LOGIN「時間作ってくれる?」 「……うん」 「忙しくても?」 「隼人くんもでしょう」 「俺は作るよ」 返事は。 すぐだった。 少しだけ。 胸が温かくなる。 仕事が変わっても。 同じ場所で働かなくなっても。 会うために。 互いに時間を作る。 夫婦だった頃。 優とは。 同じ家に住んでいるだけで。 会う努力をしなくなっていた。 隼人くんとは。 別々の場所にいても。 会いたいと。 言っていい。 その違いが。 静かに胸へ残った。 「ありがとう」 綾香が言うと。 隼人くんが少し眉を上げた。 「何が?」 「止めないでいてくれて」 「止めたくないだけだよ」 「でも」 「俺が格好いいこと言ったみたいになるから」 「言ったと思う」 「そっか」 隼人くんが笑う。 綾香も。 小さく笑った。 その後。 食事をしながら。 病院のことをもう少し話した。 研究室へ顔を出してよかったこと。 大貴と石川先生とは。 今後も情報交換を続けること。 研究に戻らなくても。 関係を切る必要はないと分かったこと。 隼人くんは。 一つずつ聞いてくれた。 やがて。 話が途切れる。 隼人くんが。 茶器を持ったまま。 こちらを見ている。 「何?」 尋ねると。 少しだけ目を細めた。 「今日会ってからだけど」 「うん」 「あの日のこと、思い出してた?」 何を。 とは聞かなかった。 聞かなくても。 分かった。 胸が。 急に速くなる。 「少し」 答える。 隼人くんが。 小さく笑った。 「少し?」 視線が。 綾香の唇へ落ちる。 あの日以来。 何度も見た。 短い視線。 でも。 今は。 隠すつもりがないように見えた。 「何回も」 言い直すと。 隼人くんの目元が。 少しだけ柔らかくなった。 「俺も、会ったら余計に」 低い声だった。 唇が。 また熱くなる。 隼人くんは。 手を伸ばさない。 向かいに座ったまま。 視線だけが。 少し近い。 あの日。 一度触れた。 それから。 何もなかったように。 以前の距離へ戻ることはできない。 でも。 触れたからといって。 次へ進まなければならないわけでもない。 二人とも。 あの日を覚えている。 そのことだけを。
*** 案内されたのは。 店の奥にある、小さなテーブルだった。 向かい合って座る。 店内には。 乾いた茶葉の香りが広がっていた。 壁際には。 茶器や缶が並んでいる。 周囲の話し声も小さく。 落ち着いて話せそうな場所だった。 隼人くんがメニューを開く。 その手を見た瞬間。 あの日。 髪へ触れられた時のことを思い出した。 頬の近くへ来た指。 唇が触れる前に。 一度止まった動き。 綾香は。 慌ててメニューへ視線を落とす。 「何飲む?」 「まだ見てる」 「ずっと同じところ見てるよ」 「ちゃんと見てる」 「そっか」 隼人くんは。 それ以上言わなかった。 茶葉と。 簡単な料理を選ぶ。 店員が離れると。 テーブルの上へ。 静かな時間が落ちた。 以前なら。 隼人くんとの沈黙を。 気まずいと思うことはなかった。 今も。 嫌ではない。 でも。 今日は。 目が合うたびに。 あの日の距離を思い出す。 綾香だけなのだろうか。 そう思い。 そっと顔を上げる。 ちょうど。 隼人くんもこちらを見ていた。 目が合う。 いつもより。 少しだけ長い。 隼人くんは。 視線を逸らさず。 先に口を開いた。 「面談」 声は。 仕事の話をする時のものだった。 「どうだったのか、聞かせて」 その言葉で。 ようやく頭が切り替わる。 「うん」 綾香は。 今日聞いたことを話した。 病棟勤務へは。 段階を踏んで戻ること。 当直やオンコールも。 病院の流れへ慣れてから始めること。 クリニックの勤務を。 月に数回なら残せる可能性があること。 そして。 専門医取得に向けて。 以前の研修歴を確認しながら。 再開できるかもしれないこと。 隼人くんは。 途中で話を奪わなかった。 必要なところだけを。 短く尋ねた。 「病棟は、最初から一人で持つの?」 