INICIAR SESIÓN充の目に、わずかな動揺が浮かんだ。仁哉は手を放して一歩下がると、自分がつかんだせいで乱れた充の襟元を整える。その仕草には、どこか憐れむような色が滲んでいた。「充、君が全員を疑っているのは、自分自身の心が打算だけで塗り固められているからだ。奈緒さんは君から離れられない。どれだけ傷つけても、最後には尻尾を振って戻ってくる、ずっとそう思ってたんだろ?でも、君は奈緒さんを分かってない。彼女は好き嫌いがはっきりしてるから、愛していたときは、本気で君を愛してたけど、一度離れると決めたら、もう絶対に振り返らない」仁哉は一度息をつき、静かに続けた。「この5年間、奈緒さんは君のために食事を作って、冷え切ったあの家で家庭を守って、子供まで産んだ。仕事だって、本来ならもっと活躍できたはずなのに、君のためにどれだけ自分の可能性を諦めたと思ってる?でも、君にはそれが見えてなくて、今の奈緒さんが冷たいことばかり気にしてる。でも考えたことはあるか?心から愛した人を捨てるほど、奈緒さんがどれだけ失望を積み重ねてきたのかをさ。僕がここにいるのは、君から奥さんを奪うためじゃない。かつて君だけを見ていた奈緒さんのために、少しでも報われてほしいと思ってるだけなんだ。君が奈緒の望む愛情も尊重も与えられないなら、せめて最後くらい潔く身を引いてあげてくれないか?これ以上お互いを追い詰めて、何もかも壊してしまう必要はないだろ?よく考えてみて」仁哉はそれ以上充を見ることなく、病院へ戻っていった。夜風にジャケットの裾をなびかせながら歩いていく背中には、迷いがなかった。その場から動けなかった充。指に挟んだ煙草はとっくに根元まで燃え、熱が指先を焦がしている。それでも気づかないほど、仁哉の言葉が頭から離れなかった。どれも、充がずっと目を背けてきたところを正確に突いていたのだ。「潔く……身を引け?」そう呟いた充は、自嘲気味に口元を歪めた。これまで人の思惑を読み、何手も先を見て生きてきた。そんな自分が、いつからここまで惨めになったのだろう。次の瞬間、充は振り向きざまにベントレーのドアを蹴りつけた。激しい音が静かな夜に響き渡る。奈緒がどれほどいい女なのか、この5年間どれだけ自分のために尽くしてきてくれたのか、そんなことは充だって分かっていた。分かって
「まだ分からないのか?奈緒さんの中で、君はもう大切な人じゃないし、彼女はとっくに君への気持ちを手放してる。やり直すつもりもないんだよ。もう自由にしてあげて。君が近づけば近づくほど、奈緒さんは傷つき、疲れ果てていくだけなんだから。黎ちゃんだって、まだどうなるか分からない今、奈緒さんはもう十分すぎるほど追い詰められてるんだ。ただこの結婚から解放されたい。これ以上、お互いを消耗させたくない。それだけなんだよ。それすらも、叶えてやれないのか?」仁哉が説得するつもりで口にした言葉だった。だが充には、どれも耳障りでしかない。充は冷ややかに鼻で笑った。「奈緒のため?それとも、お前たち二人のためか?仁哉、きれいごとはもういい。俺が何も知らないと思ってるのか?お前と奈緒が今どういう関係なのか、俺には分かってるんだ。お前の家族まで揃って奈緒たちに近づいてる。お前の両親なんか、やけに奈緒に肩入れしてるじゃないか。結局、奈緒の後ろにいる『大物』が目当てなんだろ?俺が気づいてないとでも思ったか?」あえて核心に触れたのは、仁哉の反応を見るためだった。だが次の瞬間、仁哉の顔色が変わった。充の胸ぐらを勢いよくつかむ。「充、君が僕のことをどう思おうと勝手だけど、5年間ずっと君だけを見てきた奈緒さんまで侮辱するな!君の中で奈緒さんは、そんなに節操のない、打算だけで男を選ぶ女なのか?奈緒さんが君に愛想を尽かした理由がよく分かるよ。僕まで君には失望した。僕の両親が奈緒さんを気にかけてるのは、純粋に心配だからだし、それに、もともと僕たちの家族は昔から親しかった。君が言うような奈緒さんと関係のある大物に取り入ろうとしてるわけじゃない。そもそも、奈緒さんにそんな後ろ盾なんてあるわけないだろ?どうしてもいると言うなら、それは僕だ。僕が奈緒さんの味方になる。もう君に奈緒さんを傷つけさせないし、君の家族にも、彼女を侮辱させない。奈緒さんの尊厳を踏みにじることだけは、絶対に許さないからな」それは仁哉がずっと胸の奥にしまっていた本音だった。仁哉にとって奈緒は、幼い頃から見てきた妹のような存在。けれど昔から、それだけでは片づけられない淡い感情も確かにあった。そして今、仕事でも日常でも奈緒と過ごす時間が増えるにつれ、仁哉は彼女という人間そのものに惹かれて
