LOGIN子供ができる――と言った彼の目からは、ほんの僅かに喜びのような感情が見て取れた。洋介の子を妊娠したときの淳子とは似ても似つかない、希望に満ちた瞳。それではまるで、彼がこれから生まれてくる子の誕生を心から喜んでいるようではないか。いや、実際にその感情は間違ってはいないのだろう。――ただ、淳子が信じたくなかっただけだ。「子供ってどういうこと?一体誰に子供ができたというのよ?」「恋人だよ。数年前に付き合い始めた二十代後半の女の子なんだけど……」「恋人ですって……?」淳子は恋人と聞き、ショックを受けた。自分にとって愛するのは彼だけで、彼もまた自分だけを愛しているのだと信じて疑わなかったからだ。そんな彼に別の恋人がいるとは、初耳だった。淳子は彼を問い詰めた。「ちょっと待ってよ、聡。あなたの恋人は私なはずでしょう?どうして他に女なんて作るのよ!ありえないわ!」「恋人だなんて……淳子、君には夫がいるだろう?」彼は淳子の厳しい視線を避けるように、彼女から目を背けた。向き合いたくない、面倒だという感情が伝わってくる。彼はこんな目をする人だったのか。いつも優しかったはずのその顔からは、今は彼女に対する嫌悪感が露わになっていた。「夫はいたけれど……あの人に恋愛感情なんて最初からなかったのよ。それはあなたも知っているはずでしょう?」淳子は洋介と結婚することになった経緯を、聡に全て話していた。彼は彼女の悲惨な過去を同情し、涙までしてくれた。「ああ、知っているよ」「知っていて、どうしてそんなに酷いことができるというの!?他に女がいるなんて知らなかった!あなた、私の気持ちを利用したのね!?」彼女のその言葉に、聡はゆっくりと首を横に振った。騙されたのかと思っていたが、それは淳子の勘違いだった。――そのとき、彼女は彼の本当の気持ちをようやく知ることとなった。「君の気持ちを利用したわけじゃないよ。俺も出会った頃は君のことを愛していたし、本気で幸せにしたいと思っていた。でも、次第にその気持ちは冷めていった」「ど、どうしてよ!?私が年老いたから、若い女に走ったってわけ!?」聡はその問いに対しても違う――とキッパリ言い切った。「俺はもう限界なんだよ。夫とはいつか離婚するからと言い続けて二十年――君は言葉だけで俺を縛り付けておいて、一切夫との関係を終わらせようとし
一方、夏目家を出た淳子は、軽い足取りで愛する人の住む家へと向かっていた。トランクに軽く荷物をまとめた彼女は、電車に乗り、隣町にある彼の家へと急いでいた。(ようやく、ようやく彼と一緒になれるんだわ……!)夏目家を追い出されたことを、彼女はもはや何とも思っていなかった。今心の中を埋め尽くすのは、ただ愛しき人と一緒になれるという喜び。由利や洋介はもちろん、あれほど溺愛していた紫苑ですら、今の淳子にとってはどうでもいい。淳子は結局のところ、子供よりも男が大切な人間だった。彼女は自身の行いを全て洋介のせいにして正当化していたが、元々性格が歪んでいたのだ。そんな彼女であれば、たとえ愛する人の子だったとしても愛せないのではないだろうか。「――聡!」彼女は事前に持っていた合鍵を使い、最愛の彼の家の扉を開けた。淳子と彼は、夏目家から少し離れたところにある小さなアパートで半同棲状態だった。洋介が仕事から戻る夜は夏目家に帰り、昼間は彼と暮らすアパートにいた。彼は夜勤が多い人であるため、昼は家にいることが多い。今日も絶対にあのアパートで自分を待っているはずだと、彼女は確信していた。突然家を訪れた淳子に、彼は驚いていた。「じゅ、淳子……どうしてここに……!?」「私ね、夫と離婚したの!だから一緒になりましょう、聡!」「り、離婚!?冗談だろう!?」突如彼女の口から飛び出した離婚という二文字に、彼は衝撃を受けていた。当然だろう、彼らの不適切な関係は今に始まったことではなく、なんと二十年にも及ぶ。二十年間ずっと離婚しなかった女が突然離婚したと言い出したのだから、信じられないのも無理はない。淳子は驚く彼に思いきり抱き着いた。「聡ったら、私が夫と離婚したのがそんなに嬉しいのね?仕方ないわ、私もあの人と離婚できるとは思ってなかったから」「……淳子、本当なのか?」淳子は彼の目をじっと見つめ、もちろんよと頷いた。見れば見るほど、彼女がかつて愛した彼によく似ている。(もし、あの人が年を取ったらこんな感じなんだろうな……)淳子は何も言わず、愛する人の面影を感じさせる彼を抱きしめた。特に秀でたところのない彼を愛する理由は歪んでいたが、本気の恋であることに変わりはない。淳子はこの日だけをずっと待ち望んでいた。しかし、洋介が自分を手放すわけがないと心のどこかで諦めていた。突然