「最初は指導を受けながら」 「当直は?」 「慣れてから」 「クリニックは?」 「毎週固定は難しいけど、月に何回かなら」 「そっか」 一つずつ。 綾香が聞いてきた条
隼人くんと会う約束をしていたのは。電話をしてからすぐだった。待ち合わせの時間より。 少しだけ早く着いた。 駅から離れた通りには。 仕事を終えた人たちが、途切れることなく歩いている。 店の明かり。 車の音。 少し冷たくなった夜の風。 何度か通ったことのある場所なのに。 今日は。 どこを見ても落ち着かなかった。 綾香はスマホを取り出す。 約束の時間までは。 まだ十分ほどある。 隼人くんに。 面談のことを話すために会う。 病院で働きたいと思ったこと。 専門医取得に向けた研修を、再開したいと思ったこと。 研究は。 いつか戻りたい。 けれど。 今は臨床へ集中したいと決めたこと。 それを。 きちんと伝えたかった。 電話でも。 少しは話した。 けれど。 声だけでは足りなかった。 隼人くんの顔を見ながら。 自分が選んだことを聞いてほしかった。 そのために会う。 理由は。 それで十分なはずだった。 それなのに。 さっきから何度も思い出すのは。 病院のことではない。 あの日。 初めてキスをした。 隼人くんが。 ギャラリーまで迎えに来てくれた夜。 抱き締められて。 何度も確かめられて。 私が頷いて。 ようやく。 唇が触れた。 あの日以来。 クリニックでは。 いつも通り働いていた。 院長と勤務医として。 患者のことを話して。 検査結果を確認して。 廊下ですれ違えば。 仕事の言葉を交わす。 隼人くんも。 必要以上に近づかなかった。 二人きりになっても。 触れようとはしなかった。 何も変わっていないように。 同じ職場で働いた。 でも。 本当は。 何も変わっていないわけではなかった。 目が合うたびに。 あの日を思い出す。 隼人くんの視線が。 ほんの少し唇へ落ちた気がするだけで。 胸の奥が熱くなる。 院長室で二人きりになれば。 あの時の呼吸を思い出す。 あの日以前の距離には。 もう戻れない。 触れたことを。 二人とも知っているから。 「綾香ちゃん」 背後から。 聞き慣れた声で呼ばれた。 身体が。 少しだけ強張る。 振り返る。 隼人くんが。 少し離れた場所に立っていた。 白衣ではない。 濃い色のシャツ。 薄手のジャケット。 長い髪
誰かに取れと言われたからではない。 肩書が必要だからでもない。 今。 自分が医師として。 もう一度、進みたいと思った。 「研究については」 診療科長が資料を確認しながら尋ねる。 「以前、関心があると伺っていましたが」 「はい」 綾香は答える。 昨日。 石川先生と大貴へ伝えた言葉を思い出す。 「将来的には」 「また研究へ戻りたいと思っています」 「ただ」 迷わず続けた。 「今は、臨床へ戻ることと」 「専門医取得に向けた研修を優先したいです」 「すぐに研究時間を希望するわけではない?」 「はい」 「まずは、目の前の仕事を」 「きちんとできるようになりたいと思っています」 診療科長が。 静かに頷いた。 「分かりました」 研究を諦めたわけではない。 けれど。 採用されるために。 研究もできますと付け足さなかった。 今の自分が。 何をしたいのか。 はっきり伝えられた。 プロジェクトについても。 現在、臨床側の医師として参加していること。 頻度は高くないこと。 病院勤務へ支障が出ない形で継続したいことだけを説明した。 詳しい内容までは話さなかった。 今日決めたいのは。 プロジェクトの働き方ではない。 私が。 この病院で働けるのか。 専門医取得へ向けて。 もう一度進めるのか。 その二つだった。 その後。 勤務日数。 病棟と外来の割合。 当直を始める時期。 給与や休暇について確認した。 簡単ではない。 忙しくなる。 病院勤務へ慣れるだけでも。 時間がかかるだろう。 その上で。 専門医研修を進める。 月に数回は。 