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第3話:氷の騎士は沈黙で見つめる

作者: 花柳響
last update 最終更新日: 2025-10-23 02:50:20

「――というわけで、天王寺先輩が、氷室くんのこと、お食事に誘いたいそうよ!」

「は?」

 私の興奮気味の報告を、乃亜は購買で買ったばかりのメロンパンを咥えながら、心底どうでもよさそうな声で一蹴した。昼休みの喧騒に満ちた中庭のベンチで、私たちは向かい合って座っている。

「いや、だからね!天王寺先輩が私を食事に誘ってきたのは、氷室くんを誘うための口実なの!私が触媒となって、二人を繋ぐのよ!すごくない?この世紀の恋の始まりに、私が立ち会えるなんて!」

「……あんた、本気で言ってんの?」

 乃亜はメロンパンを咀嚼し、ごくりと飲み込むと、呆れを通り越して、もはや憐れみのような目を私に向けた。「本気も何も、それ以外に考えられる?」と私が言うと、彼女は天を仰いで深いため息をついた。

「普通に考えて、天王寺くんはあんたに気があるから誘ったんでしょ。なんでそうなるのよ」

「ないないない。天地がひっくり返っても、それだけはない」

 私は両手を大きく振って、乃亜の突拍子もない仮説を全力で否定する。

「考えてもみてよ。あの天王寺輝だよ?学園の太陽だよ?彼が、私みたいな日陰の苔のような人間に、興味を持つわけがないじゃない。科学的にありえない。彼の隣に立つ人間は、彼と同じくらいキラキラしてないと、世界のバランスが崩壊しちゃう」

「あんたのその自己評価の低さは、もはや一種の才能だね……」

「そして、氷室くんよ!あのミステリアスな影のあるクールビューティ!天王寺先輩の光が強ければ強いほど、彼の影は色濃く、魅力的に映る……。光と影、陽と陰。これほどまでに完璧なカップリングがある?いや、ない!」

 熱弁する私に、乃亜は早々に会話を諦めたのか、「はいはい、そうですねー」と気の抜けた返事を繰り返すだけだった。わかってない。乃亜には、この神聖な関係性の尊さが、まだわかっていないのだ。

 だが、感傷に浸っている場合ではない。私には、二人の恋を成就させるという、重大なミッションが課せられているのだから。

「問題は、どうやって氷室くんを食事会に誘うか、なのよ……」

 腕を組み、私はうーん、と唸る。天王寺先輩から食事に誘われたのは、明日の夜。時間がない。

 氷室くんは、天王寺先輩と違って、いつもどこにいるのか掴みどころがない。特定の友人とつるんでいる様子もなく、講義が終わると、ふらりとどこかへ消えてしまう。神出鬼没。まさに孤高の騎士(サイレント・ナイト)だ。

「普通に、次の講義で会った時に声かければいいじゃん」

「そんな簡単なことじゃないのよ!」

 私は乃亜の単純な提案に、またしても首を横に振った。

「いい?氷室くんは、きっと、天王寺先輩からのアプローチに、とっくに気づいてる。でも、素直になれないの。だから、私が『天王寺先輩が誘ってますよ』なんてストレートに言ったら、『……興味ない』とか言って、心を閉ざしちゃうに決まってる!」

「……あんたの脳内で、氷室くんはどんなキャラなのよ……」

「だから、ここは慎重に、外堀から埋めていく必要があるの。偶然を装って接触し、彼の警戒心を解き、自然な流れで食事会に誘導する……。そう、すべては運命だったと、彼に思わせるのよ!」

 私の完璧な作戦に、私自身が感動で打ち震える。そうだ、これしかない。

 問題は、その「偶然の接触」を、どこで、どうやって起こすか、だ。

 その日の午後、私は血眼になって氷室氷室くんの姿を探し回っていた。彼の所属する文学部の講義棟をうろつき、学生でごった返すカフェテリアを偵察し、人気のなさそうな中庭の奥まで足を運んだ。しかし、彼の姿はどこにも見当たらない。

「くっ……どこにいるの、氷室くん……!」

 諦めかけた、その時だった。ふと、目の前にそびえ立つ、古びたレンガ造りの建物が目に入った。

 ―――図書館。

 そうだ。彼は、いつも一人で静かに本を読んでいるイメージがある。もしかしたら……!

