LOGIN朝の光がカーテンの隙間から細く差し込み、瞼の裏をぼんやりと明るく照らしていた。 意識が浮上するにつれて、背中にぴったりと張りつく体温と、腰に回された腕の重みが感覚として戻ってきた。寝息を立てている鷹臣さんの呼吸が首筋にかかるたびに産毛が揺れ、くすぐったさで目が覚めてしまう。 鷹臣さんの腕を掴んで引き剥がそうとしたものの、眠っているとは思えないほどの力で抱き込まれていて、仕方なく肘で胸板を押しながら身体をずらしてベッドの端まで這い出た。 足元に転がっていた下着を手探りで拾い上げて穿き、枕元に脱ぎ捨てたままのシャツを頭から被った。袖から手を出しながら眠気をこするように目を擦り、重い身体を引きずるようにして寝室の扉に手をかけた。 扉を押し開けた瞬間、ゴンッ、と鈍い衝撃が手のひらに伝わった。 何事かと思わず身を引いて大きく目を見開くと、廊下の床に二つの丸い影があった。正座の姿勢のまま深く額を床につけている二人の頭が、薄暗い廊下にぼんやりと浮かび上がっている。「え? なに?」「大変申し訳ありませんでした! お兄さんにご挨拶が遅れ、さらにはご不快な思いをさせてしまい……」 聞き慣れない男の声が廊下に響いた。「え? ええ?」 声を上げると、がばっと身体を起こした青年が目に入った。短く整えられた髪に端正な顔立ち、怯えと緊張でこわばった表情をしながらも、背筋だけはまっすぐに伸びている。正座のまま再び深々と頭を下げると、震える声で言葉を続けた。「俺は神宮寺蒼介と申します。歩くんとは中学二年生のときからお付き合いを始めました。一年生の文化祭で一目惚れをして、二年生の運動会で告白して、付き合い始めてからずっと一緒にいます。高校生になってすぐに歩くんに初めてのヒートが来て、身体の関係を持ちました。まだ学生の身分ですが、お互いに社会人になったら結婚もしたいと思っています」 矢継ぎ早に繰り出される言葉の一つ一つが丁寧に練り上げられた文言で、何度も暗唱して備えてきたのだろうと察しがついた。圧倒されて口を開いたまま固まっている僕に、隣の歩がおずおずと顔を上げた。「――あ、はい」 間の抜けた返事しか出てこなかった。「兄さん、黙っててごめんなさい」 歩の声は震えていた。火照った頬と潤んだ瞳がヒート中であることを物語っていて、辛い身体を押して廊下の冷たい床に正座している
苛立ちを抑えきれないまま寝室に入り、照明もつけずにベッドへ倒れ込んだ。枕に顔を埋めると、鷹臣さんの匂いが鼻腔を満たして、余計に苛々が募った。歩の恋人の話を聞かされた衝撃と、僕だけが蚊帳の外に置かれていた悔しさが胸の奥で渦を巻いて、どちらの感情が上なのかすら判別がつかなかった。 口うるさい母親と変わらない――。 鷹臣さんに突きつけられた一言が、何度も頭の中で反芻された。 寝室の扉が開く気配がした。足音は聞こえないのに、背後から近づいてくる鷹臣さんの体温がはっきりと伝わってきて、ベッドが僅かに沈んだ。 後ろから腕が回された。広い胸板が背中にぴたりと密着して、鷹臣さんの体温が薄いシャツ越しに染み込んでくる。「まだ怒ってるのか」 低い声が耳のすぐ後ろで響いた。「怒ってない!」「いや、怒ってるだろ」「どうせ僕は口うるさい母親みたいなもんだからね」 自分でも声が尖っているのはわかっていた。八つ当たりだと自覚しながらも、言葉を丸める気にはなれなかった。「拗ねるなよ」「拗ねてない!」「機嫌なおして」 鷹臣さんの声は穏やかで、怒っている気配は微塵もなかった。