ログイン古い建物を出てから、伊藤嵐はようやく、そこがアーケシュフース城の前棟だと知った。交流会は、芝生の公園の南にある自然会館で開かれていたのだ。綾瀬学から渡された案内図は、住所を取り違えて印刷されていたらしい。
「十六夜教授、一杯どうですか?」 駐車場まで来ると、嵐はさっきの誘いをもう一度口にした。 十六夜薫は一瞬ぽかんとした。相手が車の鍵を取り出すのを見て我に返り、慌てて何度もうなずく。 「ええ、ぜひ! あの……では、私の家の近くの喫茶店はどうでしょう?」 喫茶店? こんな夜更けに喫茶店へ行く大人がどこにいる? 嵐が黙っているので、薫ははっとした。こんな時間にコーヒーを飲めば眠れなくなる。まして相手は多忙な医師だ。慌てて謝った。 「す、すみません! 配慮が足りませんでした。では……図書館はどうでしょう。家の近くにもありまして、話ができる小さな食堂が併設されているんです」 嵐は可笑しくなった。この人は本当に何も知らないのか? 図書館? 小さな食堂? 俺を未成年の高校生か何かだと思ってるのか。 「十六夜教授、俺が言いたいのはね、大人が行くべき場所へ行きませんか、ということです。たとえばバーとか」 「大人が行くべき場所」という一言に、薫は喉を詰まらせた。顔がみるみる赤くなり、耳の付け根まで淡い桃色に染まる。もごもごと口を開いた。 「バ、バー……それは、いいんですが、ただ……」 「ただ、何です?」 口調は優しいが、眉のあたりにはからかいの色が浮かんでいる。車のドアにもたれて腕を組み、少し首を傾げて、面白い美術品でも眺めるように相手を見ていた。 「ただ、私はそういう場所にほとんど行かないもので……」 薫は小声でつぶやいた。叱られた生徒のようだった。 「じゃあ、今日は特別ということで」 嵐は車のドアを開け、どうぞ、と手で示した。低く艶のある声に、かすかな誘いの色が滲む。 「乗って。いい店を知ってるんだ」 道中、車内に響くのはナビの案内音とエンジンの低い唸りだけだった。薫はこっそり、隣でハンドルを握る嵐を盗み見た。指の節がくっきりとした、線のなめらかな手だ。なぜか、ひどく安心させられる手だった。 「伊藤先生は、以前からよくバーに行かれるんですか」 沈黙に耐えかねて、とりあえず思いついた話題を口にする。 「たまにね」 嵐は気のない調子で答えた。唇の端に、かすかな笑みが浮かぶ。 「十六夜教授こそ。実は気になってたんだ。あなたは、こういう場所に行く人には見えないからね」 「ええ……本当に、ほとんど行ったことがなくて」 薫はきまり悪そうに笑った。 「普段は大学か家か、どちらかで。つまらない人間でしょう」 「つまらないってことはないさ」 嵐はちらりと彼に目を向けた。低い声に、どこか戯れめいた響きがある。 「でも、十六夜教授。新しいことは、もう少し試したほうがいい」 「たとえば、今夜は一杯目のカクテルから始めるとか」 ◇ バーの中は、揺らめく照明と、まとわりつくような音楽で、ひどく艶めいた空気に満ちていた。伊藤嵐は慣れた様子で隅の席を選んで腰を下ろし、薫にメニューを渡した。 薫は洋酒を飲んだことがなかった。そもそも酒に強くない。オスロ大学に招かれる前、日本にいた頃も、酒の席には一度も出たことがなかった。飲み会という文化そのものが大嫌いなのだ。かつては上司の黒沢恭介を、本分を忘れていると叱りつけたこともある。学会が終わるたびに人を集めて飲み食いするなど、ただの形式主義だと。 ずらりと並ぶカクテルの名前を前に、生真面目な男は途方に暮れた。そっと向かいの青年をうかがう。光と影が交錯する中で、その姿はひときわ目を引いた。左目は義眼のようだったが、端整な顔立ちを少しも損なってはいない。 「これにします!」 なぜか、心臓がうるさいほど鳴っていた。上の空のまま目についた一杯を頼み、目を伏せる。もう相手の顔を見られなかった。 「おや、十六夜教授、お目が高いですね。初めてで、この店の看板を選ぶなんて」 青年の目がきらりと光った。にこにこしながらメニューを受け取る。照明が暗すぎて、薫には見えなかった。その眼差しが妖しく揺らめき、灼けるような欲が滲み出したことが。 