Masuk夜九時を過ぎた頃、スマホが振動した。画面を見ると、知らない番号からメッセージが届いている。開くと、ホテルの名前と部屋番号、位置情報の地図が表示されていて、その下に短い文章が添えられていた。
『すぐ来い』
鬼頭さんからだとすぐにわかった。リビングで宿題をしている歩を見て、笑顔を作る。
「ごめん、急にバイトが入った」
立ち上がって上着を羽織ると、歩が顔を上げた。
「こんな時間に?」
「うん。すぐ戻るから」
そう声をかけると家を飛び出して行った。
冷たい夜風が頬を撫でて、息が白く染まる。駅に向かって歩きながら、スマホで地図を確認した。
電車に乗って、ホテルのある駅で降りる。駅前には高級ホテルが立ち並んでいて、落ち着いた照明が建物を照らしていた。重厚な石造りの外観に、エレガントな装飾が施されている。大理石の柱が並ぶエントランスは、まるで宮殿のような佇まいで、場違いな居心地の悪さを感じた。
広々としたロビーには、シャンデリアが輝いていて、絨毯を踏む足音すら響かないほど静かだった。フロントの前を通り過ぎて、エレベーターホールに向かう。
部屋番号がある階でエレベーターを降りると、廊下がやけに静かに感じた。携帯の画面に表示されている部屋番号とドアの表示を確認してから、呼び鈴を押した。
しばらく待つと、ドアが内側から開いた。バスローブ姿の鬼頭が立っていた。濡れた髪が額にかかっていて、シャワーを浴びたばかりのようだ。
「遅い」
不機嫌な声で言われて、僕はムッとして唇を噛んだ。
「メッセージを見てすぐに来ました」
「言い訳はいらない。入れ」
中に入ると、甘ったるい香りが鼻を突いた。女性の香水の匂いが部屋に充満している。
(女性がいるのか?)
部屋の奥を見ると、ベッドが乱れていた。シーツがぐちゃぐちゃになっていて、枕が床に落ちている。
明らかにした後だ。
(女性とやった後に僕を呼び出したてこと?)
背後でドアが閉まる音がして、振り返る前に鬼頭さんの手が僕の肩を掴んだ。
「待っ……」
抗議する間もなく、ベッドに押し倒された。うつ伏せに倒されて、腰を掴まれる。ズボンのベルトが外されて、ジッパーが下ろされる音が聞こえた。
「ちょっ……服を……!」
(いきなり?)
慌てて声を上げると、ズボンと下着が一気に膝まで引き下ろされた。上半身は服を着たままで、下半身だけが露わになる。
「鬼頭さん……!」
名前を呼んで抗議しようとすると、背後から鬼頭さんの熱が押し当てられた。
「っ……!」
準備もなく、いきなり挿入されて悲鳴が喉から漏れた。身体が引き裂かれるような痛みが走って、シーツを掴む。鬼頭さんが容赦なく腰を動かして、奥を突いてきた。
「痛い……やめ……」
掠れた声で訴えても、鬼頭さんは止まらない。ただ黙々と腰を打ち付けてきて、僕の身体を貪る。顔がシーツに埋まって、甘ったるい香水の匂いが鼻腔を支配して、気持ち悪くなる。
女の匂いがするシーツに枕の近くに長い髪の毛が落ちているのが見えた。
(絶対、女性を抱いた後だろ)
しかもそれだけでは満足できなかった様子。
「あっ……ああっ……」
声が漏れて、身体が揺さぶられる。腰を掴まれて、さらに深く突かれた。
鬼頭さんの動きが激しくなって、荒い息が背中にかかる。繰り返し突き上げられて、身体が前に押し出されそうになった。シーツを掴む手に力が入って、爪が布地に食い込む。
