LOGIN「そういえば」話が途切れたところで。綾香は。今日見た名前を思い出した。「病院に来てる先生で」「うん」「前に話した」「最初のオンコールの日に来てくれた外科の先生」隼人くんが頷く。「郁人先生?」「うん」名前を知っていることに。少し驚いた。以前。一度だけ話したことを。覚えていたらしい。「今日」綾香は続けた。「手術予定の書類で」「フルネームを見たの」隼人くんの表情が。少しだけ変わる。「何て?」「綾瀬郁人先生」一度。短い沈黙が落ちた。隼人くんは。驚くというより。頭の中で。何かをつなげたような顔をした。「兄貴だね」やはり。そうだった。「多分」綾香は。少しだけ笑う。「お兄さんじゃないかと思って」「そう」隼人くんが。小さく息を吐いた。「その病院に来てたんだ」「知らなかった?」「どこで手術してるかまでは」「いちいち聞かないから」隼人くんらしい答えだった。「似てる?」隼人くんが聞く。「顔?」「うん」綾香は。少し考えた。「言われたら」「少しだけ」「少しだけなんだ」「雰囲気が違いすぎるから」「兄貴は」隼人くんが。少しだけ笑う。「隙がないでしょう」「うん」すぐに答えると。隼人くんの笑みが。少し深くなった。「やっぱり」「でも」綾香は続ける。「冷たい人ではないと思う」「そうだね」返事は。思っていたより早かった。「郁人兄貴とは」少しだけ間を置く。「別に仲悪くないよ」“郁人兄貴とは”。ほんの少しだけ。言葉に含みがあるように聞こえた。でも。綾香は。そこを追わなかった。家族の中に。それぞれ違う距離があることくらい。不自然ではない。隼人くんが。今。話したいところまででいい。「どういう人?」綾香が聞く。「もう会ってるでしょう」「病院でしか知らないから」隼人くんは。少し考えた。「見たままだよ」「説明になってない」「ちゃんとしてる」「それは分かる」「自分がやることと」少し言葉を探す。「やらないことが、はっきりしてる」郁人先生の。淡々とした話し方を思い出す。必要なことには。きちんと答える。けれど。自分から。余計な説明はしない。「この前」綾香は言う。「別の病院で働いてるんですかって聞いたの」「うん」
その日。綾香は。翌週の手術予定を確認していた。病棟へ配られた一覧には。患者の名前。担当医。執刀医。必要な情報だけが。細かく並んでいる。自分が関わる患者の欄へ。順番に目を通す。そこで。一つの名前に。視線が止まった。【綾瀬郁人】一度。目で追い直す。郁人先生。病院では。誰も名字で呼ばない。看護師も。医師も。当たり前のように。郁人先生と呼んでいた。だから。フルネームを見るのは。初めてだった。綾瀬。珍しい名字ではない。けれど。医師で。隼人くんより少し年上に見える。別の病院で働きながら。こちらへ手術に来ている。そして。隼人くんには。医師をしている兄がいる。偶然かもしれない。そう思いながらも。一度気づくと。無関係には思えなかった。「白松先生」近くにいた看護師から呼ばれ。綾香は顔を上げた。「すみません」「来週の患者さん」「こちらで合っています」「ありがとうございます」書類を返す。郁人先生について。その場で尋ねることはしなかった。家族のことを。病院の人に確かめる必要はない。隼人くんへ聞けばいい。そう思った瞬間。最後に顔を見た日を思い出した。メッセージは交わしている。電話も。数分なら何度かした。それでも。落ち着いて会えたのは。少し前だった。隼人くんも。クリニックの拡大準備で忙しい。綾香も。病院勤務へ戻ってから。以前より帰宅が遅くなった。会いたいと思っても。互いの予定を見れば。また今度でいいかと。画面を閉じてしまう日が続いていた。今日も。病院を出た後は。まっすぐ帰るつもりだった。けれど。郁人先生の名字を知ったことで。隼人くんの顔が浮かんだ。確認したいから。それだけではない。久しぶりに。会いたいと思った。***勤務を終え。病院を出る。日中の熱が。まだ道路に残っていた。空は。薄い青から。少しずつ夜の色へ変わっている。駅へ向かう人の流れに入り。途中で。足を止めた。このまま電車へ乗れば。家に帰る。少し早く眠れる。明日の準備もできる。けれど。綾香は。スマホを取り出した。隼人くんとの画面を開く。『まだクリニック?』送る。すぐには。返事が来なかった。忙しいのだろう。やはり。今日は帰ろうかと思