「すみません、ラブ・ポーションとブラッディ・メアリーを一杯ずつ。お願いします」 若い医師はノルウェー語で給仕を呼び止めて注文した。ノルウェー語のわからない薫には、自分がいったい何を頼んだのか知る由もない。 給仕がカウンターへ向かうのを見送って、嵐はにやりと笑った。 ふふ、ラブ・ポーションといえば、いちばんたちの悪いカクテルだ。度数は高くないが、酒に弱い人間が飲むと体が火照って、欲情したようになる。前にこれを飲む人間を見たのは、タイの女富豪を始末したときだった。請け負ったのは死体の隠滅だったが、あの女のことは妙に忘れがたい。一夜を共にした仲だったから、その礼に、亡骸はばらさずにそのまま残してやることにした。寺に送って、供養して葬ってもらったのだ。 酒はすぐに運ばれてきた。 「飲んでみて」 鮮やかな色のグラスを薫の前に押しやり、いかにも誠実そうに、その手の甲を軽く叩く。 「大丈夫、きつくないから」 薫はグラスを持ち上げた。甘く澄んだ花の香りがする。ほんの一口含んだだけなのに、濃厚な後味にむせて咳きこんでしまった。嵐が笑って紙ナプキンを差し出す。その目の奥は、霧がかかったように霞んでいた。 「大丈夫? ゆっくり、焦らないで。少しずつ、味に慣れていけばいい。一気に飲んだりしないで」 「あ……ありがとうございます、伊藤先生」 薫は恥ずかしそうにうつむき、水を飲んで、喉を灼く酒の感覚とめまいをやわらげた。嵐は椅子の背にもたれて長い脚を軽く組み、指先でグラスを軽く叩きながら、頬を赤く染めた相手をのんびりと眺めている。 そして、柔らかな声で言った。 「せっかく一緒に飲みに来たんだ。十六夜教授も、俺のことは嵐って呼んで。あなたのことは、なんて呼んだらいい?」 「私は……薫で結構です……こほっ、すみません、本当にお酒はあまり得意ではなくて……」 薫は無意識に唇を舐めた。酔いがそのまま頬に回ったようで、胸の奥がざわつき、焼けるように熱い。 「薫……本当に、いい名前だ……」 嵐の声が、さらに低くなる。その響きには人を惹きつける張りがあった。柔らかな棘で一本ずつ心を引っかかれるようで、薫はむず痒くてたまらなかった。 嵐は手を伸ばして薫のグラスを取り、何気なく一口飲んでから、彼の手に戻した。軽く開いた唇から、悪戯っぽい笑みがこぼれる。 「大丈夫、俺がゆっくり教えるから。もう一回、試してみる? 次の一口は、もっと喉ごしがよくなるかも……」翌朝、十六夜薫が目を覚ましたのは、温かく寝心地のいい大きなベッドの上だった。枕元には湯気の立つコーヒーが一杯。白いベルベットの毛布が体に掛けられている。張ったように重い額に手をやり、ゆっくりと目を開けた。ここは、どこだ?頭はまだ二日酔いから抜け出せていない。腕をついて、どうにか体を起こした。っ……痛い!不意に顎がだるく痺れて、思わず眉を寄せる。どうしてこんなに痛むんだろう。最近ずっと机にかじりついていたせいだろうか。顎をさすってみる。だが、昨日は論文など書いていなかったはずだ……。頭の中は霧がかかったようにぼんやりしている。仕方なくそろそろとベッドの端まで体をずらし、目をこすった。窓の外の街の明かりで、ようやくこの見知らぬ部屋の様子が見えてくる。ここは、私の家じゃない!はっとして、顔の痛みも忘れ、慌てて自分の体を見下ろした。どこか、なくなってないか? 腎臓は? まさか、臓器を抜かれたんじゃ……!両手で体じゅうをやみくもに探り、臓器を抜かれた傷跡がどこにもないと確かめて、ようやく、おそるおそる手を止めた。ふう……よかった、よかった。私はまだ五体満足だ!薫は少し落ち着きを取り戻し、九死に一生を得たような、心からの笑みを浮かべた。それにしても、ここはいったいどこなんだ。改めて、自分が着ている清潔な淡いブルーのバスローブを見る。自分の服ではない。袖を持ち上げて生地の匂いを嗅いでみた。ん……いい匂い……。このバスローブの香り、どこかで嗅いだことがあるような……。昨日の出来事を必死に思い返す。けれど昨夜の記憶は散らばったパズルのピースのようで、どうやっても揃わない。