鬼頭さんの手が僕の手首を掴んで、手のひらを上に向けさせた。
「っ……」
「これは何だ」
低い声で問いかけられて、身体が強張る。鬼頭さんが僕の手のひらを見ていた。二日連続の肉体労働で、手のひらにマメができていた。
「前に抱いたときはこんなのはなかった」
鬼頭さんが指摘して、僕は手を引こうとした。
(よくそんなこと、覚えてるな)
「離して……」
「答えろ。何をした」
「……バイト」
小さく答えると、鬼頭さんが手を離した。僕はすぐに手を握りしめて、マメを隠す。
悪いことをしたわけではないのに、鬼頭さんに見られるとなぜか罪悪感を覚える。
「くっ……」
鬼頭さんが低く呻いて、腰の動きが速くなった。奥を激しく突かれて、僕はまた甘い声が勝手に漏れてしまう。身体の奥が熱くなって、少しずつだが痛みとは違う感覚が混ざり始めた。
やがて鬼頭さんが奥で止まって、熱いものが中に注がれた。鬼頭さんが僕の背中に覆い被さってきて、重さで息が苦しくなった。
荒い息を吐きながら、鬼頭さんがゆっくりと身体を起こした。繋がったまま、僕の身体が起こされる。
「っ……」
体勢が変わって、さらに深く入り込んできた感覚に声が漏れる。鬼頭さんが僕の背中を自分の胸に引き寄せて、首筋に唇を這わせてきた。
「鬼頭、さん……」
名前を呼ぶと、鬼頭さんの手が僕の顎を掴んで顔を横に向けさせた。無理やり唇を奪われて、舌が侵入してくる。ねちっこく濃厚なキスに、息ができなくなった。
鬼頭さんの舌が僕の口内を蹂躙して、唾液が混ざり合う。キスをしながら、鬼頭さんの手が僕の男性器に伸びてきた。
「んっ……!」
僕の熱を握られて、身体が跳ねた。鬼頭さんの大きな手が、上下に動き始める。キスをされながら擦られて、身体の熱が腹の奥へと溜まっていく。
「ああっ……だめ……」
キスが一瞬離れて、声が漏れた。すぐにまた唇を塞がれて、舌が絡みついてくる。鬼頭さんの手が僕のものを執拗に擦り上げて、快感が押し寄せてきた。
繋がったまま、キスをされながら、前を擦られる。身体中の感覚が研ぎ澄まされて、気持ちよさが鋭敏に反応する。
「んんっ……!」
鬼頭さんの手の動きが速くなって、先端を親指で擦られた。電流が走ったような快感に、身体が震える。
「あっ……ああああっ……!」
キスが離れた瞬間、絶頂が訪れた。鬼頭さんの手の中で果てて、白濁した液体が飛び散る。全身が痙攣して、力が抜けた。
鬼頭さんが僕の身体を支えて、ゆっくりと引き抜いた。身体から熱が抜かれると、一気に力が抜けてベッドに崩れ落ちた。
荒い息を吐きながら、シーツに顔を埋めた。女の香水の匂いが強くなって、現実に引き戻される。身体中が痛くて、動けなかった。
鬼頭さんが僕の隣に横になって、天井を見上げている。荒い呼吸が落ち着いていくのが聞こえて、静かな時間が流れた。
僕は身体を起こして、中途半端に下ろされたズボンを引き上げた。足に力が入らなくて、よろめく。連日の肉体労働のバイトで、全身が筋肉痛だ。さらに鬼頭さんに抱かれて足腰がガクガクと震えている。
こんな状態で無事に帰宅できるかわからないが、用事が済んだのなら帰りたい。
ベルトを締めて、上着を拾い上げる。鬼頭さんが僕を見ていて、声をかけてきた。
「帰るのか?」
僕は振り返って、冷たく答えた。
「弟が待ってるので」
鬼頭さんが身体を起こして、ベッドから降りた。白いシャツに袖を通して、ズボンを履いていく。
(何をして……?)
