LOGIN私は優を見る。『...何を?』聞くのは、正直少し怖い。それでも、知りたい気持ちを止められなかった。『白松先生の考え方を』『自分がどういう立場なのかを』『この結婚に、恋愛を求めていないことを』優はそこで一度息を止めた。『だから、咲子を手放さなくても』『綾香は最初から納得しているんだと』『都合よく、そう思った』その言葉は、謝罪に近かった。でも、謝られるよりも先に、私はその言葉を受け取ってしまった。都合よく。本当に、その通りだと思った。優は私を騙したのではない。私が傷つかないと思ったのでもない。私が傷つくことも、諦めることも、全部込みで受け入れていると決めつけた。その方が、優にとって都合がよかったから。咲子さんを手放さなくていい。私に深入りしなくていい。父の言葉を理由にできる。全部、綺麗に収まる。私は、その収まりのいい場所に置かれていた。『優』名前を呼ぶと、優の肩がかすかに動いた。『理解していることと』『傷つかないことは違うよ』優は何も言えなかった。私は続けた。『私は、分かってた』『お父さんがどういう人かも』『この結婚が普通じゃないことも』『咲子さんがいることも』言葉にするたび、胸の奥が少しずつ冷えていく。『でも』『それでも、少しだけ期待してた』優の目が揺れる。『優にも』『お父さんにも』言った瞬間、もう終わったのだと思った。優への期待は、少しずつ削れていった。でも父への期待は、もっと見えにくい場所に残っていた。父は厳しい。父は冷たい。父は私を家の一部として見る。それでも、どこかで父なのだと信じたかった。でも今日、その小さな期待まで、静かに消えた。私は契約書をそっと閉じた。『父に報告するね』優が顔を上げる。『離婚の時期が決まったこと』『私の口から言う』『綾香』優の声に、制止の気配が混ざる。私は首を横に振った。『大丈夫』『お父さんがどういう人かは、私が一番知ってる』そう言いながら、全然大丈夫ではないことも分かっていた。でも、もう誰かに代わってもらうことではなかった。父に、私は終わりを報告する。白松家の役割を一つ終えたことを。そして、できることなら。もう次の役割には、戻らないために。 ***父に連絡を入れたのは、翌日の昼だった。本当は、少し時間
優がクリアファイルを開く音は、とても静かだった。それなのに、その小さな音が胸の奥にまで響いた気がした。白い紙の束。整えられた文字。ページの端に貼られた薄い付箋。優らしいと思った。大事な書類を雑に扱わない。必要な場所には印をつける。誰が見ても分かるように、順番を揃えておく。そういう丁寧さを、私は知っている。弁護士としての優は、きっと信頼される人なのだと思う。依頼人の話を聞き、条項を整理し、リスクを見落とさない。感情に流されず、必要なものを淡々と積み上げる。その丁寧さが、今は少しだけ残酷に見えた。私たちの結婚も、こんなふうに整えられていたのだ。紙の上では。誰かに説明できる形では。外から見て、問題がないように。優は一枚目を私の方へ向けた。『これが、婚前契約書の写し』私は視線を落とす。婚姻期間。生活費。居住に関する取り決め。離婚時の財産分与。守秘義務。どれも、乱暴な内容ではなかった。むしろ、きちんとしている。私が不利になりすぎないようにも見える。生活費の額も、住居も、離婚後の扱いも、形式としては整っていた。だからこそ、苦しかった。これだけ見れば、誰かは言うかもしれない。十分守られているじゃないか、と。納得して結んだ契約なのだろう、と。何が不満なのか、と。私はその言葉を想像して、胸の奥が静かに冷えていくのを感じた。『書面上は』優が言った。『綾香を守る形にしてある』『うん』『白松先生も、そこはかなり細かく見ていた』『生活費の額も、離婚後に不利にならない条件も』『外から見たら、かなり綾香側に配慮した契約だと思う』私は小さく頷いた。父ならそうするだろう。雑なことはしない。感情的なこともしない。誰かに非難されるような隙は作らない。父は、そういう人だ。人を傷つける時ですら、正しい形を残す。『でも』優の声が少し低くなった。『書面には残ってない話がある』私は顔を上げなかった。上げられなかった。知りたくない、と思った。でも、もう逃げられない。『白松先生は』優が言葉を選ぶように、少し間を置いた。『政界にいる人間は、家族の素養も素行も管理する必要があると言っていた』胸の奥が、静かに沈む。驚きはなかった。父なら言う。そう思った。あの人は、家族を家族としてだけ見ない。家
