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捨てられ料理人は諦めない
捨てられ料理人は諦めない
Auteur: 黒兎みかづき

1:裏切りの予兆

last update Date de publication: 2026-06-10 11:07:27

 高級レストラン『一ノ瀬』のディナータイムは、いつも通りの賑わいを見せている。

 そんな中、厨房はまさに戦場と化していた。

 換気扇が回る低い音が響く中、四基のコンロからは青い炎が絶え間なく上がる。

 フライパンの中で油が弾ける音が絶えず鳴り響いていた。

「前菜、3番テーブルと5番テーブル、同時にアップして!」

 佐伯春菜(さえき・はるな)はテキパキとした動作で、部下たちに指示を飛ばしていた。

「はい、すぐに出せます!」

「メインの肉、火入れはあと1分。ソースの仕上げ急いでください。付け合わせの野菜は上がってる?」

「上がってます! アスパラガスのソテー、少し色がついちゃいましたけど大丈夫ですか?」

「色? 見せて」

 春菜は、アシスタントの若手スタッフが差し出したフライパンを覗き込んだ。

 不安そうなスタッフを安心させるように微笑んでみせる。

「これくらいなら許容範囲。でも次はもう少し早めに上げてくださいね。余熱で火が入るから」

「すみません、気をつけます」

 スタッフたちの声が飛び交う中、副料理長である春菜は、3つのフライパンを同時に操りながら全体の進行を管理していた。

 彼女の視線は手元の食材だけでなく、厨房全体の動きを的確に捉えている。

 指示を飛ばしつつ、手元の真鯛のポワレに白ワインを回しかける。

 アルコールが飛ぶ一瞬の香りを確かめて、すぐに火から下ろした。

 その絶妙なタイミングに、周囲のスタッフから思わずため息が漏れる。

「さすが春菜さん。素晴らしいタイミングです」

「褒めても何も出ませんよ」

 春菜は少し照れたように笑った。

 と。

 そこに、ホールスタッフが飛び込んできた。ひどく慌てた様子である。

「春菜さん! VIP席の九条様から特別オーダーが入りました!」

 春菜はフライパンを保温スペースに移しながら、眉を寄せた。

「特別オーダー? コースのアレルギー変更なら事前に聞いてるけど。何か追加ですか?」

「違います。その、『私の舌を驚かせる、今まで食べたことのない一皿を出して』と」

 その言葉を聞いて、春菜は作業の手を少しだけ止めた。

 九条梨沙(くじょう・りさ)。九条不動産の社長令嬢であり、春菜の高校時代からの親友だ。

 この店のオープン当初からひいきにしてくれている常連でもある。

(また梨沙の気まぐれか。相変わらずね)

 春菜は苦笑した。

 梨沙は昔から無茶な要求をして、周りを振り回すところがある。

 けれど親友の要求に応えるのは、料理人としての腕の見せ所でもあった。彼女を心から喜ばせたい。

「分かりました。梨沙さんには15分ほどお時間をいただくように伝えて」

「えっ、受けるんですか? 今、オーダー詰まってますけど」

「大丈夫。他の料理は止めませんから。最高のものを出すから、ワインのおかわりでも勧めて繋いでおいて」

「はい! よろしくお願いします!」

 ホールスタッフが足早にホールへ戻っていく。

 春菜は頭の中で素早く冷蔵庫の在庫を検索し、食材を組み立てていった。

 今まで食べたことのない一皿。

 奇をてらうのではなく、極上の素材を最高の火入れで提供する。

(今日入荷したばかりの伊勢海老、北海道産のホタテもある。それを使おう)

