เข้าสู่ระบบ「――というわけで、天王寺先輩が、氷室くんのこと、お食事に誘いたいそうよ!」
「は?」
私の興奮気味の報告を、乃亜は購買で買ったばかりのメロンパンを咥えながら、心底どうでもよさそうな声で一蹴した。昼休みの喧騒に満ちた中庭のベンチで、私たちは向かい合って座っている。
「いや、だからね!天王寺先輩が私を食事に誘ってきたのは、氷室くんを誘うための口実なの!私が触媒となって、二人を繋ぐのよ!すごくない?この世紀の恋の始まりに、私が立ち会えるなんて!」
「……あんた、本気で言ってんの?」
乃亜はメロンパンを咀嚼し、ごくりと飲み込むと、呆れを通り越して、もはや憐れみのような目を私に向けた。「本気も何も、それ以外に考えられる?」と私が言うと、彼女は天を仰いで深いため息をついた。
「普通に考えて、天王寺くんはあんたに気があるから誘ったんでしょ。なんでそうなるのよ」
「ないないない。天地がひっくり返っても、それだけはない」
私は両手を大きく振って、乃亜の突拍子もない仮説を全力で否定する。
「考えてもみてよ。あの天王寺輝だよ?学園の太陽だよ?彼が、私みたいな日陰の苔のような人間に、興味を持つわけがないじゃない。科学的にありえない。彼の隣に立つ人間は、彼と同じくらいキラキラしてないと、世界のバランスが崩壊しちゃう」
「あんたのその自己評価の低さは、もはや一種の才能だね……」
「そして、氷室くんよ!あのミステリアスな影のあるクールビューティ!天王寺先輩の光が強ければ強いほど、彼の影は色濃く、魅力的に映る……。光と影、陽と陰。これほどまでに完璧なカップリングがある?いや、ない!」
熱弁する私に、乃亜は早々に会話を諦めたのか、「はいはい、そうですねー」と気の抜けた返事を繰り返すだけだった。わかってない。乃亜には、この神聖な関係性の尊さが、まだわかっていないのだ。
だが、感傷に浸っている場合ではない。私には、二人の恋を成就させるという、重大なミッションが課せられているのだから。
「問題は、どうやって氷室くんを食事会に誘うか、なのよ……」
腕を組み、私はうーん、と唸る。天王寺先輩から食事に誘われたのは、明日の夜。時間がない。
氷室くんは、天王寺先輩と違って、いつもどこにいるのか掴みどころがない。特定の友人とつるんでいる様子もなく、講義が終わると、ふらりとどこかへ消えてしまう。神出鬼没。まさに孤高の騎士(サイレント・ナイト)だ。
「普通に、次の講義で会った時に声かければいいじゃん」
「そんな簡単なことじゃないのよ!」
私は乃亜の単純な提案に、またしても首を横に振った。
「いい?氷室くんは、きっと、天王寺先輩からのアプローチに、とっくに気づいてる。でも、素直になれないの。だから、私が『天王寺先輩が誘ってますよ』なんてストレートに言ったら、『……興味ない』とか言って、心を閉ざしちゃうに決まってる!」
「……あんたの脳内で、氷室くんはどんなキャラなのよ……」
「だから、ここは慎重に、外堀から埋めていく必要があるの。偶然を装って接触し、彼の警戒心を解き、自然な流れで食事会に誘導する……。そう、すべては運命だったと、彼に思わせるのよ!」
私の完璧な作戦に、私自身が感動で打ち震える。そうだ、これしかない。
問題は、その「偶然の接触」を、どこで、どうやって起こすか、だ。
その日の午後、私は血眼になって氷室氷室くんの姿を探し回っていた。彼の所属する文学部の講義棟をうろつき、学生でごった返すカフェテリアを偵察し、人気のなさそうな中庭の奥まで足を運んだ。しかし、彼の姿はどこにも見当たらない。
「くっ……どこにいるの、氷室くん……!」
諦めかけた、その時だった。ふと、目の前にそびえ立つ、古びたレンガ造りの建物が目に入った。
―――図書館。
そうだ。彼は、いつも一人で静かに本を読んでいるイメージがある。もしかしたら……!