病室では、奈緒と仁哉がようやく黎を落ち着かせたところで、A国から駆けつけたダニエルも到着し、黎はさっそく詳しい検査を受けることになった。検査中、怖かったのだろう。黎はずっと泣き続けていた。すべて終わる頃には奈緒もすっかり疲れ果て、リクライニングチェアに横になると、そのまま眠ってしまった。電話を終えた仁哉は、眠る奈緒に気づくと、自分のスーツの上着を脱いでそっと掛け、一人で仁愛インターナショナル病院のエントランスへ向かった。門の前では、黒いベントレーにもたれた充が煙草を吸っていた。足元には、すでに何本もの吸い殻が落ちている。仁哉の姿を見るなり、充は冷ややかな視線を向けた。「お前がしつこいってことに、今さら気づいたよ。奈緒が行くところなら、どこにでもついていくのか?」仁哉は表情一つ変えず、冷たく返した。「ついて回ってるわけじゃなくて、今の奈緒さんには僕が必要だから、そばにいるだけ。嫌味を言われる筋合いはないと思うけど」充は顎をわずかに上げ、嘲るように笑う。「お前のことは立派な人間だと思ってたけど、まさか好き好んで人の妻に手を出す男だったとはな」仁哉は冷めた目で充を見た。「奈緒さんと君の夫婦仲なんて、もうとっくに冷え切っているだろ?奈緒さんはもう限界なんだ。そのうえ黎ちゃんまでこんなことになってる。少しでも本当に奈緒さんのことを思ってるんだったら、もう解放してあげたらどうだ?ここまでしつこく追い詰めて、本当に意味があると思ってるのか?一番触れられたくないところを突かれ、充は奥歯を噛みしめた。やがて、冷笑を浮かべる。「聞いたぞ。奈緒に下着まで買ってもらったんだろ?随分と遠慮がなくなったもんだな。ずいぶんと大胆じゃないか?」仁哉の表情を探るように、充は目を細めた。「仁哉、はっきり言え。お前は奈緒に何を求めてる?お前とは長い付き合いだからこそ分かる。もう友達だ、仕事仲間だなんて言葉で誤魔化せる段階じゃない。仁哉、お前は奈緒をどう思ってるんだ?」深津市から潮咲市へ向かう道中、仁哉はずっと奈緒を見ていた。あまりに疲労困憊したその横顔を見るたび、胸が締め付けられるようだった。これ以上、奈緒が苦しむ姿を見ていられなかった仁哉は、充がここへ来なくても、いずれ一度きちんと話すつもりだった。充にはもう手
「社長、分かりました。奥様は、黎様を潮咲市の私立病院に転院させています。ですが……」潮咲市?なぜ、わざわざそこへ?栗原家が潮咲市にいくつもの事業を持ち、その中に大規模な私立病院もあることを思い出し、充の目つきが鋭くなる。充は渉の胸ぐらを掴んだ。「だけどなんだ?途中で止めるな!」渉は苦しそうに顔を真っ赤にした。「その病院……栗原家の系列なんです。警備がかなり厳しくて、追いかけても中に入れてもらえない可能性があります」やっぱりか。仁哉の仕業だ。自分が病院を離れた隙に、奈緒と黎を自分の系列病院へ連れていった。怒りに震える充。自分が甘かった。自分がいれば奈緒を刺激すると思いあえて帰ったが、まさかその隙に転院させるとは。これでは完全に裏目に出てしまった。充には別の思惑もあった。黎の治療費をすべて負担する代わりに奈緒と交渉し、正国に話を通してもらうことで、翠と静香への追及を少しでも緩めてもらおうと考えていた。結果、奈緒は黎を連れて消えてしまった。充は冷たく笑った。潮咲市の仁愛インターナショナル病院か……あいつらは、自分が入れないとでも思っているのか?「とにかく追うぞ。車を出せ」充は病院に留まることなく、そのまま高速道路へ向かった。漆黒のベントレーが夜の高速を駆け抜ける。1時間ほどして、車は静かな並木道へ入った。