LOGIN皆が顔を見合わせた。柚香の仕事ぶりは、文句のつけようがない。その場にいた全員の視線が、一斉に黒田部長へと向いた。同時に、誰かの何気ない一言が、どれほど簡単に人の印象を左右してしまうのかを思い知らされる。「ちょっと言っただけじゃない、そんなにムキになること?」黒田部長はもともと絵理とあまり仲が良くない。「それに、柚香さんのためを思って言ったんだよ」「それが柚香さんのためだと思う?」絵理は女性社員たちに視線を向けた。彼女たちはそろって首を横に振った。黒田部長は言いかけた言葉を、ぐっと飲み込んだ。「柚香さんがどんな身分だろうと、今夜誰が挨拶しようと、彼女はただの柚香さんよ」絵理の一言で、場に乗じて何か仕掛けようとしていた連中の思惑は完全に封じられた。「うちの第八プロジェクトチームの柚香さんなんだから」その頃の柚香は、絵理が自分のためにここまでしてくれていることなど、知る由もなかった。もし絵理がいなければ、彼女の努力や実力は黒田部長の一言でかき消され、皆の記憶には「優秀な原画担当の柚香」ではなく、「コネで職場体験に来た人」としてしか残らなかっただろう。「ほら、ここに座って」伸行が彼女を連れて、修司の隣まで来た。柚香はちらりと璃子のほうを見た。そこにまだ空席があるのを見て、思わず口にする。「そっちで大丈夫です」席を移動しようとする前に、ある力でそのまま修司の隣に座らされてしまう。伸行は椅子を軽く押さえながら、小声で言った。「修司さんは君の味方だよ。ここに座ってればいい」柚香「……」――味方って、何の話?彼と遥真は、ずっと仲が悪いはずなのに。何か言おうとしたそのとき、ふと顔を上げると、テーブルにいた全員の視線がこちらに向いていることに気づいた。璃子たちは特に、探るような目で見ている。隣の修司は、グレーがかった白のスーツに身を包み、穏やかさの中にどこか冷たさも漂わせていた。鼻にかけた銀縁メガネが、知的な印象をさらに強めている。椅子にもたれながら、横目で彼女を見て呼んだ。「柚香ちゃん」「……え?」その呼び方に、柚香は少し違和感を覚える。「さっき、誰に嫌なことされた?」修司の声は優しかったが、テーブルの人間へと向ける視線には、わずかな圧がにじんでいた。「遠慮しなくていい。お義兄さんがちゃんと守ってあげるから」
玲奈の胸がドキッと鳴った。何か言おうとしたそのとき、もう病室からは遥真の姿が消えていて、それがかえって彼女の心を落ち着かなくさせた。思わず、去り際に彼が言ったあの一言の意味を考えてしまう。聞きたい。けれど、彼の口から自分が聞きたくない答えが出てくるのが怖い。彼は昔から自分に冷たかったし、特にあの一件があってからは、以前よりもずっと容赦がなくなっていた。遥真は車に乗り込むと、運転手に最速でホテルへ向かうよう指示した。同時に、絵理へメッセージを送る。柚香は、ほんの短い間にこんなにいろんなことが起きていたなんてまったく知らない。着替えて髪を乾かしたあと、ホテルのロビーへ向かい、絵理たちと合流した。「杉山家のお嬢様たちと知り合いなの?」席に着くなり、黒田部長が身を乗り出して聞いてきた。他の人たちも興味津々で耳をそばだてている。こんなネタ、聞かない理由がない。「前に一度、個展で会ったことがあるだけです」柚香はさらっと嘘をつく。それなのに妙に説得力がある。「その時、私の絵を気に入ってくれて、少しだけ話したんです」「なるほどね」黒田部長はあっさり信じた。「けっこう顔が広いんだな」柚香は適当に「そうですね」と相づちを打った。梨花も興味津々に聞く。「久瀬社長って来るのかな?」「?」「さっき来てたの、久瀬社長のお兄さんっぽかったよ」梨花は遥真と伸行が去った方向を見ながら言う。「代わりに来たのか、それとも今の会社の様子を見に来たのか気になって」柚香はますますわからなくなった。お兄さん?「柚香さん」そのとき、声がした。皆がそちらを見る。すると、原栄ゲームの元の社長である伸行が、穏やかな笑顔で歩いてきて、やさしい声で声をかけた。「ちょっと来てくれる?」柚香は嫌な予感がした。けれど本社の社長に呼ばれた以上、断るわけにもいかない。「中で一緒に食事しよう」伸行は小声で言った。聞こえた人はほとんどいない。「久瀬家の長男に頼まれてね」「私はここで……」柚香は断ろうとする。「行こう」伸行の態度は柔らかいが、有無を言わせない圧があった。柚香は二歩ほど進んでから立ち止まり、理由を探す。「私、お酒もあまり飲めないし、話もうまくなくて……もし失礼なことを言ってしまったら大変ですし」「家族同士でそんなこと気にし
