その言葉を聞いて、私は黙り込んだ。車が再び真っ暗な道路を疾走し始めてから、服部鷹の方を再び見た。「どうしてここに来たの?」服部鷹は携帯のロックを解除し、私に投げた。「お前の夫から送られたアドレスだ」私は一瞥し、見知らぬ番号からのメッセージだった。それは必ずしも江川宏からのものに決まらなかった。もっと言えば、私はそれが江川宏からだとは信じたくなかった。服部鷹は私の疑念に気づいたようで、リラックスした姿勢でハンドルを握りながら分析してくれた。「今日のこと、藤原家は金沢世之介に何かの利益を与えて、合意に至ったに違いない。藤原星華がお前を誘拐したのも、江川宏を狙っただろうから、このアドレスは他の誰も知らないはずだ」「金沢世之介の手下は、お前とは全く関係がなく、俺とお前は知り合いだとわからないし、助けに来させるなんてことはない」「だから、このメッセージを送ったのは江川宏に違いない」彼が私とこんなに忍耐強く長々と話すのは初めてだった。私は手のひらを握りしめた。「分かった、ありがとう」また、いつも通りの偽善的な言動だった。前に服部鷹にメッセージを送ったかと思えば、次の瞬間には私に向かって銃を撃った。信号待ちで、服部鷹が私を一瞥した。「病院に行く?」私は首を振った。「家に帰ればいい」本当に疲れた。もう病院に行きたくなかった。体の傷は一見ひどいが、病院に行っても消毒をして、薬を塗る程度だった。家には普段から薬が常備してあった。彼が私に誰かを迎えに行かせると言ったことを思い出し、私は聞いた。「お前の彼女を迎えに行かなかったことで、迷惑はかけてない?」「彼女?」服部鷹は眉をひそめ、私を一瞥した。「お前の想像力は、小説を書かないのがもったいない」私は一瞬驚いたが、彼は淡々と続けた。「彼女は無事だ、いい性格をしてる」私は安心し、もう何を聞こうかと思わなくなった。この出来事を経て、私はまるで死にかけているから、静かになって少し魂が抜けていた。鹿兒島マンションに着くと、服部鷹はまた私を抱えて車を降りた。エレベーターのところに行くと、彼は顎を少し上げた。「ぼーっとしないで、エレベーターを押せ」私は我に返った。「うん」エレベーターを出ると、背の高い体が目に入った。「どうした?」山田時雄
今はただRFの資金が入金されるのを待っているだけで、その後オフィスを借りることができる。山田時雄も藤原家が私に鹿兒島でオフィスを借りさせないように情報をを知っていたのか、少し驚いて言った。「借りられたのか?」「うん」私は頷いた。「オーナーが海外にいるらしい。だから藤原家のことを気にしないでしょう? 遠いから、そんなに気にする必要もないし」「それならいい」山田時雄は頷きながら、慎重に私の傷を消毒し、薬を塗り始めた。そして緊張した声で尋ねた。「痛いだろう?」「まあまあかな」私は心の底から沸き上がる痛みをこらえながら、自分に何度も言い聞かせた。これからは、誰に対しても心を許してはならないと。この世界は、常に強者が弱者を支配して、善意には善意で報いることなどないのだから。......翌日、河崎来依が朝早く私の家にやって来た。彼女はドアを開け、私がすでに起きているのを見て驚いた。「怪我してるのに、なんで少しでも多く寝ないの?」私は手にしていたファッション雑誌を置いて、聞いた。「先輩が話したの?」「うん、先輩が昨夜メッセージを送ってきた」河崎来依はスーパーで買ったものをテーブルに置き、悔しそうに言った。「ごめん、私、飲みに行って、朝起きてからやっとスマホを見たの」「大丈夫、私は何もなかったから」「本当に何もないかどうか、見てみなきゃ分からないわよ」河崎来依は大股で私に近づき、家着を引っ張り上げ、頭から足まで確認した後、怒りで目を赤くしながら言った。「これが何もないって? もうひどいわよ、 誰の仕業だ?」「藤原星華だ」私はまだ痛む手首を持ち上げて、彼女の頭を軽く撫でながらはっきりと伝えた。「来依、彼女はしばらくの間、鹿兒島から離れないだろう。私たちが会社を立ち上げる道は、おそらく険しいものになる」「彼女のところに行ってやるわ!」河崎来依は私の言葉の後半を全く聞かず、立ち上がってすぐに出て行こうとした。私は彼女を呼び止めた。「彼女を探してどうするの? ただ彼女を一発殴ったところで、来依や私に良い結果が得られると思う?」「じゃあどうするのよ?!南がただ痛い思いをするだけなの?」河崎来依はいつものように何もかもを投げ出す覚悟で言った。「彼女のような金持ちのお嬢様の命を代償にするの、悪くな
