LOGIN充は足を止め、その場で惚けたように立ち尽くす。長いこと寂しいままだったダイニングテーブルには、何品もの料理が並んでいた。そればかりではなく、部屋の照明は落とされ、テーブルにはキャンドルだけが灯されている。薄暗い明かりの中に浮かぶ女の後ろ姿……一瞬だけだが、奈緒に見えた。自分は、疲れすぎてるのか?奈緒は今、病院で黎に付き添っているはずだから、水鏡ヶ丘にいるはずがない。しかし、もし奈緒でないのなら、誰がこんなディナーを用意したというのだ?充は思わず目をこすった。その時だった。リビングの明かりが一斉についた。夢香のどこか誇らしげで、弾んだ声が部屋中に響き渡る。「充!びっくりした?見てよ!これ、全部佳乃が作ったんだから!最近ずっと大変そうだったから、少しでも元気出してもらおうと思って、私が佳乃を呼んだの!」そこでようやく、充は我に返った。そこにいたのは、佳乃だったのだ。料理をすべて並べ終えたところだった佳乃は、充の視線に気がついた。充の前でわざとエプロンを外すと、白くしなやかな足があらわになり、さらには体のラインを強調する大胆なドレスを充に見せつける。そして、視線を上げると、佳乃は完璧な笑みを浮かべ、充に近づく。そして、手にしていたビジネスバッグを受け取ろうとした。「充、お帰り!最近いろいろ大変そうだったから、何かしてあげたくて。夢香にお願いして、勝手に来ちゃった。突然で迷惑だったかな?」甘えるような声。向けられる視線にも、明らかな好意が込められていた。奈緒ではない。似て見えたのは、ほんの一瞬だけだった。比べることすら馬鹿らしい。佳乃がどれほど美しく着飾り、甲斐甲斐しく振る舞っても、充の心は少しも動かなかった。むしろ、なぜか胃の奥がむかついた。露骨すぎる好意が、ひどく安っぽく感じるし、さらには、自分の家に勝手に踏み込まれたような不快感さえあった。充は冷え切った目で佳乃を見た。「次からうちに来るときは、先に俺の許可を取ってくれ。それと、もう食事は済ませた。それに、食欲もないんだ。姉さん、佳乃を送ってあげて」それだけ言うと、充は二人の反応も待たずに2階へ上がった。寝室の扉を開けた途端、充はまた眉をひそめた。ここまで勝手に触られている。大きなベッドには薔薇でハー
さっき仁哉が電話をしていたのは、黎のために人脈を頼り、腕のいい専門医を探していたからだった。奈緒はそれを知り、感謝を込めて仁哉を見つめる。「仁哉さん、本当にありがとう」仁哉は落ち着いた様子で、優しく返した。「お礼なんていいよ。大したことじゃないから。それより、黎ちゃんが元気になってくれればそれでいい」そう言うと仁哉は充に顔を向けた。その表情はいつもの冷ややかな仮面に戻っており、心の内は全く読めない。「すべてはA国から専門医が来てから判断しよう。充、一度戻って休んだらどうかな?今の奈緒さんはかなり精神的に参ってるから、これ以上彼女の負担にならない方がいい」それはあくまで助言のように聞こえたが、充の耳には非常に不愉快な響きだった。充は皮肉な笑みを浮かべ、嘲るように言う。「仁哉、いい人ぶるのも大概にしろ。俺と奈緒が正式に離婚するまで、お前に俺の娘や妻に関することに口出しする資格はないんだ。前に俺のことを、距離感がおかしいだの何だの言ってたよな?でも、今のお前こそ、自分の立場をわきまえてないんじゃないのか?」充の毒気を含んだ言葉に、ようやく落ち着きを取り戻した奈緒の感情が、再び波立つ。その時、病室のドアを開けて真司が入ってきた。奈緒が真司に目配せをすると、真司はすぐに意図を察し、充の前まで歩いていく。「青木社長、お引き取りください。ここにあなたの居場所はありません」充は黙り込んだ。疲れ切っていながらも、決意を変えるつもりのない奈緒の顔を見つめる。無力感と苛立ちを感じながらも、充はそれ以上争う気にはなれなかった。黎がこのような状況なのだから、奈緒も辛いはずだ。今ここで刺激してはいけない。充はベッドに寝ている黎を一目見てから、背を向けた。病院の外へ出ると、夜風がひんやりと頬を撫でた。仁哉がA国から専門医を呼び寄せたことは、充にとって完全に想定外だった。仁哉が一人の女性のために、ここまで動く姿など見たことがない。やっぱり、あいつは奈緒を狙ってる。充の中で、その疑いは確信に変わっていた。しかも、A国の一流医師をすぐに動かせるほどの人脈を仁哉は持っている。それは、自分にはない力。充の中で、抗いようのない不安が急激に膨らんでいく。黎という存在がある限り、二人の縁を完全に切らず