レストランを出たあと、優は車を少しだけ走らせた。車内は静かだった。さっきまで食事をしていた。海を見て、夜景を見て、優が私の好きだったものを覚えていたことを知った。その時間は、思っていたより穏やかだった。だからこそ、今の沈黙が少し怖い。優が『ちゃんと話してから、終わらせたい』と言った時から、胸の奥に小さな重りが落ちたままだった。終わらせる。私たちは、そのために今日ここにいる。分かっている。それなのに、さっきのレストランで、私はほんの少しだけ楽しいと思ってしまった。そのことが、自分でも苦しかった。優はしばらく黙って運転していた。『ここ』やがて車が小さなカフェの前で止まった。海沿いの通りから一本入った場所にある、遅くまで開いている店だった。大きすぎない灯りが窓からこぼれていて、店内にはまだ何組か客がいる。優は車を駐車場に入れて、エンジンを切った。店に入ると、奥の席に案内された。人目につきにくい、落ち着いた席だった。優はコーヒーを二つ頼んだあと、椅子の横に置いていた鞄を膝の上に乗せた。その動きで、初めて気づいた。鞄の中から、薄いクリアファイルが出てきた。中には、きちんと揃えられた書類が入っている。付箋が貼られ、ページの端はきれいに揃っていた。優らしいと思った。こういうところは、本当に丁寧な人だった。仕事の資料も、契約書も、会食の段取りも。優は必要なものを漏らさない。人から見られる場所では、いつも完璧に整えている。私はその丁寧さに、何度も救われたことがある。同じくらい、苦しくなったこともある。だって、私との生活には、その丁寧さが向けられなかったから。『婚前契約書のコピー』優が静かに言った。『原本は父の事務所にある』『これは、俺の手元に残していた写し』私はファイルを見つめた。それだけなのに、胸の奥が少し冷える。『今日、これを読むの?』『全部を今読む必要はない』優はすぐに首を横に振った。『離婚条件の確認は、また改めてでいい』『今日は、その前に話したいことがある』『話したいこと?』優はカップに触れた。けれど、飲まなかった。『離婚条件に入る前に』『俺たちが最初に何をどう受け取っていたのか、揃えておきたい』私は眉をひそめた。『認識を揃えるって、どういうこと?』優は少しだけ視線を落とし
レストランは、海沿いの少し高い場所にあった。駐車場から見える街の灯りは、まだ夕方の色を残した空の下で、少しずつ光を強めている。さっきまでいた海辺よりも静かで、風も少し冷たい。優は店の入口まで歩きながら、私の方を一度見た。『寒くない?』また、そう聞かれた。『大丈夫』私は同じように答える。けれど、さっきより少しだけ声が柔らかくなっていた気がした。それに気づいて、胸の奥が小さくざわつく。優に優しくされることに、慣れたくない。今さら丁寧に扱われても、何も変わらない。そう思っているのに、身体は勝手に力を抜いてしまう。それが、少し悔しかった。案内された席は窓際だった。大きなガラスの向こうに、夜の海と街の灯りが広がっている。綺麗だった。思わず黙ってしまうくらいに。『ここ、前に来たいって言ってたから』向かいに座った優が、メニューを開きながら言った。私は顔を上げる。『私が?』『うん』『たしか、雑誌か何かで見たって』そんなことまで。記憶の奥を探ると、たしかに思い当たることがあった。結婚して一年目くらいの頃。優がリビングで仕事の資料を読んでいて、私は隣で何気なく雑誌を見ていた。夜景の綺麗なレストラン特集に、この店が載っていた気がする。『いつか行ってみたいな』そう言った。優はその時、確か『そうだね』とだけ返した。本当にそれだけだった。『……覚えてたんだ』今日、何度目か分からない言葉が口からこぼれる。優は少しだけ目を伏せた。『覚えてることもあるよ』その言い方が、苦しかった。覚えていることもある。なら、どうして。どうして、何も知らないふりをしていたのだろう。どうして、私が何を好きでも、何を望んでも、関係ないみたいに生きていたのだろう。責めたい気持ちがないわけではなかった。でも、今日は不思議とその言葉が出てこない。海を見て、少しだけ穏やかになってしまったからかもしれない。それとも、この人が今、必死に何かを取り戻そうとしているのが分かるからかもしれない。注文を終えると、優は水のグラスを少しだけこちらに寄せた。『苦手なもの、変わってない?』『え?』『貝類、あんまり得意じゃなかったよね』...それも、言ったことがある。好き嫌いを聞かれたわけではない。結婚してすぐ、優の父との会食で貝の料理が出た時、