 春菜はすぐに作るべき料理の構成を決めた。アシスタントに声をかける。

「田中くん、伊勢海老とホタテを出して。あとサフランと生クリーム、それからベルモット酒」

「了解です! 特別オーダーですね」

 スタッフの田中が冷蔵庫から素早く食材を取り出してくる。

 春菜は専用のまな板を取り出して、伊勢海老の殻を素早く剥いた。

 包丁がまな板を叩く音が、規則正しいリズムを刻む。

「田中くん、隣のコンロ空けてくださいね。エビの殻を炒めるから」

「はい、空けました!」

「ソースは甲殻類の出汁をベースに、サフランで香りと色をつけます」

 頭の中で工程を確認しながら、鍋でエビの殻と香味野菜を炒め始める。

 香ばしい匂いが立ち上ってきた。

(それにしても、毎日よく回ってるよね、この店)

 春菜は火加減を調整しながら、ふと思った。

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  • 捨てられ料理人は諦めない   81:グレーな契約

     翌日の午前。春菜は都心のビジネス街にそびえ立つ、ガラス張りの高層ビルを見上げていた。 御堂ホールディングス本社ビルである。  陽光を反射する巨大な建造物は、周囲のビルと比べても強い存在感を放っていた。 春菜は手持ちの服の中で、一番見栄えのする白いブラウスと紺色のスカートを着てきた。  それでも足を踏み入れるのに勇気が要る。  自動ドアを抜けると、大理石の床が広がるエントランスホールがある。空調の効いた冷たい空気が肌を撫でた。「あの……佐伯春菜です。御堂社長に呼ばれて来ました」「佐伯様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」 受付で名前を告げると、すぐに専用のエレベーターへ案内された。  耳が詰まるほどの速度で上層階へ到着する。 案内されたのは、重厚感のある木製のドアの向こうにある重役用会議室だった。  壁の一面は完全にガラス張りになっており、眼下にはミニチュアのような東京の街並みが広がっている。  中央には磨き上げられた長大で立派なテーブルが鎮座していた。(場違い感がすごい。私、完全に迷い込んだ子羊状態なんだけど。子羊のローストにされて食べられちゃわないかな) 春菜が部屋の隅で縮こまっていると、別のドアが開いて御堂礼司が入ってきた。  今日は深いネイビーのスーツを着ている。彼の後ろには、揃ってダークスーツを着た3人の男女が続いていた。「よく来たな、佐伯。座ってくれ」 礼司はテーブルの中央に腰を下ろし、春菜にも席を勧めた。  春菜は革張りの椅子に浅く腰掛ける。 礼司の隣に並んだ3人は、それぞれ手帳やタブレット端末をテーブルに置いた。「彼らは我が社専属の法務チームだ。企業間の訴訟や契約トラブルの解決において、国内で右に出る者はいない」 礼司の紹介に合わせ、3人の中で一番年配の白髪交じりで眼鏡をかけた男性が頭を下げた。「御堂社長からお話は伺っております。早速ですが、お手持ちの資料を拝見してもよろしいでしょうか」 年配弁護士の落ち着いた声に促されて、春

  • 捨てられ料理人は諦めない   81

    「プロトタイプ店舗の総料理長が借金取りに怯えていては、最高のパフォーマンスなど出せないだろう。私はシステムに不確定要素を残すのが嫌いでね」 淡々とした口調だが、その言葉には絶対の自信と権力が裏打ちされていた。「君は、料理と店の経営にだけ集中しろ。外部のノイズはすべて私が遮断する」 冷たい路地裏の空気が、彼の放つ圧倒的な熱量によって塗り替えられていくようだった。「私が君の盾になろう。全てのトラブルから、私が君を守る。だから、君の腕を私に貸してくれ」 礼司は右手を差し出した。  節立って大きな、数々の経営判断を下し続けてきた手。 春菜はその手を見つめた。 翔太には裏切られ、手酷く捨てられた。  たった1人で日銭を稼ぎ、いつ取り立てが来るか分からない恐怖に怯えながら、先の見えない日々を送っていた。 だが目の前の男は、春菜の料理と頭脳の価値を認めてくれた。  すべての障害を自分の力で排除すると言い切っている。(……この人なら、本当に全部なんとかしてしまいそう) 感情論や同情ではない。極めて合理的な損得勘定に基づいた、ビジネスとしての提案――の、はずだ。 だからこそ信頼できると、春菜は思った。  彼にとって春菜は、投資する価値のある人間なのだ。 春菜は愛し合っていたはずの翔太に捨てられた。  長年の親友だと信じていた梨沙に裏切られた。 それゆえに礼司のビジネスを強調する言葉に好感を持った。(信じてみよう。御堂社長という人そのものではなく、彼のビジネス眼を) ただ1つ気になるとすれば、彼の両目に不自然なほどの熱が灯っていること。焦がれるような、熱烈な視線。  けれどそれも、春菜は単に「仕事上の熱意」と思うことにした。(……私も覚悟を決める) 春菜はエプロンで自分の右手を軽く拭いた。いつの間にか、緊張で汗がにじんでしまっていた。 それから、礼司の差し出した手をしっかりと握り返した。「分かりました。私の料理と経営のノウ