「それで」郁人先生が言う。「本当に大丈夫なら」「いいと思います」「そうじゃない時は?」「言わない方がいいでしょう」淡々とした答え。でも。否定されている感じはなかった。ただ。そう考える人なのだと分かる。「郁人先生らしいですね」綾香が言うと。郁人先生が足を止めた。「僕らしい?」「たぶん」「まだ」少しだけ間を置く。「何度かしか会っていませんが」「そうですね」郁人先生は。それ以上聞かなかった。ただ。もう一度歩き出す。綾香も。その隣へ並んだ。何を考えているのか。分かりやすい人ではない。でも。分からないことを。曖昧な言葉で埋めない。その点だけは。とても分かりやすかった。***その週。プロジェクトの会議があった。病院勤務が始まってから。綾香が参加できる回数は減っていた。それでも。臨床側の意見が必要な場には。できる限り出るようにしている。クリニックだけにいた頃とは。見えるものが少し変わった。病院から患者を送り出す側。地域で受け入れる側。両方の流れを。以前より具体的に考えられるようになっていた。会議では。病院から地域へ共有される情報について。話が出た。綾香は。病棟で感じたことを。簡潔に伝えた。現場では。情報が多いことよりも。何が決まっていて。何がまだ決まっていないのか。すぐに分かる方が重要だということ。言いながら。郁人先生との会話を思い出していた。分からないことを。分かるようには言わない。決まっていないことを。決まったようには話さない。当たり前のようで。実際には。簡単ではない。会議が終わった後。大貴から。短いメッセージが届いた。『病院側の視点、前より具体的になったね』綾香は。少しだけ笑った。病院へ戻ったことで。自分の仕事が増えただけではない。プロジェクトで伝えられることも。確かに変わり始めている。翌日。病院の廊下で。郁人先生を見かけた。看護師と話し終え。こちらへ歩いてくる。「郁人先生」綾香から声をかけると。郁人先生が足を止めた。「はい」「この前の話」「どの話ですか」「決まっていないことを」「決まったように言わないという話です」郁人先生は。一度だけ考えるように視線を動かした。「はい」「プロジェクトの会
郁人先生とは。その後も。病院で何度か顔を合わせた。毎週いるわけではない。決まった曜日に来るわけでもない。手術がある日。術後の確認が必要な日。呼ばれた時だけ現れ。必要なことを終えると。いつの間にかいなくなっている。それでも。姿を見かければ。もう誰なのか迷うことはなかった。「郁人先生」看護師が呼ぶ。その声に。自然と視線が向く。いつも。服装はきちんとしている。白衣を着ていても。着ていなくても。どこか整って見えた。髪。袖口。持っている書類。歩く速さ。何一つ。乱れているところがない。だからといって。近寄りがたいわけではなかった。看護師が話しかければ。足を止める。若い医師が質問すれば。短くても答える。患者へも。必要な説明はきちんとする。声を荒らげることも。不機嫌そうにすることもない。ただ。余計なものがない。笑わせようとしない。親しげに振る舞わない。自分をよく見せようともしない。それなのに。冷たくは見えなかった。不思議な人だと思った。***その日。綾香は。手術を終えた患者の記録を確認していた。午後の病棟は。午前中より少しだけ静かだった。窓から差し込む光が。廊下の床へ長く伸びている。近くでは。看護師が小さな声で申し送りをしていた。「白松先生」呼ばれて。顔を上げる。郁人先生が。少し離れたところに立っていた。片手には。薄いファイル。「はい」綾香が近づくと。郁人先生は。開いていたページをこちらへ向けた。