FAZER LOGIN滝澤光洋(たきざわ みつひろ)は、妊娠中の秘書である森田響子(もりた きょうこ)を連れて、私が経営するオートクチュールのウェディングドレス店へやってきた。 応接室では、彼の友人たちがひそかに賭けをしていた。響子が何着目のドレスを試着したところで、私が取り乱すか――という賭けだ。 けれど、彼女が最後の一着に試着するまで、私は手にしたメジャーで、ただ正確に採寸を続けていた。 「光洋さん、奥さんが響子さんにじかにサイズを測ってるぜ。あれ、いくらなんでも我慢強すぎる」 光洋はソファにもたれかかり、タバコの灰を軽くはらった。 「あいつは子どもが産めない体でな。俺が養ってやってるだけだ。 今のうちに、ここのルールに慣れさせておかないと。将来、俺の息子の世話すらできなくなったら困るからな」 私はメジャーをしまい、仕立て代の請求書を差し出した。 「おめでとう。サイズはぴったり。内金、二千万」 光洋は、二千万円の小切手を一枚、さりげなく放ってよこした。 「サインしろ。響子はいま妊娠中で気が立っていて、どうしても妻っていう立場が欲しいんだ。 とりあえず離婚だ。財産分与なしでな。子どもが生まれたら、またお前を迎え入れてやる」 私はためらわずに署名した。そして、その二千万円の小切手を、粉々に破り捨てた。
Ver mais市立病院の救急救命室の前では、赤いランプが点滅している。主治医が危篤の知らせを手にして出てくると、重々しい表情で私を見つめた。「患者さんの内臓は深刻な不全状態で、毒素は全身に回っています。最後の力を振り絞って、どうしても目を閉じないんです。あなたに一目だけ会いたいって」私は血の匂いがこもる集中治療室のドアを開けた。光洋は全身に管を繋がれ、顔には酸素マスクが付けられている。私の足音に気づくと、彼は一時的に意識が戻ったかのように、その瞳にかすかな光を宿した。針の痕だらけの手を震わせながら持ち上げた。自分の血に染まったスカーフを、私へと差し出した。目尻から涙が伝い、やせ細った頬をぬらして、真っ白な枕にしみ込んでいった。私はそのスカーフを受け取らなかった。代わりにベッドに歩み寄り、身をかがめた。そして、彼の耳もとに、穏やかな冷たい声で、最後の宣告を下した。「光洋。私は、あなたを許さない。今生でも、来世でも、絶対に許さない」その言葉を聞いた瞬間、彼の手は宙に止まった。まるで魂を抜き取られたかのように、瞳に残っていた最後の光が、そのままかき消えた。喉の奥から、凄まじい嗚咽が漏れた。耳を刺す長音が鳴り響き、心電図はまっすぐな線に変わった。かつて東都で絶大な権力を誇った御曹司が、目を見開いたまま息絶えた。彼は自らの手で、かつて愛した女の人生を壊した。そして今、彼は彼女の目の前で死んだのだ。一年後。パリのノートルダム大聖堂の外にある広場には、陽光があふれ、白い鳩が群れをなしていた。私はあの、本当の意味で私だけのものとなった、完璧に修復された「涅槃」のウェディングドレスをまとっている。建一の腕に手を絡め、バラの花びらが敷き詰められた赤い絨毯の上を歩いた。絶望の淵に沈んでいた私を、彼は自分の血で、あの暗い世界から救い出してくれたのだ。神父の厳かな見守るなか、私たちは微笑みを交わしながら指輪を交換した。同じ時、海の向こうの墓地には、風が寂しく吹き抜けている。光洋の墓石の前は雑草に覆われ、まともな供え物ひとつ見当たらない。冷たい骨壺には、彼の遺骨とともに、かつて彼自身の手で破り捨てた、妊娠検査の報告書が入っていた。結婚式の鐘が鳴り響く。白い鳩が羽ばたき、青く澄んだ空へと舞い
打ち上げパーティーはセーヌ川沿いのオープンテラスで開かれていた。私が階段を下り、道路を渡ろうとした。まさにその時、角を曲がった先から、制御を失ったトラックが突然飛び出してきた。トラックは、道路脇に組まれていた巨大な金属製のステージ骨組みに、そのまま激突した。耳をつんざくような金属の悲鳴が響き、骨組みが私の方へと倒れ込んできた。それと同時に、物陰から刃物を持った殺し屋が躍り出て、私の胸を狙って襲いかかってくる。まさに危機一髪の時、隣から黒い影が飛び込んできた。光洋が、私を交通島へ向かって勢いよく突き飛ばしたのだ。私の身代わりとなって、彼は背中で殺し屋の必殺の一撃を受け止めた。毒の塗られた刃が、彼の背中に深々と突き刺さる。倒壊した金属製のステージ骨組みも、轟音とともに落下してきた。太い鉄パイプが、光洋の両脚を圧し折った。そして、鋭く裂けた鉄パイプが、彼の腹部を貫通した。大量の血が噴き出し、彼の体は冷たいアスファルトの地面に固定された。その光景は、かつて私が廃墟のなかに閉じ込められた時とまったく同じだった。重い金属製の骨組みが、彼の骨を砕いた。あの日、シャッターが落ちてきて、私の生きる望みをすべて断ち切った。今度は、彼が絶望を味わう番なのだ。彼は激痛で全身を激しく痙攣させ、周囲の客たちは恐怖に駆られて逃げ散っていった。血の海に横たわったまま、彼は薄れゆく意識のなかで、必死に目を動かす。すぐ近くにいる、私の姿を捉えようとしているのだ。血にまみれた指が、ざらついた地面を深く引っ掻き、生々しい血の痕を残した。「奈央……奈央、怪我がなくてよかった……」私は安全な場所に立ったまま、見下ろすように、彼の命が急速に失われていくのをただ眺めていた。手を貸すことも、大声で助けを呼ぶこともしない。彼の飛び散った血で、靴を汚さないために、私は一歩後ろに下がった。ほどなく、サイレンを鳴らした救急車とパトカーが駆けつけてくる。救急隊員が切断機で鉄パイプを切り開き、血まみれの光洋をストレッチャーに乗せた。ストレッチャーが私の前を通り過ぎる間際、光洋は残された力の限りを尽くして、さっき私が地面に落としたスカーフを、必死に握りしめた。彼の瞳孔は、すでに散大し始めている。残ったわずかな息を振