  • 捨てられ料理人は諦めない   80

     言い終えると、春菜は再び深く頭を下げた。(これで終わりだ。せっかくのチャンスだったけれど、今の私の状況じゃどうしようもない) 悔しかった。  翔太の裏切りは、いつまで経っても春菜を縛り付ける。 けれど仕方のないことなのだ。 九条不動産が作った契約書はよくできていて、素人の春菜では太刀打ちできない。 借金の利子が膨らんでいくのを恐れながら、生活費を削って少しずつ返していくしかない。 コンクリートの地面を見つめて、春菜は礼司が踵を返して去っていく足音を待った。 大企業の社長が、わざわざトラブルを抱えた人間を起用する理由はない。 しかし予想に反して、足音はいつまで経っても聞こえなかった。  代わりに聞こえてきたのは、短く鼻を鳴らす音だった。「……ふん」 春菜が恐る恐る顔を上げると、礼司はひどく呆れたような顔で彼女を見下ろしていた。「な、何がおかしいんですか」「いや。君があまりにも悲痛な顔で言うものだから、どれほど致命的な問題かと思えば」 礼司はスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を素早くタップし始めた。「たかが借金か。……君の価値は、そんなはした金で測れるものではない」「たかがって……何千万円ですよ? しかも、元婚約者のバックには大手の九条不動産がついているんです。彼らの法務部が絡んでいるらしくて、素人の私じゃどうにも……」「額の問題ではない。君が『騙されて不当に押し付けられた』と言ったことが重要だ。それに、不動産屋の法務部程度がなんだというんだ」 礼司はスマートフォンを耳に当て、数秒待ってから口を開いた。「私だ。法務部のトップチームを明日の朝一番で社長室に集めろ。個人の債務トラブルに関する案件だ。……ああ、詐欺的手段による連帯保証契約の解除と、錯誤無効を立証して、債務を本来の持ち主に差し戻す。相手は九条不動産の関連だ。コンプライアンス違反も徹底的に洗え。一切の妥協は許さん」 極めて事務的で指示を出し、礼司は通話を切った。

  • 捨てられ料理人は諦めない   79

     春菜の足先から、スッと血の気が引いていくのを感じた。(ダメだ。私には、翔太に押し付けられたあの莫大な借金がある) 春菜は奥歯を強く噛み締めた。 今の春菜は、身を隠すようにして日雇いの厨房に入っている。だからこそ、借金取りに見つからずに済んでいるのだ。 もしも銀座の一等地にできる新しい店の総料理長として、大々的に表舞台に立てばどうなるか。 御堂ホールディングスの最新AIシステムの実験店舗となれば、メディアにも取り上げられるだろう。 話題になればなるほど、借金取りの目にとまる可能性は跳ね上がる。 ヤクザまがいの男たちが銀座の真新しい店舗に押しかけて、客やスタッフに怒号を浴びせる光景が目に浮かぶようだった。(私では駄目だ。後ろ暗い借金のある私では……。御堂社長の顔に泥を塗ることになる。そんな大迷惑をかけるわけにはいかない) せっかくの夢のような提案だが、今の自分には受け取る資格がない。 春菜は込み上げてくる無念さを飲み込むと、ゆっくりと頭を下げた。「……御堂社長。私を高く評価してくださり、本当にありがとうございます。料理人として、これ以上ないほど光栄なご提案です」「ならば」「ですが、お受けできません」 きっぱりとした拒絶に、礼司の眉がピクリと動いた。「理由はなんだ。報酬に不満があるなら、希望額を言えばいい。初期費用だけでなく、売上に対するインセンティブも弾む用意がある」「お金の問題ではありません。私個人の、極めて個人的な問題です」 春菜は顔を上げて、礼司の目を見返した。 この鋭い目を持つ男に隠し事をしても、すぐに見破られるだろう。 それならば、変な誤解をされる前に正直に話すしかない。「私には、元婚約者から不当に押し付けられた多額の借金があります。彼が自分の店を出す際、私を騙して連帯保証人にし、その後私を店から追い出しました。実家を抵当に入れたけど、払いきれなくて……何千万円という