微かな希望を胸に、私は図書館の重い扉を押し開けた。
◇
ひんやりとした空気が、私の火照った頬に心地よかった。高い天井まで続く書架には、びっしりと本が詰め込まれ、古い紙とインクの匂いが静かに漂っている。聞こえるのは、誰かがページの束をめくる乾いた音と、自分の緊張した心臓の音だけ。
スパイ映画の主人公になった気分で、私は書架の陰からそっと顔を覗かせ、目的の人物を探す。人文科学の棚、海外文学の棚……。そして、一番奥まった、窓から午後の柔らかな光が差し込む閲覧スペースで、ついに私は彼を見つけた。
氷室 奏。
彼は、一脚の椅子に深く腰掛け、手にした文庫本に静かに視線を落としていた。窓から差し込む光が、彼のサラサラの黒髪を照らし、透けるような白い肌の輪郭を淡く縁取っている。長い指が時折ページをめくる、その仕草一つが、まるで計算され尽くした一枚の絵画のようだった。
―――美しい。
思わず、喉がごくりと鳴った。現実の人間に対して、こんな感情を抱いたのは初めてかもしれない。もちろん、これは恋だとか、そういう生々しいものではない。あくまで、完璧な造形物に対する芸術的な感動だ。彼が、私の推しカプ「ジーク×アーク」のアークに、どことなく雰囲気が似ているせいもあるだろう。儚げで、気高くて、どこか影がある。
よし、と私は心の中で拳を握る。作戦通り、偶然を装って声をかけるのだ。「あら、氷室くん。奇遇ね、あなたもこの本を探しに?」みたいな感じで。
そう決意して、書架の陰から一歩踏み出そうとした、その瞬間。
ばちり、と。
それまで本に落ちていたはずの彼の視線が、真っ直ぐに、私を射抜いた。
「……っ!」
息が止まる。心臓が、鷲掴みにされたかのように軋んだ。
隠れていたはずなのに。なぜ。
彼の灰色の瞳は、何の感情も映していないように見える。ただ、ガラス玉のように冷ややかに、じっと、私だけを見つめている。時間が、凍り付いたかのようだ。
動けない。彼の視線に、蛇に睨まれた蛙のように縫い付けられてしまった。
どうしよう。声を、かけないと。でも、何を?
混乱する私の頭の中で、乃亜の言葉が不意に蘇る。『あんた、最近やたらイケメンに見つめられてるけど自覚ある?』
そして、先日の講義室での、天王寺先輩の行動。
そうだ。氷室くんは、きっと、もう気づいているのだ。天王寺先輩が、私というモブを利用して、自分に近づこうとしていることに。
だから、私を見ているんだ。
私のことを、天王寺先輩からのアプローチを牽制するための、「盾」として認識しているんだ……!
「(……なんて、切ない……!)」
真実に辿り着いた瞬間、私の胸は、BL的な意味での切なさで張り裂けそうになった。
本当は、天王寺先輩のことが気になっている。でも、素直になれない。彼の眩しすぎる光に、気後れしているのかもしれない。だから、私という存在を間に挟むことで、必死に心の距離を保とうとしているのだ。健気すぎる。あまりに、健気すぎる……!
涙ぐみそうになるのを、ぐっと堪える。泣いている場合じゃない。私は、彼のその強固な心の壁を、優しく溶かしてあげなければならないのだから。
もう少しだけ、彼に関する情報が欲しい。そう思った私は、彼の視線から逃れるように、すぐ隣の書架に目をやった。彼が読んでいる本のジャンルだけでも分かれば、会話のきっかけになるかもしれない。
書架の隙間から、もう一度、彼の手元を盗み見る。
そして、私は自分の目を疑った。
彼が読んでいる文庫本の背表紙。そこに印刷された、特徴的な装丁と、作者の名前に、見覚えがあったからだ。
「(うそ……あれって、
月館小夜子。商業的には全く無名だが、一部の熱狂的なファンを持つ、マイナーな幻想小説家。その退廃的で、どこまでも美しい文章の世界観は、何を隠そう、この私が心の底から敬愛してやまない作家だった。
―――まさか。
私の脳内で、再び運命の音が鳴り響く。
氷室くんが、月館小夜子を読んでいる。これは、単なる偶然だろうか?いや、違う。
これは、彼と天王寺先輩が、結ばれるべくして結ばれる、運命の証なのだ!
