تسجيل الدخول夢香と美紀の顔から一気に血の気が引いた。地面に這いつくばっていた夢香は、信じられないといった様子で奈緒を睨みつける。夢香の知る奈緒は、従順で何を言っても言いなりになるような弱い女だったはずなのに、それがどうして、これほどまでに強くなってしまったのか?それに、MRセキュリティといえば、A国でも誰もが名を知る、超一流の警備会社。それなのに、その社長である男が、なぜ奈緒の言いなりになっているのだ?奈緒の背後には、一体どれほどの人物がいるというのだろう?夢香は奥歯を噛みしめ、ふらつきながらも立ち上がった。しかし、奈緒と真司と蛍は、既にその場から姿を消していた。地面に這いつくばったまま動けない美紀を見て、夢香は乱暴に彼女の襟首をつかんで立たせると、激しく突き飛ばした。「あの女がここまで力をつけてるなんて、どうして前もって言わなかったのよ!これで私たちまで刑務所送りじゃない!しかも、『ちゃんと世話をするように』って、リーダー格に言われちゃうのよ!あんた、ほんと役立たずにも程がある!」夢香は、怒りの全てを美紀にぶつけた。突き飛ばされてソファに倒れ込んだ美紀の瞳には、ドス黒い憎しみの炎が燃え上がる。「あの女の後ろにいるのは仁哉に決まってる。絶対にそうよ!仁哉以外に、あんな力を持っていて、あの女のためにここまでしてくれる人なんて思いつかない!まさか、あの女……いつの間にか私の夫まで奪っていたなんて!しかも、あんなに必死に守ってる……あの女が憎くてたまらない!どんなことをしてでも、仁哉を取り返してみせる!」美紀は狂ったように怒鳴り散らし、テーブルの酒瓶を次々と床へ叩きつけた。自分にはあんなに冷淡だった仁哉が、どうして奈緒にはここまでするのか、どうしても理解できない。離婚した直後は大した違いを感じていなかったが、すぐに現実の落差が身に染みるようになった。仁哉は冷淡ではあったが、自分の要求なら何でも聞き入れてくれた。家には4人の使用人がいたにも関わらず、裕弥が生まれてからさらに4人増やしたいという我儘さえ、仁哉は叶えてくれたのだ。何より栗原家の力は絶大で、仁哉の名前を出すだけで、どこへ行っても顔が利き、新作バッグもショーの席も、会員制パーティーの招待も、すべて思いのままだった。愛情が得られなかっ
奈緒は怒りのあまり、声を張り上げた。その一方で、蛍はなおも夢香ともみ合っていたが、徐々に体力の差が出始め、ついには押し倒され、下敷きにされてしまった。歪んだ笑みを浮かべた夢香が、狂ったように笑う。「私たちを警察に突き出すつもりなら、あのガキがどこにいるかなんて、一生教えてやらないからね。奈緒……こんな大勢連れてきて、私たちに恥をかかせるなんて。後悔しても知ら……」夢香が言い終わる前に、彼女の体が宙に浮いた。真司が服をつかみ、軽く放り投げただけだった。それでも彼女の体は放物線を描き、大理石の床へ無様に叩きつけられる。夢香が悪態をつきながら起き上がろうとした瞬間、真司の足がその肩を踏みつけた。夢香はぴくりとも動けない。ようやく解放された蛍だったが、先ほどまで何発も殴られ、口元には青あざができていた。それでも、真司がわずか数手で夢香を制圧したのを見るや否や、蛍は迷わず駆け寄り、夢香の頬へ何発も平手打ちを浴びせ、満足そうな笑みを浮かべる。「さっさと黎ちゃんがどこにいるか白状しなさい!もし言わないんだったら、生きてここを出られると思わないことね!」蛍は胸を張り、鼻息も荒く啖呵を切る。勝ち誇ったように眉を上げ、そばに立つ真司を指さした。「この人が誰か知ってる?MRセキュリティの社長なんだから!それでもまだ言わないって言うんだったら、この人に頼んであんたの両腕を外してもらうんだから!」真司は何も言わず、さっとしゃがみ込むと、いとも簡単に夢香の両肩を外した。夢香が今まで味わったことのない激痛に絶叫する。その悲鳴は、美紀以上に凄まじかった。真司が蛍を見る。「膝の関節も外しておきましょうか?」蛍は大きく頷く。「お願いします!殺人が犯罪じゃなかったら、この女を引き裂いてやりたいくらいですから!この女、本当に最低です、自分の姪っ子に手を出したうえに、黎ちゃんのことをガキ呼ばわりして……坂本さん、もうやっちゃってください!徹底的に痛めつけてやって、二度と調子に乗れないようにしてください!」真司は無言でしゃがみ込み、夢香の太ももに両手を置いた。言っても分からないことは、痛みで学べることもある。膝の関節まで外されそうになった夢香は、顔色を変えて絶叫した。「やめて!お願い、分かったから!足は
