「私は、生まれてきてから夫を支えることは女性の使命だと教えられてきました。夫のために人生も身も捧げるのが当たり前と教えられてきました。それが自分の価値を証明するための方法だったのかもしれません」
思わず、心の奥底に秘めていた本音を漏らしてしまった。すると、侯爵夫人は優しく私の手を取った。
「葵様。葵様の国のように義務ではありませんが、この国でも愛する人のために人生を捧げるという考えはあります。ここでは、女性は尊い存在です。愛され、敬われ、そして愛に応えることで、共に未来を築いていくことが、夫婦の喜びなのです。どちらか一方が一方に『捧げる』ものではなく、互いの力を合わせ、『共に創造する』ことなのです」
(共に想像する……。)
その言葉は私の心を深く深く打った。
日本の「尽くす」価値観が、この国では「捧げる」ではなく「共に創造する」という意味合いを持つことを、この時、私は肌で理解した。私はこれまで誰かに「価値」を与えられることでしか自分の存在を認められなかった。けれど、この国の女性たちは自身の中に価値を見出しそれを誇りとしていた。
私は、自分の中に隠された力、まだ見ぬ可能性を自覚し始めた。私が日本で培ってきた知識や、困難に耐え抜いてきた経験は、もしかしたらこの国で私自身の「創造する力」となるのかもしれない。王子たちからの寵愛が、単なる「愛される」こと以上の意味を持ち始めた瞬間だった。それは、私の自己認識が大きく変化するまさに転換点だった。
数日後、現れたルーウェン王国のリリアーナ王女はその評判に違わぬ人物だった。王女としての気品と、知的で深い教養を持ち合わせ、周囲をたちまち魅了した。その柔らかな物腰と、目を引くような妖艶な美しさは、まるで絵画から抜け出してきたかのようで、彼女が微笑むたびに周りの人々がため息を漏らすのが聞こえるほどだ。リリアーナ王女は、来訪初日からサラリオ王子に積極的に接近した。公の場では常にサラリオの傍らに立ち、彼の隣がまるで彼女の定位置であるかのように振る舞った。公務のない時間でも、躊躇なくサラリオの元を訪れ、庭園を案内して欲しいと誘ったり、書庫で共に本を読んだりしながら、巧みに距離を縮めようとした。リリアーナ王女の行動はあっという間に王宮中に広まり、その噂は私の耳にも届くようになる。侍女たちの間で、彼女とサラリオ王子が結ばれるのではないか、という話が交わされるようになった。「リリアーナ王女様とサラリオ王子様が結ばれたら、きっと素晴らしいご夫婦になるわね」 「本当に絵になるお二人だわ」そんな声が、食堂や廊下、庭園の片隅、どこからともなく聞こえてくる。王女の存在は、静かな水面に投げ込まれた小石のように、王宮全体に波紋を広げ始めていた。そして、リリアーナ王女自身も、今回の訪問をサラリオの王妃として嫁ぐ覚悟で迎えていた。ゼフィリア王国が王妃候補を送り込んだ話は、友好国であるルーウェン王国にも届いていたのだ。三国は友好的な関係にあるが、より強固なものにするためにはバギーニャ王国との縁談を結びたいという強い思惑があった。
気持ちが通じ合えば、交際や結婚ができる世界ではないことは私もよくわかっている。ましてや、サラリオ様は次期国王となる存在で隣国からも縁談の話が絶えない。私を選んでくれたことは幸せなことだったが、この先には課題も問題も山積みだ。身分の違い、噂、そして王女の来訪……。それでも、こうして、私の元まで来て気持ちを伝えてくれたことが、何よりも嬉しかった。真剣に向き合おうとしてくれるサラリオ様のために、私が出来ることを探して、今後も影ながら支えたいと心から思った。(幸助さん、私がいなくなり、もし自由の身になったのであれば、どうか佐紀さんとの幸せをお祈りします。)届かないとは思いながらも、遠く離れた故郷にいる元夫の幸せを願い、私は静かに瞳を閉じた。そして、もう二度と、この温かい腕から離れまいと、心の中で強く誓った。そして、ふと日本にいた時の夫、幸助さんの顔が頭をよぎった。幸助さんは、佐紀さんという女性と互いに好いて想い合いながらも、私との政略結婚のせいで結ばれることができなかった。あの時は、家のために嫁いで、幸助さんのために身を捧げるつもりでいたのに、彼に拒否されたことに大きなショックを受けた。しかし今、幸助さんと佐紀さんのように私とサラリオ様の関係も悲しい結末をたどる可能性もあるのだ。そんな結果を迎えても、結婚後も妻に指一本触れることなく、想い人に一途に愛情を捧げた幸助さんは、誠実で優しい人だったのだと心からそう思えた。