一部始終を見ていた由利と碧斗は、大慌てで二人を落ち着かせた。「母さん、落ち着いて!離婚だなんて、どうして急に!」「うるさいわね、アンタに私たちの何がわかるって言うのよ?私はずっとあの男に苦しめられてきたのよ。離婚は願ってもないことだわ」淳子は慌てふためく由利に、ハッキリと言い放った。彼女の言う通り、由利は二人の間に起こった出来事を何も知らなかった。一体何が、淳子をここまで狂わせてしまったのか。由利と碧斗の間にそんな疑問が浮かび上がるが、聞けそうにない。由利は淳子を、碧斗は洋介を何とか説得しようとしていた。「お義父さんも……離婚だなんて、冗談ですよね?」「碧斗君、私が冗談でそのようなことを言うと思うか?本気だ、彼女にはすぐにでも家を出て行ってもらう」「そ、そんな……」離婚が本気だと知り、碧斗は顔を真っ青にした。もちろん、由利も同じ気持ちだった。いくら母親に非があったとはいえ、離婚はやりすぎではないのか。父の洋介は他人の目から見てもわかるくらい、母の淳子を溺愛していた。そんな彼が、母に離婚を突き付けるとは想像もしていなかった。可愛がられた記憶もない両親だが、由利は二人に離婚なんてしてほしくなかった。そのため、必死の思いで両親の意思を変えさせようとした。「父さん、母さん、落ち着いてください……」そんな由利の肩を、ずっと傍観に徹していたある人物が掴んだ。「――姉さん、そんなこと言ったところで父さんと母さんは変わらないわ」「……紫苑?」振り返ると、表情を一切変えていない紫苑が視界に入った。彼女は一連の離婚宣言に焦るどころか、まるで予想していたかのように平然としていた。「どうして……」そんなにも落ち着いていられるの――という由利の疑問は口には出なかった。紫苑はそんな彼女の心の内を読んだのか、ただ妙に優しい手つきで彼女の背中を撫でた。***それから数日後、淳子は洋介に言われた通り家を出て行った。碧斗は引き留めたが、彼女は聞く耳を持たなかった。出て行ってすぐ不倫相手の家に転がり込んだ淳子は、離婚が成立するまでの間彼との愛の巣で過ごすという。あまりにも呆気ない終わりに、由利は数日間は呆然としていた。傍から見れば愛し合っているように思えた淳子と洋介だったが、内側には大きな秘密を抱えていたのだ。その秘密を由利が知ったのは、二人の離婚が成立し
淳子は由利と紫苑、碧斗がいる前であるにもかかわらず、声を荒らげ続けた。「アンタのせいよ!アンタがあんなことしなければ……私は幸せでいられたのよ!」とうとう淳子は洋介に掴みかかった。しかし、華奢な女性である淳子が、男の洋介に力で敵うはずがない。彼女はすぐに手首を掴まれ、動きを封じられてしまった。元々ヒステリックで精神的に不安定な人ではあったが、ここまで暴れているところを見たことはなかった。多くのものが溜まり、限界を迎えて爆発したのだろう。(……父さんと母さんの間に一体何があったのかしら?)由利は当然、彼らが抱える事情を知らなかった。一方の紫苑は知っているのか、無感な目で二人を眺めていた。父親は何とか彼女の暴挙を止めようと、説得を試みた。「淳子、落ち着かないか……由利と紫苑が見ているぞ」娘二人の前でみっともない真似はやめろと、洋介は遠回しに言った。しかし、もはや正気を失っている淳子に響くことはなかった。「知らないわよ、あんなの!」淳子は由利と紫苑を一瞥すると、キッパリ言い放った。「――こっちは産みたくもないアンタの子を産ませられてるのよ!?今すぐでも捨てたいくらいだわ!あんな可愛げのない子供たち!」「………母さん」初めて直接口から語られた、母の本当の気持ち。わかってはいたが、由利はショックを隠しきれなかった。「淳子、なんてことを言うんだ!」行き過ぎた淳子の発言に、洋介は怒りを露わにした。