ちょうどそこへ警察も到着した。胡桃はそのまま警察に身柄を確保され、事情聴取のため連行されていく。奈緒はようやく少し息をつくと、慌てて真司の肩をつかんだ。「坂本さん、間違いじゃないよね?黎は……黎は今、無事なの?」「ご安心ください。黎様は無事ですが、ただ……」奈緒の心臓が激しく波打った。「ただ、何なの?早く教えて!」「黎様は、夢香さんと美紀さんに連れ去られたのですが、現在、その二人は黎様を連れてカラオケ店にいます。あのような喧騒と劣悪な環境が、黎様の健康に悪影響を及ぼさないか心配でして」奈緒の怒りは頂点に達した。犯人は胡桃ではなく、美紀と夢香だったのだ。奈緒の瞳に鋭い光が宿る。「坂本さん、蛍、行こう!」3人はすぐに車へ飛び乗り、美紀と夢香がいるというカラオケ店へ向かった。道中、蘭から電話が入った。黎が連れ去られたことを知った蘭もまた、必死に探し回っている最中だった。真司がすでに居場所を突き止め、今救助に向かっていると伝えると、蘭の安堵の息が聞こえてきた。車を降りた奈緒は、教えられた個室へと駆け出す。奈緒と蛍が先陣を切り、その背後に真司、そして強靭で屈強な警備員たちが続いた。奈緒は個室のドアを力任せに蹴り開けた。室内は薄暗く、アルコールや煙草の煙、香水の匂いが混じり合い、澱んだ空気が漂っている。酒を飲む者、騒ぐ者――乱痴気騒ぎの真っ最中だった。突然の物音に、その場にいた全員が一斉に入口へと視線を向ける。パシッ。蛍がすぐさま照明をつけると、部屋が一瞬で昼間のように明るくなった。奈緒は美紀の姿を見つけるなり、一気に飛びかかる。髪をわしづかみにし、そのまま床へ叩きつけ、頭を押さえつけた。続いて蛍も夢香に襲いかかった。奈緒の真似をして、夢香の髪をつかみ、ありったけの力で床に叩きつける。奈緒は怒りのままに、美紀の顔に向けて左右交互に10回以上、立て続けに平手打ちを食らわせた。蛍も真似しようとしたが、奈緒ほどの腕力も体術もない。さらに、相手である夢香は気性が激しかったため、二人はすぐにもみ合いになり、頭に血が上った蛍は、とうとう夢香の腕に思い切り噛みついた。真司の率いる男たちは、部屋にいた他の客を即座に制圧し、隅にうずくまらせた。しかし、部屋中をくまなく探しても、黎の姿がどこ
もともと監視カメラは、社内の機密情報の盗難を防ぐために設置されたものだった。だが皮肉なことに、今は真司が証拠を集めるうえで、この上ない助けとなってしまった。監視カメラの映像には全てがはっきりと映っていて、画面を拡大すると、胡桃が書きかえた書類の表紙の「離婚協議書」の文字までがくっきりと見える。映像を全て見終わる頃には、その場ですっかり固まってしまっていた胡桃。自分の細工は完璧で、充でさえ見抜けないはずだと思っていたのに。だが今、真実は隠しようもなく暴かれてしまった。まるで衣服を剥ぎ取られ、素顔をさらされた道化のように、胡桃は顔を青くしたり赤くしたりしながら、口をぱくぱくさせるばかりだった。「ひ……ひどすぎる。青木グループは多額の報酬を払っているのに、よくもこんな真似を……MRセキュリティが世界一の警備会社?笑わせないでください!信用なんてあったものじゃありませんね!」真司が毅然とした表情で答える。「事実を取り違えないでください。契約期間を過ぎても口先だけで支払いを引き延ばしていたのは、青木グループの方です。期限までに支払いがなければ、契約は自動的に解除される、それがこちらのルールですので、我々は契約に基づいて動いているだけですから」胡桃は怒りのあまり、顔を真っ赤にして叫んだ。「だからって、この女と手を組む理由にはなりませんよね?一体……あなたたちはどんな関係なんですか?!」