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第888話

Author: 楽恩
「……」

結局、来依はジャケットを羽織らなかった。

彼女が宴会場に足を踏み入れた瞬間、周囲の視線を一身に集めたのは言うまでもなかった。

一つには、彼女が石川では見かけない顔だったこと。

もう一つは、今日の彼女の装いが、主催者の風格を奪うようなものではないにせよ、彼女自身にとても似合っていて、見る人すべての目を惹きつける鮮やかさを放っていたからだった。

誰かが声をかけようと歩み寄ろうとした。

だが、その腰を軽く抱く男の存在を見た瞬間、ピタリと足を止めた。

「菊池家の若様の女か?」

「間違いない。あの独占欲、尋常じゃないからな。それに彼の側には長年誰一人女の影がなかったし。あんな堂々とした態度、正妻じゃなきゃ説明つかない」

「高杉芹奈じゃないの?今回、彼女を連れてきたって聞いたけど。菊池家と高杉家、縁談の話があるとか」

「違うよ。高杉芹奈なら見たことある」

「聞いてない?菊池様にはすごく愛してる女性がいるらしいけど、後ろ盾がなくてさ。名前は確か河……」

「河崎来依だ」

「そう、それ!」

そう答えた人物が興奮気味に振り返ると、相手の顔を見て、慌ててお辞儀した。

「ふ、藤屋社長……」

藤屋清孝は軽くうなずくと、そのまま海人の方へ大股で向かった。

彼に酒を一杯手渡す。

「今回は一人でうちに来たんじゃないんだな。めでたいことだ」

海人は自分の酒を来依に渡し、その背中を半身で覆うようにして紹介した。

「藤屋清孝だ」

来依はちょうど口元に酒を運んだところだったが、その名前を聞いて、思わず酒が逆流しそうになった。

「藤屋清孝?あの藤屋清孝?」

清孝の唇にはうっすらと笑みが浮かんでいたが、その瞳には冷たさが残ったままだった。

整った顔立ちに、年月を経て自然と備わった威厳がにじみ出ていた。

来依は感嘆の声を漏らしてから、ようやく気がついた。目の前に立っているのは、自分の力では一生関わることすらできないような人物なのだ。

たとえ彼が海人の親友だったとしても、自分の今の態度はあまりにも無遠慮で、失礼だったかもしれない。

急いで頭を下げた。

「藤屋社長、失礼しました。さっきは少し無礼でした」

清孝の視線にはどこか意味ありげな光が宿り、海人を一瞥してから、口を開いた。

「弟分の嫁なんだから、そんなに堅くならなくていい。俺と海人は古い友人
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