腰に回された腕に力が込められ、背中が硬い胸板に押しつけられる。首筋に温かな吐息がかかり、皮膚がぞわりと粟立った。 鷹臣さんの手が、腰骨の上からゆっくりと下へ滑り落ちていった。指先が部屋着の薄い生地越しに太腿の内側を撫で、そのまま股間に触れた。「ちょっと!」 身体を捩って振り払おうとしたのに、背中から密着したままの鷹臣さんの片腕に腰を固定されて逃げられなかった。手のひらが布地の上から性器の輪郭をなぞるように揉みしだいてくる。「溜まりすぎてるから、イライラしてるんだろ?」「違う!」「少し黙ってろ」 有無を言わさない声音だった。抵抗しようとした手首をあっさりとシーツに押さえつけられ、仰向けにひっくり返されたかと思うと、鷹臣さんの指が部屋着のズボンのゴムに掛かった。下着ごと一気に膝まで引き下ろされ、夜気に晒された肌が震えた。 鷹臣さんが僕の脚の間に身体を滑り込ませた。顔が下腹部へと近づいてくる。鷹臣さんの吐息が陰茎に触れた瞬間、意志とは無関係に身体がびくりと跳ねた。 熱い舌が根元から先端に向かってゆっくりと這い上がってくる。舌先が裏筋を丁寧になぞり、窪みに達すると円を描くように舐め回された
仕事を終えてマンションの玄関を開けると、味噌と醤油の混じった温かな匂いが廊下の奥から漂ってきた。靴を脱ぎながら深く息を吸い込むと、疲労で強張っていた肩の力がほんの少しだけ緩んでいくのがわかった。 リビングに足を踏み入れると、鷹臣さんがキッチンに立っていた。フライパンを傾けて皿に盛りつける手つきは手慣れたもので、油はねを気にして腕まくりをしたシャツの袖口から覗く逞しい前腕が、妙に家庭的な光景と釣り合わない。付き合い始めた頃は卵焼きすらまともに作れなかった人間と同一人物だとは信じ難い上達ぶりだった。帰宅が遅い日が続くうちに、疲れている僕の代わりにと少しずつ包丁の使い方を覚え、歩の好き嫌いまで把握して献立を組んでくれるようになった姿を見ると、感謝と申し訳なさが同時に胸を満たした。「おかえり」「ただいま。ありがとう、いい匂い」 鷹臣さんが振り返らずに短く頷いた。換気扇の低い音と、味噌汁が静かに煮立つ音だけがキッチンに響いている。 スーツのジャケットを脱いでハンガーに掛け、部屋着に着替えてリビングに戻ると、室内の静けさが妙に引っかかった。普段ならテレビの音量を控えめにして観ている歩の気配や、試験勉強の鉛筆を走らせるかすかな音が聞こえてくるはずなのに、どちらもなかった。廊下に出て歩の部屋を覗くと、照明は消えたままで、ベッドの上も綺麗に整えられている。携帯を開いてメッセージの着信を確認したが、歩からの連絡は一件も届いていなかった。「歩は? 家にいないみたいだけど、連絡あった?」 配膳を終えた鷹臣さんの背中に声をかけた。「同じマンションに同級生がいるから。試験前でそいつの家で勉強してくる、お泊まりで――って昼過ぎに言ってた」「え? 誰?」 思わず声が裏返った。同じマンションに同級生がいるなんて、全く知らない情報だった。歩が出かける前に一言くらい兄に相談があってもいいはずなのに。 胸の奥がチクリと痛んだ。仕事が忙しくて帰宅時間が遅い日ばかり続けば、必然的に歩と鷹臣さんの間で交わされる会話は増えていくのだろう。頭では当然だと理解していても、兄である自分を飛び越えて鷹臣さんのほうに先に伝えられた悔しさは、どうにも抑えが利かなかった。「気になるか?」 鷹臣さんがこちらを振り向いた。口元にニヤリと浮かぶ意地の悪い笑みが、嫌でも目に入る。「気になるに決まってる」