真司は冷めた笑みを浮かべ、あからさまに軽蔑を込めて言った。「2ヶ月前、とある方から奈緒様のために、弊社の最高ランクの護衛サービスを申し込んでいただいております。つまり、奈緒様はこのMRセキュリティの社員全員に対し、指示を下す権限があるということ――もちろん、この私も含めてです。もし同額をお支払いいただけるのであれば、私どもは同じようにお仕えいたします。当社は契約に従って動きますので、人で差別したりはしませんので、ご安心を」胡桃は愕然とし、目を見開いて硬直した。「何ですって?最高ランクの護衛を?一体、どこの誰が……」青木グループの総務と管理全般を仕切っている胡桃は、警備費用がどれほど莫大か、誰よりもよく知っていた。青木グループが契約更新を先延ばしにしていたのも、この数か月は資金繰りが苦しく、警備費の負担があまりに重かったからだっ
警備員のリーダーが氷のように冷たい表情のまま、一切感情を交えずに言い放った。「謝罪してください」胡桃は自分の耳を疑った。怒りで顔をゆがませ、勢いよく振り向く。「何してるの?頭でもおかしくなったわけ?誰が雇い主なのか分からない?その目をよく見開いて、私が誰か見なさい!きゃっ!」警備員のリーダーは余計な言葉も、ためらいも見せなかった。脇にいた二人の警備員が素早く踏み込み、左右から胡桃の腕をつかむと、背中へねじ上げる。関節が鳴る重苦しい音がオフィスに響いた。令嬢として大切に育てられてきた胡桃が、こんな乱暴な扱いを受けるのは初めてだった。激痛で顔からは血の気が引き、冷や汗が流れる。あまりの痛みで気を失いそうになりながらも、悲鳴だけは途切れなかった。予想外の展開に、奈緒は唖然としていた。しかし、蛍に耳打ちされ状況を把握すると、その口元をわずかに緩めた。奈緒は一歩前へ出て、冷たく言い放つ。「胡桃さん、今の状況が理解できましたか?」胡桃は信じられないという表情で、奈緒を睨みつける。「彼らは青木グループの人間よ。どうして……こんなことを?ありえない……」奈緒が答えようとした時、オフィスの入り口から落ち着き払った男性の声が聞こえてきた。「彼らは私の指示で動いていますから」聞き覚えのある声に、奈緒は嬉しそうに勢いよく振り返る。そこには、濃紺のオーダースーツをまとった真司が、無表情のまま立っていた。背筋を真っすぐ伸ばした堂々たる姿は、まるで鋼鉄の壁。その圧倒的な存在感だけで、先ほどまで威勢のよかった警備員たちでさえ、一瞬気圧されたように見えた。胡桃は顔色を変え、腕の痛みも忘れたように震える声で尋ねる。「あ……あなたは誰なんですか?」真司はその長い脚でゆっくりと胡桃に歩み寄り、まるで死体でも見るかのような冷たい目で彼女を見下ろした。「私はMRセキュリティの代表です。私の記憶違いでなければ、青木グループとの契約は3ヶ月前に満了していて、更新はされていないようです」胡桃は言葉を失った。奈緒も息をのむ。蛍は驚きの表情を浮かべた。奈緒は、兄がよこしてくれた真司を、ただの腕利きのボディーガードだと思っていた。しかし、それは真司がただ低姿勢だっただけで、実は国際的にも絶大な力と背景を
蛍が両手を広げ、奈緒を守る。「何かあるんだったら、私に言って!奈緒には指一本触れさせないから!離婚に同意しておきながら、離婚関係の書類をこっそり書き換えるなんて!それだけじゃ飽き足らず、子どもまでさらっておいて、何も知らないふり?青木家って本当に最低!この街にこんな家があるなんて、深津市の恥ね。今すぐ黎ちゃんの居場所を話して、離婚協議書と離婚届に細工したことを認めて。そうすれば奈緒だって情けをかけてくれるかもしれない。でも最後までしらを切るなら、後悔するのはあなただから!」実は、奈緒と胡桃が言い争っている時、蛍の携帯に真司から連絡が届いていたのだ。奈緒に電話をかけてもつながらなかったため、真司は蛍へ奈緒と一緒にいるかどうか確認していた。蛍が一緒にいることを伝えると、青木グループが雇っている警備員は全員、奈緒の兄が経営する子会社から派遣された人員だと、真司から教えられた。つまり、胡桃がどんなに大勢呼びつけたとしても、最終的な指揮権は奈緒にあるということ。