奈緒は驚いて立ち上がり、すぐに黎を奪い返すようにして、抱きしめる。「充、何をするの?」充は目を血走らせ、焦燥に駆られた様子で言った。「奈緒、頼む。黎を今すぐ東都の病院に転院させよう。知り合いの専門医がいるんだ。そこでしっかり検査を受けさせるべきだ」「何言ってるわけ!高熱が下がったばかりで、こんなに体が弱っているのに、東都まで移動する負担に耐えられるわけがないでしょ!」奈緒はもちろん転院に反対だった。「充、こんな時まで良い父親のふりなんてしないで!」全身を震わせ、瞳を涙でいっぱいにした奈緒は、充に向かって叫ぶ。「本当に黎のことを思ってるなら、今くらい自分が全部決めようとするのやめて!黎は私の全てなの!どこの病院でどう治すか、決めるのは私。黎の命をそんな賭けで決めないで!」「奈緒、感情的になるな!」充の額に青筋が浮かんだ。「白血病かもしれないって言われてるんだぞ!それに、東都にはもっといい医師も設備もある。ここにこだわってどうする!ここにいたら死を待つだけ、そんなことも分からないのか?」「母親は私!私が誰よりも分かってるわ!もしあなたにまだ人の心が残ってるのなら、もうここでいい父親みたいな顔しないでよ!黎が元気だったときは、何一つしてくれなかったじゃない!なのに、今になって必死に心配して……いったい誰に見せたいのよ!」奈緒は腕の中で眠る黎を強く抱きしめ、こぼれ落ちる涙とともに、絶望と憎しみを充にぶつけた。「今すぐここから出て行って。あなたが父親だったせいで、黎は生まれてからずっとこんなに酷い目に遭ってる。どうしてあなたたちの報いを、こんな小さな子が背負わなきゃいけないの?」奈緒はとうとう堪えきれなくなった。小さな黎を胸に抱き締め、声を殺して泣く。どうしてこんな幼い子に、こんな残酷なことばかり起きるのだろう。大人たちの争いも、憎しみも、過ちも黎には何の関係もないのに。奈緒はもう感情が抑えきれなくなってしまった。このところ、どれほどひどいことがあっても、どれほど傷ついても耐えて、決して泣かなかった。だが、黎のこととなれば話は別だ。黎は奈緒にとって唯一無二の存在で、奈緒の生きる理由そのものだった。なのに、その黎に突然こんな疑いが出てしまっては、受け止められるはずがない。充は
ドンッ!「白血病」という言葉が、奈緒の頭の中で雷鳴のように響いた。頭が真っ白になる。まるで静音ボタンを押されたみたいに、周囲の音がすべて遠のいた。医師の口が動いているのが見え、「血液検査の異常」「疑い」「骨髄検査」そんな言葉が次々耳に入ってくるのに、何一つ頭に残らない。全身の血が逆流し、そのまま凍りついたようだった。しばらくして、ようやく我に返った奈緒。医師を食い入るように見つめる。その眼差しには、周囲を凍りつかせるような殺気が宿っていた。「今……何て言いました?私の娘が……何ですって?」医師は奈緒の凄まじい表情に一瞬たじろいだものの、すぐに冷静さを取り戻した。「まずは落ち着いてください。現時点ではあくまで疑いですから。ただ、血液検査でかなり気になる異常が出ていて、血液の病気、なかでも白血病の可能性も否定できません。確定診断には、骨髄検査が必要になります」「骨髄検査?」その言葉は、まるで刃物のように、容赦なく奈緒の胸を抉った。「こんな小さい子に……骨髄検査をするんですか?」声が掠れ、目の奥が一気に熱くなる。「まだこんなに小さいのに……そんな痛いことをさせるんですか?嫌です……私は嫌。黎にそんなこと……」奈緒は震えが止まらない。目の前がぐらりと揺れ、そのまま崩れ落ちそうになった。「奈緒さん!」外で待っていた仁哉が異変に気づき、すぐに駆け込んできた。倒れかけた奈緒をしっかり支える。