しかし、そんな彼を彼女は嘲笑った。「うるさいわね、アンタだっていつも仕事が忙しいとか言ってまともに育児に参加してなかったじゃない!そのくせ今さら父親面して私を叱るわけ!?」「……!」「――結局のところ、アンタも私と同じなのよ!私と同じ、最低な父親だってこと!」アハハハハハ―――と淳子の笑い声が部屋に響き渡った。洋介は動揺しているのか、淳子を掴む手の力が弱まった。彼女はその隙を逃さず、彼の手を振り払った。自由になった淳子はドサリとソファに腰を下ろし、偉そうに足を組んだ。もはや本当の姿を隠すつもりもないようだ。「……淳子、お前の本当の気持ちはよくわかった」「あら、わかってくれるだなんてとっても嬉しいわ。遅すぎるけどね」洋介は何かを決めたかのように、淳子の前に立ち、彼女を見下ろした。「――お前とは離婚だ。手切れ金はいくらか渡すから、家を出て行
紫苑が淳子の部屋のゴミ箱から取り出したのは、夫の洋介がかつて贈った婚約指輪だった。由利が薄井夫人から貰ったものほどではないにしろ、かなり大きいダイヤモンドがあしらわれている。洋介は信じられないというように、身を震わせていた。「淳子……一体どういうことだ……?なぜ、私があげたものが捨てられているんだ……?」「あ、あなた……違うのよ……あれは……」もはや言い逃れなどできない状況だったが、淳子はみっともなく罪から逃げようとしていた。彼女になりに言い訳を考えているのだろうが、何も思いつかない。窮地に追い込まれた人間のように、額からダラダラと汗を流している。そんな淳子を見るのは初めてだった。追い打ちをかけるように、紫苑は淳子に尋ねた。「母さん、私も本当のことを知りたいわ。どうして父さんがあげたはずの大切な指輪が、ゴミ箱に捨てられているのかしら?」「紫苑……」誰よりも可愛がってきた娘に追い詰められるとは思いもしなかっただろう。しかし、こればっかりは紫苑が正しい。淳子は他にも由利の指輪を盗むという罪を犯している。そして、彼女の罪は続けざまに明かされていった。「ねぇ、母さん……引き出しに入ってたこの拓って男からの手紙……一体どういう関係なのかしら?母さんのことを愛しているとか結婚していてもかまわないとか書いてるんだけど」「!」――それはまさに、淳子の長年の不倫を表す証拠だった。彼女は結婚後、多くの男性と性的関係を持ちながら、そのうちの一人の男に本気で恋をした。それが拓という男だった。彼は淳子より三つ下の小さな工場の社員で、彼女とは二十年来の付き合いだった。淳子が彼を好きになった理由は単純、最愛の元婚約者に少しだけ雰囲気が似ていたから。彼を愛していたというよりかは、前の婚約者を未だに忘れられずにいたのだ。不倫を知った夫の洋介は、愛する妻を問い詰めた。なぜそんなことをしたのかと、泣いているように見えるのは気のせいだろうか。しかし、当の淳子はそんな夫を冷めた目で眺めていた。「……るさいわね」「……何だと?」「うるさいって言ってんでしょう!離しなさいよ!」淳子は肩を掴んでいた洋介の手を振り払った。開き直った彼女に、彼は呆気に取られていた。淳子は涙を流し、洋介に怒鳴り散らした。「大体、元はと言えば全部アンタのせいよ!アンタのせいで私は不幸になっ
顔を手で覆い、嗚咽を上げる淳子に、碧斗と父親は困惑していた。この光景だけを見れば、由利と紫苑が加害者であるように見えるだろう。「……お前たち、何をしていたんだ?」「……父さん」父の疑念の目が、由利と紫苑の二人に向けられた。由利は慌てて否定しようと、口を開いた。「父さん、私は……」「なぜ、淳子が泣いているんだ?」しかし、母の涙を前にもはや父は理性を保つことができないようだった。彼女が由利と紫苑に泣かされたのではないかと、父は疑っていた。紫苑のことを溺愛している父だが、彼女にも険しい目を向けた。父は冷たいように見えるが、実はこの世の誰よりも妻の淳子を愛していた。今にも二人に詰め寄りそうな父を、碧斗が慌てて止めた。「――お義父さん、娘の話くらいきちんと聞くものですよ」「碧斗君、君は黙っていなさい」父は碧斗を振り払おうとするが、彼も退かなかった。「いいえ、黙ってはいられません。家族のことに口を出すなと言うおつもりなら、私も家族ですから。