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6. 2回目の目覚め

Author: 斎藤海月
last update Last Updated: 2025-06-30 19:58:00

 ……静寂。

 どこまでも深く、冷たく、暗い闇の中を漂っていた。

 終わりのない落下のような感覚。体も意識も溶けていくかのような虚無――。

 けれど――不意に、微かな光が差し込んだ。

 遠くで鳥のさえずりが聞こえ始める。朝の始まりを告げるような、穏やかな囀り。

「……ぁ……」

 ルクレツィアの唇が微かに動いた。まぶたが重くゆっくりと開かれる。差し込む朝の日差しが眩しくて、一瞬、思わず目を細めた。

 そこに映ったのは、見慣れた天井――白亜の装飾、繊細な彫刻が施されたドーム型の天井。金の縁取りと淡いクリーム色の壁が朝の光に柔らかく照らされている。

(……ここは……私の部屋?)

 首をゆっくりと巡らせる。刺すような痛みも、焼けつく苦しみもない。昨夜のあの焼けるような毒の苦痛も、冷たい床の感触も、全く存在しない。ただ、静かに、柔らかな朝が広がっていた。

(……生きてる? でも、どうして?)

 戸惑いを抱えたまま、ルクレツィアはベッドを抜け出し、大きな姿見の前へと足を運んだ。

 鏡の中に映る自分の姿――艶やかなブロンドの髪、整った顔立ち、健康的な血色。そこには確かにルクレツィア・アルモンドが立っていた。けれど、どこか違和感が胸の奥をざわつかせる。

(……何かが、おかしい)

 違和感の正体がすぐには掴めず、しばらく鏡の中の自分を見つめ続けた。

 その時だった。

 コン、コン、コン――

 軽やかなノックの音が静寂を破った。

「お嬢様、朝食のご用意が整っております」

 リリーの、馴染み深い声が扉の向こうから届いた。

「えぇ……。いえ、入ってきてリリー」

 返事をしながらも、ルクレツィアの心はさらに混乱を深めていく。まるで、現実感が薄れていくようだった。

 扉が開き、リリーが静かに部屋に入ってくる。相変わらず柔らかな微笑みを浮かべた、幼い頃から仕える侍女だ。

「いかが致しましたか、お嬢様? 少しお顔色が優れないようにお見受けしますが……」

「……リリー、私が昨夜倒れてからどうなったの? それに……そろそろ私は屋敷を出なきゃいけないはずよね?」

 自分でも震えそうになる声を無理やり抑え込み、ルクレツィアは尋ねた。リリーは一瞬目を瞬かせ、首を傾げた。

「昨夜……? 倒れられた、とは? いいえ、お嬢様は昨夜も変わりなくお休みになられておりましたよ? それに今日のご予定は夜の舞踏会だけでございます。なにかお急ぎの用事でもございましたか?」

 ルクレツィアの心臓がドクリ、と跳ねた。

 信じられない、いや、信じたくない感覚が全身を駆け巡る。

(どういうこと? あの審問も、爵位剥奪も、追放も――まるで、すべてがなかったかのように……)

 頭の奥がじんじんと痛み出す。けれど、嫌でも理解せざるを得なかった。

(――私は、あの夜を超えて……また、戻ってきた?)

「ごめんなさい。今日って何年かしら」

 そして、不思議そうに首を傾げるリリーから告げられたのは――あの婚約破棄劇から遡ること三年前。

 ちょうど、ルクレツィアが前世の記憶を思い出し、この物語が静かに動き始めた“運命の日”だった。

(……間違いないわ。私は――戻ってきた)

 動揺を隠しきれぬまま、ルクレツィアはゆっくりと息を整えた。

「……朝食は後にしてちょうだい。今は少し、一人になりたいの」

「かしこまりました」

 リリーは静かに一礼し、そっと部屋を後にした。

 リリーが出て行った扉が静かに閉まる音が、やけに遠くに感じられた。

 部屋には、再び静寂が満ちる。

(落ち着いて……落ち着かなきゃ)

 ルクレツィアは重たい足取りで窓際のソファに腰を下ろした。指先がかすかに震えている。胸の奥がざわつき、思考がまとまらない。

(婚約破棄も、爵位剥奪も、追放も、毒殺も……すべて終わったはずだったのに。なのに、私は……)

 指先でこめかみを押さえ、深く息を吸い込む。

 窓の外では、まるで何事もなかったかのように、小鳥たちがさえずり、庭師たちが丹念に植え込みを手入れしていた。

(……確かに私は、一度死んだ。あの甘ったるいワインの味、焼け付くような痛み、倒れた床の冷たさ――全部、鮮明に覚えている)

 背筋に冷たい汗が滲む。けれど、ここにいる自分は確かに息をしている。

(これは……やり直し? それとも、神の悪戯?)