きっと、天王寺先輩も、あのキラキラした外見に似合わず、こういう少し影のある文学が好きなのに違いない。そして、二人はまだ、お互いが同じ作家を愛読しているという事実に気づいていない。
「(趣味まで合うなんて……!運命……!この二人、マジの運命のカップルじゃないの……!)」
興奮で、鼻血が出そうになるのを、必死に押さえた。
もう、迷いはない。
この恋の歯車を動かすのは、この私しかいない。
私は、震える足で、書架の陰から一歩を踏み出した。
◇
一歩、また一歩と、私は氷の騎士が待つ聖域へと足を進める。たった数メートルの距離が、永遠のように長く感じられた。私の心臓は、これから始まる神聖な儀式を前にして、早鐘のように激しく脈打っている。大丈夫。私ならできる。私は、彼らの恋を導くために選ばれたのだから。
彼の前にたどり着き、私は、ごくりと唾を飲み込んだ。彼は、私が目の前に立っても、驚いた様子一つ見せない。ただ、読んでいた文庫本から静かに顔を上げ、その冷ややかに澄んだ灰色の瞳で、私をじっと見上げるだけだった。その無表情が、逆に私の決意を鈍らせる。
何か、何か言わなければ。
『偶然ですね』?違う。『その本、私も好きなんです』?いや、それではただの馴れ馴れしい女だ。作戦を、思い出せ。彼の警戒心を解き、自然な流れで食事会に誘導する……。
しかし、彼の射抜くような視線を前にして、私の頭の中にあったはずの完璧な台本は、綺麗さっぱり消し飛んでいた。口の中が、カラカラに乾く。緊張で、指先が微かに震えた。
「あ……あの……」
やっとのことで絞り出したのは、蚊の鳴くような、情けない声だった。ダメだ、このままでは。私は、二人のキューピッド。もっと、堂々としていなければ。
私は一度、ぎゅっと目を瞑り、息を吸い込んだ。そして、脳裏に天王寺先輩のキラキラした笑顔を思い浮かべる。そうだ、彼のために。そして、目の前の不器用な騎士のために。
意を決して、私は口を開いた。全ての始まりとなる、魔法の言葉を紡ぐために。
「あの、天王寺先輩が……!」
―――食事に、あなたを誘いたいそうです。
そう続くはずだった私の言葉は、しかし、途中で遮られることになった。
私が「天王寺」という名前を口にした瞬間、それまで無表情だった氷室くんの瞳が、ほんの僅かに、鋭く揺らめいたように見えた。
彼は、読んでいた本を、パタンと静かに閉じる。そして、その長い指を栞のようにページに挟んだまま、まっすぐに私を見据えた。
その眼差しは、今までにないほど、真剣そのものだった。
「君の話なら、聞こう」
静かな図書館に、彼の低く、落ち着いた声が凛と響いた。
それは、私の予想を遥かに超えた、あまりにも真摯で、あまりにもまっすぐな答えだった。
連行された先は、宿泊棟の裏手に広がる人気のない中庭だった。 不意に腕が解放されたかと思うと、ドン、と背中が硬い樹皮に打ち付けられる。太い松の木と、目の前の人体によって逃げ場は完全に塞がれた。「か、輝く……ん?」 月明かりを背負った顔は影になり、表情が読み取れない。ただ、肌を刺すようなピリピリとした緊迫感だけが、鈍感な身にも痛いほど伝わってくる。「……手」「え?」「氷室と繋いでいた手、出して」 短く鋭い命令と共に、視線が右手に突き刺さる。おそるおそる差し出した瞬間、手首を万力のような力で締め上げられた。「っ……!」「……ここか」 懐から取り出されたのは除菌タイプのウェットティッシュだ。親指が掌に押し当てられ、ゴシゴシと執拗に擦られる。