沿道には手入れの行き届いた植栽が並び、数十メートルごとに警備員が目を光らせている。その先に見えてきたのは、湖と緑に囲まれた近代的な白い建物。正門には厳重な警備ゲートが設けられ、遮断機が行く手を塞いでいる。制服姿の警備員が二人近づいてきて、充が乗っている車を止めた。「こちらは仁愛インターナショナル病院の敷地内になりますので、恐れ入りますが、ご予約のない方はお入りいただけません」「中に家族がいるんです」充は鋭い目で警備員を見た。「妻が娘を連れて入ったので、入れてください」警備員は充の言う「家族」の情報を確認すると、警備室へ戻って端末を操作した。やがて戻ってきて、事務的な笑みを浮かべる。「申し訳ございません。現在、酒井黎ちゃんの付き添いとして入館を許可されているのは、お母様と栗原社長のみで、お客様のお名前は登録されておりません」何だと?奈緒は仁哉には付き添
充が去ったあと、病室には奈緒と仁哉、そして眠っている黎だけとなった。奈緒は娘を抱き、柔らかな頬を指先でそっと撫でた。それだけで、目頭が熱くなる。生後4ヶ月。何の心配もなく、ただ守られて眠っているはずの小さな子が、どうしてこんな不安にさらされなければならないのか。考えるだけで胸が引き裂かれそうだった。「仁哉さん、もし黎が本当に……」声が詰まり、その先を口にできない。仁哉は震える奈緒を見て、胸を痛めながらティッシュを差し出し、落ち着いた声で言った。「奈緒さん、僕を見て」奈緒が顔を上げると、まっすぐな視線とぶつかった。「先生は『疑いがある』と言っただけで、まだ決まったわけじゃない」仁哉は一つ一つ言い聞かせるように続けた。「今は治療法だってたくさんあるんだから、まずは君がしっかりしないと。黎ちゃんには君が必要なんだ」奈緒は鼻をすすり、小さくうなずいた。仁哉が続けて言う。「それに、君は一人じゃない。何があっても僕がそばにいるし、お金のことだって心配しなくていい。僕が……いや、うちのヤジン・デザインが全力で支えるから」思わず「僕が」と言いかけ、仁哉は途中で言い直した。奈緒は思わず彼を見つめた。仁哉の眼差しに、社交辞令のようなものはない。ただ純粋な心配と、何があっても力になるという揺るぎない意志だけがあった。まるで、何が起きても自分が支えると言っているようだった。だが、自分たちはただの友人。「仁哉さん、ありがとう」奈緒は掠れた声で礼を言う。「でも、これは私と黎の問題だから。そこまでしてもらう必要は……」「あるよ」仁哉は静かに遮った。「奈緒さん、僕のことは……君を人一倍心配してる古い友人だと思ってくれればいい。だって、僕がこうしたいから」奈緒の胸が大きく高鳴った。仁哉の優しくも揺るぎない眼差しに、張り詰めていた心が少しだけほどけていく。また涙がこぼれそうになり、奈緒は唇を噛んだ。「この話はもうやめよう」「一応、二つ手を考えてある。一つはA国からダニエル先生に来てもらって診てもらうこと。もう一つは、栗原家が潮咲市で経営している仁愛インターナショナル病院へ転院すること。あそこなら設備も整ってるし、プライバシーもしっかり守られる。ここから車で1時間くらいだよ」奈緒は驚いた。
佳乃は大きく息を吸い、どうにか感情を抑え込む。だが、その目には険しい光が宿っていた。「充、私がふざけてるとでも思ってるの?」佳乃は鼻で笑い、歯を食いしばるように言った。「だったら教えてあげる。この前ヤジン・デザインで、奈緒さんと、そして栗原社長に会ったんだけど、栗原社長は終始あの女をかばっていたわ。それだけじゃない。栗原社長は奈緒さんが買った服を一式試着してたのよ。それも、下着までね。女が男の下着まで買うって、どれだけ親密な関係だと思う?これ以上は言わなくても分かるでしょ?」佳乃が言葉を切ると、充の表情がみるみる険しくなる。それを見て、佳乃はわずかに溜飲を下げた。「いつまでも奈緒さんに執着してたら、最後に傷つくのはあなたよ。あなたのお母さんたちは今も拘束されてる。しかも須藤本部長が直々に捜査を見てるんだから、普通の伝手じゃどうにもならないでしょうね。助けられるのは私だけ。