今、どんな言葉をかけても気休めにしかならない。それでも仁哉は、できるだけ穏やかな声で言った。「つらいのは分かる。でも、本当にそういう可能性があるなら、きちんと調べたほうがいい。それに、まだ確定したわけじゃないし、誤診の可能性だってあるから、まずは落ち着いて。不安なら、もっと専門性の高い病院でもう一度診てもらおう。たとえ、もし本当に病気だったとしても……絶望することはない。今の医学なら大丈夫だ。それに、黎ちゃんは強運の持ち主なんだから、きっと治るよ」仁哉の静かで論理的な言葉に、奈緒は少しずつ冷静さを取り戻していく。そうだ……誤診かもしれない。黎はまだ、生まれて数か月しか経っていないのだから、こんな小さな子が、そんな病気になるはずがない。奈緒は必死に自分に言い聞かせた。膝に力が入らない奈緒に
「思わないよ。むしろ、感情に流されずに、かなり冷静に考えてると思う。離婚したい気持ちがそこまで固いなら、一度きちんと充と話せばいい。できることなら、最後くらい穏便に終えられるのが一番だから。ただ、今は黎ちゃんのこともあるし、単純に夫婦二人だけの問題じゃないから、簡単にはいかないだろうけど」奈緒は両腕を組み、小さくため息をつくと、眉間に深いしわを寄せた。「なんか疲れちゃった……」こんなにも心の底から疲れたと感じたことは、これまでなかった。過去5年間、充と歩んできた道や、黎が生まれてから今まで積み重なった苦労を思うと……熱いものがこみ上げたが、奈緒は必死に感情を押し殺す。仁哉は隣で、その疲れ果てた痛々しい横顔を複雑な思いで見つめていた。無意識のうちに手を伸ばし、奈緒の肩を抱き寄せようとしたが、仁哉の腕は空中で静止し、そのままゆっくりと下ろされた。そして最後には、兄が妹を慰めるように、奈緒の頭を軽く撫でる。「考えすぎないほうがいい。いつか全部終わるから。この先には、今よりずっといいことも、いい人との出会いもある。今はただ、この一歩が苦しいだけだから、ここを越えれば大丈夫」奈緒は小さく頷いた。少し感情を吐き出したことで、目にはすぐにいつもの強さが戻る。「うん。私は折れない。充が駆け引きで来るなら、こっちだって手段を選ばないわ」気持ちを切り替え、奈緒は病室へ向かった。仁哉はその背中を見送りながら、奈緒の底知れぬ強さに敬意の念を抱いていた。奈緒は本当にギルとよく似ている。負けず嫌いで、何事にも屈せず、妥協を許さない。そして、自分の道を貫く強さ。これほどの覚悟を持った若者は滅多にいない。今や大成功を収めているギル。いずれ奈緒も自分の力で、必ず成功を手にするだろう。奈緒が病室へ戻ると、充が黎を抱き、部屋の中をゆっくり歩いていた。奈緒の姿を見た香織が、慌ててすぐ駆け寄ってくる。「奥様、違うんです!私が黎ちゃんを旦那様に渡したわけじゃありません!旦那様がどうしても自分が抱くって聞かなくて。それに、蘭様は充さんを見ると頭が痛いって怒って出ていってしまって、私もどうしたらいいか分からなくて……」奈緒の手には、真司が届けたばかりの資料が握られていた。表情を変えずに言う。「分かった。大丈夫だから
奈緒は充が遠ざかる背中を見つめ、苦しさで全身の血が一気に冷えていくようだった。唇を強く噛みしめ、胸に広がる不安を必死に抑え込む。もう、はっきり分かった。充は今回、本気で黎を材料にして、離婚を阻止しようとしている。ひどい。本当に最低だ。けれど、まさか自分に対抗する手段が何もないとでも思っているのだろうか?奈緒は指を強く握りしめると、人目の少ない場所まで移動した。奏介へ電話をかける。「先輩、私がもう一度、充を相手に離婚訴訟を起こせるまで、あとどれくらいの期間が必要ですか?」奏介はすぐに資料を確認した。「あと3か月ちょっとだな。そこから再度申し立てはできる」「送った追加契約書ですが、あれ、裁判になったら認められる可能性はあるのでしょうか?」奏介は数秒黙り、少し重い声で答えた。「奈緒ちゃん、率直に言うぞ。黎ちゃんくらいの年齢なら、親権は母親に認められる可能性がかなり高い。ただ、充が出してきた条件の一部は、父親としての面会交流や子供の生活環境を理由に主張してくる余地がある。