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第3話

Author: 柚乃
月曜日。

紗季はまず奏太を幼稚園へ送り届けると、家に戻って離婚の準備を始めた。

離婚協議書を作り、そこには一円も受け取らず、奏太の親権も求めないと記した。

紗季は幼い頃から成績がよく、全国でもトップクラスの名門校である京陵大学のコンピューターサイエンス学科で、学部から修士課程まで一貫して修了していた。

冷静で理性的なのは、生まれつきの長所だ。そんな彼女が人生で唯一つまずいたのが、怜司だった。

黒田家の人間は皆、紗季が怜司と結婚したのは、彼の財産が目当てだと思っている。だからこそ紗季は、自分が怜司のお金など一円たりとも必要としていないことを証明したかった。

親権については、自分のほうが不利だ。それに、奏太を黒田家に残したほうが、きっと将来のためになる。

たとえ苦労して親権を勝ち取ったとしても、大人になった奏太から恨まれる日が来るかもしれない。

それなら、いっそ手放したほうがいい。

九時四十分、紗季は黒田テクノロジーのビルの前にやって来た。

事前に予約を入れていなかったため、受付のスタッフは彼女のことを知らず、そのまま足止めされた。

仕方なく、紗季は怜司に電話をかけた。ほどなくして、怜司が最も信頼する助手の西村和也(にしむら かずや)が目の前に現れた。彼女の正体を知っているのは、社内では和也ただ一人だった。

「怜司社長は今、仕事の最中ですので、少しお待ちいただくことになるかもしれません」

「大丈夫。待つわ」

二人でエレベーターに乗って上階へ向かうと、和也は紗季を休憩室へ案内した。そして、そのままどこかへ行ってしまった。

紗季は二時間ほど待った。

その二時間の間、誰一人様子を見に来ることはなく、水一杯持ってきてくれる人さえいなかった。

さすがに落ち着かなくなってきた頃、突然、外からドアが開いた。入ってきたのは、スーツ姿の見知らぬ男だった。

男は首を傾けながら、煙草を取り出そうとした。

紗季は慌てて声をかけた。「すみません、ここは禁煙です」

「何なんだよ」男はぶつぶつ言いながら紗季を上から下まで眺め、地味な服装から身分のある人間には見えないと判断すると、声を荒らげた。

「頭おかしいんじゃないのか?ここは喫煙できる場所だぞ!禁煙だって、何様のつもりだ!」

紗季は気まずそうに「すみません」と頭を下げた。

そのまま外へ出ると、ドアには確かに喫煙できる場所だという表示があった。和也に案内されるまま入ってきたため、そこまで確認していなかったのだ。

和也と自分の間に、何か個人的なわだかまりがあるわけでもない。わざわざこんなことをする理由もないはずだ。

けれど、彼は怜司の側近だ。彼のすることには、当然、怜司の意向が反映されているのだろう。

紗季の胸が、理由もなくずきりと痛んだ。

怜司は、本当に自分のことが嫌いなのだ。

昼食の時間が近づいているというのに、秘書室にはなぜか誰もいなかった。

紗季は入り口で少し迷ったあと、ドアを押し開けた。

有名ブランドのAラインのスカートに、アイボリーのサテン地の襟付きブラウス。茶色のゆるいウェーブがかかった長い髪の女性が、紗季に背を向け、顔を上げて怜司を見つめていた。