クリニックでも診療したい。 それでも。 やってみたいと思った。 面談が終わる頃には。 その気持ちは。 見学の日より、ずっとはっきりしていた。 *** 会議室を出る。 真帆が。 すぐに隣へ並んだ。 「どうだった?」 「思ってたより」 綾香は少し考える。 「ちゃんと大変そうだった」 真帆が吹き出す。 「何それ」 「でも」 綾香は続けた。 「ここで働きたいと思った」 真帆の表情が。 少しだけ柔らかくなる。 「専門医のことも聞いた?」 「うん」 「前の研修」 「全部なくなったわけじゃないって」 口にすると。 ようやく実
「急に全員を手放すのではなく」 「病院勤務へ支障が出ない範囲で」 「診療を続けたいと思っています」 「毎週固定の勤務は難しい可能性があります」 事務担当者が言う。 「病棟や当直との調整が必要になりますので」 「承知しています」 「病院の勤務を優先した上で」 「月に何回可能なのかを相談したいです」 以前なら。 条件が難しそうだと思った時点で。 希望を引っ込めていたかもしれない。 でも。 続けられない働き方を。 採用されるためだけに受け入れても意味がない。 診療科長が頷く。 「月に数回であれば」 「勤務開始後の状況を見ながら、調整できると思います」 確約ではない。 それでも。 最初から否定されなかった。 綾香は。 小さく頭を下げた。 「ありがとうございます」 「それから」 専門研修担当の医師が。 別の資料へ手を伸ばした。 「専門医取得についても」 身体が。 少しだけ強張った。 「以前の研修歴を確認しています」 綾香は。 膝の上で指を重ねた。 大学病院にいた三年間。 指導医のもとで診療し。 必要な症例を経験し。 記録を残していた。 専門医取得へ向けた研修は。 着実に進めていた。 ただ。 まだ十分ではなかった。 取得が見えるところまで。 進み切っていたわけではない。 結婚を機に病院を離れ。 その積み重ねも。 途中で止まった。 「現在の制度との照合が必要です」 医師は慎重に続けた。 「当時の研修内容が」 「すべてそのまま認められるとは限りません」 予想していた答えだった。 制度が変わっている可能性もある。 不足している症例も。 新たに必要になる研修もあるだろう。 「ただ」 医師が資料へ指を置いた。 「研修歴や症例記録は、かなり残っています」 綾香は顔を上げた。 「すべてを一から始める必要はないと考えています」 一瞬。 言葉の意味が。 胸の中へ入ってこなかった。 「残っている記録を確認して」 「不足している症例や研修内容を整理した上で」 「改めて研修を再開する形になるでしょう」 再開。 その言葉が。 胸の中へ落ちる。 最初からではない。 だからといって。 すぐ取れるわけでもない。 以前積み上げたところから。 足りないものを確認して。
面談の日は。 思っていたよりも早く来た。 午前中。 綾香は、いつも通りクリニックで患者を診た。 症状を聞いて。 検査結果を確認して。 薬の変更について説明する。 次の予約を決め。 カルテを閉じる。 最後の患者を見送るまでは。 普段と何も変わらなかった。 けれど。 白衣を脱ぎ。 ジャケットへ袖を通した瞬間。 少しだけ、呼吸が浅くなった。 今日は。 見学ではない。 本当にここで働く可能性を持った医師として。 真帆の病院へ行く。 鏡の前で髪を整える。 派手ではないブラウス。 落ち着いた色のジャケット。 面接というより。 働き方を確認するための面談だと聞いている。 病院側が私を見るように。 私も。 自分が働ける場所なのかを確かめる。 そう思っていても。 緊張はしていた。 更衣室を出る。 院長室の前を通りかかった時。 ちょうど扉が開いた。 隼人くんが。 手元の書類を見ながら出てくる。 白衣姿。 院長の顔。 けれど。 こちらに気づいた瞬間。 目元が少しだけ柔らかくなった。 「もう行く?」 「うん」 自然に敬語が落ちた。 隼人くんは。 