鬼頭さんがネクタイを締め終えると、内ポケットから何かを取り出す。
「これを持っていけ」
差し出されたのは、札束だった。何枚も重ねられた一万円札が、手渡される。
「いらない」
僕は首を横に振って、断った。鬼頭さんの眉間に皺が寄る。
「手にマメができるようなバイトをするな」
低い声で言われて、僕は唇を噛んだ。
「無理。バイトはする。鬼頭さんのお金には頼らない」
きっぱりと答えて、玄関に向かう。立ち上がって一歩踏み出すと、足がふらついた。身体が傾いて、倒れそうになる。
鬼頭さんの腕が僕の身体を支えて、壁に押し付けられた。
「弟のためを思うなら、金を受け取れ。これは借金には加算しない。当面の生活費にはなるだろ」
僕の手を掴んで、無理やり札束を握りしめさせる。温かい手が僕の手を包んで、離してくれなかった。
弟のためと言われたら、断れない。バイトのたびにふらふらになっていては、弟が心配してしまう。もしかしたら父がいなくなったことを知られてしまうかもしれない。
「……わかった」
小さく答えると、鬼頭さんが手を離した。僕は札束を上着のポケットに入れて、鬼頭さんから離れた。
「送る」
鬼頭さんが短く言って、部屋のカードキーを手に取った。有無を言わさぬ口調に、僕は黙って従った。
鬼頭さんが先に部屋を出て、僕も後に続く。エレベーターに乗って、地下駐車場に向かう。
車に乗り込むと鬼頭さんがエンジンをかけた。走行中、静かな車内で、二人とも何も話さなかった。
見覚えのある景色が見えてきて、車が家の前に停まった。僕はシートベルトを外して、ドアに手をかける。
「ありがとうございました」
形式的な礼を言って、車を降りた。鬼頭さんが何か言おうとしたが、ドアを閉めて家に向かう。振り返らずにマンションの自動ドアを開けて、中に入った。
家に帰るとリビングの電気は消えていて、歩はすでに寝ているようだった。靴を脱いで、そっと廊下を歩く。歩の部屋の前を通り過ぎて、脱衣所に向かった。
服を脱ごうとして、微かな匂いが鼻をついた。女性の香水と、鬼頭さんの匂い。ホテルで染み付いた匂いが服に残っていて、吐き気が込み上げてくる。
慌てて服を脱ぎ捨てて、トイレに駆け込んだ。便器に顔を近づけて、胃の中のものを吐き出した。
(こんなの――嫌だ)
顔を洗って、シャワーを浴びる。熱いお湯が身体を流れて、穢れた身体が綺麗になっていく。
シャワーから出て、パジャマに着替える。鏡に映る自分の身体を見て、新しいキスマークが増えているのに気づいた。首筋に赤い痕が増えていた。
朝の光がカーテンの隙間から細く差し込み、瞼の裏をぼんやりと明るく照らしていた。 意識が浮上するにつれて、背中にぴったりと張りつく体温と、腰に回された腕の重みが感覚として戻ってきた。寝息を立てている鷹臣さんの呼吸が首筋にかかるたびに産毛が揺れ、くすぐったさで目が覚めてしまう。 鷹臣さんの腕を掴んで引き剥がそうとしたものの、眠っているとは思えないほどの力で抱き込まれていて、仕方なく肘で胸板を押しながら身体をずらしてベッドの端まで這い出た。 足元に転がっていた下着を手探りで拾い上げて穿き、枕元に脱ぎ捨てたままのシャツを頭から被った。袖から手を出しながら眠気をこするように目を擦り、重い身体を引きずるようにして寝室の扉に手をかけた。 扉を押し開けた瞬間、ゴンッ、と鈍い衝撃が手のひらに伝わった。 何事かと思わず身を引いて大きく目を見開くと、廊下の床に二つの丸い影があった。正座の姿勢のまま深く額を床につけている二人の頭が、薄暗い廊下にぼんやりと浮かび上がっている。「え? なに?」「大変申し訳ありませんでした! お兄さんにご挨拶が遅れ、さらにはご不快な思いをさせてしまい……」 聞き慣れない男の声が廊下に響いた。「え? ええ?」 声を上げると、がばっと身体を起こした青年が目に入った。