裁判所がどこまで認めるかは、争い方次第だ。向こうが離婚案件に強い弁護士を揃えて本気で争ってきたら、かなり長引く可能性はある。幼い子供の親権だけじゃなく、財産面でも争点が大きいからな。裁判所も慎重になると思うよ」奈緒の声がかすれた。「つまり……充が本気で引き延ばそうとしたら、私が訴えても、ずっと付き合わされる可能性があるってことですか?」奏介は少し間を置いた。「ああ、引き延ばそうと思えばいくらでも方法がある。この追加契約書を見る限り、法務チームの入念な入れ知恵があるのは間違いない」奈緒の眼差しは冷え切った。手に力が入るあまり、携帯を握る指の関節が白くなる。「わかりました」奈緒はICU近くの廊下の端に立ち、窓の外へ目を向けた。夜の闇が深く、ガラスには冷えきった自分の顔が映っている。充が引き延ばしに出て、黎まで交渉材料にするというなら、こちらも、綺麗なやり方だけにこだわる必要はない。奈緒の手元には、まだ青木グループを揺るがす材料が残っている。本当に最後の最後まで、それを充との交渉に使うつもりはなかった。充は奈緒に対して冷酷ではあったが、取り返しのつかない犯罪に手を染めるような人間ではない。だが先に一線を越え
「充、今日で赤ちゃんが産まれてから1ヶ月経つの。私たちを迎えに来てくれない?」青木奈緒(あおき なお)は、おくるみに包まれた娘を抱きながら、期待を押し殺した落ち着いた声で言った。しかし電話の向こう、夫の青木充(あおき みつる)は感情の起伏がなく、平坦な声で言った。「すまない、急に予定が入った。運転手にお前たちを迎えに行かせるよ」出産も、産後の大事な時期も、充はずっと仕事で忙しいと言ってそばにいなかった。今日は赤ちゃんと一緒に産後ケアの施設から帰る、記念すべき日なのに、やっぱり彼は来てくれない。奈緒は切なくなったが、それでもこぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえた。「…
一方、荒れ果てたリビングを眺めながら、充は力なくソファに腰掛け、タバコに火をつけ、胸が締め付けられるように苦しかった。「井上、俺は奈緒に優しくしてこなかったかな?あそこまで怒ることないだろう?」恵は、床を掃きながら、そっと声をかけた。「旦那様は奥様にとてもよくしてらっしゃいますよ。ご結婚されてから5年、お二人が言い争うのを見たことがありません。ですが、子供を産んだ後の女性は気持ちが不安定になりやすいんです。産後うつにもなりやすいですし、旦那様の支えがもっと必要なんですよ」充は眉をひそめた。「産後うつだって言うのか?でも、他の女は子供を産んだって、こんなに変わったりしない。今
それから、蛍は奈緒が傷つくのを心配して、充から返信ひとつないことは、結局言い出せなかった。そして、奈緒が退院するまで、充は結局、姿を見せなかった。退院後、二人は黎と香織を連れて、碧瀾郷へと引っ越した。そこは、奈緒が半年前に入手した、リノベーション済みのマンションの一室だった。蛍の家はその真向かいの部屋で、隣同士に住むのは大学時代からの二人の夢だったのだ。だから半年前、蛍の向かいの部屋が売りに出されたと聞いて、奈緒は迷わず購入した。部屋には家具や家電が揃っていたが、まだどこか殺風景だった。蛍はすぐに自分の家から布団やポットなどの日用品を運んできた。奈緒は買い物リストを
「産後の回復がかなり遅れていますね。出産時に出血が多かったですし、低血糖で倒れやすい状態です。しっかり栄養をとって、気持ちをあまり高ぶらせないようにしてください」診察が終わっても、奈緒はまだ眠ったままだった。医師は病室で蛍に病状を説明した。隣で聞いていた香織が、ため息をついた。「奥様は産後の肥立ちが悪くて……最初の2週間はお乳が張って痛くて食事が喉を通らなかったんです。その後は赤ちゃんが夜泣き続きで……それでも奥様は自分で母乳をあげていたから、夜もまとまって眠れていませんでした。昼間は仕事もしていて、体が回復する暇もなかったんですよ」それを聞いて、蛍は怒り心頭になりそうだった。