ぼんやり覚えているのは、安心できる温かな気配に包まれていたこと。そして、その人の優しい青い瞳と、熱い眼差し。夢のように霞んでいる。「起きた?」低く穏やかな声が、戸口から聞こえた。勢いよく振り向くと、扉の前に人影が立っていた。逆光で表情は見えない。ただ、深い青の瞳だけがやけに鮮やかだった。伊藤嵐がトレイを手に、ゆっくりと近づいてくる。トレイには簡単な朝食が載っていた。「気持ちよさそうに寝てたから、起こすのが悪くてさ」トレイをそっと置き、薫の顔に少しだけ視線を留める。そして、わかりきったことを訊くように口の端を上げ、狡そうに笑った。「顎、まだ痛む?」薫はぎくりとして、思わず身
夜は更けていたが、ベールムの通りにはまだ白い街灯がともっていた。伊藤嵐の家は入り江の近くにある。昔ながらの資産家が集まる住宅地から離れた、景色のいい静かなこの場所を、わざわざ選んだのだ。嵐は昔から、隣人というものが好きではなかった。挨拶を交わし、庭の手入れを褒め合い、窓の明かりで互いの暮らしをうかがう。そういう目は、いつか必ず、見なくていいものまで見てしまう。だから、誰の視線も届かない場所に住むことにした。夜更けに何が運びこまれようと、誰ひとり気づかない場所に。車が杏の林をぐるりと回りこむ。緑の木立の奥に建つ白い邸宅が、彼の家だ。眠りこんだ十六夜薫を抱いて中に入ると、AIが起動し、常夜灯がゆっくりと明るくなった。暖炉にひとりでに火が灯る。暖炉のガラス越しの炎が、重なり合う二人の影を照らし、どこか親密で艶めいた気配を添えた。「薫、家に着いたよ」酔った教授をベッドにそっと横たえ、身をかがめて、少し乱れた上着を脱がせてやる。冷たい指輪が火照った肌に触れ、薫はその冷たさに身を縮め、ぼんやりと寝言を漏らした。「嵐……嵐……」くぐもった声で、医師の名を呼ぶ。意識はまだ酔いの底に沈んでいて、自分がどこにいるのかさえわかっていない。嵐は少し驚いた。あの一杯が、ここまで効くとは。それに――夢の中でまで、自分の名を呼ぶのか。おかしなものだ、と思う。これまで嵐の名を最後に口にした人間は、たいてい恐怖に顔を歪めていた。命乞いか、呪いの言葉か。いずれにしても、こんなふうに、迷子の子どもが親を探すような声で呼ばれたことは一度もない。胸の奥で、何かがかすかに軋んだ。嵐はそれを、夜更けの気の迷いだと片づけた。あまりに無防備なその姿を見ているうちに、腹の底で燻っていた悪意が、少しずつ理性を押しのけていった。身を乗り出し、灯りの下で、その顔をつぶさに眺める。ふうん。たしかに、めったにお目にかかれない美人だ。嵐は機嫌よく、義眼を外した。義眼を外すのは、ひとりきりのときか、相手がもう何も見えないときだけだ。眼窩に残る暗い空洞を知る者は、この街にひとりもいない。人前の伊藤嵐は、穏やかで腕のいい医師だ。柔らかな物腰も、患者を気遣う言葉も、ガラス玉の瞳と同じく、よくできた作り物にすぎない。素顔をさらしても構わない相手の前でだけ、嵐はようやく息がつける。綺麗な顔の分だけ、事
十六夜薫は、おそるおそるグラスを受け取った。指先が触れ合った瞬間、そのかすかな温もりが、長いあいだ眠っていたときめきに火をつけたようだった。恥ずかしそうにうつむき、グラスの中の桃色の液体を見つめる。唇を噛み、ためらいながら顔を近づけ、もう一度そっと口に含んだ。今度は慎重に、酒が舌の上で花ひらくのを待つ。ん……レモングラスの酸味と渋み……。ゆっくり味わってみる。ほかにも何か香りがあるような……杏と、洋梨……?酔いが深まっていく。舌先がうっすら甘い痺れに包まれ、言いようのない火照りがこもって、肌にじんわりと汗が滲んだ。「どう? 少しは慣れてきた?」伊藤嵐は眉を上げ、薫が一杯をゆっくりと飲み干すのを見守っていた。銀の指輪をはめた指先が、楽しげにグラスの縁をくるりとなぞる。薫が目を上げると、笑みを含んだ青い瞳とまともにぶつかった。相手はきちんと距離を保っている。それなのに、その視線は目に見えない網のように、彼をしっかりと絡めとって離さない。「ま……まあ……大丈夫、です」心臓が早鐘を打つ。体はどんどん熱くなり、声まで震えてくる。