共有

第15話:出ていく前提

作者: Sunny
last update 公開日: 2026-05-11 23:01:01

「話が少し戻りますが」

「離婚する気、ないと思ってましたって」

綾瀬先生の声は静かだった。

低くて、落ち着いている声だった。

でも。

そのとき少しだけ、温度が下がった気がした。

「やっぱり言うべきではないです」

空気が止まる。

優の眉が、わずかに動いた。

「……何でですか?」

低い声。

不機嫌というより、理解できていない顔だった。

綾瀬先生は感情的にならない。

ただ、静かに言葉を置く。

「離婚の話、出てるんですよね」

少し間。

「東郷先生から聞いてます」

“東郷先生”。

さっきから自然に使われている、仕事の呼び方。

そこを強調して、綾瀬さんは話す。

少しだけ空気が変わる。

院長として話しているのだと、わかる。

「その状況で」

綾瀬先生が続ける。

「“離婚する気ないと思ってた”って」

少しだけ言葉を選ぶ。

「言われた側、結構しんどいと思います」

沈黙。

静かなのに、逃げ場がない。

責めているわけじゃない。

でも。

正しいことを、正しいまま置いてくる。

優が少し視線を逸らす。

珍しかった。

いつも正解を持っている人が、言葉に詰まっている。

「……そういう意味じゃなくて」

ぽつりと優が言う
この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード
ロックされたチャプター

最新チャプター

  • 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました   第32話:掴めない男

    「二人で、ちゃんと話したい」優の言葉は、思ったより長く胸に残っていた。四年間だ。ずっとその間。私はずっと、それを待っていた気がする。怒りたい日も、泣きたい日も、何かを諦めた日も。ただ一度でいいから、優の方から向き合おうとしてほしかった。なのに、それが届いたのは、私がもう自分の部屋を探し始めた後だった。遅れて届く優しさは、やさしい形をしているのに、なぜか傷口に触れる。***昼過ぎ。復職資料を見返していると、スマホが震えた。【綾瀬隼人】今日、少しだけ電話できる?土曜の研修のこと。無理なら全然大丈夫。その文面を見た瞬間、肩の力が少し抜ける。押してこない。でも、ちゃんと近くにいる。この人はいつも、軽い顔でそういう距離を作る。ずるい人だと思う。私は短く返した。【綾香】>すぐに着信が来た。「こんにちは」低くて、少し笑みを含んだ声。声だけなのに、空気が変わる。『ごめん、急に』「いえ、大丈夫です」『ほんと? 東郷先生、だいたい“大丈夫です”って言う時、大丈夫じゃないからなあ』電話の向こうで、軽く笑う気配がした。少し人懐っこくて、明るい。なのに、こちらの奥まったところまで見てくる。そういうところが、少し怖い。「先生、そういう決めつけよくないです」『医者なんで、観察してるだけ』「便利ですね、それ」『便利だよ。あと、俺の特技』そういうことをさらっと言う。自分の魅力をわかっているのか、わかっていないのか。たぶん、わかっている。でも、わかっていないふりも上手い。『で、土曜なんだけど』声色が少しだけ変わる。仕事の話に戻る時の、あの切り替え。軽いのに、雑じゃない。『旦那さんとの予定、入りそう?』私は少し迷って、正直に言った。「……話したいって言われてて」電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。けれど、すぐに明るい声が戻る。『そっか。じゃあ旦那さん優先でいいよ』「え」思わず声が漏れた。『ちゃんと話せるなら、その方がいいと思う』その声は穏やかだった。けれど、完全に平気というわけでもなさそうだった。軽い調子の奥に、ほんの少しだけ沈むものがある。『……まあ、ちょっと残念だけどね』心臓が小さく跳ねた。重くなくて、甘すぎない。冗談みたいに逃げ道を残してくれる。だ

  • 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました   第31話:たまには

    翌朝になって。目が覚めても、昨夜の会話がまだ胸の奥に残っていた。俺も、昔予約取ろうとしてたそんなこと、一度も聞いたことがなかった。結婚二年目。まだ私が、優に期待することを完全には諦めていなかった頃。もしあの時、聞いていたら。少しは違ったんだろうか。優が私のために何かをしようとしていたと知っていたら。私はもう少しだけ、この家で息ができただろうか。けれど、すぐに答えは出た。たぶん、違わない。きっと私は、また期待した。そして期待したぶんだけ、傷ついた。小さな優しさを何度も拾って。そのたびに「まだ大丈夫」と自分に言い聞かせて。結局、何も変わらない日々の中で、もっと深く沈んでいた気がする。もう、十分だった。遅れて届いた優しさを。今さら宝物みたいに抱きしめるには、私は少し疲れすぎていた。***リビングへ降りると、朝の部屋は静かだった。優はもう出勤したらしい。けれど、キッチンカウンターの上に、小さな紙袋が置かれていた。昨日のケーキ屋のロゴ。足が止まる。胸の中に、まだ名前のつかない感情が落ちる。何となく開くと、小さな箱とメモが入っていた。綾香へ 甘いもの、好きだったよね 土曜、もしよかったら——優文字は相変わらず少し無骨で、必要なことしか書かれていない。それなのに。“綾香へ”。その最初の三文字で、指先が止まった。最近、優に名前を呼ばれることが増えた。それまでは、ほとんどなかったのに。同じ家にいても、会話は用件だけで、視線もすれ違うばかりだった。今さら名前を呼ばれると、嬉しいというより、過去の自分が少しだけ反応してしまう。あの頃の私が、まだどこかに残っている。それが厄介だった。メモを箱に戻しながら、深く息を吐く。タイミングが悪すぎる。本当に、救いようがないくらいに。その時、スマホが震えた。【東郷優】>続けて。【東郷優】>>>画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。空けた。優が、私のために予定を空けた。昔なら、それだけで一日中そわそわしたと思う。忙しい人だから。私のために時間を使ってくれるだけで、特別に思えた。でも今は、その言葉が胸に届く前に、少し身構えてしまう。嬉しいより先に。