短く整えられた髪に端正な顔立ち、怯えと緊張でこわばった表情をしながらも、背筋だけはまっすぐに伸びている。正座のまま再び深々と頭を下げると、震える声で言葉を続けた。「俺は神宮寺蒼介と申します。歩くんとは中学二年生のときからお付き合いを始めました。一年生の文化祭で一目惚れをして、二年生の運動会で告白して、付き合い始めてからずっと一緒にいます。高校生になってすぐに歩くんに初めてのヒートが来て、身体の関係を持ちました。まだ学生の身分ですが、お互いに社会人になったら結婚もしたいと思っています」 矢継ぎ早に繰り出される言葉の一つ一つが丁寧に練り上げられた文言で、何度も暗唱して備えてきたのだろうと察しがついた。圧倒されて口を開いたまま固まっている僕に、隣の歩がおずおずと顔を上げた。「――あ、はい」 間の抜けた返事しか出てこなかった。「兄さん、黙っててごめんなさい」 歩の声は震えていた。火照った頬と潤んだ瞳がヒート中であることを物語っていて、辛い身体を押して廊下の冷たい床に正座している
苛立ちを抑えきれないまま寝室に入り、照明もつけずにベッドへ倒れ込んだ。枕に顔を埋めると、鷹臣さんの匂いが鼻腔を満たして、余計に苛々が募った。歩の恋人の話を聞かされた衝撃と、僕だけが蚊帳の外に置かれていた悔しさが胸の奥で渦を巻いて、どちらの感情が上なのかすら判別がつかなかった。 口うるさい母親と変わらない――。 鷹臣さんに突きつけられた一言が、何度も頭の中で反芻された。 寝室の扉が開く気配がした。足音は聞こえないのに、背後から近づいてくる鷹臣さんの体温がはっきりと伝わってきて、ベッドが僅かに沈んだ。 後ろから腕が回された。広い胸板が背中にぴたりと密着して、鷹臣さんの体温が薄いシャツ越しに染み込んでくる。「まだ怒ってるのか」 低い声が耳のすぐ後ろで響いた。「怒ってない!」「いや、怒ってるだろ」「どうせ僕は口うるさい母親みたいなもんだからね」 自分でも声が尖っているのはわかっていた。八つ当たりだと自覚しながらも、言葉を丸める気にはなれなかった。「拗ねるなよ」「拗ねてない!」「機嫌なおして」 鷹臣さんの声は穏やかで、怒っている気配は微塵もなかった。腰に回された腕に力が込められ、背中が硬い胸板に押しつけられる。首筋に温かな吐息がかかり、皮膚がぞわりと粟立った。 鷹臣さんの手が、腰骨の上からゆっくりと下へ滑り落ちていった。指先が部屋着の薄い生地越しに太腿の内側を撫で、そのまま股間に触れた。「ちょっと!」 身体を捩って振り払おうとしたのに、背中から密着したままの鷹臣さんの片腕に腰を固定されて逃げられなかった。手のひらが布地の上から性器の輪郭をなぞるように揉みしだいてくる。「溜まりすぎてるから、イライラしてるんだろ?」「違う!」「少し黙ってろ」 有無を言わさない声音だった。抵抗しようとした手首をあっさりとシーツに押さえつけられ、仰向けにひっくり返されたかと思うと、鷹臣さんの指が部屋着のズボンのゴムに掛かった。下着ごと一気に膝まで引き下ろされ、夜気に晒された肌が震えた。 鷹臣さんが僕の脚の間に身体を滑り込ませた。顔が下腹部へと近づいてくる。鷹臣さんの吐息が陰茎に触れた瞬間、意志とは無関係に身体がびくりと跳ねた。 熱い舌が根元から先端に向かってゆっくりと這い上がってくる。舌先が裏筋を丁寧になぞり、窪みに達すると円を描くように舐め回された
