「この王宮内には、侍女たち以外に常駐している女性はいますの?」
リリアーナ王女は穏やかで優雅な声でルシアンに尋ねてきた。しかし、その瞳の奥には、鋭い洞察力と変化を見失わないよう冷静な光が宿っている。
ルシアンは、一瞬身構えたがすぐにいつもの完璧な笑顔で応えた。「侍女だけですね。しかし、お茶会などで貴婦人が来訪することもあるので女性の出入りは多いかもしれません。貴婦人だけでなく、我々の国は『国の繁栄は女性の力があってこそ』という考え方なので身分に関係なく門を通れば誰でも入ることが出来ます。」
「素敵なお考えですわね。」
リリアーナ王女は、ルシアンの言葉を穏やかに受け止めた。
「リリアーナ王女は今日もとても素敵ですよ」
ルシアンも彼女の警戒心を解くように魅惑的な言葉を囁く。
「ふふ、ありがとうございます。ルシアン王子からそのようなお言葉をもらえて光栄です。きっと、王子たちに愛される方はとても幸せなんでしょうね」
王女は、王宮内の女性の存在をさりげない会話の中で探ろうとしているように感じ、ルシアンは警戒をさらに強めた。
「……はい」恐怖など微塵もなかった。心の中にあるのは、サラリオ様ともっと深く触れ合いたいという、抑えきれない強い衝動だけだった。唇を触れ合わせるだけの軽いキスではなく、家族のような大切な人へする抱擁でもなく、愛する人とする、本能が求め合うかのような愛情あふれるキスや抱擁を求めていた。「葵。本当はこの気持ちも関係も、王女の件が終わってからの方がいいと思っていた。それまで待つつもりでいた……。しかし、今、葵からの言葉を聞いて、このまま待つことは出来そうにない。それでも、いいのか?」サラリオ様は理性を保とうと必死な様子だった。瞳は熱を帯び、その奥には葛藤が揺らめいている。それでも私に選択を委ねてくれる彼の誠実さが心に深く響いた。「はい。王女の件がどんな結果になろうとも、私は全てをサラリオ様に捧げたいのです。初めては、人生で初めて好きになった男性、サラリオ様がいいのです。私のことを、はしたないとか破廉恥だと幻滅しないのであれば……」「幻滅などするものか!!!」自分を卑下する言葉があふれ出てきそうな私に、サラリオ様はこれ以上何も言わなくていいと言わんばかりに、自らの唇で私の唇を塞いだ。それは、先日の優しいキスとは全く違う、情熱的で、本能的なキスだった。サラリオ様の唇や舌
「葵、しばらくこのままでいたいのだがいいか?」サラリオ様は、私を抱きしめたまま、髪を撫でて耳元で囁くように言った。彼の吐息が髪や耳元に温かく触れて、くすぐったい。背筋に小さく電流が走るような刺激が全身を駆け抜けた。「私も、ずっとサラリオ様の胸の中にいたいと思っていました。どうかこのまま、サラリオ様が好きなだけ抱いていてください。」私の言葉にサラリオ様は一瞬動きを止めた。そして、何かを堪えるかのように唇を噛みしめ、そっと私から顔を背け視線を外した。彼の頬と耳は、みるみるうちに赤く染まっていく。それに合わせて少しだけ私から身体を離した。「サラリオ様……?」私は、何か気に障ることを言ってしまったのだろうかと、彼の表情を伺うように覗き込んだ。すると、サラリオ様は照れながらもどこか困ったような顔をしている。「葵……。葵に自覚がないのも、それ以上の深い意味はないとは思っているのだが、葵の言葉や表情に、私は昼間の王女の言葉以上に反応して動揺している。そんな潤んだ瞳で見つめられたら、理性が保つかどうか……」昼間の王女以上。その言葉を聞いて顔から火が出そうなくらいに恥ずかしかった。(王女以上!??王女のことを、なんて大胆な人だろう、もっと言えば破廉恥だとさえ思っていたのに、今の自分がそれ以上の言動をしていたなんて……)
王女が帰った日の夜、私の部屋のドアを控えめにノックする音がした。ドアを開けると、そこには気まずそうな顔をしているサラリオ様の姿があった。彼の瞳は不安に揺れ、どこか落ち着かない様子だ。部屋に招き入れると、彼はすぐに早口で喋り始めた。「あの、葵……昼間の件だが、私は王女とキスをしていない。王女が耳元で話しかけてきて、それを見て周りが誤解をしたんだ。しかし、葵に誤解されるのだけは嫌で、それだけは言いたくて……。突然すまない」切羽詰まった焦っているような様子が伝わってくる。背中を向けて帰ろうとするサラリオ様の腕を、私は咄嗟に掴んで引き留めた。「サラリオ様、伝えに来てくれてありがとうございます。私もアゼルの件があった時に、サラリオ様に誤解されるのだけは嫌でした。あの時は、サラリオ様が来てくれたから話せた。今日も、サラリオ様が来て話してくださってとても嬉しいです。」私の言葉に、サラリオ様は胸を撫で下ろし安堵したような表情を浮かべた。私の頬を優しく撫でると手から温もりが伝わってきた。「それで、王女はサラリオ様になんと仰ったのですか?」私が尋ねるとサラリオ様は戸惑っていた。言っていいものかと迷ったのちに、口ごもりながら話し始めた。「それは、その……国のために後継者を残す覚悟は出来ていると。」