廊下の時計を見る。 「時間、大丈夫?」 「余裕あります」 「そっか」 周囲には。 まだスタッフがいる。 隼人くんはそれ以上近づかず。 普段と変わらない距離で立っている。 「昨日、話してたこと」 声を少し落とした。 「ちゃんと聞いてきて」 研究へ戻るのは今ではない。 まずは臨床へ戻り。 専門医取得に向けた研修を、もう一度進めたい。 昨日。 石川先生と大貴へ伝えたこと。 「うん」 綾香は頷いた。 「病院に合わせるだけじゃなくて」 隼人くんが続ける。 「綾香ちゃんが続けられる場所か、ちゃんと見てきて」 以前の私なら。 採用されることを優先したと思う。 何曜日でも働けます。 当直もできます。 必要なことは全部やります。 そう答えて。 自分の希望は。 最後まで言わなかったかもしれない。 でも。 今日は違う。 「分かった」 答えると。 隼人くんが、小さく笑った。 「終わったら」 「一番に話す」 綾香が先に言う。 隼人くんは。 少しだけ目を見開いた。 それから。 嬉しそうに頷く。 「うん」 *
「……誰それ?」優の声に、思わず指が止まった。寝室へ向かおうとしていた足も、その場で止まる。振り返ると、優はソファに座ったままこちらを見ていた。正確には、私ではない。私の手の中にあるスマホ。そこに表示されている名前を見ている。【綾瀬隼人】たった四文字の名前。それだけなのに、優は珍しく視線を外さなかった。私は少し戸惑う。こんなこと、今までなかった。私が誰と会おうと。誰と連絡を取ろうと。優は興味を示したことがない。会社の同僚。学生時代の友人。みかのことだってそうだ。誰とどこへ行くのか聞かれた記憶はほとんどない。だからこそ、その反応が妙に不自然だった。「……知
「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生がそう言った瞬間、その言葉だけが妙に耳に残った。逃げる。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじくりと痛む。離婚する。家を出る。今の生活を終わらせる。頭では何度も考えていたはずなのに、「逃げる」という表現にすると急に現実味が増した。同時に、どうしてか罪悪感も湧いてくる。私は被害者のはずだった。夫は愛人を家に住まわせている。結婚生活なんて、とっくに壊れている。誰が見てもおかしい状況なのに。「逃げるのは悪いことなんじゃないか」という感覚が残っていた。ずっと我慢することが当たり前だったからだ。気づけば、自分の気持ちより相手を優先する癖が染
「……それ」綾瀬先生の視線が、スマホに落ちた。そして。少しだけ、眉が寄る。「旦那さんですか?」反射的に、スマホを伏せた。「……違います」ほとんど条件反射だった。見られたくなかった。惨めな自分を。既婚者なのに。全然、大事にされていない現実を。家に帰るかどうかを、愛人の都合で決められる妻。そんなもの。第三者に見せられるほど、強くない。数秒だけ。静かな空気。ちょっと変な空気になる。そして。綾瀬先生が、少し困ったように笑った。「いや、それはちょっと無理あるよね」みかが横から吹き出す。「先生、正解です」身を乗り出して言う。「しかも超最低なんですよ、この人の旦
「返信しなよ、このタイミングだし」みかが、にやにやしながらスマホを指差した。「いや、無理でしょ」即答した。「なんて返すのよ、そもそも」「普通に、“どうしました?”でいいじゃん」「え、でもそんな感じの距離じゃないし」言いながら、スマホの画面を見る。【綾瀬隼人】『こんばんは。 この前の学会ぶりです。 急だけど、今少し話せたりする?』おかしい。なんで、このタイミングなんだろう。学会で少し話しただけの相手だ。連絡先だって、半ば強引に交換された。『現場戻りたくなった時のため』そう言って、名刺を渡されて。ついでみたいにメッセージアプリまで聞かれた。断るほどの理由もなく







