得ており、生産も安定して供給体制が整った。商人たちは着実に取引の幅を広げ、地方貴族の間では「新興の珍味商会」として徐々に名を知られるまでになっている。 だが、その商会がルクレツィア・アルモンド公爵令嬢と繋がっている事実は、いまだ誰の耳にも入っていない。すべては周到に、慎重に、慎重に進めてきたのだ。「お嬢様、今日の予定でございます」 侍女リリーが手帳を差し出す。ルクレツィアは静かに頷いた。「ありがとう、リリー」 予定表には今日の社交行事が記されている。王宮主催の茶会。主賓はもちろん――聖女ソフィア。(ソフィアは……完全に王道ルートに入ったわね) 王宮の公式な行事にソフィアが頻繁に同席するようになって、すでに一年以上が経っていた。今や彼女はすっかり「未来の王太子妃」として周囲の扱いも変わってきている。もちろん、ルクレツィアとアズライルの婚約は未だ正式に解消されていないが、それも時間の問題だろう。 王太子は、ここ最近ルクレツィアにほとんど会おうともしない。公務以外では、必要最低限の形式的な会話のみ。代わりに、隣には常にソフィアの姿があった。(これで、私がソフィアに何かしていれば即婚約破棄になったけれど……今回はそうはいかない。あくまで自然に、殿下の意志で破棄を切り出してもらうのを待つしかないわ) 本来の乙女ゲームなら、悪役令嬢ルクレツィアが聖女に陰湿な嫌がらせを繰り返し、それ