一杯飲み終えて、少し酒が回ってしまった。なぜか下腹のあたりが妙に熱い。そこに散らない熱の塊が溜まっているようで、張りつめて、むず痒い。嵐は笑って、ゆっくりと身を寄せた。ほんの少し前に傾いた絶妙な角度で、Vネックの襟元から色気のある鎖骨がのぞく。「ほらね。ゆっくりやれば、味の奥行きも深みもわかってくる……まるで……」「心をこめればこめるほど、味わいが見えてくるものがある。あなたみたいにね。俺の可愛いお菓子ちゃん」青年の声は掠れるほど低かった。戯れでもあり、誘惑でもあった。薫ははっと顔を上げた。だが、現実と幻の区別がつかない。今のは、酒のせいで聞こえた幻聴だろうか。うろたえた顔で、睫毛をかすかに震わせる。何か言いかけたそのとき、不意の仕草に口を塞がれた。長い指が、何気ないふうに唇を撫でたのだ。軽薄なのに、拒むことを許さないほど的確な仕草だった。「薫……」目の前の男は、とろけるように優しい顔をしていた。青い瞳の奥には底の見えない海が広がっていて、一目見ただけで、海の底に潜む欲望に深淵へと引きずりこまれそうになる。「それじゃだめだよ。お酒を飲むときは、味ばかり気にしてないで。楽しむことを覚えなきゃ」そう言うと、自分のグラス
古い建物を出てから、伊藤嵐はようやく、そこがアーケシュフース城の前棟だと知った。交流会は、芝生の公園の南にある自然会館で開かれていたのだ。綾瀬学から渡された案内図は、住所を取り違えて印刷されていたらしい。「十六夜教授、一杯どうですか?」駐車場まで来ると、嵐はさっきの誘いをもう一度口にした。十六夜薫は一瞬ぽかんとした。相手が車の鍵を取り出すのを見て我に返り、慌てて何度もうなずく。「ええ、ぜひ! あの……では、私の家の近くの喫茶店はどうでしょう?」喫茶店? こんな夜更けに喫茶店へ行く大人がどこにいる?嵐が黙っているので、薫ははっとした。こんな時間にコーヒーを飲めば眠れなくなる。まして相手は多忙な医師だ。慌てて謝った。「す、すみません! 配慮が足りませんでした。では……図書館はどうでしょう。家の近くにもありまして、話ができる小さな食堂が併設されているんです」嵐は可笑しくなった。この人は本当に何も知らないのか? 図書館? 小さな食堂? 俺を未成年の高校生か何かだと思ってるのか。「十六夜教授、俺が言いたいのはね、大人が行くべき場所へ行きませんか、ということです。たとえばバーとか」「大人が行くべき場所」という一言に、薫は喉を詰まらせた。顔がみるみる赤くなり、耳の付け根まで淡い桃色に染まる。もごもごと口を開いた。「バ、バー……それは、いいんですが、ただ……」「ただ、何です?」口調は優しいが、眉のあたりにはからかいの色が浮かんでいる。車のドアにもたれて腕を組み、少し首を傾げて、面白い美術品でも眺めるように相手を見ていた。「ただ、私はそういう場所にほとんど行かないもので……」薫は小声でつぶやいた。叱られた生徒のようだった。「じゃあ、今日は特別ということで」嵐は車のドアを開け、どうぞ、と手で示した。低く艶のある声に、かすかな誘いの色が滲む。「乗って。いい店を知ってるんだ」道中、車内に響くのはナビの案内音とエンジンの低い唸りだけだった。薫はこっそり、隣でハンドルを握る嵐を盗み見た。指の節がくっきりとした、線のなめらかな手だ。なぜか、ひどく安心させられる手だった。「伊藤先生は、以前からよくバーに行かれるんですか」沈黙に耐えかねて、とりあえず思いついた話題を口にする。「たまにね」嵐は気のない調子で答えた。唇の端に、かすかな笑みが浮かぶ。「十六