 微かな希望を胸に、私は図書館の重い扉を押し開けた。

 ひんやりとした空気が、私の火照った頬に心地よかった。高い天井まで続く書架には、びっしりと本が詰め込まれ、古い紙とインクの匂いが静かに漂っている。聞こえるのは、誰かがページの束をめくる乾いた音と、自分の緊張した心臓の音だけ。

 スパイ映画の主人公になった気分で、私は書架の陰からそっと顔を覗かせ、目的の人物を探す。人文科学の棚、海外文学の棚……。そして、一番奥まった、窓から午後の柔らかな光が差し込む閲覧スペースで、ついに私は彼を見つけた。

 氷室 奏。

 彼は、一脚の椅子に深く腰掛け、手にした文庫本に静かに視線を落としていた。窓から差し込む光が、彼のサラサラの黒髪を照らし、透けるような白い肌の輪郭を淡く縁取っている。長い指が時折ページをめくる、その仕草一つが、まるで計算され尽くした一枚の絵画のようだった。

 ―――美しい。

 思わず、喉がごくりと鳴った。現実の人間に対して、こんな感情を抱いたのは初めてかもしれない。もちろん、これは恋だとか、そういう生々しいものではない。あくまで、完璧な造形物に対する芸術的な感動だ。彼が、私の推しカプ「ジーク×アーク」のアークに、どことなく雰囲気が似ているせいもあるだろう。儚げで、気高くて、どこか影がある。

 よし、と私は心の中で拳を握る。作戦通り、偶然を装って声をかけるのだ。「あら、氷室くん。奇遇ね、あなたもこの本を探しに?」みたいな感じで。

 そう決意して、書架の陰から一歩踏み出そうとした、その瞬間。

 ばちり、と。

 それまで本に落ちていたはずの彼の視線が、真っ直ぐに、私を射抜いた。

「……っ!」

 息が止まる。心臓が、鷲掴みにされたかのように軋んだ。

 隠れていたはずなのに。なぜ。

 彼の灰色の瞳は、何の感情も映していないように見える。ただ、ガラス玉のように冷ややかに、じっと、私だけを見つめている。時間が、凍り付いたかのようだ。

 動けない。彼の視線に、蛇に睨まれた蛙のように縫い付けられてしまった。

 どうしよう。声を、かけないと。でも、何を?

 混乱する私の頭の中で、乃亜の言葉が不意に蘇る。『あんた、最近やたらイケメンに見つめられてるけど自覚ある?』

 そして、先日の講義室での、天王寺先輩の行動。

 そうだ。氷室くんは、きっと、もう気づいているのだ。天王寺先輩が、私というモブを利用して、自分に近づこうとしていることに。

 だから、私を見ているんだ。

 私のことを、天王寺先輩からのアプローチを牽制するための、「盾」として認識しているんだ……!

「(……なんて、切ない……!)」

 真実に辿り着いた瞬間、私の胸は、BL的な意味での切なさで張り裂けそうになった。

 本当は、天王寺先輩のことが気になっている。でも、素直になれない。彼の眩しすぎる光に、気後れしているのかもしれない。だから、私という存在を間に挟むことで、必死に心の距離を保とうとしているのだ。健気すぎる。あまりに、健気すぎる……!