河崎来依がこんなに真剣な表情を見せるのは滅多にないことで、私は心の中に言い表せない不安がこみ上げてきた。まるで何かが壊されようとしているかのようだった。私はじっと河崎来依を見つめ、唇を軽く噛んで言った。「覚悟はできたわ、話して」「実は......」河崎来依は言葉を詰まらせ、歯を食いしばった後、一気に話し始めた。「大学の時、南を保健室に連れて行ったり、食事を運んでくれたりした人は、江川宏じゃないんだ!」江川宏じゃない?頭の中が一瞬、真っ白になって、ぼーっとしてしまった。しばらくして、ようやく我に返ると、胸に重い石がのしかかったような感覚がして、声が震えた。「本当なの?」本当のことだということを、実は分かっていた。河崎来依はこのことが私にとってどれほど大切かをよく知っていた。彼女が確信がないなら、こんなことを言うはずがなかった。ただ......それなら、私が今まで抱いてきた思いは一体何だったのだろう。河崎来依は頷いた。「うん」「じゃあ......本当に私を助けてくれた人は......」私は深く息を吸い、冷静さを保とうと努めて言った。「本当は山田先輩だったの?」河崎来依は驚いて、「どうして知ってるの!?」「だからそうだったのね......」私は質問に答えず、心の中では次々と切ない思いが溢れ出した。だから。江川宏は、私が好きだったのは山田時雄だと思い続け、私と山田時雄の関係を何度も疑っていたんだ。だから、私がこの出来事がきっかけで彼を好きになったと伝えた時、彼はあんなにも動揺したんだ。彼は私にこう尋ねた。「もし俺じゃなくて他の人が助けていたら、南は俺を好きになるか?」私はもっと早く気づくべきだった!私が思い込んでいただけで、全ては私の盲目さが招いた結果だった......私はこんなにも必死に追い求めてきた光は、実は一度も私を照らしてくれていなかったんだ。彼の優しさは、ほんの一瞬たりとも、私に向けられたことがなかった。彼は私を愛していなかったのに、私が勘違いして彼に心を痛める姿を冷たく見守っていただけだった。あの銃がためらいなく私に向けられたのも、当然のことだった。最初から全ては、私の一方的な思い違いだったんだ。最初から最後まで!!河崎来依は窓の外を見ながら、
河崎来依は裸足のまま玄関へ駆け寄り、ドアを開けた瞬間、少し驚いた。「山田時雄、あなた......南に会いに来たの?」「うん」山田時雄は穏やかに笑いながら、一歩踏み入れ、靴を脱ぎながら私を見た。「今日はどう?まだ痛い?」ほんの一晩しか経っていないのに、再び彼を見ると、なぜか居たたまれない気持ちになった。助けてくれたのは、彼だったんだ。山田時雄は私がぼんやりしているのを見て、笑いながら近づいてきた。「何を考えてるんだ?」「何でもない」私は思考を振り払い、慌てて頭を横に振りながら、先ほどの彼の質問に答えた。「だいぶ良くなったわ、昨日ほど痛くない」「それなら良かった」彼は手に持っていた袋をテーブルの上に置いた。「病院で傷跡を消す薬をもらってきたよ。南の体にはかなりの傷があるから、顔にはないけど、ちゃんとケアしないと跡が残るかもしれない」その件を知ったかも、私は申し訳ない気持ちと感謝の念でいっぱいになり、素直に従った。「うん、夜に薬を交換するときに使うわ」「焦らないで」部屋には暖房が入っていて、山田時雄は白いダウンジャケットを脱ぎながら笑顔で説明した。「傷跡を消す薬は、傷が癒え始めたら使うんだよ」「分かった」私は頷き、メモした。河崎来依がドアを閉めようとした時、デリバリーも届いた。彼女はデリバリーを持ってキッチンに向かった。「今夜の夕食は任せて。あなたたちは座って待っててね」火鍋なら簡単で、彼女の料理の腕を試されることもないから。私と山田時雄は、特に反対しなかった。キッチンからは食器の軽い音が聞こえてくる中、山田時雄は私を横目で見て、少し眉をひそめた。「さっき泣いてた?」「......うん」私は否定しなかった。丸々8年間、恩を勘違いして、人を好きになった。泣いてもおかしくなかった。もし間違いがなければ、私は江川宏をこんなにも深く愛さなかったかもしれななかった。彼は光のような存在で、冷たくて上品な人だったけれど、私は決して彼を自分の光だと誤解し、深くのめり込むことはなかっただろう。せいぜい他の人と同じように、少しだけ好きになって、卒業したらすぐに忘れてしまっていたはずだ。山田時雄は少し困ったように笑みを浮かべたが、私の意図を誤解していたようで、優しく慰めた。「恋愛には縁が大事