  • 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました   第30話:戻れない

    「……俺といる時」少し間。優が、言葉を探すみたいに視線を落とした。「そんな顔、してた?」部屋が静かになる。キッチンの時計の音だけが、妙に大きく聞こえた。私はすぐに答えられなかった。スマホを握ったまま、視線を落とす。そんな顔。——笑ってた顔。さっき。綾瀬先生の前で。気づけば何度も笑っていた。無理してじゃなく。空気を悪くしないためでもなく。ただ、自然に。それが。少しだけ、怖かった。「……どうだろう」ぽつりと零れる。優の視線が、こちらへ向く気配がした。私はマグカップの横に置かれたケーキの箱を見る。私が好きだった店。忘れてたと思っていた。でも。覚えていたらしい。——今さら。その感情と。少しだけ嬉しかった感情が、胸の中でぶつかる。だから余計に苦しい。「少なくとも」少し間を空ける。「最近は、してなかったかも」優の指先が、テーブルの端で止まる。何かを言いかけて。でも、口を閉じる。私は続けた。声は驚くほど静かだった。怒っているわけじゃない。責めたいわけでもない。ただ。少し疲れていた。「楽しいとか」「安心するとか」目線を少し窓の外へ逃がす。夜の街がぼやけて見えた。「そういう感覚、結構前に忘れてた」優が動かない。返事もない。ただ。何かを飲み込むみたいに、小さく喉が動いた。視線だけが、こちらに残る。その沈黙が、少し長い。気まずいはずなのに。不思議と、前みたいに怖くない。たぶん。私はもう。優の機嫌を伺わなくなっていた。「……綾香」名前を呼ばれる。少し低い声。でも。その続きが出てこない。珍しい。言葉に詰まる優なんて。ずっと、完璧な人だったのに。その時。ふっと思い出した。さっき。クリニックの前で。強くなってきたね綾瀬先生がそう言って、少し笑った顔。その瞬間だけ。肩の力が抜けた気がした。ああ。私。ちゃんと戻ろうとしてるんだ。壊れたままじゃなく。自分の人生へ。その時だった。スマホが震える。画面が明るくなる。【綾瀬隼人】あ、そうだ。土曜、研修説明のあと少し時間ある?近くでご飯でも。あと、普通に顔見たい。指先が止まる。……顔見たい。少しだけ、胸の奥がくすぐったくなる。でも。同時に思い出す。——土曜。優との予定。父親と

  • 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました   第29話:ズレた優しさ

    玄関を開けた瞬間。リビングの灯りが、まだついていた。時計を見る。22時12分。少し遅くなった。でも。普段なら。もう誰も起きていない時間。そう思っていた。なのに。「……おかえり」低い声。顔を上げる。そして。思わず、止まった。——優がいた。一人で。リビングに。珍しく、テレビもついていない。ソファでもない。キッチンカウンターに寄りかかって。スマホを見ていた。でも。私を見ると、少しだけ視線を逸らす。なんだろう。……待ってたみたい。その考えに。自分で驚く。そんなわけない。優が?「……起きてたんだ」短く返す。優は少しだけ黙って。「ああ」それだけ。でも。すぐ帰ろうとしない。どこか、落ち着かない顔。その時。ふわっと甘い匂いがした。テーブルを見る。小さなケーキの箱。コンビニじゃない。駅前の、少し高めの店のもの。隣には、マグカップが二つ。……え?思考が少し止まる。「……どうしたの、それ」思わず聞く。優が少しだけ気まずそうな顔をした。「いや」短く言う。「遅そうだったから」少し間。「コーヒーくらい飲むかなって」時間が止まる。コーヒー。ケーキ。私が昔好きだった店。結婚したばかりの頃。一度だけ。仕事帰りに買ってきてくれたことがあった。——“これ好きだったよね”あの時。少しだけ、嬉しかった。でも。それ以来、一度もなかった。四年間。忘れていたと思っていた。なのに。なんで今さら。胸が少しだけざわつく。でも。すぐに冷える。……遅い。本当に。遅すぎる。「……食べてきた」静かに言う。優の動きが少し止まる。「そう」短い返事。でも。少しだけ肩が落ちた気がした。沈黙。変な空気。私はバッグを置く。すると。優がぽつり。「何食べたの?」時間が止まる。……また。そんなこと。今まで聞かれたことなんてなかった。「定食」短く返す。「病院の近くのお店」「ふーん」少し間。「……楽しかった?」また。その質問。でも。前みたいに責める感じじゃない。本当に。様子を探ってるみたいな声。私は少し考える。そして。正直に言った。「……うん」優の指先が少し止まる。「仕事の話、ちゃんとできたし」「久しぶりに、自分のこと考えられ

  • 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました   第28話:二人で?