まるで、そこに残る奏くんの体温や感触を、皮膚ごと削ぎ落とそうとするかのように。「ちょ、ちょっと輝くん! 痛いよ、そんなに擦ったら……!」「ずっと、繋いでたんだね」「そ、それは……暗くて、危なかったから……」「ふーん。危なかったら、男の手なら誰でも握るんだ?」「違うよ! 奏くんが助けてくれたから……」「奏くん」 ピクリ、と整った眉が不快げに跳ねた。「名前で呼ぶなよ。……あいつのこと」 グイッと腕を引かれ、バランスを崩して胸板に飛び込む。浴衣越しに伝わる体温は驚くほど高く、筋肉の硬さがダイレクトに触れた。脳内で警報音がけたたましく鳴り響く。距離が近い。近すぎる。恋愛経験ゼロの身には、もはや致死圏内だ。「……嫌だ」 耳元で低く唸る声が鼓膜を震わせる。「栞が他の男を見るのも、触れるのも、名前を呼ぶのも……全部、嫌だ」 それは今まで聞いたことがないほど幼く、けれど切実
木々の切れ間から灯りが見えてきた。ゴールの神社だ。鳥居の下、懐中電灯の明かりが揺れている。「あ、着いた……」 安堵の声が漏れる。やっと、このドキドキする吊り橋効果から解放される。 そう思った瞬間だった。 鳥居の陰から、ゆらりと人影が現れた。逆光で顔は見えない。でも、その立ち姿だけで誰だか分かってしまった。ポケットに手を突っ込み、少し首を傾げてこちらを見下ろす、長身のシルエット。「……遅かったね」 低く、地を這うような声。空気の温度が一気に氷点下まで下がる。「輝くん……!」 駆け寄ろうとするが、繋がれたままの右手が引き止める。ハッとして振り返ると、奏くんは逃げも隠れもせず、真っ直ぐに鳥居の下の人物を見据えていた。「……天王寺」「よう、氷室」 輝くんが、ゆっくりと歩み寄ってくる。懐中電灯の光が、下から顔を照らし出した。 笑顔だ。完璧な、美しい、王子様の笑顔。 だが瞳は笑っていないどころか、ハイライトが完全に消え失せている。唇の端だけが吊り上がったその表情は、まさに「般若」。「ずいぶんと楽しそうだったね?」 視線が、私と奏くんの「繋がれた手」に固定される。瞬間、笑顔がピキリとひび割れたように見えた。「お化けなんて出なくても、十分スリル満点だったみたいじゃないか。……ねえ?」 ヒッ、と喉が鳴る。激怒している。レベルマックスの嫉妬だ。「さあ、こっちにおいで。栞」 差し伸べられた手はエスコートではなく、「回収」の合図だった。 奏くんの手が、一瞬だけ強く私を握りしめ――そして、ふっと力を抜いた。「……行け、月詠」 小声で告げられる。弾かれたように手を離し、輝くんの元へと駆け寄った。 腕を掴まれると同時に、痛いほど強く引き寄せられる。そのまま肩を抱かれ、威嚇するように奏くんを見下ろした。「ご苦労だったな、氷室。…
砂利道は徐々に登り坂になり、鬱蒼とした木々の枝がトンネルのように頭上を覆う。懐中電灯の頼りない光だけが、世界を切り取っていた。 静かだ。虫の音さえ、私たちの気配に息を潜めたように止んでしまった。聞こえるのは、砂利を踏む足音と、少しだけ早くなっている私の呼吸音だけ。(……意識、しちゃうなぁ) こっそりと、繋がれた手を見つめる。 すらりと指が長く、冷たそうな見た目をしているのに、触れると驚くほど温かい。骨ばった関節の感触や、少し大きめの掌。現実はゴツゴツとしていて、男の人なのだと実感させられる。「月詠」 不意に名を呼ばれ、肩が跳ねた。「は、はいっ」「……そんなに緊張しなくていい。