「この患者さん」「明日の朝」「ここだけ確認してください」指された部分を見る。術後の経過に関する。簡単な確認だった。「分かりました」「変化がなければ」「そのままで大丈夫です」「はい」郁人先生は。ファイルを閉じた。話は。それで終わったように見えた。けれど。その場を離れなかった。綾香も。なぜか動くタイミングを失った。少しだけ。沈黙が落ちる。気まずいわけではない。郁人先生は。沈黙を気にしている様子もない。ただ。窓の外へ一度視線を向けた。「もう」郁人先生が言う。「病院には慣れましたか」突然の問いだった。「少しずつ」綾香は答えた。「最初よりは」「そうですか」それだけ。もう少し続くのかと思ったが。郁人
「必要なことは入っています」郁人先生が答える。「なので」少しだけ間。「今の方が分かりやすいです」褒められている。やはり。言われてから少し経たなければ。分からない。「ありがとうございます」答えると。郁人先生は。それ以上何も言わず歩き出した。相変わらず。淡々としている。けれど。初めての夜から。自分が変わっていることを。見ていたらしい。そのことが。思っていたより胸へ残った。***別の日。夕方の病棟で。綾香は。若い医師から相談を受けていた。患者への説明について。どの順番で話すべきか迷っているという。以前の自分なら。正しい答えを伝えようとしたかもしれない。今は。まず。その医師が。何を気にしているのかを聞いた。患者本人の希望。家族の受け止め方。まだ決まっていないこと。全部を整理してから。「分からないことまで」「決まったように言わなければいいと思う」そう答えた。医師は。少し考えてから頷く。「一緒に来てもらえますか」頼まれて。綾香は。少しだけ驚いた。それでも。「いいですよ」と答えた。以前の自分なら。誰かの説明に同席することを。まだ早いと思ったかもしれない。今は。自分にできる役割なら。受け取ってもいいと思えた。話を終え。病室から出る。廊下の先に。郁人先生が立っていた。壁際で。別の医師と話している。会話が終わり。こちらへ歩いてくる。「今の患者さん」郁人先生が尋ねる。「説明は終わりましたか」「はい」「どうでした」「まだ決まっていないことと」「今分かっていることを分けて伝えました」郁人先生は。短く頷いた。「そうですか」それだけで。通り過ぎる。少し進んでから。また足が止まる。「白松先生」「はい」「病院へ戻って」「どれくらいですか」突然の質問だった。「一か月少しです」「そうですか」表情は。変わらない。「もう少しいるように見えます」綾香は。思わず郁人先生を見る。冗談を言っている様子はない。褒めているのかも。やはり分かりにくい。「それは」少し迷う。「良い意味ですか」郁人先生が。初めて。ほんのわずかに目を細めた。「悪い意味で言う必要はないでしょう」それだけ答え。今度こそ歩いていった。綾香は。その
***最初のオンコールを終えてから。病院での時間は。少しずつ。特別なものではなくなっていった。朝。職員用の入口から入り。更衣室で白衣へ着替える。首から職員証を下げ。スタッフルームへ向かう。最初の頃は。廊下を歩くだけで。周囲の音をすべて拾っていた。誰かに呼ばれるたびに。自分ではないかと振り返った。院内の放送。足早に通り過ぎる看護師。開閉するエレベーター。それだけで。身体のどこかが緊張していた。今は。必要な音だけを。自然に聞き分けられるようになった。「白松先生」名前を呼ばれれば。すぐに顔を上げる。確認を頼まれたことへ答え。分からないことは。その場で尋ねる。一日の流れも。少しずつ見えるようになった。以前の自分へ戻ったわけではない。以前より。速く動けるようになったわけでもない。それでも。病院の中で。何を優先するべきか。少しずつ判断できるようになっていた。最初は。一つのことが終わるまで。次へ移れなかった。今は。途中の仕事を頭に残したまま。急ぐものへ先に向かえる。誰へ確認するのかも。