ショーが終わったばかりのバックステージ通路は、メディアとバイヤーでごった返していた。私がドレッサーの前に腰を下ろすと、アシスタントがそっとイヤリングを外してくれた。控え室のドアが、かすかな音を立てて押し開かれる。光洋がよろめきながら入ってきた。何十億規模の契約書にサインしてきたその手は、無数の醜い傷痕に覆われている。震える両手には、分厚い書類が二つ持っている。ひとつは、滝澤グループの全株式を無条件で譲渡するという株式譲渡契約書。もうひとつは、かつて彼が自らの手で打ち壊した、私のウェディングドレス店の土地の権利書だった。光洋は私の目の前まで来ると、その場に両膝をついた。「奈央……」ガラスを爪で引っかいたような、かすれた声だった。「受け取ってくれるなら、この命だってくれてやる」私はくるりと振り返り、そんな彼を見下ろした。口元に笑みを浮かべながら手を伸ばし、高い価値を持つその二通の書類を受け取った。そして、そのまま傍らのアシスタントに差し出した。「ちょうど郊外で飼ってる犬の小屋が足りなくてね。この場所ならまあ使えなくもないから、適当に処分しといて」周囲にいた記者たちが一斉にカメラを向け、フラッシュが狂ったように瞬く。かつて東都の傲慢な御曹司が、今はただ、みじめに床へひれ伏している。光洋はポケットからいつも持っているメジャーを取り出すと、床に引きずる私のドレスの裾を整えようとした。私は片足を持ち上げ、ピンヒールのかかとで彼の右手の甲を思いきり踏みつけた。容赦なく、ぐりぐりと踏みにじる。つま先が指の骨を押し潰し、ぞっとするような軋み音が響いた。「光洋、今のあなたの立場なら、私の靴を舐めるのがお似合いなのよ」光洋は顔面を蒼白にして、全身を震わせている。痛みで冷や汗がにじんでも、それでも手を引っ込めようとはしなかった。むしろ、ひどく歪んだ笑みを浮かべた。「ああ、舐めてやるよ」忠実な奴隷のように頭を垂れ、荒れきった唇で、私の靴に口づけた。かつてこの男は、私に彼の愛人の採寸をさせた。今は、メジャーを手にしたまま私の足元に跪いている。自業自得だ。私は平静に足を引くと、二度と彼を振り返らず、控え室をあとにした。劇場の裏口から外へ出て、車に乗り込もうとしたそのとき
車が混乱の渦中にあるホテルを離れた。窓の外に流れ去る街並みを眺めていても、心はひどく凪いでいた。あとから人伝てに聞いた話では、光洋は病院で意識を取り戻すなり、自分の手の甲に刺さっていた点滴の針を引き抜いたらしい。まるで正気を失ったかのように、ありとあらゆる手段を使って、響子を都内でも最底辺の夜の店に送り込んだ。あの侮辱的な文字が書かれたウェディングドレスを着せたまま、一生接客しろ、と命じたらしい。けれど、そんなことをしても、彼の胸の奥にある恐怖は少しも消えはしなかった。その夜のうちに車を飛ばし、とっくに閉鎖されたウェディングドレス店の廃墟へと駆け戻った。しかしシャッターは固く閉ざされたままだった。彼はジャッキを手に取ると、歪んだシャッターを力任せにこじ開けた。黒ずんで乾ききった血痕の残る床に跪き、素手でガラスの破片の山をかきわけるようにして探った。指は切り裂かれ血まみれになり、皮膚がめくれ上がっても、まるで痛みを感じていない様子だった。そうして、かつて私がいちばん多く血を流した壁際で、彼は画面の割れた小型のボイスレコーダーを見つけ出した。あれはあの日、響子が脅しをかけてきた証拠をお録音しようと、私が予備で準備していたものだった。彼は震える指で再生ボタンを押し込む。録音から流れてきたのは、彼を罵る言葉でも、泣き叫びでもなかった。ただ、あの日、血溜まりのなかで息絶えようとしながら、私が絞り出した、あまりにかすかなつぶやきだった。「赤ちゃん……痛くないよ、ママが一緒に行こうね。あの人は、もういらない。生まれ変わったら、滝澤光洋だけには、もう二度と会いたくない……」光洋は、あのとき私を蹴り飛ばした場所に膝をついた。血に汚れたボイスレコーダーを、胸の真ん中にぎゅうと押し当てている。壁にこびりついたあの乾いた血痕は、彼が私を蹴ったときにこすりつけられたものだ。獣のような、絶望の叫びが漏れた。私の血が染みついた壁に、狂ったように頭を打ちつけはじめた。鈍い衝撃音が、廃墟のなかに響きわたる。額が割れて、血が頬を何筋も伝い落ちた。顔は涙と血でぐしゃぐしゃだった。それでも彼は、謝罪の言葉ひとつ口にできない。頭を打ちつけるたびに、彼自身に死刑を執行しているようだった。……あれ