口出しする権利はあるはずです」「……」碧斗の正論を前に、父は黙り込んだ。彼がゆっくりと肩を撫でると、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。碧斗は由利を守るように父の前に立ちはだかった。彼は父と違って、由利が悪さをしたわけではないことを、心の中で確信していた。「由利、何があったか説明できるか?」「……はい」振り向いた碧斗の視線を受けた由利は、ゆっくりと口を開いた。「実は、母さんの部屋から私が薄井夫人に頂いた指輪が出てきたんです。今日の朝突然なくなって、ずっと探していたものだったんですけど……」由利はチラリ、と母の淳子に視線を向けた。話を聞いているのかいないのか、ずっと顔を手で覆って泣いているままだ。淳子は昔から、自分に都合の悪いことがあるとすぐに被害者ぶる人間だった。今回もそうやって泣き崩れることで、父の同情を誘おうとしているのかもしれない。何ともずるいやり方だ。「指輪が……?由利が貰ったはずのものを、なぜ義母さんが持っていたんです?」碧斗は床にへたり込む淳子を問い詰めた。父はともかく、碧斗は淳子の手口にやられたりはしない。「……私は盗んでなんていないわ。その子が嘘をついているのよ」「母さん、いい加減に認めなさい。私も指輪が部屋の引き出しから出てきたのを見たわ」「紫苑……」溺愛していた
目が覚めると、由利は病院の一室にいた。「無事だったんですね、よかったです」「あなた……」ベッドに横たわる由利の顔を、夏目家のメイドが心配そうに覗き込んだ。また巻き戻ってきたのではないかと思ったが、どうやらそうではないようだ。由利は自身の安否など気にも留めず、メイドに尋ねた。「お腹の子は……」「……」その問いに、メイドは痛々しそうに視線を逸らした。由利は彼女の反応で全てを悟った。――あぁ、流産してしまったんだ。奇跡のように私の元へやって来てくれた子は、産まれることもなく亡くなってしまったのね。悲しくて、悔しくて、やりきれない気持ちになった。由利は病室内を見渡した。流産したと
それから碧斗は、毎日のように紫苑のいた病室で泣き続けた。彼女がいなくなり、火葬されたあともずっと。仕事も手に付かなくなるほど毎日のように大声で泣き、隙あらば彼女の痕跡を探した。彼女が生前着ていた服を抱きしめ、服が濡れるまで泣いた。もちろん両親も深い悲しみに暮れていたが、それでも彼の絶望は異常ともいえるほどだった。この世の全てを失ったかのように、真っ暗な部屋で酒を浴びるように飲み続けた。彼女のいない世界なんて、意味がないのだろう。由利はそんな彼をただ見ていることしかできなかった。姉妹ではあるが、紫苑に似ているところなんてほとんどない由利に、彼女の代わりなんて到底務まらないからだ。そして
両親、碧斗は紫苑の妊娠に大層喜んだ。このときには既に紫苑は病気を克服し、強く生き始めていた。そんな彼女の変化は、由利にとっても喜ばしいことだった。「二人とも、妊娠おめでとう」「ありがとう、姉さん」紫苑は嬉しそうに微笑んだ。まだ平らな彼女のお腹を、隣にいた碧斗がそっと撫でた。その顔はとても幸せそうで、由利は回帰してよかったと心の底から思えた。紫苑は複雑そうな目で由利を見つめた。「姉さんから祝いの言葉をもらえるとは思っていなかったから……驚いたわ」「……そんなことないわ、私は誰よりもあなたたちの愛を応援しているもの」強がりでも嘘でもない。紛れもない本心だ。由利の言葉を聞いた両親は
「紫苑……!紫苑……!しっかりしてくれ……そんな……どうして急に……!」水藻区(みなもく)にある大病院の一室にて。一人の男がベッドに横たわって微動だにしない女に必死の思いで呼びかけている。彼の呼びかけも虚しく、彼女はビクともしなかった。病室が静寂に包まれ、人々のすすり泣く声が耳に入る。この場にいる全員が彼女の死を悲しみ、現実を受け止めきれないでいる。そんな中、一人の女が複雑な表情で彼ら家族を見つめていた。「……」――どうして、こんなことになってしまったのか。彼女は心の中で自分自身に問いかけた。当然、答えなど出てこなかった。元より、答えられる問題ならそのように思ったりはしないだろう