仕事を終えてマンションの玄関を開けると、味噌と醤油の混じった温かな匂いが廊下の奥から漂ってきた。靴を脱ぎながら深く息を吸い込むと、疲労で強張っていた肩の力がほんの少しだけ緩んでいくのがわかった。 リビングに足を踏み入れると、鷹臣さんがキッチンに立っていた。フライパンを傾けて皿に盛りつける手つきは手慣れたもので、油はねを気にして腕まくりをしたシャツの袖口から覗く逞しい前腕が、妙に家庭的な光景と釣り合わない。付き合い始めた頃は卵焼きすらまともに作れなかった人間と同一人物だとは信じ難い上達ぶりだった。帰宅が遅い日が続くうちに、疲れている僕の代わりにと少しずつ包丁の使い方を覚え、歩の好き嫌いまで把握して献立を組んでくれるようになった姿を見ると、感謝と申し訳なさが同時に胸を満たした。「おかえり」「ただいま。ありがとう、いい匂い」 鷹臣さんが振り返らずに短く頷いた。換気扇の低い音と、味噌汁が静かに煮立つ音だけがキッチンに響いている。 スーツのジャケットを脱いでハンガーに掛け、部屋着に着替えてリビングに戻ると、室内の静けさが妙に引っかかった。普段ならテレビの音量を控えめにして観ている歩の気配や、試験勉強の鉛筆を走らせるかすかな音が聞こえてくるはずなのに、どちらもなかった。廊下に出て歩の部屋を覗くと、照明は消えたままで、ベッドの上も綺麗に整えられている。携帯を開いてメッセージの着信を確認したが、歩からの連絡は一件も届いていなかった。「歩は? 家にいないみたいだけど、連絡あった?」 配膳を終えた鷹臣さんの背中に声をかけた。「同じマンションに同級生がいるから。試験前でそいつの家で勉強してくる、お泊まりで――って昼過ぎに言ってた」「え? 誰?」 思わず声が裏返った。同じマンションに同級生がいるなんて、全く知らない情報だった。歩が出かける前に一言くらい兄に相談があってもいいはずなのに。 胸の奥がチクリと痛んだ。仕事が忙しくて帰宅時間が遅い日ばかり続けば、必然的に歩と鷹臣さんの間で交わされる会話は増えていくのだろう。頭では当然だと理解していても、兄である自分を飛び越えて鷹臣さんのほうに先に伝えられた悔しさは、どうにも抑えが利かなかった。「気になるか?」 鷹臣さんがこちらを振り向いた。口元にニヤリと浮かぶ意地の悪い笑みが、嫌でも目に入る。「気になるに決まってる」
朝の光がキッチンに差し込んでいた。 スーツの上にエプロンをつけて、僕は歩の弁当を仕上げていた。卵焼きを綺麗に詰めて、ブロッコリーとミニトマトを隙間に入れる。蓋を閉めて弁当袋に入れると、歩がリビングに入ってきた。 十六歳になった歩は、すっかり背が伸びていた。 僕の肩を越すくらいの身長になって、制服姿が凛々しい。中高一貫の私立に通っていて、毎朝早く家を出る。父さんとは一緒に暮らさず、今も鷹臣さんのマンションで僕と生活していた。「お弁当」 僕が手渡すと、歩が笑顔で受け取った。「ありがとう、兄さん」 嬉しそうに弁当袋を鞄に入れて、玄関へと向かう。僕も後を追って、玄関で歩を見送った。「いってらっしゃい」「いってきます」 歩が手を振って、マンションを出ていく。ドアが閉まる音が響いて、静寂が戻ってきた。 時計を見ると、もうすぐ父さんが迎えにくる時間だった。 僕は鷹臣さんの寝室へと向かった。ドアを開けると、カーテンが閉まった薄暗い部屋が広がっている。鷹臣さんが裸でベッドに寝ていて、規則正しい寝息が聞こえてきた。「鷹臣さん、起きて」 優しく声をかけると、鷹臣さんがうめき声をあげた。「んー……」 寝ぼけた声だった。僕はベッドに近づいて、鷹臣さんの肩を揺する。「もうすぐ父さんが迎えにくる時間だよ。着替えて」 父さんはホストで働いていたが、ゆりの保育園の時間内で仕事ができるように、鷹臣さんが自分の秘書として雇用してくれた。今は運転手兼秘書として、鷹臣さんの仕事をバックアップしている。「ああ」 鷹臣さんが短く返事をして、ベッドから起き上がった。裸の上半身が朝日に照らされて、筋肉の陰影が浮かび上がる。僕は顔を逸らして、カーテンを開けた。「朝ごはんはテーブルに。お弁当はキッチンにありますから」 伝えると、鷹臣さんが僕を見た。まだ眠そうな目で、僕を見つめている。「……もう行く時間か?」 寂しそうな声だった。僕は時計を確認して、頷く。「そう。行ってきます」 鷹臣さんに近づいて、軽くキスをした。甘い口づけに、鷹臣さんが僕の腰を抱き寄せる。「いってらっしゃい」 優しく囁かれて、僕の胸が温かくなった。もう一度キスをして、寝室を出る。 ◇◇◇ 社会人になって三ヶ月が経った。 鷹臣さんの職場に就職しろと言われたが、僕は別の会社に就職した