朝の光がキッチンに差し込んでいた。 スーツの上にエプロンをつけて、僕は歩の弁当を仕上げていた。卵焼きを綺麗に詰めて、ブロッコリーとミニトマトを隙間に入れる。蓋を閉めて弁当袋に入れると、歩がリビングに入ってきた。 十六歳になった歩は、すっかり背が伸びていた。 僕の肩を越すくらいの身長になって、制服姿が凛々しい。中高一貫の私立に通っていて、毎朝早く家を出る。父さんとは一緒に暮らさず、今も鷹臣さんのマンションで僕と生活していた。「お弁当」 僕が手渡すと、歩が笑顔で受け取った。「ありがとう、兄さん」 嬉しそうに弁当袋を鞄に入れて、玄関へと向かう。僕も後を追って、玄関で歩を見送った。「いってらっしゃい」「いってきます」 歩が手を振って、マンションを出ていく。ドアが閉まる音が響いて、静寂が戻ってきた。 時計を見ると、もうすぐ父さんが迎えにくる時間だった。 僕は鷹臣さんの寝室へと向かった。ドアを開けると、カーテンが閉まった薄暗い部屋が広がっている。鷹臣さんが裸でベッドに寝ていて、規則正しい寝息が聞こえてきた。「鷹臣さん、起きて」 優しく声をかけると、鷹臣さんがうめき声をあげた。「んー……」 寝ぼけた声だった。僕はベッドに近づいて、鷹臣さんの肩を揺する。「もうすぐ父さんが迎えにくる時間だよ。着替えて」 父さんはホストで働いていたが、ゆりの保育園の時間内で仕事ができるように、鷹臣さんが自分の秘書として雇用してくれた。今は運転手兼秘書として、鷹臣さんの仕事をバックアップしている。「ああ」 鷹臣さんが短く返事をして、ベッドから起き上がった。裸の上半身が朝日に照らされて、筋肉の陰影が浮かび上がる。僕は顔を逸らして、カーテンを開けた。「朝ごはんはテーブルに。お弁当はキッチンにありますから」 伝えると、鷹臣さんが僕を見た。まだ眠そうな目で、僕を見つめている。「……もう行く時間か?」 寂しそうな声だった。僕は時計を確認して、頷く。「そう。行ってきます」 鷹臣さんに近づいて、軽くキスをした。甘い口づけに、鷹臣さんが僕の腰を抱き寄せる。「いってらっしゃい」 優しく囁かれて、僕の胸が温かくなった。もう一度キスをして、寝室を出る。 ◇◇◇ 社会人になって三ヶ月が経った。 鷹臣さんの職場に就職しろと言われたが、僕は別の会社に就職した
父さんは妹の父親でもある恋人と別れた。 いくら好きでも、拉致監禁する人とはこの先一緒にいたくないと父さんは話していた。病院のベッドで、涙を流しながら決意を語る父さんの横顔が忘れられない。妹のゆりを抱いて、これからは一人で育てると宣言した父さんの声は震えていたが、強かった。 そういうことなら、と鷹臣さんは、父さんの恋人を容赦なく遠い所へと送ったらしい。 確実に稼げる厳しい場所らしいが、僕たちには教えてくれなかった。どこに送られたのか聞いても、鷹臣さんは「知らないほうがいい」と言うだけだった。北の方だという噂を鉄平さんから聞いたが、本当かどうかはわからない。 父さんは生活費を稼ぐために、ホストに復帰した。 産後の体調が戻ってきたタイミングで、以前働いていた店に相談したらしい。店長が快く迎えてくれて、すぐに復帰が決まった。夜の仕事だから、ゆりをどうするのかと聞いたら、二十四時間営業の保育園を探してどうにかすると話していた。僕が預かると言うと、夜泣きもまだあるからと一度は断られた。 まだ生まれたばかりのゆりを保育園に預けるのが、僕にはどうしても我慢できなくて、もう一度父にお願いをした。 