  • 捨てられ料理人は諦めない   78

     礼司は画面を数回タップし、春菜の前に提示する。  そこにはスタイリッシュな店舗の内装パース図や、複雑なシステム構成図が映し出されていた。「先ほども言ったが。君が飲み込むまで、何度でも説明しよう」 タブレットの画面を指で示して見せる。「現在、我が社は社運を賭けて『次世代・飲食店統合AIシステム』を開発中だ。客の予約管理、オンライン決済、需要予測に基づいた食材の自動発注から在庫管理、さらにはダイナミックプライシングまで、店舗運営の裏側をすべてAIが自動化する」「すべて自動化……」 シエルのデリ販売で、春菜は予約決済システムを活用した。 それをもっと高度にした仕組みが、店の業務全体を支援するのだという。「そうだ。料理人は経営の雑務から解放され、料理を作ることだけに集中できる。だが、このシステムを世に出すための、ショーケースとなるプロトタイプ店舗が必要なんだ。システムが完璧でも、提供する料理が凡庸では客は納得しない」 礼司はタブレットの画面を消し、再び春菜の目を捉えた。「だからこそ、君にその店の総料理長を任せたい」「私が……総料理長」「場所は銀座の一等地を押さえてある。最新鋭の厨房設備を用意しよう。メニューの決定権も、厨房の人事権もすべて君に委ねる。君の理想とする店を、好きに作ってくれて構わない」 銀座に自分の店。最新鋭の設備を完備。 現実離れした言葉が春菜の脳裏で踊る。 料理人であれば誰もが飛びつくような、夢のような提案だった。(銀座で、私のお店。スチームコンベクションオーブンも真空包装機も、その他の最新機器も、何でも揃っている厨房……。そこで、私の考えた料理を最高のアシストを受けながら作れるなんて!) 春菜の胸の奥で、料理人としての情熱が熱く燃え上がりそうになった。 みやこ食堂も赤狸もシエルも、やりがいはあった。  けれどやはり自分自身の城を持ち、自分の料理で勝負したいという欲求は、料理人である以上消し去ることはできない。「資金援助と設備投資は、うちのシステム