研究会が終わったときには、もう午後六時だった。雪はいっそう激しくなり、空には一筋の光も見えない。街のあちこちで人工太陽灯が灯っている。偽りの日差しにはひとかけらの温もりもなく、人々は三々五々、暖かな屋内へと急いでいく。伊藤嵐は書類鞄をまとめ、名簿に載っていた地図を頼りに会場を探した。「ここのはずだけど」独り言を言いながら見上げたのは、ランドマークのイプセン像だ。地図によれば、目的地は国立劇場のすぐ隣にある。車を停めて濡れた芝生を横切ると、ナビは中世風の赤レンガの建物が並ぶ一角へと彼を導いた。数百年の歴史がある建物で、奥へ進むほど、古い松材の匂いが鼻をくすぐる。まあ、悪くはない。好きとまでは言えないが、嫌いでもなかった。ただ、古い建築を保護するための市の方針なのか、この棟には電気が通っていない。両側の壁には改良型の灯油ランプがともされ、廊下を隙間風が吹き抜けるたびに灯心が揺れて、影がどこまでも長く伸びた。こんな場所で交流会を開いて、本当に人が来るのか?警戒しながら周囲を見回す。ここは、ホラー映画でも撮るほうがよほど似合いそうだ。「どなたかいらっしゃいますか?」回廊に向かって、ノルウェー語で声を張る。不気味な静寂。声は幽霊のように壁を抜け、廊下で何度もこだました。だが応じる者はない。この建物にいるのは、どうやら自分ひとりだけらしい。まあいい。あの綾瀬学とかいう留学生に、からかわれたんだろう。騙されたと気づいて腹が立ったが、それ以上に自分が可笑しかった。これでも場数は踏んできたはずなのに、真偽もわからない写真一枚に釣られて、のこのこやって来るとは。どれほど抜け目のない政治家でも色仕掛けには弱い、というのは本当らしい。ビデオ通話で裸になり、金をむしり取られる間抜けな男たちのニュースを見るたび、鼻で笑っていたものだ。それが今、自分も同じ罠にはまっている。結局のところ、詐欺に遭わずにいる人間は、利口なわけではない。自分のためにあつらえられた罠に、まだ出くわしていないだけなのだ。あの十六夜薫という男は、あまりにも好みだった。色っぽい三つの黒子に、まんまと釣り上げられたのだ。学生のいたずらで済んだのは幸いだった。のぼせ上がって金を貢ぐ羽目にならずにすんだのだから。もっとも、仮に金を騙し取られていたとしても、その詐欺師は地の果てまで逃げたところで、
漆黒のマイバッハG650が、昼の繁華街をゆっくりと走っていた。砕けた雪を踏んでも、タイヤは音ひとつ立てない。通行人が振り返り、女の子が数人、窓の中をのぞきこむ。運転席にいたのは、若く端整な顔立ちの男だった。静かにブレーキを踏み、信号が青に変わるのをのんびりと待っている。正午が近いというのに、空はまだ薄暗い。伊藤嵐は時計を見た。午後一時からオスロ大学で医学の研究会がある。昔から時間には正確で、どんな仕事でも遅刻は好まなかった。目的地に二時間前に着いて下見をするのは、殺し屋の習い性だ。だがそれだけではない。「伊藤嵐」という人生に深く馴染むため、逃亡の年月のあいだに医術を磨き上げてきた。この身分を使わなくても、今や正真正銘の医学の専門家だった。なにしろ、人を切り刻んできた人間ほど、人体の構造に詳しい者はいない。バラした標的は、百人は下らない。筋の走りも骨の継ぎ目も、内臓のひとつひとつの紋様まで知り尽くしている。医療に対しては本気だった。人生でただひとつの趣味と言ってもいい。私生活でも難病や奇病の研究に没頭し、本物の伊藤嵐が論文に残した未解決の問題まで解いてしまったほどだ。だから、身分を疑う者などいるはずがない。本物を知る人間は、とうに松永晃が跡形もなく始末している。ちっ……あの男め……。松永を思い出すと、あの赤く光る眼が目の前によみがえるようだった。あれはまったく……人の皮をかぶった化け物だ。人食いを見たことがないわけではない。裏社会に身を置く者同士、殺して食うくらいは珍しくもなかった。地獄に棲む悪魔どもには、妙な嗜好がつきものだ。だが、松永の食べ方は特殊だった。探す食材は、たいてい人並み外れて優れた人間だ。どこかが欠けていてもかまわない。肝心なのは、その血肉を消化することで、捧げられた者の生命力を本当に感じ取れるらしい、という点だった。凡庸な人間には決して手をつけない。標的を選び、取引を交わし、最後に繊細な手つきで切り分けて調理する。その一連の流れを、松永は「芸術鑑賞」と呼んでいた。客を敬い、素材を敬う。高雅な審美眼を持ってこそ、この世でもっとも繊細でやわらかな肉を味わえるのだと。そうして嵐は、松永に目と脚を食われたのだ。バックミラーに映る義眼の顔を見つめる。心の底から冷たいものがせり上がってきた。狂ってる……あいつも、くそったれの狂人だ