迷う時間が減った。帰宅した後。自分が何もできなかったように感じる日も。少なくなっていた。患者の顔。交わした言葉。自分で判断できたこと。助けを求められたこと。それぞれが。一日の中へ。きちんと残るようになった。病院へ戻ったのだと。ようやく。身体の方も理解し始めていた。***専門医取得に向けた研修についても。少しずつ話が進んだ。以前の研修記録。経験した症例。認められる部分と。改めて積み上げる必要があるもの。まだ。全体が決まったわけではない。取得まで。どれだけ時間がかかるのかも分からない。それでも。自分がこれから何をするのかは。以前より見えるようになった。急いで。失った時間を埋める必要はない。一つずつ。必要な経験を積む。記録を残す。分からないことを学ぶ。病院の勤務へ慣れることも。その一部だった。以前なら。もっと早く。もっと多く。そう考えたかもしれない。今は。今日できることを。翌日へ残さず終える。それで十分だと思える日が増えていた。「最近」昼食を取りながら。真帆がこちらを見る。「顔が戻ってきたね」「何の顔?」「病院で働いて
6月10日。4回目の結婚記念日。そして——私が、あと1年で離婚しよう。そう、決めた日。本当なら、こんな日になるはずじゃなかった。少なくとも、4年前の私はそう思っていた。その日の午後6時にちょうどなった。さっきから、時計が次の針に進むのを見つめては。帰ってこない夫への諦めが募り。ため息が溢れた。私東郷綾香(とうごうあやか)はテーブルの上にまだ湯気の立つ料理を並べる。壁の時計をもう見たくなかった。さっきから、穴が開くほど見つめている。夫である東郷優(とうごうゆう)の帰宅予定は、7時だったはず。もう、1時間前なのに。連絡は、全く取れずにいた。まだ、遅くない。——期待なんて
「……行かなきゃダメなの?」空気が、一瞬止まった。優の口からそんな言葉が出るとは思わなくて、私は少しだけ目を瞬く。「……え?」聞き返すと、優は一瞬だけ視線を逸らした。そして、いつものように少し面倒そうな顔をする。「別に」そっけなく、理由を説明することが煩わしいという態度だ。「最近、変な勧誘とか多いし」….言い訳みたいだった。私を心配している、というには雑で。でも、完全にどうでもいいなら出てこない言葉。その曖昧さが、妙に引っかかる。咲子さんが、ふっと笑った。「あー、優ってほんとそういうとこ心配性だよね」その言い方が、あまりにも自然だった。昔から知っている人の声。
「……誰それ?」優の声に、思わず指が止まった。寝室へ向かおうとしていた足も、その場で止まる。振り返ると、優はソファに座ったままこちらを見ていた。正確には、私ではない。私の手の中にあるスマホ。そこに表示されている名前を見ている。【綾瀬隼人】たった四文字の名前。それだけなのに、優は珍しく視線を外さなかった。私は少し戸惑う。こんなこと、今までなかった。私が誰と会おうと。誰と連絡を取ろうと。優は興味を示したことがない。会社の同僚。学生時代の友人。みかのことだってそうだ。誰とどこへ行くのか聞かれた記憶はほとんどない。だからこそ、その反応が妙に不自然だった。「……知
「逃げる準備、始めよっか」綾瀬先生がそう言った瞬間、その言葉だけが妙に耳に残った。逃げる。たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がじくりと痛む。離婚する。家を出る。今の生活を終わらせる。頭では何度も考えていたはずなのに、「逃げる」という表現にすると急に現実味が増した。同時に、どうしてか罪悪感も湧いてくる。私は被害者のはずだった。夫は愛人を家に住まわせている。結婚生活なんて、とっくに壊れている。誰が見てもおかしい状況なのに。「逃げるのは悪いことなんじゃないか」という感覚が残っていた。ずっと我慢することが当たり前だったからだ。気づけば、自分の気持ちより相手を優先する癖が染