サラリオ様の唇が、私を愛おしむかのようにそっと触れてくる。傷を癒す猫が毛づくろいするように、ゆっくりと優しく私の上唇や下唇、そして舌を包み込んでいく。滑らかに舌と唾液が混ざり合う熱を帯びた優しいキスだった。互いの熱を共有し、私たちが互いに抱く深い想いを言葉を超えて伝えているようだった。唇と舌が苦しいほどに情熱的に交わる、でも離れがたくて、少し隙間があくと埋めあうようにぴったりと重なり合い、声にならない吐息がこぼれる。「サラリオ様……」虫の鳴くような、小さく漏れた私の声だったが、目の前にいるサラリオ様の耳にはしっかりと届いたようで、彼はハッと我に返ったように、ゆっくりと身体を離した。少し乱れた息と紅潮した頬で視線を左右に動かし、情熱の赴くままに動いた自分に対して少し動揺しながらも冷静を取り戻そうとしている。「すまない、今日は気持ちを伝えるだけのつもりだったんだ。だが、葵を見たらつい……。でも、私の先程の言葉に嘘・偽りはない。私のことを信じて待っていて欲しい」彼の言葉には、自らを抑えきれなかったことへの戸惑いと、それでも私を愛し、守りたいという強い決意が滲んでいた。碧い瞳は、先ほどまでの情熱的な光から真摯で誠実な光へと戻っていた。しかし、その瞳の奥には、変わらぬ私への想いが深く宿っているのが見て取れる。「はい、サラリオ様のことを信じています。私も、嘘・偽りはありません」
(このまま、ずっとこうしてサラリオ様の腕の中に抱かれていたい…)サラリオの胸の鼓動や体温、吐息を感じながら抱きしめられると、まるで時間が止まったような不思議な気持ちになった。触れられることに自然と恐怖はなかった。それどころか、自分はずっと前からこの時を待っていたのではないかと思うくらい、穏やかで心落ち着く幸せな気持ちになった。アゼルやルシアンに抱き寄せられた時は驚きと緊張で心臓が跳ね上がったが、今は磁石の法則かのように自然と、ぴったりとくっつていった。「サラリオ様……」自分の気持ちと同じことを相手も想っている。通じ合えた喜びに抑えきれない気持ちが込み上げ、気がついたら瞳は潤んでいた。頬はきっと、熱を帯びて紅潮しているだろう。私は静かに顔を上げてサラリオ様の澄んだ碧い瞳を見つめた。彼は、そんな私を優しく、愛おしそうに見つめ返してくれる。視線が交わった瞬間、私の視線は彼の口元へと引き寄せられていた。サラリオ様は、私の視線と気持ちに気がついたようで大きな手で私の頬を優しく撫でた。顔が、ゆっくりと、ゆっくりと近付いてくる。私は、目を閉じてその瞬間を心待ちにした。やがて、柔らかな唇が触れ合い、互いの温かさを確かめ合うように動かし合う。先日のアゼルとの口移しのキスとは全く違う、優しく、深い愛情に満ちたキスだった。
「縁談の話が来てから、ずっと考えていた。もしも成立して王女が来たら、葵が王宮内にいることはできても、私の手で葵のことを護ることも、幸せにすることも出来なくなる。今でもアゼルやルシアンたちが、葵とキスやハグしたと聞くだけでも面白くないのに、王女が嫁いで来たら、この先ずっとこのモヤモヤを抱えて生きていくかと思ったら、耐えられなかった。」アゼルやルシアンたちへの嫉妬……。普段、言葉や顔に見せないサラリオの本心を聞けて心が揺れた。「サラリオ様…それって……」「私は、葵が好きだ。一人の女性として愛している。出来れば、私自身の手で葵を幸せにしたい。そして、ずっと側にいて欲しい、そう思っている」夢でも見ているようだった。現実なのか、それともあまりにも都合の良い夢なのか、頭が上手く理解できない。しかし、もしこれが現実だとしたら、こんなに嬉しく、心が震えることはないと思った。「ありがとうございます。……嬉しいです。」私の返事に彼の表情が少しだけ緩んだ。その瞳には、安堵の色が浮かんでいた。しかし、すぐに申し訳なさそうな表情をして言葉をつづけた。「今回は、今の時点で断るのは友好関係が悪くなる可能性があるため迎えるつもりだが、縁談自体は断りたいと思っている。そのためには国王への提言など、少し時間がかかる。もし、私のことを信じてもらえるなら、気持ちがあるなら、平和的にこの件を終わら
トントンーー「はい」部屋のドアがノックされたので答えると、聞き馴染みのある、でも胸が高鳴る人の声が聞こえてきた。「私だ、サラリオだ。少しいいか。」(サラリオ様?こんな時間にどうしたのだろう?)突然の訪問に驚きと緊張が混ざり合いながらも、私はゆっくりとドアを開け、顔を覗かせた。廊下の淡い灯りが、彼の真剣な表情を照らしている。「ルーウェン王国の王女が来る前に話をしたいことがあって」そう言って、少しだけ躊躇するような素振りを見せた後に言葉を続けた。「葵も知っていると思うが、今回の訪問は縁談で、もし成立すれば王女が我が国に来ることになるだろう。王女が来ても、葵には今と変わらずここに居て欲しいと思っている。ここで葵の持つ薬学の知識で、この国を支えて欲しい。」「……ありがとうございます」そう感謝を伝えた時、私の心には小さな疑問が浮かんでいた。王女が来る前に話したいことが、この話だとしたら、こんな夜にわざわざ部屋を訪問してまで伝えるような内容だろうか。そんなことを考えて