空気は、まるで凝り固まったかのようだった。山田時雄は手を伸ばして私の頭を撫で、声は穏やかに響いた。「コンサートに行ったとき、俺が誘いたかった人は南だった......「離婚を待っていた人も、南だった。「二十年も好きだった人も、南だった」彼の声は落ち着いていて、揺るがない決意と執着が漂っており、琥珀色の瞳は光り輝いていた。「南、君だけがいる、他には誰もいない」私の心は、何かに強く引っ張られたような感覚に襲われた。次の瞬間、混乱し、当惑してしまった。実際、私のような人間が、本当に人から大切にされ、愛されるとき、最初に思ったのは「自分にはそんな資格がない」ということだった。私はどうしようもない感情に押しつぶされ、無意識に否定しそうになった。「どうして私なの? あなたたちは長い間の知り合いじゃない、私とあなたは......」「じゃあ、南に言ったことを覚えてるか? 八歳のときに山田家に戻ったって」山田時雄はゆっくりと説明しながら、真っ白な手首を私の前に差し出し、その赤い紐を見せた。「山田家に迎え入れられる前、俺は山口にいた。この紐、覚えてる?」「覚えてない......」私は困惑して首を振った。おばさんの家に迎え入れられる前の記憶は、両親の断片や借金取りに追われていたことしか覚えていなかった。おばさんは、私に飯を与えることだけに、赤木邦康に大分怒られたから、私を病院に連れて行くなんてことはできなかった。その後、働き始めてから医者に相談したことがあって、医者は「大きなトラウマを経た後の記憶喪失症候群」と言った。しかも、時間も経ちすぎていたから、記憶が戻る可能性はほぼないだろうって。「これはあの時、俺に送った誕生日プレゼントだ」山田時雄はその事情を知らず、全く落胆する様子もなく、隣の家のお兄さんのように言った。「大丈夫、これからの人生は長いから、昔のことは私が覚えていれば十分だ」「あなたは......」私は少し躊躇した。「あなたはいつ私に気づいたの?」「それは、南が低血糖で倒れたときだ」山田時雄は優しい眼差しで言った。「他の人が南の名前を呼んでるのを聞いた」彼は少し笑った。「その時、ただの同名かと思ったが、南の多くの習慣が子供の頃と同じままだったと気づいた」私はまばたきをして、尋ねた。
この話をすると、山田時雄も少し心が痛んだ。「だから大学で南と再会したとき、南の人生から何年も欠けていた自分を恨んだ。南をそんなに苦しませたんだ」「先輩、それはあなたのせいじゃない」私が苦難に直面していたとき、彼はまだ子供だった。人生には、自分で歩まなければならない道がある。誰も助けられない。私が最も必要とする時に、彼は手を差し伸べてくれたことは、すでにとてもいいことだった。その会話をしていると、河崎来依が火鍋を持ってきて、ニコニコしながら言った。「二人はどう話してたの? そろそろ火を入れようと思ってるんだけど」山田時雄は応援した。「早く火を入れて、俺は昼ごはんを食べるのを忘れてたから、もうお腹が空いた」この火鍋は、河崎来依がいるから、楽しさと笑い声が絶えなかった。私は徐々に、そのニュースを頭から追い出していった。すべては過ぎ去る、必ず過ぎ去るんだ。翌日、雪は依然として止まず、寒風が厳しく、地面は真っ白になっていた。河崎来依は昨夜泊まっており、電話を受けると、興奮して跳ね上がりそうになった。「南、怪我はどう?今日は外に出られる?」私は水を一杯飲んだ。「どうしたの?」「RFの契約が来たの! すぐに署名しに行けば、昼には資金が入るって!」「こんなに早く?」彼女だけでなく、私も少し興奮してきた。普通、RFのような大規模な外資系企業は、契約の手続きや資金の承認にかなりの時間がかかるはずだが。たった数日で?私たちがRFグループの鹿兒島支社に到着すると、山名佐助がすでに待っていた。私を見ると、彼は微笑んで言った。「ごめん、支社はまだ設立してないから、環境は少し簡素だ」「山名社長、あなたたちは鹿兒島に支社を設立する予定なの?」河崎来依がすかさず尋ねた。山名佐助は隠すことなく、契約書を手渡しながら、言った。「現在は計画中なんだ。本当はもう少し待つつもりだったが、今ちょっとした問題があって、早めに進めざるを得ない」私は何か含みがあると感じたが。何も思いつかず、契約書を受け取って読み始めた。合理的な条項ばかりだった。河崎来依も問題ないと見て、私がサインする前に、不安そうに笑いながら聞いた。「山名社長、そちらの財務部は昼には資金が入ると確定してるか?」「特別な事情があるから、特別
役所の外に立った瞬間、私は今までにないほどの軽さを感じた。河崎来依は私と一緒に残りたかったが、彼女を先に帰らせた。最初に一人で始めることを選んだから、今は一人でスッキリと別れを迎えるべきだ。私は道路を行き交う車を見て、結婚する人々や離婚する人々が出入りするのを眺めていた。それは簡単に判断できるんだ。笑顔の人は結婚し、無表情かお互いに嫌悪の目を向けているのは離婚だった。感情が壊れると、常に品位を欠いていた。幸いなことに、江川宏と私はその問題を抱えていなかった。彼は私に感情を持っていなかったし、私も江川宏を誤って8年も愛してしまっただけだ。ただ、予想していなかったのは、江川宏が一人で来なかったことだった。