そしたらやっと父が頷いてくれて、父が仕事の日は僕が預かることになった。 夜になると、父さんがゆりを連れてくる。 鷹臣さんのマンションに父さんが現れて、ゆりを僕に預ける。哺乳瓶やおむつ、着替えは鷹臣さんが一式揃えてくれていて、僕の部屋にベビーベッドも用意されていた。父さんは「ごめんね、柊。よろしくね」と頭を下げて、仕事に向かっていく。 四ヶ月になったゆりは、夜中に一回から二回ほど夜泣きをする。大抵は、ミルクで飲み終わるとすぐに寝てくれた。 ベビーベッドでは寝てくれずに、僕のベッドで一緒に横になるとすやすやと気持ちよく寝てくれるいい子だ。 ゆりを預かるようになってお預けの日々が続く鷹臣さんだが、意外と機嫌がそこまで悪くはない。 ある夜、ゆりと一緒にベッドで眠っていると、ドアが静かに開く音がした。 薄目を開けると、鷹臣さんが部屋に入ってくるのが見えた。月明かりが窓から差し込んでいて、鷹臣さんのシルエットが浮かび上がっている。ベッドに近づいてきて、僕の隣に座った。「起きてるか?」 低く囁かれて、僕は目を開けた。鷹臣さんが僕を見つめていて、欲望に染まった瞳が月明かり
目が覚めると、社長室のソファで横になっていた。 身体を起こして周囲を見回す。向かい側のソファに鷹臣さんが座っていて、腕を組んで、じっと僕を見つめている。窓の外は暗くなっていて、オフィスの照明だけが部屋を照らしていた。「父さんは?」 僕が聞くと、鷹臣さんが答えた。「救急車で近くの病院にいった」 鷹臣さんの表情は穏やかで、怒っている様子はなかった。「ついていかなかったんですか?」「部下がついていった」 短い返事だった。僕は唇を噛んで、視線を落とす。「泣いてる父さんを抱きしめるような仲なら、そっちについていけばいいのに」 嫌味が口から出てしまう。自分でも嫉妬だとわかっている。醜い感情を抱えきれずに、鷹臣さんに八つ当たりしているだけだと頭では理解できるのに、気持ちが落ち着かなかった。鷹臣さんが父さんを抱きしめていた姿が、目に焼きついて離れない。 鷹臣さんが小さくため息をついた。 立ち上がって僕の隣に移動すると、座り直す。距離が近くなって、鷹臣さんの体温が伝わってきた。鷹臣さんから香る父さんの匂いに、僕は耐えきれずに顔を背ける。 以前、僕の身体から篤志の匂いがしてイラつくと言っていた鷹臣さんの気持ちが初めてわかった。 他の誰かの匂いがするのが、こんなに嫌なものだとは思わなかった。鷹臣さんの身体に父さんの匂いが染み付いていて、胸が苦しくなる。「監禁されてたそうだ」 鷹臣さんが静かに告げた。「――は?」 驚いて顔を上げると、鷹臣さんが真剣な眼差しで僕を見つめていた。「柊の父親の話だ」 鷹臣さんが説明を始める。僕は黙って、鷹臣さんの話に耳を傾けた。「姿を消した日は、本当は俺の事務所に来て、返済の相談をして新しい職を見つけるつもりだった」 父さんが姿を消した日の朝を思い出す。いつもと変わらない朝だった。父さんは優しく微笑んで、「いってきます」と言って家を出た。「お前に残した『あとよろしく』は、働く場所によってはもう会えなくなるかもしれないという気持ちだったらしい」 鷹臣さんの言葉に、僕の胸が締めつけられた。父さんは僕たちを捨てるつもりじゃなかった。会えなくなるかもしれないと思って、あの置き手紙を残したのだ。「学費と借金と同時に賄えるような仕事があれば、そういう仕事を斡旋してもらうつもりだったと話していた」 鷹臣さんが続ける。「