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愛は風に消えてゆく
愛は風に消えてゆく
Author: 狼天薄雲

第1話

Author: 狼天薄雲
「神田さん、当施設にてご予約いただいていた偽装死サービスにつきまして、すべて手配が完了しております。

こちらが契約書になりますので、ご署名をお願いいたします」

神田星奈(かんだ せな)は、自分の目の前に差し出された契約書に目を通した。

【委託者:神田星奈

死亡方法:山頂からの転落、野獣による食害、遺体は完全に消失

死亡予定日:一週間後】

一週間後――それは、彼女と神田雅臣(かんだ まさおみ)の結婚五周年の記念日。

そして、彼女が綿密に計画した、偽装死で彼のもとを去る日でもあった。

始まりがこの日なら、終わりもこの日でいい。

契約書に署名を終えて外に出ると、ちょうどニュースで雅臣のインタビュー映像が流れていた。

キャスターが尋ねた。

「神田社長はこんなに若くしてご活躍されていますが、成功の秘訣は何でしょうか?」

雅臣は自分の左手を上げ、薬指の指輪を指差しながら答えた。

「秘訣は、いい妻を持っていることです」

キャスターは少し驚いた様子だった。

「え?てっきり業界の展望や戦略について話してくださるのかと……」

「そんなことは重要じゃありません。今の俺が持っている全ての財産を合わせても、妻の髪の毛一本の価値にも及びません」

「本当に奥さまが羨ましいですね……」

カメラの前で雅臣は腕時計を確認すると、笑顔でこう言った。

「すみません、ちょっとインタビューを中断させてください。時間になったので、生放送のカメラを借りて妻にひと言伝えたいんです」

「どうぞ、神田社長」

雅臣の声はさらに優しくなった。

「星奈、さっき君のために牛乳を買わせたから、もうすぐ届くよ。飲んだらゆっくり休んで。俺が帰ったら、お腹をマッサージしてあげる」

大型スクリーンの前には、何人かの女性たちが集まってこの生放送を見ていた。

ここまで見たところで、みな口々に羨望の声を上げた。

「神田社長の奥さんって、一体どれほどすごい人なんだろう。あんな男を一途にさせるなんて……」

「甘すぎるし大切にされすぎ……羨ましすぎて泣けてくる……」

星奈の耳にも、そんな羨望の声が次々と入ってきた。

しかし当の本人である彼女は、ただ皮肉に口元を引き上げただけだった。

みんな、彼女は前世で世界を救ったから雅臣のような「百年に一度の良い男」と結婚できたのだと思っていた。

彼女自身も、かつてはそう信じていた。

けれど、雅臣には外にもう一人女がいることを、誰も知らない。

結婚して五年の間、雅臣はそのうちの四年半、その女を養っていた。

出張だと言いながら、実際はその女のもとへ行き、快楽に溺れていたのだ。

星奈は、その関係を示す動画を初めて見たときのことを、今でも鮮明に覚えている。

心臓が一万本の針に刺されて、抜かれて、また刺されたようだった。

何度も何度も繰り返され、ついには穴だらけで、ボロボロになった。

しかし、彼女は覚えている。子どものころ、学校でいじめを受けていたとき、雅臣が自分の前に立ちふさがり、いじめっ子たちを懲らしめてくれたことを。

そのとき彼は言った。

「怖がらなくていい。これからは守ってやる」

またあるとき、二人でドライブ中に対向車線からトラックが暴走して突っ込んできたとき、雅臣は何のためらいもなく彼女をかばって飛び込んだ。

そのあと、彼は病院に半年以上も寝たきりとなり、あと少しで植物人間になるところだった。

彼が目を覚ましたとき、最初に看護師に尋ねたのはこうだった。

「星奈は無事ですか?」

看護師の肯定に、ようやく安心してこう言った。

「星奈が無事なら、それでいい。俺なんかどうでもいい」

その瞬間から、星奈は彼に心の底から恋をした。

命を懸けて自分を守ってくれるこの人を。

だけど今となっては、なぜ彼がそんなに愛していると口にしながら、平気で他の女とベッドを共にできるのか、理解できない。

やっぱり、男にとって「性」と「愛」は別物なのだろうか?

星奈は、自分の薬指に嵌まった結婚指輪に目を落とし、それをそっと外した。

ちょうど道端でストリートパフォーマーに出会った。彼の楽器ケースの中には、わずか数枚のコインしか入っていない。

星奈は歩み寄ると、自分の指輪をその中に入れた。

「これを売れば、新しいアルバムが作れますわ。どうか……大ヒットしますように」

ストリートパフォーマーは深々と頭を下げて感謝した。

実際、星奈の言い方はまだ控えめだった。

この指輪は、雅臣が海外のデザイナーにオーダーメイドで作らせたもので、ダイヤモンドだけで何億もの価値がある。

けれど今の彼女には、そんなものはいらなかった。

もし結婚指輪が「愛」と「忠誠心」の象徴であるならば、彼女の指輪は、今や何の価値もなかった。

電話が鳴った。雅臣からだった。

「星奈、今どこにいるんだ?牛乳を届けに行った人が、家に君がいなかったって……」

彼の声は切羽詰まっていて、本当に彼女のことを心配しているように聞こえた。

星奈は淡々と答えた。

「ちょっと外を歩いてるだけ」

「今どこ?すぐ迎えに行くよ」

「いいわ、もう帰るところだから」

「ダメだ、今日は君、生理中だろ?心配だよ」

雅臣はすぐにやって来た。到着まで五分もかからなかった。

彼は車から飛び降り、自分の上着を脱いで星奈の肩にかけ、彼女を抱き寄せた。

「こんなに薄着で……生理中に冷えたらダメだろ」

星奈はその腕の中で顔を上げた。彼の喉元には、真新しいキスマークがいくつもあった。

赤く腫れていて、噛み跡も残っていた。

そして彼の体からは、女物の香水の匂いが漂っていた。

なるほど。今日はインタビューの前に、林水緒(はやし みお)のベッドから出てきたばかりだったのか。

雅臣は彼女の指を撫でながら、ふと驚いたように尋ねた。

「星奈、結婚指輪は?」
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