彼は黒い光沢のあるマイバッハから降りてきて、その後ろには藤原星華がいた。彼の表情はいつものように冷たく無表情で、まるで何も異常を感じていないかのようで、片手をポケットに突っ込み、静かに言った。「入ろう」その口調はあまりにも日常的で、まるで離婚証明書を取りに来たのではなく、ただの食事に来たかのようだった。彼のいつもの薄情さを、極限まで発揮していた。「うん」私は目を伏せて頷いた。藤原星華も一緒に入ろうとしたが、江川宏は口元を歪め、笑みはなく、声が一段と冷たくなった。「どうした? 俺が偽の離婚証明書を取ってお前を騙すと思ってるのか?」「そんなこと思ってない! だって、私があなたと結婚したいからこそ!」藤原星華は彼に甘い声でからかい、車に戻って座り込んだ。「じゃあ、待ってるわ」証明書の手続きは、今までにないほど順調に進んだ。新しい離婚証明書を手にした瞬間、私は完全に解放された。全身が大きく息を吐き出したような感覚だった。私は長く滞在するつもりはなく、手を差し出し、淡々とした声で言った。「私の分をください」江川宏はそのうちの一冊を開き、親指が私の写真をそっと撫で、深い目をして尋ねた。「南......順調か?」「順調だよ」離婚までしたのに、こんな風に偽りの関心を演じる必要はないだろう。私は彼の手から離婚証明書を取り上げた。「これからはもっと順調になるだろうね」私はゆっくり言って、何かを宣告するかのように言った。江川宏の鋭く深い顔立ちが一瞬和らぎ、まるで注意を促すように、ゆっく
私は窓の外を見て、一瞬、涙が雨のように流れ落ちたかのように感じたが、顔はまったく濡れていなかった。視界は驚くほどクリアで、まるで何もかもがはっきりと見えた。家に帰ったばかりのところで、不動産仲介から突然電話がかかってきた。買い手が決まったという。あの海絵マンションの家を購入するとのことだった。しかも、値段を一切値切らずに。買い手と会って話をして、問題がなければ契約を結んで手続きに進めると言われた。海絵マンションに向かう途中、ずっと考えていた。もしこの家がもう少し早く売れていたなら、南希はRFグループの投資に頼らなくて済んだかもしれない。だが、世の中に「もし」はないんだ。とはいえ、大きな支えがあれば楽に進めることもあるし、一長一短だろう。海絵マンションに到着すると、仲介業者の隣に立っている「買い手」を見て驚いた。「山名社長、あなたが......この家を気に入ったんだか?」「そうだよ」山名佐助は少しも驚く様子もなく、非常に穏やかだった。「清水社長、また会ったね」私は笑って言った。「偶然だね。昼に私に資金を投入して、午後には私の家を買うなんて、どうやら私の財運を引き寄せているみたいだね?」「では、この勢いで南希の財運も引き寄せられたらいいな。4Qで最も期待している投資プロジェクトだからね」山名佐助は冗談交じりにそう言った。私は軽く笑い、話を本題に戻した。「本当にこの家を購入するつもりなんだね?」「そうだよ」山名佐助は周りを見渡し、少し残念そうに言った。「この家はまだ新しいように見えるし、内装も非常に丁寧に仕上げられてる。かなり手間をかけたようだが、どうして売ろうと思ったんだ?」「元旦那がくれたものだから」私は爽やかに、率直に答えた。「手元に置いても意味がない。現金に換えた方がいいと思う」愛しているときは、相手の髪の毛一本にも特別な意味があったが。別れた後は、相手の髪の毛一本ですら煩わしいだけだ。ましてや、こんな大きな家はなおさらだった。いつも私に、かつての自分がどれほど愚かで滑稽だったかを思い出させるんだから。山名佐助は眉を上げて言った。「元旦那?彼が浮気したのか?」「大体そんなところね」私は軽く返事をした。江川宏とのことは、あまりにも複雑だった。浮気かどうかの問題
来依は彼の手をパシンと叩き落とした。「自分のテーブルに戻りなさいよ」そう言ってくるりと向き直り、女子チームに呼びかけた。春香は棒付きキャンディーを一本渡しながら、ひそひそ声で言った。「海人のこんな姿、初めて見たわ。前は誰のことも目に入ってなかったし、氷みたいに冷たかったのよ。それが今や、こんな感じだもん」紀香も小声で同意した。「昔、私を助けてくれたときなんて、上から見下ろして『バカ』って一言よ。それっきり、会話らしい会話もなかったし、私が何言っても『うん』しか返ってこなかった」来依も海人の冷淡だった時期を知っていたので、聞いて笑みを浮かべた。「それはちょっと大げさでしょ?さっき、ちゃんと話してたじゃない」「それは、来依さんの顔を立ててくれただけ」「だって清孝にだって、あそこまでしないよ。私のこと助けたときだって、私が清孝の妻だって知らなかったんだから。あとで知ってから、すぐ清孝に借りを作ったもん。