父さんは妹の父親でもある恋人と別れた。 いくら好きでも、拉致監禁する人とはこの先一緒にいたくないと父さんは話していた。病院のベッドで、涙を流しながら決意を語る父さんの横顔が忘れられない。妹のゆりを抱いて、これからは一人で育てると宣言した父さんの声は震えていたが、強かった。 そういうことなら、と鷹臣さんは、父さんの恋人を容赦なく遠い所へと送ったらしい。 確実に稼げる厳しい場所らしいが、僕たちには教えてくれなかった。どこに送られたのか聞いても、鷹臣さんは「知らないほうがいい」と言うだけだった。北の方だという噂を鉄平さんから聞いたが、本当かどうかはわからない。 父さんは生活費を稼ぐために、ホストに復帰した。 産後の体調が戻ってきたタイミングで、以前働いていた店に相談したらしい。店長が快く迎えてくれて、すぐに復帰が決まった。夜の仕事だから、ゆりをどうするのかと聞いたら、二十四時間営業の保育園を探してどうにかすると話していた。僕が預かると言うと、夜泣きもまだあるからと一度は断られた。 まだ生まれたばかりのゆりを保育園に預けるのが、僕にはどうしても我慢できなくて、もう一度父にお願いをした。 そしたらやっと父が頷いてくれて、父が仕事の日は僕が預かることになった。 夜になると、父さんがゆりを連れてくる。 鷹臣さんのマンションに父さんが現れて、ゆりを僕に預ける。哺乳瓶やおむつ、着替えは鷹臣さんが一式揃えてくれていて、僕の部屋にベビーベッドも用意されていた。父さんは「ごめんね、柊。よろしくね」と頭を下げて、仕事に向かっていく。 四ヶ月になったゆりは、夜中に一回から二回ほど夜泣きをする。大抵は、ミルクで飲み終わるとすぐに寝てくれた。 ベビーベッドでは寝てくれずに、僕のベッドで一緒に横になるとすやすやと気持ちよく寝てくれるいい子だ。 ゆりを預かるようになってお預けの日々が続く鷹臣さんだが、意外と機嫌がそこまで悪くはない。 ある夜、ゆりと一緒にベッドで眠っていると、ドアが静かに開く音がした。 薄目を開けると、鷹臣さんが部屋に入ってくるのが見えた。月明かりが窓から差し込んでいて、鷹臣さんのシルエットが浮かび上がっている。ベッドに近づいてきて、僕の隣に座った。「起きてるか?」 低く囁かれて、僕は目を開けた。鷹臣さんが僕を見つめていて、欲望に染まった瞳が月明かり
目が覚めると、社長室のソファで横になっていた。 身体を起こして周囲を見回す。向かい側のソファに鷹臣さんが座っていて、腕を組んで、じっと僕を見つめている。窓の外は暗くなっていて、オフィスの照明だけが部屋を照らしていた。「父さんは?」 僕が聞くと、鷹臣さんが答えた。「救急車で近くの病院にいった」 鷹臣さんの表情は穏やかで、怒っている様子はなかった。「ついていかなかったんですか?」「部下がついていった」 短い返事だった。僕は唇を噛んで、視線を落とす。「泣いてる父さんを抱きしめるような仲なら、そっちについていけばいいのに」 嫌味が口から出てしまう。自分でも嫉妬だとわかっている。醜い感情を抱えきれずに、鷹臣さんに八つ当たりしているだけだと頭では理解できるのに、気持ちが落ち着かなかった。鷹臣さんが父さんを抱きしめていた姿が、目に焼きついて離れない。 鷹臣さんが小さくため息をついた。 立ち上がって僕の隣に移動すると、座り直す。距離が近くなって、鷹臣さんの体温が伝わってきた。鷹臣さんから香る父さんの匂いに、僕は耐えきれずに顔を背ける。 以前、僕の身体から篤志の匂いがしてイラつくと言っていた鷹臣さんの気持ちが初めてわかった。 他の誰かの匂いがするのが、こんなに嫌なものだとは思わなかった。