園庭の椅子に座り、景色をじっと眺めていた私に背後からルシアンの優しい声が聞こえてきた。「葵、何拗ねているの?」私の隣に腰掛け悪戯っぽく微笑んでいる。「そんな、拗ねているだなんて……。」必死に弁明したが、ルシアンは小さく笑う。「葵の顔に『おもしろくない』ってハッキリと書いてあるよ。まあ、仕方ないか」自分の心の中を見透かされているような気がして何も言い返せなかった。「確かに何とも言えない感情はあるけれど、そもそも私とサラリオ様は立場が違うから。だから、そんなことを思う資格なんてないの。」私は、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。しかし、ルシアンは私の言葉を遮るように力強く言った。「何言ってるの。サラリオ兄さんは、葵をこの国の王女にしたいって言ってたよ。書庫の件も伝えたらすぐに飛んでいったし、葵が想っている以上に、サラリオ兄さんは葵のことが好きで好きで仕方ないんだよ。きっと今頃、誤解を解くために葵になんて言おうか必死で考えていると思うよ。」ルシアンの金色の髪が、西に傾き始めた夕陽に照らされてさらに眩しく輝いている。サラリオ様の気持ちは、本人から直接伝えて
「サラリオ王子とリリアーナ王女がキスをしたらしいわ!」「帰り際に愛おしそうに見つめ合いながら王女とキスをしていたんだって。しっかりとは見えなかったが、数秒間はしていたんじゃないか?」「離れた時、王子は顔を赤くして照れているようだったわ。いつも冷静なサラリオ王子のあんな表情は見たことない。あれは本当にしたんじゃないかな」「皆の前で堂々とするなんてそういうご関係ということだよな」兵士たちがひそひそと小声で話していた内容は、炎のように瞬く間に王宮中へと広がった。そして、その噂は私の耳にも届いた。侍女たちも普段聞くことのない恋愛絡みの噂話に花を咲かせている。私は、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような痛みに襲われていた。今回、リリアーナ王女はサラリオ王子の花嫁候補として国を代表して求婚にやってきた。もし、彼女が王妃になるのであれば、キスをすることも、抱き寄せられることも、もちろんそれ以上のこともあるのは当然のことだ。頭では分かっていた。分かっている、分かっているのに……。私の心の中には抑えきれない寂しさのような、嫉妬のような、黒い感情が渦を巻いていた。想いを寄せる好きな人が、サラリオ様が、他の人と触れ合うことがこんなにも心を揺さぶるなんて思いもしなかった。自分でもどうしようもないこの感情に私はただ戸惑うばかりだった。
リリアーナ王女は、滞在予定の1週間を終えて自国へと帰っていった。この数日間、王宮内では彼女の評判は上々だった。知的で気品に満ち、次期王妃にふさわしいという声もあちこちから聞こえてきていた。「サラリオ王子、ありがとうございます。お世話になりました。」出発を前に、ドレスの裾を掴み優雅にお礼を言う王女に私は笑顔で応じた。「こちらこそ。貴重なお話ありがとうございました。王女の国の発展と、今後も互いの国の友好関係維持を望んでいます。」(縁談などなくとも)友好関係の維持を望む―――声には出さなかったが、それが私の真の願いだった。すると王女は、含みを持ったような笑みを浮かべてからこちらに一歩近づいてきた。周囲の視線が私たちに注がれている。彼女は私の顔の近くまで来ると、顔を傾け、私の耳元で囁くようにこう呟いた。王女のカールされた髪が私の頬にそっと当たる。「次は公務だけでなく、あなた自身のことをもっと知れることを期待していますわ。私、あなたとなら国のために後継者を残す覚悟は出来てますの」「なっ……」太陽の日差しが眩しい中で王女から夜の誘いのような言葉を受け、私は一瞬にして面を食らい動揺した。