あの目に浮かんだあの計算高さ、今でも忘れられない。でもね、それを清孝相手にやれる人なんて、そういないの。だから私は、逆にちょっと嬉しかった」彼女たちはすぐ隣で話していたが、いくら声を潜めたところで、大した意味はなかった。何より、あの二人の男の耳はとても良い。けれど、傍目にはただ笑みを浮かべているようにしか見えず、その目にあるのはどこか甘く柔らかい光だった。――なるほど。どうやら本物の「嫁」ってわけね。この日の来依は、やたらとツイていた。配牌からして、抜群に良かった。とはいえ、あまり勝ちすぎるのも気が引ける。紀香は自分より年下の「妹分」だ。だからいくつかの局では、あえて良い手を崩してまで打っていた。いつの間にか、海人が彼女の後ろに立っていた。それだけでなく、彼は来依の打とうとした牌を押さえ、自分で別の牌を選んで捨てた。来依は彼をにらんだ。「じゃあ代わりにあんたが打てば?」海人は彼女の頭をぽんぽんと叩いた。「お前がミスしそうでな」――このクソ野郎、絶対に気づいてるな。あの腹黒さは伊達じゃない。「いいからほっといて、打てるから!」今回は彼女の言葉にも従わず、来依が崩そうとしていた手をそのまま育てた。紀香が振り込んだ瞬間、彼は来依より早く口を開いた。「ロン」紀
海人はちらりと清孝を見やり、冷たい視線を投げた。――子どもを騙してばかり。それでいて、かつては何年も音沙汰なしで放浪していたくせに。今さら離婚されても、自業自得だ。紀香はもう、昔のあの素直な少女ではなかった。清孝の数言で操られるような存在ではない。「来依さん、海人と仲いいんだから。二人はカップルでしょ?私が付き合う必要ないじゃない」清孝の目に、一瞬、打算の光が走った。「今回のコラボも、宣伝用の撮影が必要だ。ふたりが仲いいなら、きっといい作品になる。ここでは彼女も慣れてないだろうし、手を貸してあげてくれ」来依が口を開こうとしたが、海人が手でそれを制した。来依は彼に向かって、目配せで訴えた。――ほんと仲いいわね、まるで悪だくみコンビって感じ。海人「……」「撮影なんて、あなたいくらでもできる人いるでしょ」紀香は少し揺れたが、清孝の提案に乗るのはどうしても気が進まなかった。「でも君ほど上手くはない」――ナイス、ヨイショにおだて。まるで教科書のような甘言。来依は思わず拍手したくなった。「でも、私も他の仕事があるし……」清孝はやんわりと説得を続けた。「親友のために、少しだけ調整することもできるんじゃないか?」紀香と来依は、実は知り合ってからそれほど時間は経っていない。けれど気が合って、すぐに友達になった。それでいて、来依に九割九分の割引をしてあげるほどだ。紀香がそんなことをするのは、本当に稀だった。しかも、来依がやろうとしている「無形文化財+和風スタイル」ファッションには、彼女自身も興味を持っていた。来依は口を挟んだ。「紀香、やりたいことをやればいい。自分の気持ちを大事にして」清孝の目に、不満の色が浮かんだ。海人が口を開いた。「ひと言、言ってもいいか?」紀香はうなずいた。「あなた、私の命の恩人だから」「じゃあ、うちの嫁さんにちょっと付き合ってくれない?」「……わかった」海人は清孝を見た。その表情には、誇らしげな勝ち誇りと軽蔑が入り混じっていた。清孝「……」来依は実は、裏でずっと「恋バナ」を聞きたくてたまらなかった。でも、女の子がつらい思いをしているのを見るのは気が引けた。だから立場的に何も言わなかったが、本人が残ると決めた以上、
来依はすぐに耳をそばだてた。さっき階下で海人が清孝を紹介したとき、自分が驚いたのは――そう、彼が錦川紀香の十歳年上の旦那だったからだ。まさかこんなに早く会えるとは思っていなかった。佐夜子の話は断片的で、真相は曖昧なままだったが、自分はこの「先に結婚、あとで恋に落ちる」長くて複雑な愛の物語に、強く好奇心を抱いていた。ちょうど何か聞こうとした瞬間、個室の扉が勢いよく開かれた。怒りに満ちた見覚えのある顔がこちらへと向かってきて、そのままテーブルの酒をつかんで清孝の顔にぶちまけた。「卑怯者!」三十代の清孝は、藤屋家のトップに立つ男。その手腕と策略の深さは、言うまでもなかった。その積み上げられた威圧感、所作ひとつにも堂々たる風格が滲み出ている。誰も彼と目を合わせようとせず、ましてや顔に酒をかけるなど、想像もつかないことだった。だが清孝は怒りの色を一切見せず、むしろその目には甘さが滲んでいた。顔を拭きながら、穏やかな声で言った。「来てくれて嬉しいよ」紀香はそのまま去ろうとしたが、清孝に手首を取られて止められた。「せっかく帰ってきたんだ。明日は一緒に本宅に帰ろう」紀香は拒んだ。だが清孝は相変わらず優しく、根気強く続けた。「家族の食事会だよ。君、両親に行くって約束してただろ」「……」紀香は清孝の手を振り払った。