 涙ぐみそうになるのを、ぐっと堪える。泣いている場合じゃない。私は、彼のその強固な心の壁を、優しく溶かしてあげなければならないのだから。

 もう少しだけ、彼に関する情報が欲しい。そう思った私は、彼の視線から逃れるように、すぐ隣の書架に目をやった。彼が読んでいる本のジャンルだけでも分かれば、会話のきっかけになるかもしれない。

 書架の隙間から、もう一度、彼の手元を盗み見る。

 そして、私は自分の目を疑った。

 彼が読んでいる文庫本の背表紙。そこに印刷された、特徴的な装丁と、作者の名前に、見覚えがあったからだ。

「(うそ……あれって、月館つきだて小夜子さよこの『硝子の鳥籠』……!?)」

 月館小夜子。商業的には全く無名だが、一部の熱狂的なファンを持つ、マイナーな幻想小説家。その退廃的で、どこまでも美しい文章の世界観は、何を隠そう、この私が心の底から敬愛してやまない作家だった。

 ―――まさか。

 私の脳内で、再び運命の音が鳴り響く。

 氷室くんが、月館小夜子を読んでいる。これは、単なる偶然だろうか?いや、違う。

 これは、彼と天王寺先輩が、結ばれるべくして結ばれる、運命の証なのだ!

 きっと、天王寺先輩も、あのキラキラした外見に似合わず、こういう少し影のある文学が好きなのに違いない。そして、二人はまだ、お互いが同じ作家を愛読しているという事実に気づいていない。

「(趣味まで合うなんて……!運命……!この二人、マジの運命のカップルじゃないの……!)」

 興奮で、鼻血が出そうになるのを、必死に押さえた。

 もう、迷いはない。

 この恋の歯車を動かすのは、この私しかいない。

 私は、震える足で、書架の陰から一歩を踏み出した。

 一歩、また一歩と、私は氷の騎士が待つ聖域へと足を進める。たった数メートルの距離が、永遠のように長く感じられた。私の心臓は、これから始まる神聖な儀式を前にして、早鐘のように激しく脈打っている。大丈夫。私ならできる。私は、彼らの恋を導くために選ばれたのだから。

 彼の前にたどり着き、私は、ごくりと唾を飲み込んだ。彼は、私が目の前に立っても、驚いた様子一つ見せない。ただ、読んでいた文庫本から静かに顔を上げ、その冷ややかに澄んだ灰色の瞳で、私をじっと見上げるだけだった。その無表情が、逆に私の決意を鈍らせる。

 何か、何か言わなければ。

 『偶然ですね』?違う。『その本、私も好きなんです』?いや、それではただの馴れ馴れしい女だ。作戦を、思い出せ。彼の警戒心を解き、自然な流れで食事会に誘導する……。

 しかし、彼の射抜くような視線を前にして、私の頭の中にあったはずの完璧な台本は、綺麗さっぱり消し飛んでいた。口の中が、カラカラに乾く。緊張で、指先が微かに震えた。

「あ……あの……」

 やっとのことで絞り出したのは、蚊の鳴くような、情けない声だった。ダメだ、このままでは。私は、二人のキューピッド。もっと、堂々としていなければ。

 私は一度、ぎゅっと目を瞑り、息を吸い込んだ。そして、脳裏に天王寺先輩のキラキラした笑顔を思い浮かべる。そうだ、彼のために。そして、目の前の不器用な騎士のために。

 意を決して、私は口を開いた。全ての始まりとなる、魔法の言葉を紡ぐために。

「あの、天王寺先輩が……!」

 ―――食事に、あなたを誘いたいそうです。

 そう続くはずだった私の言葉は、しかし、途中で遮られることになった。

 私が「天王寺」という名前を口にした瞬間、それまで無表情だった氷室くんの瞳が、ほんの僅かに、鋭く揺らめいたように見えた。

 彼は、読んでいた本を、パタンと静かに閉じる。そして、その長い指を栞のようにページに挟んだまま、まっすぐに私を見据えた。

 その眼差しは、今までにないほど、真剣そのものだった。

「君の話なら、聞こう」

 静かな図書館に、彼の低く、落ち着いた声が凛と響いた。

 それは、私の予想を遥かに超えた、あまりにも真摯で、あまりにもまっすぐな答えだった。

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