  • 捨てられ料理人は諦めない   77:裏口のスカウト

     ビストロ『シエル』の厨房は、ディナータイムのピークに向けて一気に熱気を帯び始めていた。 コンロの上では真壁シェフがフライパンをリズミカルに振っている音がする。  オリーブオイルとニンニクの香ばしい匂いが立ち上っている。 ホールからは、グラスが触れ合う音や客の弾むような笑い声が絶え間なく聞こえてきた。 春菜が立て直したこの店は、今日も満席。  客たちはみな、真壁の料理を楽しんでいる。 春菜は裏口の鉄扉を半開きにしたまま、目の前に立つ男を警戒と驚きが入り交じった目で見上げていた。 ――御堂ホールディングス社長、御堂礼司。 薄暗い路地裏には全く不釣り合いな、仕立ての良いダークスーツを着こなす長身の男。  薄闇の中でも、彼の美貌と瞳の熱はよく目立った。 彼の口から放たれた「私の手掛ける新しい事業には、君のその天才的な頭脳と腕が必要だ」という言葉が、夜風の中で静かに響いていた。「私の、頭脳と腕……ですか」 春菜がオウム返しに尋ねる。まだ意味がよく理解できない。  彼女の言葉に、礼司は顎を引いて肯定した。「そうだ。君がこれまでやってきたことは、すべてデータとして私の手元にあると言った」「データ、ですか」 ぼんやりとしている春菜に、礼司はもう一度繰り返した。「みやこ食堂での仕込みのモジュール化。限られた人員で回転率を上げるための見事なメニュー再構築だった。赤狸における立ち飲み客と座り客の動線分離もそうだ。客の滞在時間を計算し尽くした見事な采配だ。そしてこのシエルでの、事前決済システムを用いた廃棄ロスの排除。どれもが単なる料理人の域を超えた、実務的で極めて論理的な経営手腕だ」 礼司は淡々とした口調で、春菜がこれまでの店舗で行ってきた改善策を並べ立てた。(すごい。本当に全部筒抜けじゃない) 春菜は内心で戸惑った。 彼女としては、その場その場で店が抱える課題を解決するために、当たり前の工夫をしてきただけだ。特別な魔法を使ったわけではない。  それが大企業の社長か

  • 捨てられ料理人は諦めない   2

     ここ数ヶ月、春菜は連日睡眠時間3時間で働いていた。 営業中の厨房を仕切りながら、営業時間外は新メニューの開発や食材の選定、原価計算の事務作業に追われている。 婚約者でありオーナーシェフである一ノ瀬翔太(いちのせ・しょうた)は、経営やメディア対応で忙しく、厨房実務はほとんど春菜に任せきりだった。 彼が厨房に立つのは、雑誌の取材用の写真撮影の時くらいだ。(まあ、私が店を守るって決めたんだし。翔太には経営に専念してもらわないと) このレストラン『一ノ瀬』をオープンするにあたり、春菜は両親亡き後の実家を担保に入れた。多額の融資の連帯保証人になっている。 誰よりも大切な婚約者のため、店を

  • 捨てられ料理人は諦めない   7

     アスファルトの地面に靴音が響く。 婚約者として愛し合っていたはずの翔太と、親友だったはずの梨沙。  2人の裏切りは信じたくなかった。 でももう、信じざるを得ない。  ここまではっきりと悪意をぶつけられては、疑う余地がなかった。◇ その後も、ツテを頼って数軒のレストランやビストロを回った。  結果はすべて同じだった。  面会すら断られる店もあった。 巧妙に捏造された横領の悪評は、想像以上に早く業界に浸透していたので

  • 捨てられ料理人は諦めない   6

     彼らが奪えたのは、レシピと店と資金だけだ。 春菜は自分の手のひらを見つめた。  長年の調理を続けた手は、荒れてしまっている。  これこそが春菜の勲章だ。食材の最適な火入れを見極める感覚や、味を構築する舌の記憶は、誰にも奪えない。 たとえレシピが翔太の手に渡っても、料理とは繊細なもの。  その日の食材の鮮度や天候、気温にも影響を受ける。  春菜だからこそあの味が出せた。  部下のスタッフや翔太では、レシピを使いこなせるかどうか。 技術は絶対の財産だ。それさえあれば、どこでだってやり直せる。

  • 捨てられ料理人は諦めない   5:八方ふさがり

     レストラン『一ノ瀬』の裏口から放り出されて、春菜は冷たい雨の中を歩いていた。 薄手の上着は雨水を吸って重くなり、肌に張り付いて体温を奪っていく。  濡れた前髪から滴る水滴を拭いもせず、翔太と同居していたタワーマンションのエントランスに辿り着いた。(もう翔太とは暮らせない。荷物を引き上げないと) 電子キーを持って、自動ドアを通り抜けようとする。 ――ビーッ。 すると、愛想のないエラー音が鳴った。何度か試すが、赤いランプが点滅するだけだ。 ふと視線を横にやると、ガラス張りの掲示板に見慣

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