メッセージを送ったが、相手からの返信はなかった。時也は仕方なく再び監視映像に意識を戻し、楓太と直人の一挙一動をじっと見張った。同じ男として、さっきのあの一言がどういう意味か、彼にはよく分かっている。伸行と話すというのはただの口実だ。おそらく二人は、柚香が着替えている隙に中へ入り込もうとしている。実際、状況は彼の予想とほとんど同じだった。二人は一度伸行のもとへ行き、「友人の服が濡れてしまった」と理由をつけて女子更衣室を借りようとし、許可を得るとそのまま一直線にそちらへ向かった。柚香もそのことは分かっていた。彼女は女子更衣室で昼に着てきた服を取り出すと、手早くドレスを脱ぎ、あっという間に着替えを済ませた。全体でも二分もかかっていなかった。スマホが震えた。取り出してみると、メッセージが一通届いていた。【あの連中が来たよ。気をつけて】差出人は不明の連絡先だった。それでも、すぐに璃子だと分かった。彼女はスマホをバッグにしまい、更衣室を出ると、二人が来る前に別のエレベーターで下の階へ降りた。その様子を見た時也は、ようやく大きく息をついた。だが気持ちが落ち着く間もなく、下のフロアに大勢に囲まれて現れた人物に、注意を一気に奪われた。――修司!!!下で伸行たちと余裕のある様子で挨拶を交わしているのを見て、時也は慌てて電話を取り出し、遥真にかけた。数回コールした後、ようやく繋がる。「もしもし」「修司さんが来た」時也は眉をひそめたまま、視線は下に向けたままだった。遥真は一瞬、電話を持つ手を止め、無意識に玲奈へ視線を向けた。「どうしたの、遥真?」玲奈は不思議そうな顔をする。遥真は彼女を避けることなく、はっきりと聞いた。「柚香は?」「さっき着替えて下に行った。まだ修司さんとは鉢合わせてない」時也は視線を外さず、気を緩めることなく答えた。「でも、なんとなく嫌な予感がする。彼、柚香さんを狙って来た気がする」遥真は黙り込んだ。相手が別の誰かなら、時也一人で十分対応できる。だが修司は考えが読めず、目的のためなら手段を選ばない。表向きは人当たりのいい顔をしているが、裏では何を考えているか分からない。あの場所に来たのは、間違いなく柚香のためだ。「僕はどう動けばいい?」時也は判断に迷った。「あとで下に降りて、適
橘川家が破産し、遥真は彼女と離婚した。トップクラスの名家の奥様から、普通の会社員へ。衣食に困らず、ブランド品も好きに使えていた生活から、今は固定給でやりくりする毎日。これだけの落差があるのに、どうして彼女はこんなに前向きに生きていられるの?「どう?」柚香はなかなか返事をしない彼女を見て、まったく気にしていないわけじゃない。璃子はスマホを取り出し、彼女に向けた。「いいけど、その代わり写真を何枚か撮らせて。いつか私のことをバラしたら、このみっともない姿をばら撒くから」「いいよ」柚香はあっさり答え、ついでにピースサインまでしてみせた。璃子「……」璃子は彼女の手を下ろさせ、カシャカシャと何枚も写真を撮った。「そんなに素直に応じて、あとで写真を拡散されてもいいの?」彼女にはどうしても柚香が理解できなかった。「気にしないよ。ただの写真でしょ。載せたければ載せればいい」柚香は自然と距離を縮めるように言葉を重ね、少しずつ彼女の心に入り込んでいく。「どんな文章をつけても、きっと事情があるんだろうなって思うし」「バカじゃないの」璃子はこういうのが苦手で、そう吐き捨てて立ち去った。けれど、認めざるを得なかった。柚香の言葉は、長い間麻痺していた彼女の心を少し揺さぶった。凍りついた胸の奥に、じわじわと温かさが広がり、ゆっくりと息を吹き返していく。