「明日、自分で戻るから」そう言って出ていこうとした時、ふと来依の存在に気づいた。「来依さん、なんでここにいるの?」来依は手を軽く振った。「ちょっとしたコラボの打ち合わせがあってね」「誰と?」紀香は目を丸くして清孝を指差した。「まさか……この男と?」来依はうなずいた。紀香はすぐに駆け寄り、来依の腕を取って引っ張った。「来依さん、藤屋清孝って男、あの人の話には罠しかないの。どうしてそんな人と組むの?いつの間にか足元すくわれて、後悔しても遅いよ!」「さあ、行こう!」来依の腕を引っ張るその瞬間、海人が来依の手を取って止めた。それを見て、紀香はようやく海人の存在に気づいた。「あなたもいたの?」海人は軽く頷いた。「来依は俺の婚約者だ」紀香は来依を見て、海人を見て、言いたげな顔をしたまま少し迷った末に口を開いた。「菊池様の人柄は問題ないと思う。
「あなた、前に根絶やしにするって言ってたじゃない。方法あるんでしょ?」海人の父はその言葉にため息をついた。「あれは、昔の話だ。藤屋清孝が新しい協力相手を見つけるなんて、一瞬のことだ。この世の中、河崎来依にしかできないって仕事でもない。たとえ俺たちが裏で何か仕掛けたとしても、藤屋清孝が正面から敵に回ってくるとは限らない。藤屋清孝なら、やる。俺の記憶が正しければ、彼は海人に借りがあるはず」海人の母は驚いた。「いつの話よ?私は聞いてない!」海人の父は彼女の肩をぽんと叩いた。「まずは落ち着け。俺も記憶が曖昧でな、確かじゃないんだが……どうやら、昔、藤屋清孝の妻が無人地帯で動物撮影をしてた時に、犯罪者に絡まれて、ちょうどその時、訓練中の海人が居合わせたらしい」海人の母は海人の訓練時期を思い返した。「その時って、彼女まだ学生だったでしょ?それに、当時はまだ奥さんじゃなかったはず」「今は妻だ」海人の父は海人の母をベッドの端に座らせながら言った。「それに、藤屋清孝は本気になってる」海人の母は枕を拳で何度も叩いた。「一体なんなのよ、これは……全部あなたのせいよ!「あなたが『高杉芹奈なら海人を繋ぎ止められる、河崎来依との関係を絶てる』なんて言うから、私も従ったのに……私、あの時……」「もういい」海人の父が遮った。「今さら何を言っても意味がない」本当に、何を言っても無駄だった。海人の母にできることといえば、二人が自ら衝突して別れるのを待つことだけだった。……海人はやはり、自分のジャケットを来依の肩にかけていた。その鋭い視線は周囲に飛び交い、来依を眺めていた者たちはバツが悪そうに視線を逸らした。今日の海人の働きはかなり大きかったので、来依も特に突っかかることはしなかった。清孝が一通りの挨拶を済ませて戻ってきた。「上に行くぞ」と海人を呼んだ。上の階にはまったく別の空間が広がっていた。下のフロアのように洗練された装飾とシャンパンが飛び交う宴会場とは異なり、そこは大型の娯楽スペースだった。ある個室には麻雀卓がいくつも並べられており、すでに対局が始まっていた。その脇ではポーカーが行われており、見たところ相当な金額が動いていた。来依がちらりと見ただけでも、その場の空気の重さを感じた。
来依は彼の相手をする気もなく、海人を押しのけて勇斗と一緒に食事をしながら話し始めた。海人も後を追おうとしたが、清孝に呼び止められた。清孝は秘書を来依のもとに向かわせ、いくつかの書類にサインさせた。そして、海人のグラスに軽く触れて乾杯の仕草をした。「頭の回転は早いな。俺を『婚約者の盾』に使おうとは。家族にバレたら怒りで倒れるんじゃないか?」海人は来依のいる方を見つめ、目に優しさと確固たる決意を宿していた。「今の俺の唯一の願いは、彼女と結婚することだ」清孝は海人とは長年の付き合いだったが、ここまで何かに執着し、手間を惜しまない彼の姿は初めてだった。その瞳にわずかに陰りが差した。「そうか。君にも弱点ができたわけだ」海人は淡々と返した。「彼女は俺の弱点じゃない」『弱点』とは、敵に利用され、脅され、自分を縛るものだ。彼はそんな状態を望んではいなかったし、来依をそんな危険にさらしたくもなかった。「彼女は、俺と肩を並べて歩ける愛しい人だ」清孝は若干引いたような顔をして、話題を変えた。「高杉家からは、娘の行方を探るために、何重にも人を通じて連絡が来てる君、高杉芹奈を石川に留めてるのは、『本命』のための盾にしてるのか?」海人は首を振った。「違う」「ただ、少し痛い目を見せてやってるだけだ」その目は冷たい光を放ち、鋭さを帯びていた。「全員に、だ」その頃、来依は書類にすべてサインを終え、藤屋家と暫定的にだが、がっちりと結びついた。菊池家がその情報を知ったときには、もう手遅れだった。「私、なんて言った?」海人の母は怒りで声を震わせ、普段の落ち着いた様子はどこにもなかった。「西園寺雪菜の一件があった以上、海人が高杉芹奈を受け入れるわけがない。タイプは違っても、手口は一緒。あんたでも騙されないのに、あんたの息子が騙されるわけがないでしょう!で、どうなったと思う?菊池家の掌握権まで渡しちゃって!河崎来依を藤屋清孝のビジネスパートナーに仕立てて、プロジェクトは藤屋家主導。私たちが手を出そうにも、もう動けない。「藤屋家を敵に回すわけにはいかないわ」海人の父の顔も、すっかり暗くなっていた。前回の雪菜の件では、道木家が介入し、菊池家にもそれなりのダメージが残った。だからこそ、