でも、そんな態度を取るなら、私は絶対に手を貸さないから。どうするか、よく考えて」そう吐き捨てると、佳乃は怒りに任せて部屋を出ていった。その場に立ち尽くした充の顔色は、ひどく沈んでいる。佳乃の脅しなど、半分も耳に入っていない。しかし、一言だけ、頭を金槌で殴られたような、衝撃的な言葉があった。奈緒が、仁哉の下着まで買った?二人は今、いったいどういう関係なんだ?本当に惹かれ合っているのか?それとも麟太郎が言っていたように、仁哉は奈緒の背後にある力を狙って近づいているだけなのだろうか?胸の奥が重く沈み、息苦しささえ覚えた。そのとき、夢香がものすごい剣幕で入ってきた。怒って帰っていく佳乃と、険しい顔で立ち尽くす充。それだけで何があったのか、夢香はすぐに察した。夢香はたちまち声を荒らげた。「ちょっと充!せっかくのチャンスをドブに捨てるつもり?今の青木家にとって、佳乃の家と手を組めるのがどれだけ大きいか分かってる!?わざわざ二人きりになれるようにしてあげたのに!それを自分から台無しにして、佳乃まで怒らせるなんて!お母さんたちを一生あそこに閉じ込めておくつもり?」充は何も言わず、冷ややかな視線を向けただけだった。その視線に夢香は一瞬怯んだものの、さらに声を張り上げる。「何とか言いなさいよ!お母さんたちはまだ拘
一方、荒れ果てたリビングを眺めながら、充は力なくソファに腰掛け、タバコに火をつけ、胸が締め付けられるように苦しかった。「井上、俺は奈緒に優しくしてこなかったかな?あそこまで怒ることないだろう?」恵は、床を掃きながら、そっと声をかけた。「旦那様は奥様にとてもよくしてらっしゃいますよ。ご結婚されてから5年、お二人が言い争うのを見たことがありません。ですが、子供を産んだ後の女性は気持ちが不安定になりやすいんです。産後うつにもなりやすいですし、旦那様の支えがもっと必要なんですよ」充は眉をひそめた。「産後うつだって言うのか?でも、他の女は子供を産んだって、こんなに変わったりしない。今
それから、蛍は奈緒が傷つくのを心配して、充から返信ひとつないことは、結局言い出せなかった。そして、奈緒が退院するまで、充は結局、姿を見せなかった。退院後、二人は黎と香織を連れて、碧瀾郷へと引っ越した。そこは、奈緒が半年前に入手した、リノベーション済みのマンションの一室だった。蛍の家はその真向かいの部屋で、隣同士に住むのは大学時代からの二人の夢だったのだ。だから半年前、蛍の向かいの部屋が売りに出されたと聞いて、奈緒は迷わず購入した。部屋には家具や家電が揃っていたが、まだどこか殺風景だった。蛍はすぐに自分の家から布団やポットなどの日用品を運んできた。奈緒は買い物リストを
「産後の回復がかなり遅れていますね。出産時に出血が多かったですし、低血糖で倒れやすい状態です。しっかり栄養をとって、気持ちをあまり高ぶらせないようにしてください」診察が終わっても、奈緒はまだ眠ったままだった。医師は病室で蛍に病状を説明した。隣で聞いていた香織が、ため息をついた。「奥様は産後の肥立ちが悪くて……最初の2週間はお乳が張って痛くて食事が喉を通らなかったんです。その後は赤ちゃんが夜泣き続きで……それでも奥様は自分で母乳をあげていたから、夜もまとまって眠れていませんでした。昼間は仕事もしていて、体が回復する暇もなかったんですよ」それを聞いて、蛍は怒り心頭になりそうだった。
一方、音を聞きつけた恵が慌てふためいて部屋から飛び出してきて、声を張り上げた。「地震です!地震が来たんですよね?」そして、香織もギャンギャン泣いている赤ちゃんを抱っこしていたけど、その音を聞いて、裸足のままバッグを掴んで外へ飛び出し、靴を履くのも忘れてしまうほどだった。……しかし、二人がリビングに駆け込むと、いつもは冷静な奈緒が、狂ったように大切にしていた置物を次々と床に叩きつけていた。その光景に、二人はあっけにとられた。それを見て恵が慌てて駆け寄り、止めに入った。「奥様、おやめください!ちゃんと話し合ってください、奥様!」香織も泣きやまない赤ちゃんをあやしながら、