怜司は女性の腕を両手で掴み、少し顔を横に向けている。

二人は、キスをしているようだ。

ドアが開いた瞬間、女性は恥ずかしそうに怜司から顔をそらし、そのまま彼の肩に顔を埋めた。

怜司の顔は冷たく険しく、黒い瞳は、紗季をそのまま飲み込んでしまいそうなほど深かった。「誰が入っていいと言った?」

女性は彼の耳元に顔を寄せ、小さな声で言った。「私、先に休憩室に行ってるね」

「ああ」怜司の声は、先ほどよりずっと柔らかかった。

女性は怜司から離れると、紗季には一度も目を向けず、そのまま休憩室へ向かった。

紗季は女性の一挙一動を黙って見つめていた。やがて休憩室のドアが閉まってから、ようやく視線を戻す。

すると、怜司がずっと自分を見つめていることに気づいた。

まるで自分が少しでもあの女性を傷つけようとしたら、すぐさま間に入って、彼女を守ろうとしているかのようだ。

人を心から愛していなければ、ここまで気にかけることなどできないだろう。

紗季の胸が痛んだ。無数の針で突き刺されているようだ。

彼女はデスクの前まで歩き、バッグから離婚協議書を取り出すと、机の上に置いた。そして、そっと怜司のほうへ押しやった。

怜司は手を伸ばしてそれを取り上げ、ちらりと目を通しただけだった。

次の瞬間、その紙が紗季の顔に投げつけられた。

一枚の紙は軽い。それでも怜司が投げつけた勢いは強く、鋭い紙の端が彼女の目尻を切った。チクリと痛み、血がにじんだ。

紗季は屈辱に耐えながら拳を強く握りしめ、爪が手のひらに深く食い込んだ。

「あなたが私を呼んだんでしょ」紗季が言った。

「こういうことまで、君が勝手に決めていいと思ってるのか?」

紗季は言葉を失い、ようやく気づいた。

怜司は、自分が離婚を切り出しに来たことが気に入らないのではない。自分が先に離婚協議書を用意したことが気に入らないのだ。

怜司のように、何事にも容赦なく、冷徹に物事を進める立場の人間は、どんなことでも主導権を握りたがる。たとえ離婚であっても、すべてを思い通りに運びたいのだ。

「じゃあ、怜司社長はいつがいいと思ってるの?」

怜司は紗季をじっと見つめた。黒い瞳の奥は深く、何を考えているのか分からない。

「出ていけ。俺から連絡する」しばらくして、怜司は冷たく言い放った。

紗季はそれを聞くと背を向けて歩き出し、涙がこぼれそうになった。

「書類も持って帰れ」

紗季は大きく息を吸い、振り返るとしゃがみ込み、床に落ちた離婚協議書を拾い上げた。一滴の涙が、ぽたりと紙の上に落ちた。

その姿を見て、怜司は嫌そうに眉をひそめた。

オフィスを出た途端、紗季はもう涙をこらえきれなくなった。堰を切ったように、涙が次々と頬を伝っていく。

人が行き交う共有スペースで、誰もが不思議そうに彼女を見ていた。

「誰、あの人?」

「知らない」

「こんな格好で来るなんて、清掃スタッフの面接でも受けに来たの?」

「あはは」

周囲のひそひそ話は耳に刺さるようにきつく、向けられる視線にも露骨な嘲りが混じっていた。

紗季はもう耐えられず、口元を手で覆うと、階段へ駆け込んだ。

怜司が自分を呼び出したのは、わざわざ自分を辱めるためだったのだろう。愛されていないから、何をしても間違いになる。

和也が追いかけてきて、ティッシュを差し出した。「申し訳ありません、奥様。美月さんは朝からいらしていて、ずっと社長室にいました。社長から許可がない限り、誰も中に入れるなと言われていて……」

だから、あんなに長い時間待たされていたのだろうか。

紗季はティッシュを受け取らず、手の甲で涙を拭った。「大丈夫」

和也は頷くと、その場を離れていった。

紗季は大きく息を吸い、バッグから鏡を取り出して自分の顔を見た。泣きすぎて鼻の頭は真っ赤になり、頬には涙の跡が残っている。朝、家を出る前にした薄化粧も、すっかり崩れていた。

男どころか、自分でさえこんな自分は嫌だ……

そんな騒ぎで、気づけばもう午後一時だった。

紗季は朝から何も口にせず、水一杯さえ飲んでいなかった。そこで階下のカフェに入り、コーヒーとケーキを注文した。

席に着いたばかりのところへ、Aラインのスカートにアイボリーのブラウスを合わせ、上品なデザインのバッグを肩にかけた若い女性が入ってきた。女性はそのままカウンターへ向かい、注文をする。

紗季はスプーンをぎゅっと握りしめ、顔を上げてその女性の顔を見ることができなかった。

自分はれっきとした妻なのに、相手は夫の愛人なのだ。どうして自分のほうが彼女を見ることさえできないのか、紗季には分からなかった。

「紗季?」女性が嬉しそうに声を上げた。

紗季は顔を上げ、どこか見覚えのある顔をじっと見つめた。しばらくして、ようやく一人の名前が頭に浮かんだ。「美月?」

「久しぶり。ここ数年、元気にしてた?」

美月は紗季の向かいに腰を下ろした。優しく可愛らしい顔立ちに、大きな瞳は黒々として輝いている。茶色のゆるいウェーブヘアが、さらに彼女の女性らしい華やかさを引き立てていた。

手入れの行き届いたネイルに、隙のないメイク、上質なバッグ。どれを取っても、何不自由なく育ったお嬢様らしさがにじみ出ている。

一方の紗季は、青と白のストライプシャツに黒いパンツ姿。向かいに座ると、まるで美月の荷物持ちのように見えた。

紗季と美月は大学時代の同級生だった。

大学に入ったばかりの頃、紗季は怜司に一目で心を奪われた。

けれど怜司は、何もかもが恵まれた名家の御曹司。一方の紗季はごく普通の家庭で育った女の子だ。普段の生活で接点などまったくなく、怜司に近づくのは至難の業だった。

そんな怜司と、美月は幼い頃からの知り合いだった。

紗季も、少しばかり小賢しいところがある。調べてみると、美月と怜司は同じような環境で育ち、幼い頃からの付き合いだと分かった。

そこでまず美月に近づき、彼女を通して怜司と知り合おうと考えた。そのため、美月と同じサークルに入った。

ある日のサークル活動で、紗季がトイレに行って戻ってくると、自分のバッグに誰かがコーヒーをこぼしていた。

美月は自分から紗季に声をかけ、「うっかりバッグを汚しちゃったから、新しいのを弁償する」と言った。

そんなことがきっかけで、二人は少しずつ顔を合わせるようになった。けれど、親しい友人になったわけではない。あくまで知り合いという程度だった。

そのため紗季自身、美月という名前の知り合いがいたことすら、すっかり忘れていた……

「どうしてここにいるの?」美月は大きな瞳をぱちぱちさせながら、不思議そうに尋ねる。

紗季はコーヒーを手に取り、一口飲んでから答えた。「ちょっとぶらぶらしてただけ。美月は?」

「私は彼氏に会いに来たの」美月は少し首を傾げ、恥ずかしそうに言った。上品で可愛らしく、知的で優しい雰囲気。恋をしている幸せそうな表情に、初々しい恥じらいが浮かんでいた。その姿は、いっそう少女らしい愛らしさを感じさせた。

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