「君に必要だって分かってたよ。礼はいらない」「……」清孝は海人が酒を受け取らなかったことに特に気にする様子もなく、顔を来依の方に向けて言った。「この件は来依さんに一任するよ。きちんと進めてくれれば、特に注文はない。ただ、いくつか注意点があるから、それは後で秘書から送らせる」来依は軽く腰を折って礼をした。「信頼いただき、ありがとうございます」清孝は他の招待客へ挨拶に行く予定があり、海人に向かって言った。「まず来依さんに何か食べさせてあげて。その後、上の階で麻雀でもしよう。来依さんの先輩も一緒に残って参加してくれ。これから付き合いのある人たちとも顔を合わせる機会だ。ちょうどいい」勇斗は感激で言葉も出なかったので、来依が代わりに礼を言った。清孝が去った後、来依は勇斗の背中を軽く叩いた。「先輩、ビビらないでよ! 私は無形文化財とか和風とか全然分かんないんだから、ちゃんと説明して、あんたの強みを伝えて」勇斗は頭を掻きながら答えた。「来依の言う通りだ。ちょっと緊張しちゃっててさ」そう言われると、来依も納得した。彼女自身、清孝の存在を知ったときには、かなり緊張していたのだ。だから、それ以上は何も言わずに笑って声をかけた。「何か食べよう。あっちで座ろう」「うん」勇斗は食べ物を取りに行った。来依が歩き出そうとした瞬間、腰をそっと抱き寄せられた。振り返ると、海人の冷たくもどこか拗ねたような目がそこにあった。「感謝、いるんじゃないの?」確かに、礼は礼として言うべきだった。助けてもらったことは事実。「ありがとうございます、菊池社長。じゃあ、今度ご飯ご馳走するわ」海人は一歩近づき、声を抑えてささやいた。二人にしか聞こえないように。「ベッドでの『ごちそう』なら、受け取るよ」「……」ちょうどそのとき、勇斗が料理を持って戻ってきた。二人が今にもキスしそうな距離だったのを見て、ようやく気づいた。「この前の食事、お前もいたのか!来依の彼氏だったのか!」海人は来依の手を取り、眩い輝きを放つダイヤの指輪を見せた。「婚約者だ」勇斗は「うわー!」と声を上げた。「おめでとう、来依!そんな大事なこと、先に言ってくれよ。ご祝儀の準備もしてない。まあいいや、結婚式には招待してくれよ。
「……」結局、来依はジャケットを羽織らなかった。彼女が宴会場に足を踏み入れた瞬間、周囲の視線を一身に集めたのは言うまでもなかった。一つには、彼女が石川では見かけない顔だったこと。もう一つは、今日の彼女の装いが、主催者の風格を奪うようなものではないにせよ、彼女自身にとても似合っていて、見る人すべての目を惹きつける鮮やかさを放っていたからだった。誰かが声をかけようと歩み寄ろうとした。だが、その腰を軽く抱く男の存在を見た瞬間、ピタリと足を止めた。「菊池家の若様の女か?」「間違いない。あの独占欲、尋常じゃないからな。それに彼の側には長年誰一人女の影がなかったし。あんな堂々とした態度、正妻じゃなきゃ説明つかない」「高杉芹奈じゃないの?今回、彼女を連れてきたって聞いたけど。菊池家と高杉家、縁談の話があるとか」「違うよ。高杉芹奈なら見たことある」「聞いてない?菊池様にはすごく愛してる女性がいるらしいけど、後ろ盾がなくてさ。名前は確か河……」「河崎来依だ」「そう、それ!」そう答えた人物が興奮気味に振り返ると、相手の顔を見て、慌ててお辞儀した。「ふ、藤屋社長……」藤屋清孝は軽くうなずくと、そのまま海人の方へ大股で向かった。彼に酒を一杯手渡す。「今回は一人でうちに来たんじゃないんだな。めでたいことだ」海人は自分の酒を来依に渡し、その背中を半身で覆うようにして紹介した。「藤屋清孝だ」来依はちょうど口元に酒を運んだところだったが、その名前を聞いて、思わず酒が逆流しそうになった。「藤屋清孝?あの藤屋清孝?」清孝の唇にはうっすらと笑みが浮かんでいたが、その瞳には冷たさが残ったままだった。整った顔立ちに、年月を経て自然と備わった威厳がにじみ出ていた。来依は感嘆の声を漏らしてから、ようやく気がついた。目の前に立っているのは、自分の力では一生関わることすらできないような人物なのだ。たとえ彼が海人の親友だったとしても、自分の今の態度はあまりにも無遠慮で、失礼だったかもしれない。急いで頭を下げた。「藤屋社長、失礼しました。さっきは少し無礼でした」清孝の視線にはどこか意味ありげな光が宿り、海人を一瞥してから、口を開いた。「弟分の嫁なんだから、そんなに堅くならなくていい。俺と海人は古い友人