その事実を知った蛍は、心が躍った。人生最大級の見せ場が来た――そう思った蛍は、一気に前へ飛び出し、胡桃へ真っ向から啖呵を切ったのだった。もっとも奈緒は、蛍がどこからそんな自信を得たのかまったく知らない。いつも気弱な親友が、自分を守るために勇気を振り絞って前に立ってくれたその姿に、奈緒は胸が熱くなり、思わず涙ぐみそうになる。しかし、すぐに胡桃のオフィスに警備員たちが押し寄せてきた。警備員のリーダーが胡桃の前に立ち、畏まって声をかける。「胡桃さん」自信を取り戻した胡桃は、無表情のまま奈緒と蛍を指さした。「この二人をオフィスから連れ出しなさい。空いている部屋へ拘束しておいて。あとは警察が来てから判断してもらえばいいから」奈緒は自分の身などどうでもよかった。今、黎がどこにいるのか、それだけが心配でならない。警備員たちが集まるのを見た奈緒は、焦りを隠せずに叫ぶ。「いいから教えてください!黎はどこにいるんですか?あの子はまだ3か月。ずっと黒崎さんがお世話していたから、黒崎さんから離れられないんです!あの子がお腹を空かせていないか、泣いていないか……そうやって不安に押しつぶされそうな私の気持ちは、子供を産んだことのない胡桃さんには分からないかもしれま
パーティー会場のなか。奈緒は、充から目を離さずにいた。彼は上機嫌な様子で、グラスを片手に美紀を連れて、各テーブルに挨拶回りしている。「仁哉は今、大事な仕事で海外なんだ。戻ってくるのに1年はかかりそうだから、今日は、彼の代わりに、俺が皆の相手をするよ。それに美紀は産後でまだ本調子じゃないし、お酒とかは控えた方がいいだろうから、彼女の分も、俺が飲むよ」……一方、それを聞いた奈緒は、口にしたオレンジジュースが、やけに冷たく、苦く感じた。そして、その冷たさは胸の奥まで、染み渡っていくようだ。二人は長年一緒に仕事をしてきたが、どんな付き合いの場でも、充は彼女のことを酒豪だと言って
「充、今日で赤ちゃんが産まれてから1ヶ月経つの。私たちを迎えに来てくれない?」青木奈緒(あおき なお)は、おくるみに包まれた娘を抱きながら、期待を押し殺した落ち着いた声で言った。しかし電話の向こう、夫の青木充(あおき みつる)は感情の起伏がなく、平坦な声で言った。「すまない、急に予定が入った。運転手にお前たちを迎えに行かせるよ」出産も、産後の大事な時期も、充はずっと仕事で忙しいと言ってそばにいなかった。今日は赤ちゃんと一緒に産後ケアの施設から帰る、記念すべき日なのに、やっぱり彼は来てくれない。奈緒は切なくなったが、それでもこぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえた。「…
一方、荒れ果てたリビングを眺めながら、充は力なくソファに腰掛け、タバコに火をつけ、胸が締め付けられるように苦しかった。「井上、俺は奈緒に優しくしてこなかったかな?あそこまで怒ることないだろう?」恵は、床を掃きながら、そっと声をかけた。「旦那様は奥様にとてもよくしてらっしゃいますよ。ご結婚されてから5年、お二人が言い争うのを見たことがありません。ですが、子供を産んだ後の女性は気持ちが不安定になりやすいんです。産後うつにもなりやすいですし、旦那様の支えがもっと必要なんですよ」充は眉をひそめた。「産後うつだって言うのか?でも、他の女は子供を産んだって、こんなに変わったりしない。今
それから、蛍は奈緒が傷つくのを心配して、充から返信ひとつないことは、結局言い出せなかった。そして、奈緒が退院するまで、充は結局、姿を見せなかった。退院後、二人は黎と香織を連れて、碧瀾郷へと引っ越した。そこは、奈緒が半年前に入手した、リノベーション済みのマンションの一室だった。蛍の家はその真向かいの部屋で、隣同士に住むのは大学時代からの二人の夢だったのだ。だから半年前、蛍の向かいの部屋が売りに出されたと聞いて、奈緒は迷わず購入した。部屋には家具や家電が揃っていたが、まだどこか殺風景だった。蛍はすぐに自分の家から布団やポットなどの日用品を運んできた。奈緒は買い物リストを