取って食ったりしない」「別に、緊張なんて……してないよ?」「嘘だな。手が汗ばんでいる」「うっ……! そ、それは暑いからで……!」「そうか。ならいいが」 彼はそれ以上追及せず、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩を進めてくれる。その沈黙が優しくて、どこか居心地が悪くて。紛らわすように話題を探した。「そ、そういえば! 奏くん、お父さんとは……その、仲悪いの?」 口に出してから地雷だと気づいたが、奏くんは怒る様子もなく、ふう、と息を吐いた。「仲が悪いというより……俺が一方的に反発しているだけだ」「反発?」「父は優秀な研究者だが、家庭人としては落第点だ。母や俺のことなど、自分の研究対象の一部くらいにしか思っていない」 淡々とした口調に、深い諦めが滲む。教室で万年筆のことを暴露された時の、傷ついたような表情が脳裏をよぎった。「俺は……あんな風にはなりたくない。大切な人を蔑ろにして、自分のエゴだけを押し付けるような大人には」 奏くんが足を止め、ふと夜空を見上げた。木々の隙間から、わずかに星が瞬いている。「だから、俺は&hell
旅館の裏手には、鬱蒼とした杉林が広がっていた。月明かりも届かない山道は、足元の判別すらつかないほど暗い。風が木々を揺らす音が、正体不明の何かの囁き声のように耳へ絡みつく。「うぅ……暗い……怖い……」 両腕を抱きしめ、ガタガタと震えながら足を運ぶ。 修羅場の緊張感など一瞬で吹き飛ぶほど、原初的な闇への恐怖が支配していた。どこからか白い手が伸びてきたら。落ち武者の霊が目の前に現れたら。「……月詠」 隣を歩く奏くんが、静かに声をかけてきた。懐中電灯の明かりが、彼の足元だけを白く切り取っている。「大丈夫か? 歩くのが遅れているが」「ご、ごめん……足がすくんで……」「……そうか」 奏くんが足を止め、振り返る。暗闇の中で、瞳だけが微かに光を宿していた。少し躊躇うように視線を泳がせた後、意を決したように手が差し出される。「……掴まれ」「え?」「足元が危ない。……それに、震えているだろう」 ぶっきらぼうな口調。だが、声色には隠しきれない優しさが滲んでいる。差し出された手は大きく、骨ばっていた。 輝くんとの約束――「あいつに触れさせるな」という言葉が脳裏をよぎる。しかし、この恐怖には勝てない。腰を抜かしてリタイアするよりは、好意に甘える方がマシだ。「……ありがとう」 おそるおそる、彼の手を取る。 ひんやりとしていた指先は、握るとすぐに熱を帯びていった。ギュッと握り返してくる力強さに、不思議と恐怖が和らいでいく。「行くぞ」 手を引かれ、再び歩き出す。 一歩先を行く背中は、昨日まで見ていた「線の細い美少年」のそれとは違っていた。浴衣の肩幅は意外と広く、私を闇から守るように立ちはだかっている。(……頼もしい、かも) 不覚
一夜明けても、胸の奥で早鐘が鳴り止まない。 朝食の席でも、移動のバスの中でも、視線が突き刺さってくる。輝くんの独占欲に満ちた熱っぽい瞳と、奏くんの静かだが確かな熱量を孕んだ眼差し。そして、別の宿にいるはずなのに朝の散歩中に遭遇した陽翔くんのあざとい笑顔。 三方向からのプレッシャーに、生きた心地がしなかった。「――さて、諸君」 夕食後、大広間に集められたゼミ生を見渡し、氷室教授が低い声を響かせた。 浴衣姿の教授は、時代劇に出てくる悪代官さながらの貫禄を漂わせている。口元に浮かぶ笑みは、不吉な予感の塊でしかない。