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last update 最終更新日: 2025-08-27 06:00:03
 お膳の湯気が頬に触れるたび、緊張が少しずつほどけていく。椀物の出汁はまろやかで、焼き物の皮は香ばしい。私が箸を置く間合いを測っていると、お母さまが盃を手に取った。

「お酒は飲まれる?」

 私に注いでくださろうとしたけれど、丁重にお断りした。「本日はお母さまへのご挨拶に伺ったので、遠慮させていただきます。次回はぜひお願いします」

 私の返答に彼女は満足そうに頷いた。ここでYesと言ってはいけない――打ち合わせどおりだ。お母さまは微笑んでいる。

「蓮司、ひかりさんの手前、飲むなら控えめにね」

「了解」

 注ぐ角度をわずかに落として、盃を静かに満たす。お母さまの視線が、その手元を一度だけ撫でた。

「ひかりさん。機密について質問があるの。仕事の話題が出たら、貴女はどうするの?」

「職務に関わることは外ではしません。誰が隣にいるか、いつも意識します。必要があれば、話題を変えます」

「言うだけなら簡単よ」

「はい。徹底して守る所存です」

 お母さまは盃を口に運び、喉をほんの少しだけ動かした。

「健康は?」

「塩分は控えめ。夜は炭水化物を摂り過ぎない。睡眠は最低六時間、できれば七時間台。出張明けは白いものと温かい汁物から。朝はたんぱく質を先に摂っていただくようにします」

「言葉だけなら栄養士ね」

「実行できるよう、買い物と仕込みで先回りします」

 横で黙って聞いていた蓮司が、苦笑をこぼす。「ひかりの提示したルールは、だいたい守れる」

「守らせますから」

 場に控えめな笑いが落ちた。足元では、シリウスが私の踵に鼻先を押し当てている。安心したのか、丸くなって目を細めた。

 お造りを食べ終えた頃、執事がそっと近づく。「奥さま、例の件を」

 例の件? いったいなにを言われるのかな。

「ひかりさん、数日後に母屋の一部を改修するの。騒音が出るから、シリウスを預かってくれないかしら」

 思わず顔が綻ぶ。「よろこんで。お散歩の時間や注意点、教えてください」

「室内犬だから長距離は苦手なの。朝夕十五分ずつが目安。雨の日は無理をさせないで。――この子は嘘が嫌い。あなたの声で、穏やかに」

「はい」

 ウソが嫌いなのはお母さまなのでは…? そう思ったが黙っておいた。

 彼女の唇が、かすかに弧を描く。「礼儀、機密、健康。それに“継続”。その家は、続ける力で保たれるのよ。肝に銘じておいてね」

「心に刻みま
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