石川は大阪より少し暖かいとはいえ、年の瀬も近づき、また雪が降るかもしれなかった。どこが寒いのか?四郎は反論することもできず、おとなしくエアコンを入れた。設定温度は26度。来依は手で風をあおぎながら、わざとらしく言った。「この車、ダメね。なんかムシムシする」四郎も確かにそう思った。仕切り板すら付いていないのだ。海人が静かに笑った。「いいよ。お前の言うとおり、車を替えよう」「……」――来依はあるプライベートサロンに連れて行かれた。彼女は迷うことなく赤を選んだ。だが、海人は背中が大きく開いたデザインを見て、スタイリストに指示を出した。「ショールを足して。寒いから」スタイリストは少しためらった。「菊池さん、このドレスのポイントは背中の蝶モチーフのレースなんです。肩甲骨をあえて見せて、うっすらとウエストラインも……」海人の冷たい視線を浴びて、スタイリストはそれ以上言葉を続けられなかった。海人は石川の人間ではなかったが、石川のトップと繋がっている。このサロンは藤屋家の出資で運営されている。しかも、藤屋家からも海人とその奥様を丁重にもてなすよう指示が来ていた。とても粗末に扱える相手ではない。「ショールはいらないわ」来依は大きな姿見の前でくるりと一回転した。「すみません、アップスタイルでお願いします。この背中、しっかり見せたいの」海人の口元が、わずかに引き結ばれた。スタイリストはどちらを見ていいか分からず、動けなかった。来依が言った。「彼を見ないでください。着るのは私、決めるのも私ですよ」そう言って、回転式の椅子に腰を下ろした。「それと、メイクは少しレトロな感じにしてください。でも濃すぎないで。他人のパーティーですし、主役はあくまで他の人ですから」「かしこまりました!」スタイリストはすぐに準備に取りかかった。来依の要望どおりに仕上げた後、スタイリストの目が輝いた。「もしよければ、うちのモデルになってくれませんか?あるいはスタイリングのアドバイザーとして来ていただくとか……センスが抜群です!」来依は立ち上がってスカートの裾を整え、微笑んだ。「自分のことをよく分かってるだけですよ。アドバイザーなんて無理無理、そんな才能ありませんから」スタイ
来依は彼に白い目を向けた。海人の目には、深い笑みがじわじわと浮かんでいた。「ここで楽しんでて。俺は少し用事を済ませてくる。夜は一緒に宴会へ行こう」来依はむしろ、彼がいない方が気が楽だったので、手をひらひら振って追い払った。海人は彼女の頭を軽くぽんぽんと叩き、歩き出した。傍らにいた若い女性が笑いながら言った。「彼氏さんと、すごく仲が良さそうですね」「……」来依は一瞬、弁解しようか迷ったが、まあもうこの場所に来ることもないかもしれないと思い直した。仮にまた来るとしても、その時に言えばいい。彼女は笑って言った。「刺繍、教えてもらえますか?」相手は快く頷いた。刺繍は集中力と時間を要する作業だった。来依は、その日一日ほとんどを刺繍に費やした。食事とトイレの時間以外は、ずっと座って縫っていた。ひとつの刺し方を習得し、小さな作品を一枚仕上げた。立ち上がって、固まった背中と首をほぐしていると、海人がゆっくりと彼女の前に現れた。「楽しかった?」来依は手に持っていた刺繍布を彼に放り投げた。「あんたへの誕生日プレゼントよ。ここに連れてきてくれたお礼」それだけ言って、さっさと更衣室へ向かった。海人はその手の中のハンカチを見つめた。そこには竹と竹の葉が刺繍されており、対角に彼の名前が縫われていた。「お兄さん」近くの女の子が笑いながら言った。「ハンカチって、告白の意味があるんですよ」海人はそれをしまいながら、にこりと微笑んだ。「これ、彼女が自分で刺したの?」女の子は大きく頷いた。「すごく真剣でしたよ。きっと本気で好きなんですね」海人の全身が、喜びに染まっていた。来依が着替えて戻ってきた時、遠くからでも彼が妙に浮かれているのが分かった。近づくと、彼の視線はあまりにも熱っぽく、彼女は鳥肌が立った。ふと視線をそらすと、さっきの女の子がニコニコしていた。だいたい察しがついた。彼の腕を引っ張って車に乗せ、乗車後に言い訳を始めた。「私は初心者だから、ハンカチが一番簡単だったの。ただの練習用よ。名前を縫うのって、一番最初に習う基本なの」海人は意味深に「へえ」と返事した。「……」来依は説明するのが無意味だと感じ、顔をそむけて車窓の外を見た。だが海人は身を寄せ、半ば彼女を包み込むよ