    「ご飯」低い声。「……二人で?」空気が止まった。優の視線が、私の服に落ちる。ネイビーのニット。細めのスカート。少しだけ整えた髪。派手ではない。でも。少しだけ、自分をちゃんと扱いたくて選んだ服だった。「……うん」短く答える。「復職の話もあるし」優は少しだけ黙った。そして。「仕事の話なら、クリニックでよくない?」低い声。静かなのに。少しだけ棘がある。胸の奥がざらつく。「食事しながら話すだけだよ」できるだけ平静に返す。「何か問題ある?」優が少しだけ言葉に詰まる。「……別に」視線が逸れる。そして。ぽつり。「ただ」少し間。「最近、その先生と距離近い気がする」時間が止まる。……距離近い。また、その言葉。私は少しだけ笑ってしまった。乾いた笑い。「そう?」静かな声。「私は、普通に心配してもらってるだけだと思うけど」その瞬間。優の顔が少し止まった。何か言いたそうなのに。言葉にならない顔。でも。結局何も言わない。私はバッグを持つ。「行ってくる」そう言って玄関へ向かった。背後から。少し遅れて声。「……終わったら連絡して」まただ。最近の優。やたら聞いてくる。帰宅時間。予定。誰といるのか。今まで。一度だって気にしたことなかったのに。「余裕あったら」短く返して家を出た。***待ち合わせは、クリニック近くの小さなビストロだった。大通りから少し外れた場所。静かで。あたたかい灯りが漏れる店。店の前に、綾瀬先生が立っていた。長い黒髪を自然に後ろで束ねて。黒のジャケット。白シャツ。病院の時とは少し違う。でも。相変わらず、妙に整っている。「あ、来た」軽く手を上げる。そして。私を見る。少しだけ目を細めた。「今日、雰囲気違うね」心臓が少し跳ねる。「……変ですか?」思わず聞いてしまう。綾瀬先生は少し笑った。「逆」少し間。「似合ってるよ」息が止まる。その言葉は。不思議なくらい自然に胸に落ちた。優みたいに。“評価”じゃない。ただ。ちゃんと見てくれた言葉。「……ありがとうございます」少しだけ、照れる。綾瀬先生は何事もなかったみたいに店の扉を開けた。「じゃあ、仕事モード戻す作戦、始めよっか」その軽さに、少し救われる。***

  • 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました   第27話:予定

    翌朝は。珍しく、少しだけ目覚めが良かった。ちゃんと眠れた気がする。理由はわかっていた。仕事。復職。怖いのに。不思議と少しだけ前向きになれている。それに——金曜。綾瀬先生との“ご飯”。仕事に戻る前の復帰の相談。ただそれだけ。なのに。少しだけ楽しみな自分がいた。……危ない。そういうの。勘違いしちゃダメ。ただ。久しぶりに、人といて苦しくないだけ。そう言い聞かせながら、支度をする。その時。スマホが震えた。【優】>続けて。>時間が止まる。……え?思わず、画面を見返した。昼?優が?今まで。会食や父親関連の予定が終わったら、じゃあ先帰っててが普通だった。二人で何かするなんて。一度もなかった。しかも。“軽く昼でも行く?”なんて。夫みたいなこと。四年間で初めてだ。少しだけ。胸がざわつく。でも。遅い。本当に、遅すぎる。数秒迷って。短く返す。【綾香】>>送信。数秒後。既読。そして。すぐ返信。【優】>息が止まる。なんだろう。少しだけ、引っかかる。こんなこと。聞かれたことあったっけ。【綾香】>>既読。……止まる。返信が来ない。珍しい。でも、なぜか。少しだけ空気が重い気がした。***昼頃。リビングに降りると。珍しく。優がいた。平日なのに。在宅らしい。ソファでパソコンを開いていた。でも。綾香に気づくと。一瞬だけ手が止まる。「おはよう」低い声。珍しい。優の方から。私は少しだけ戸惑う。「……おはよう」沈黙。コーヒーを淹れる音だけが響く。その時。優がぽつり。「土曜」少し間。「午後、何時から?」振り返る。「え?」優はパソコンを見たまま。でも。少しだけ言いづらそうだった。「研修」「何時まで?」時間が止まる。なんで?そんなこと。聞く人だった?今まで。私の予定なんて。一度だって気にしたことなかったのに。「……夕方くらい?」少し曖昧に答える。すると。優が少しだけ黙った。何か考えてる顔。そして。ぽつり。「……なら」

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status