鷹臣さんの身体に父さんの匂いが染み付いていて、胸が苦しくなる。「監禁されてたそうだ」 鷹臣さんが静かに告げた。「――は?」 驚いて顔を上げると、鷹臣さんが真剣な眼差しで僕を見つめていた。「柊の父親の話だ」 鷹臣さんが説明を始める。僕は黙って、鷹臣さんの話に耳を傾けた。「姿を消した日は、本当は俺の事務所に来て、返済の相談をして新しい職を見つけるつもりだった」 父さんが姿を消した日の朝を思い出す。いつもと変わらない朝だった。父さんは優しく微笑んで、「いってきます」と言って家を出た。「お前に残した『あとよろしく』は、働く場所によってはもう会えなくなるかもしれないという気持ちだったらしい」 鷹臣さんの言葉に、僕の胸が締めつけられた。父さんは僕たちを捨てるつもりじゃなかった。会えなくなるかもしれないと思って、あの置き手紙を残したのだ。「学費と借金と同時に賄えるような仕事があれば、そういう仕事を斡旋してもらうつもりだったと話していた」 鷹臣さんが続ける。「
男の動きが激しさを増していって、奥を何度も突き上げられる。痛みで視界が滲んで、涙が頬を伝って流れ落ちた。床に手をついて耐えようとするも、男の腰の動きは容赦なく続いて、身体が前後に揺さぶられる。「痛い……やめて……」 掠れた声で懇願しても、男は答えなかった。ただ黙々と腰を打ち付けてきて、奥を執拗に突いてくる。お腹の中が圧迫されて、息を吸うのも苦しくなった。 男の手が僕の腰を掴んで、さらに深く引き寄せられる。今までより深い場所を貫かれて、悲鳴が喉から漏れた。「あ……ああっ……!」 声が大きくなって、自分でも驚く。 身体の奥が熱くなって、痛みとは違う感覚が混ざり始めた。オメガの身体が
家の鍵を開けて中に入ると、いつもと違う静けさが家全体を包んでいるように感じた。父が帰宅しているはずの時間なのに、玄関に靴がない。リビングに入っても誰もおらず、キッチンも使った形跡がなくて、妙な違和感が胸の奥に引っかかった。「父さん?」 声をかけても返事はなく、静寂だけが僕の声を飲み込んでいく。父の部屋を確認するも、やはり誰もいない。 リビングに戻ると、テーブルの上に小さなメモが置いてあるのが目に入った。父の字で書かれた走り書きのメモを手に取って読むと、たった一行だけ書かれていた。『あとよろしく』 意味がわからなくて、何度も読み返す。あとよろしくって、何を? 誰に? メモを握りしめ
スマホの画面に表示された「合格」の二文字を見つめながら、僕は何度も瞬きを繰り返した。信じられない気持ちと、じわじわと込み上げてくる喜びが胸を満たしていって、思わず声が漏れた。第一志望の国立大学に合格した事実が、まだ夢のように感じられて現実味がない。 リビングのソファに座ったまま、僕はスマホを握りしめた。画面が揺れて見えるのは、手が震えているからだと気づき、深呼吸をする。冷たい空気が肺を満たし、ゆっくりと吐き出すと少しだけ落ち着いた気がして、もう一度画面を確認した。(合格してる。見間違いじゃない) 鼓動が早鐘のように打ち、頬の筋肉が勝手に緩んでいくのがわかる。嬉しさが全身を駆け巡り、涙
鬼頭さんからの呼び出しは、三日と開かずに来た。スマホが振動するたびに、胃の奥がきゅっと縮むような感覚がある。 メッセージを開くと、いつものようにホテルの名前と部屋番号、位置情報が表示されていて、『すぐ来い』という短い命令が添えられていた。 歩に「バイトが入った」と嘘をついて家を出て、指定されたホテルに向かう。高級ホテルのロビーを抜けて、エレベーターに乗る。部屋に入ると、いつものように女性の香水の匂いが鼻をついた。 甘ったるい香りが部屋に充満していて、ベッドが乱れている。枕元に長い髪の毛が落ちていて、前回とは違う色だった。香水の匂いも違う。今日はフローラル系の強い香りで、前回のムスク系