「勉強ばかりでは息が詰まるだろう。今夜は、この宿の裏山を使って、日本の伝統的なレクリエーションを行いたいと思う」 ざわざわと学生たちが色めき立つ。レクリエーション? あの「氷の独裁者」が? 背筋を嫌な汗が滑り落ちた。「……『肝試し』だ」 その単語が耳に入った瞬間、サーッと血の気が引いていく。 肝試し。暗闇。幽霊。 三大苦手要素のフルコースだ。脳内で幾多のBL妄想を繰り広げ精神を鍛えてきたとはいえ、オカルト耐性とは使用する回路がまるで違う。「コースは裏山の神社まで。男女ペアで出発してもらう。……親睦を深めるいい機会だろう?」 教授の鋭い視線が、私と輝くん、そして奏くんの並びをなめるように掠めた。瞳の奥に宿る光は、学生の親睦を願う教育者のものではない。極上の見世物を期待する、サディスティックな光だ。「ペア決めは公平を期すため、くじ引きで行う」 仲居さんが恭しく運んできたのは、朱塗りの箱だった。中には漢数字が書かれた割り箸が入っているという。古典的だが、逃げ場のないシステムだ。「しおり」 袖をくいっと引かれる。見上げると、輝くんが力強く微笑んでいた。「大丈夫。俺が絶対に、栞と同じくじを引いてみせる」「え、でも……中見えないよ?」「気合と愛の力でねじ伏せる。……もし外れても、栞のペアの男を全力で説得(威圧)して交換させるから」「それはダメだからね!?」 目は本気だった。この男なら本当にやりかねない。けれど、その自信満々な態度に、強張っていた肩の力が少しだけ抜ける。輝くんがいれば、お化けなんて怖くない――彼氏のほうが怖いかもしれないが。「では、女子学生から引きたまえ」 教授の指示で、女子たちが順番に箱へ手を入れる。私の
「げっ、七瀬……」「……チッ、部外者が」 輝くんと奏くんが、同時に毒づく。 しかし、陽翔くんは動じなかった。状況を一瞬で理解したのか、あるいは理解することを放棄したのか、ニヤリと面白そうに笑った。「へえ……。先輩たち、抜け駆けはずるいっすよ」 彼は躊躇なく湯船に入ってくると、ザブザブと音を立ててやってきた。 そして、輝くんと奏くんの間に割り込むようにして、私の目の前に立った。「栞先輩。……俺も、混ぜてくれますよね?」「は、はいぃ!?」 役者は揃った。 誰もいないはずの露天風呂に、今、私と三人の半裸の男たちがひしめき合っている。 湯気で上気した肌、滴る水滴、そしてギラギラとした三対の瞳。 もう、逃げ場はない。この状況で「出ます」と言って、無事に帰してもらえるとは到底思えなかった。 輝くんが右手を掴む。 奏くんが左手を掴む。 陽翔くんが正面から見つめる。「……一緒に入るか?」 輝くんが試すように聞いた。その瞳は、拒絶を許さない色をしていた。「僕は構わないが」 奏くんが淡々と言った。けれど、握られた手の熱さが本音を物語っている。「俺はもちろん、大歓迎ですよ!」 陽翔くんが、無邪気に(装って)笑った。 三人が手を差し伸べてくる(正確には、すでに掴まれているけれど)。 湯煙の中、月明かりに照らされた三人の裸体は、神々しいほどに美しく、そして致命的に危険な香りを放っていた。 「(……無理。キャパオーバー。処理不能。システムダウン)」 脳内で赤い警告灯が激しく回転している。 眼福? 確かに眼福だ。 輝くんの彫刻のような肉体美、奏くんの陶器のような肌としなやかな筋肉、陽翔くんの少年らしさと男らしさが同居する身体。 どのアングルを切り取っても、BL漫画の表紙を飾れるレベル