柚香は、もう無理に絡んでこない様子を見て、張りつめていた気持ちが少し緩んだ。璃子のところはこれで乗り切れたとわかる。残る二人こそが、本当に厄介なドラ息子たちだ。周年イベントの途中で抜けると上司に目をつけられそうでなければ、今すぐでもこっそり帰りたかった。「柚香」璃子が急に足を止め、振り返って彼女を見た。柚香は少し驚いて顔を上げる。「え?」「楓太と直人も来てる」知っているはずだと思いながらも、つい口にした。「あの二人、私みたいに甘くないから。自分で気をつけて」「ありがとう」柚香は心から言った。璃子は一言だけ投げる。「ほんとバカ」そう言って、そのまま振り返らずに去っていった。ただ、外に出たときには、さっきまでの複雑で沈んだ表情は一瞬で消え、落ち着いた顔に変わっていた。それを見た他の数人が近づき、からかうように聞く。「どうだった?」「水ぶっかけてやった」璃子は口元に
「遥真と別れてから、こんなに弱気になったの?」璃子は腕を組み、どこか軽い調子で鏡の中の自分に向かって話しかけた。「桐也が言ってた「橘川家のお嬢様」とは、ずいぶん違うじゃない」「そっちこそ、噂と違うんじゃない?」柚香はすぐに言い返した。璃子は二歩ほど近づく。「噂だと、私はどんな感じなの?」「自分が一番わかってるでしょ?」柚香は冷静に見ていた。遥真と結婚していたこの数年で、同じ世界の人たちのことはだいたい把握している。「あの噂、全部自分で流させたんじゃないの?」璃子は一瞬、言葉に詰まった。まさかそこまで見抜かれているとは思っていなかった。探るような視線を柚香に向ける。「遥真に聞いたの?」「そんなの、わざわざ聞かなくてもわかるよ」柚香は不思議そうに言った。「……?」璃子は本気で混乱してきた。「そんなにわかりやすかった?」「別にわかりやすくはないよ」柚香は正直に答えた。ちゃんと知らなければ、璃子のことはただのわがままで傲慢なお嬢様にしか見えないだろう。璃子は思わず殴りたくなった。――わかりやすくないなら、さっきのは何なのよ。「ただ、一度だけ見ちゃったことがあって。さっきまで強気に人に水をかけてたのに、そのあと別の形で相手に多額の補償をしてたでしょ」あの時がなければ、璃子の「演技」には気づけなかった。しかし、杉山家で両親に大事にされて、何でも手に入るのに。どうしてわざわざ、そんなキャラを作る必要があるのだろうか。璃子の目から笑みが消えた。「それ、誰に話したの?」「そんなに気になる?」柚香は問い返す。「……」璃子はこめかみを押さえた。この子といると、どうしても本音が隠せない。「二年前のパーティーの件、もう蒸し返さないって約束してくれるなら、誰に話したか教える」柚香は先に条件を出した。あの時、遥真が彼女のために璃子の面子を潰したことがあったからだ。「他の人には言わないって保証もする」「脅してるの?」璃子はじっと見つめる。「うん、そうだよ」柚香はあっさり認めた。「私がそんなの怖がると思う?」璃子は一歩ずつ近づき、顔が触れそうな距離まで迫る。まつげの一本一本まで見えるほどだ。「今はもう、遥真はあなたを守ってくれないのよ」「でも、真帆がいるから」柚香は肩をすくめた。璃子は口元を歪め、ふと二人の長い付き合
玲奈は微笑んで「いいよ」と答えた。二人はしばらく話し続けていたが、そのとき遥真のスマホに時也からメッセージが届いた。【あいつら来た。先に対応するから、何かあったら電話する】遥真は指先で軽く打ち返す。【了解】そのメッセージを見た時也はスマホをポケットにしまい、そのまま視線を階下のホールにいる柚香へと集中させた。このとき、すでにすべての出し物は終わり、会社は「優秀リーダー賞」の表彰に入っていた。各部署から代表が壇上に上がり、柚香の部署では絵理が受賞していた。それが終わると、続いて「優秀社員賞」が始まる。すべての賞が授与されると、司会者は熱のこもった口調で、社員と会社が互いに成長し合うといった定番のスピーチを始めた。話し終えると、舞台の反対側へと視線を向ける。「それでは、藤原社長のご友人の皆さまを、盛大な拍手でお迎えください!」会場全体から一斉に拍手が沸き起こった。