 じっと自分の手を見つめた。透き通るような白い指先――まだ何の汚名も着せられていない、過去の自分の手。

(理由なんて、今は分からない。けれど、チャンスが与えられたのなら――)

 ぎゅっと手を握りしめる。

(今度こそ、同じ結末にはさせない)

 静かに、しかし確かな決意が、ルクレツィアの胸の奥に芽生えはじめていた。

(……そのためにはい冷静になって整理しましょう)

 ルクレツィアは背もたれに身を預け、ゆっくりと目を閉じた。

(前回――私は、できる限り穏便に破滅を受け入れる道を選んだ。ソフィア様をいじめることなく、騒ぎも起こさず、目立たぬよう、慎重に立ち回った)

 自ら厨房に立ち、新たな事業の足掛かりを作り、爵位を失った後の生計の準備も着々と進めていた。

 ベルント・レンツに商会を任せ、名も顔も出さず、商売は順調に立ち上がっていた――途中までは。

(けれど、その慎重さが仇になったのかもしれない)

 あの商会への横槍。取引先を奪われ、じわじわと商売の基盤が崩されていった。

(誰かが私の裏の動きを嗅ぎつけ、計画的に潰しにきた。けれど、それでも私は気付くのが遅すぎた)

 眉間に指を当てる。

(証言という形で仕組まれた陰湿な嫌がらせの冤罪。私は最低限しかし王宮にも、他の貴族の誰とも関わらず、ずっと屋敷で商会との計画を続けていたせいで、逆に証拠を作りやすい状況に陥っていたようね)

 証言だけなら、裏で手を回せばいくらでも作り上げられる。

 誰とも関わらず、ルクレツィアが悪事を働いていないという証拠を作る人物がいなかった分、「表面上は穏やかな悪女」という都合の良い物語が完成してしまったのだ。

(それに――)

 ルクレツィアの瞳が鋭く細められる。

(王太子殿下。私はてっきり、殿下は正式にソフィア様を妃にするために、自然に婚約破棄を切り出すと思っていたわ。でも、実際は違った)

 あの審問。まさか悪役令嬢というレッテルを貼られて、爵位まで剥奪されるとは思わなかった。

(でもゲームの設定的にアズライルはそんな卑怯なことをする人じゃないはず。つまりはその背後にいる誰か――聖女ソフィアの支持者や派閥――が、私を単なる婚約破棄では済ませたくなかった。完全に潰す必要があったのね)

 思い返せば、あの毒もそうだ。爵位剥奪だけでは終わらず、命までも奪いに来た。

(――アルモンド公爵家の血筋を断ちたかった? それとも、狙いは私?)

 息を吐く。まだ全ては見えてこない。だが、少なくとも分かったのは、

(私はただ静かに身を引こうとするだけでは、潰される運命だった)

 静かに目を開く。

(それなら、今度こそこちらから行動を移さねばならない)

 自らの破滅をただ静かに受け入れるつもりなど、もはや毛頭ない。何者かが仕組んだ陰謀――その全てを暴き、打ち砕くのだ。

 だが、まさにその時だった。控えめなノック音が鳴り響く。

「……どうぞ」

「も、申し訳ありません、お嬢様」

 小走りに部屋へ入ってきたリリーが、やや息を切らしながら頭を下げた。

「客人がお嬢様にどうしてもお会いしたいと屋敷を訪れていまして」

「客人?」

 ルクレツィアは思わず眉をひそめた。このタイミングで、屋敷に客が来るなど不自然だ。死に戻る前のこの日――たしかに、誰一人として客など訪れていなかったはずだ。

「どなた?」

「エリアス・モンルージュ様という方だそうです。どうなさいますか?お帰りいただきますか?」

(エリアス・モンルージュ……?)

 その名には全く聞き覚えがない。貴族の名前はある程度は把握しているルクレツィアですらその家名すら聞いたことがなかった。

 ルクレツィアは一瞬だけ考え込み、やがてゆっくりと口を開いた。

「ええ、そうね……今は気分じゃないわ――」

 そう言いかけて、ふと胸に違和感が走る。今までと違うこの展開を、ここで無視してよいのだろうか?

(死に戻る前には現れなかった客人……。偶然だとは思えない)

「――いいえ、やはりお通しして。客室でお待ちいただいて」

「かしこまりました、お嬢様」

 リリーは慌てて一礼し、足早に部屋を後にした。

(エリアス・モンルージュ――あなたは一体何者なのかしら?)

 ルクレツィアは静かに椅子から立ち上がり、胸の内のざわめきを抑え込む。気を抜けば思考が渦を巻いてしまいそうだった。

 そのままベルを鳴らすと、控えていた侍女たちがすぐに部屋へ入ってきた。現れたのは、身支度係の侍女クララだ。

「お呼びでしょうか、お嬢様」

「ええ。客人を迎えるわ。支度を整えてちょうだい」

「かしこまりました」

 クララは手早く準備を始める。ルクレツィアの髪を丁寧に整え、上品ながらも落ち着きのあるドレスを選び出していく。その手つきは慣れたものだが、ルクレツィアの内心は穏やかではなかった。

(前の人生との違いの正体を探るには、まず彼と話してみなければならないわね)

 やがて身支度は整い、ルクレツィアは鏡の中の自分をひと目確認すると、静かに頷いた。

「ありがとう、クララ」

「お気をつけて、お嬢様」

 控えめに頭を下げるクララを後に、ルクレツィアはゆっくりと客間へ向かった――。

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