日曜日。外はよく晴れていた。歩道の白さが少し眩しい。車のドアを、優が開けてくれた。今日はスーツではない。白いシャツに暗めのパンツ。仕事の時より少しだけ柔らかい印象で、私は一瞬だけ目を逸らした。『行こうか』『……うん』返事をしながら、どこか妙な気分になる。夫婦なのに。四年も同じ家に住んでいたのに。こうして休日に二人で出かけることが、まるで初めてみたいにぎこちなかった。『車で大丈夫?』優が助手席のドアを開きながら聞く。『うん』『途中で気分悪くなったら言って。少し走るから』その言い方が丁寧すぎて戸惑う。昔はこんなふうに確認されたことがあっただろうか。記憶を探そうとして、すぐにやめた。探したところで見つからない気がしたからだ。助手席に座ると、車内にはほのかな清潔感のある香りが漂っていた。優がエンジンをかける。少しだけ沈黙が落ちた。けれど、不思議と息苦しくはない。ただ二人とも、何を話せばいいのか探している。そんな静けさだった。『寒くない?』しばらく走ったあと、優が聞いた。『大丈夫』『暑かったら温度下げるけど』『本当に大丈夫』そう答えてから、自分の声が少し硬かったことに気づく。優はそれ以上何も言わなかった。昔なら、こんなやり取りすらなかった。私は寒くても黙っていたし、優も気づかなかった。そう思うと、今の優の小さな気遣いが胸に引っかかる。今さら。そう思う。でも今さらだからこそ、どう受け取ればいいのか分からない。車は都心を抜け、少しずつ景色を変えていった。ビルの隙間から見える空が広くなり、道路の先に青が見える。海だ。そう気づいた瞬間、胸の奥が小さく動いた。『……海?』『前に好きだって言ってたから』『私が?』『うん。海を見ると頭が静かになるって』その言葉に息を止める。覚えていたのか。そんな話をした記憶がある。結婚して間もない頃だった。大学病院を辞め、急に時間だけができた頃。何をしていいか分からず、部屋の中で息が詰まっていた時期だ。その時、何気なく言った。海が好き。音があるのに静かだから。頭の中が少しだけ片付く気がするから。優は相槌を打っただけだった。興味があるようには見えなかった。だから忘れていると思っていた。『覚えてたんだ』『覚えてるよ』短い返事。それだけな
午後の診察が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。カルテを閉じ、デスクの端に置いたスマホを見る。不動産会社から届いたメールには、追加書類の項目がいくつか並んでいた。自分の生活を始めるための手続き。そう思えば前向きなはずだった。でも、実際には一つ進むたびに、私は今まで誰かの名前の中にいたのだと思い知らされる。東郷優の妻。白松の娘。その二つの肩書きから抜け出そうとしているのに、書類は簡単に私を一人にしてくれない。勤務先の欄に、綾瀬クリニックと入力する。職業の欄には、医師。その文字を見た時、少しだけ息がしやすくなった。医師。その肩書きだけは、私が自分で手に入れたものだ。少なくとも試験を受けたのは私で、病院で働いていたのも私だった。結婚してから、ずっと遠くに置いてきたもの。もう戻れないと思っていたもの。それを今、また自分の名前の横に書いている。そのことに、少しだけ救われる。『まだやってるの?』ふいに声がして、顔を上げた。診察室の扉のところに、綾瀬先生が立っていた。白衣の前を少し開け、片手にマグカップを持っている。院長室に戻る途中だったのだろう。『すみません。すぐ片付けます』反射的にそう言うと、綾瀬先生は眉をひそめた。『いや、怒ってない』『それ、謝るところじゃないでしょ』その言い方があまりにも自然で、逆に言葉に詰まる。私はいつからだろう。誰かの手を止めたかもしれないと思うだけで、先に謝る癖がついた。優に声をかける時もそうだった。いつの間にか、私の言葉は謝罪から始まることが増えていた。『不動産の追加書類です』私はスマホの画面を少しだけ傾けた。『勤務先確認と、収入見込みの補足が必要みたいで』『ああ、それなら明日事務に出してもらうよ』『でも、まだ入って間もないのに』『入って間もないから、見込みで出すんでしょ』綾瀬先生は当然みたいに言う。『勤務形態と予定給与を書けばいい』『必要なら俺の確認印も出せるし』あまりにも簡単に言われて、私は思わず聞き返した。『そこまで、普通にしていただけるものなんですか?』綾瀬先生は少しだけ目を瞬いた。本当に不思議そうな顔だった。『普通だよ、職場が出すべき書類を出すだけ』『でも』『東郷先生』少し低い声で、私の言葉を途中で止める。『それを頼るって思わなくて