そして次の瞬間、柚香は桐也や杉山家の令嬢、松本家の御曹司、石田家の御曹司といった、いわゆるお金持ちの子どもたちが、伸行と一緒に壇上へ上がるのを目にした。柚香は思わず口元が引きつる。――まさか、こんな形で出てくるとは思わなかった。正直、あいつら、バカとしか言いようがない。桐也はともかく、残りの三人の家はそれぞれゲーム会社を持っている。メイン事業ではないとはいえ、ゲーム一本でやっている原栄ゲームに比べれば及ばないにしても、ここに出てきたら原栄ゲームの宣伝をしているようなものじゃないか。これで家に帰って怒られなかったら、むしろ拍手してあげたいくらいだ。「藤原社長、少しマイクをお借りしてもいいですか?」杉山家の令嬢が、柚香の方をちらりと見ながら、壇上で丁寧にそう言った。伸行はマイクを手渡す。彼女はまず、原栄ゲームの今後の発展を願う定型的な祝辞を二言三言述べたあと、本題に入った。「それから、もう一人、ぜひ壇上に上がってもらいたい友達がいます」柚香「……」柚香はすぐに身をかがめ、そのまま人混みの中をするりと抜け出した。こんな人たちにいいように振り回されるなんて、ごめんだ。あとで上から呼び出されても、「お腹を壊してて気づきませんでした」で押し通すつもりだ。どうせ絵理とも彩乃とも話は通してある。「橘川柚香」杉山家の令嬢・杉山璃子(すぎやま りこ
いつかきっと、自分が柚香の席を奪う。外ではまだ雷が鳴っている。玲奈は少しずつ眠りに落ちていき、穏やかな寝息を立て始めていた。その姿を椅子に座ったまま見つめている遥真の脳裏に浮かんだのは、雷が鳴るたび布団に潜り込んでいた柚香の姿だった。暑くて蒸れるし、音だって大して遮れないのに、雷が鳴ると必ず布団に潜る。彼が抱き寄せて耳をふさいであげても、最後は布団で覆われていないと落ち着かない、そんな子だった。思い出しながら、遥真はスマホを取り出し、陽翔にメッセージを送った。【ママの様子はどう?】その頃、陽翔は柚香と一緒に真帆とビデオ通話中だった。昨夜から今日まで、柚香が真帆に
「もしお父さんが、あの時のことには事情があったんだと言ったら……信じるか?」父の声は、一瞬で何年も老け込んだように聞こえた。「あのとき俺がああするしかなかった。そうしなければ、お前たちまで巻き込まれていたんだ」柚香はあざ笑うように言った。「私が信じると思う?」ナイフで刺しておいて、「これはお前のためだ」なんて言い訳するのと何が違うのか。「一度こっちに来てくれ。全部話す」父の声はさらに重く沈む。「それを聞いて、まだお前が俺を責めるなら……俺は自分の足で、お前のお母さんのところに行って土下座して謝る」「わかった」柚香は電話を切り、タクシーを拾って言われた場所へ向かった。心の中で
「陽翔のことが気になって、様子を見に来た」遥真の声は落ち着いていて優しい。そのまま立ち上がると、高くて凛とした体格が威圧感を放ち、その底知れぬ瞳が柚香の顔を一目見てから、言葉を続けた。「窓とドア、ちゃんと閉めて。すぐ戻るから」「もうちょっと早く……」玲奈が言いかけたその時、外で雷が落ちた。「きゃっ!」悲鳴と同時に柚香もびくっと肩を震わせた。遥真はすぐに気づいた。でも彼は何も指摘せず、電話の向こうで怖がっているふりをしている玲奈をなだめて落ち着かせてから電話を切った。帰り際、張りつめた顔の柚香を見て、ひと言だけ置いていく。「怖いなら、イヤホンつけとけ」「余計なお世話」柚香
そんなことはもうどうでもいい。今の柚香にとって一番大事なのは、お金を稼ぐことだ。後から提出した履歴書にも返事はなく、遥真が裏で止めているのはわかっていた。だから彼女は仕事探しの目標をアルバイトに切り替え、その日の午後にはマンツーマンのダンスレッスンの面接を取りつけた。結婚してからは専業主婦をしていたとはいえ、幼いころから続けてきたダンスと絵だけは手放したことがなかった。指定された場所に行くと、そこは京原市でも裕福な地域で、住人たちは子どもに付ける家庭教師もマンツーマンが普通だ。だから、今回の依頼主がまた遥真である心配はあまりなかった。けれど、呼んだのは遥真ではなかったが、ほ







