ANMELDEN「――というわけで、天王寺先輩が、氷室くんのこと、お食事に誘いたいそうよ!」
「は?」 私の興奮気味の報告を、乃亜は購買で買ったばかりのメロンパンを咥えながら、心底どうでもよさそうな声で一蹴した。昼休みの喧騒に満ちた中庭のベンチで、私たちは向かい合って座っている。 「いや、だからね!天王寺先輩が私を食事に誘ってきたのは、氷室くんを誘うための口実なの!私が触媒となって、二人を繋ぐのよ!すごくない?この世紀の恋の始まりに、私が立ち会えるなんて!」 「……あんた、本気で言ってんの?」 乃亜はメロンパンを咀嚼し、ごくりと飲み込むと、呆れを通り越して、もはや憐れみのような目を私に向けた。「本気も何も、それ以外に考えられる?」と私が言うと、彼女は天を仰いで深いため息をついた。 「普通に考えて、天王寺くんはあんたに気があるから誘ったんでしょ。なんでそうなるのよ」 「ないないない。天地がひっくり返っても、それだけはない」 私は両手を大きく振って、乃亜の突拍子もない仮説を全力で否定する。 「考えてもみてよ。あの天王寺輝だよ?学園の太陽だよ?彼が、私みたいな日陰の苔のような人間に、興味を持つわけがないじゃない。科学的にありえない。彼の隣に立つ人間は、彼と同じくらいキラキラしてないと、世界のバランスが崩壊しちゃう」 「あんたのその自己評価の低さは、もはや一種の才能だね……」 「そして、氷室くんよ!あのミステリアスな影のあるクールビューティ!天王寺先輩の光が強ければ強いほど、彼の影は色濃く、魅力的に映る……。光と影、陽と陰。これほどまでに完璧なカップリングがある?いや、ない!」 熱弁する私に、乃亜は早々に会話を諦めたのか、「はいはい、そうですねー」と気の抜けた返事を繰り返すだけだった。わかってない。乃亜には、この神聖な関係性の尊さが、まだわかっていないのだ。 だが、感傷に浸っている場合ではない。私には、二人の恋を成就させるという、重大なミッションが課せられているのだから。 「問題は、どうやって氷室くんを食事会に誘うか、なのよ……」 腕を組み、私はうーん、と唸る。天王寺先輩から食事に誘われたのは、明日の夜。時間がない。 氷室くんは、天王寺先輩と違って、いつもどこにいるのか掴みどころがない。特定の友人とつるんでいる様子もなく、講義が終わると、ふらりとどこかへ消えてしまう。神出鬼没。まさに孤高の騎士(サイレント・ナイト)だ。 「普通に、次の講義で会った時に声かければいいじゃん」 「そんな簡単なことじゃないのよ!」 私は乃亜の単純な提案に、またしても首を横に振った。 「いい?氷室くんは、きっと、天王寺先輩からのアプローチに、とっくに気づいてる。でも、素直になれないの。だから、私が『天王寺先輩が誘ってますよ』なんてストレートに言ったら、『……興味ない』とか言って、心を閉ざしちゃうに決まってる!」 「……あんたの脳内で、氷室くんはどんなキャラなのよ……」 「だから、ここは慎重に、外堀から埋めていく必要があるの。偶然を装って接触し、彼の警戒心を解き、自然な流れで食事会に誘導する……。そう、すべては運命だったと、彼に思わせるのよ!」 私の完璧な作戦に、私自身が感動で打ち震える。そうだ、これしかない。 問題は、その「偶然の接触」を、どこで、どうやって起こすか、だ。 その日の午後、私は血眼になって氷室くんの姿を探し回っていた。彼の所属する文学部の講義棟をうろつき、学生でごった返すカフェテリアを偵察し、人気のなさそうな中庭の奥まで足を運んだ。しかし、彼の姿はどこにも見当たらない。 「くっ……どこにいるの、氷室くん……!」 諦めかけた、その時だった。ふと、目の前にそびえ立つ、古びたレンガ造りの建物が目に入った。 ――――図書館。 そうだ。彼は、いつも一人で静かに本を読んでいるイメージがある。もしかしたら……! 微かな希望を胸に、私は図書館の重い扉を押し開けた。◇
ひんやりとした空気が、私の火照った頬に心地よかった。高い天井まで続く書架には、びっしりと本が詰め込まれ、古い紙とインクの匂いが静かに漂っている。聞こえるのは、誰かがページの束をめくる乾いた音と、自分の緊張した心臓の音だけ。
スパイ映画の主人公になった気分で、私は書架の陰からそっと顔を覗かせ、目的の人物を探す。人文科学の棚、海外文学の棚……。そして、一番奥まった、窓から午後の柔らかな光が差し込む閲覧スペースで、ついに私は彼を見つけた。 氷室 奏。 彼は、一脚の椅子に深く腰掛け、手にした文庫本に静かに視線を落としていた。窓から差し込む光が、彼のサラサラの黒髪を照らし、透けるような白い肌の輪郭を淡く縁取っている。長い指が時折ページをめくる、その仕草一つが、まるで計算され尽くした一枚の絵画のようだった。 ――――美しい。 思わず、喉がごくりと鳴った。現実の人間に対して、こんな感情を抱いたのは初めてかもしれない。もちろん、これは恋だとか、そういう生々しいものではない。あくまで、完璧な造形物に対する芸術的な感動だ。彼が、私の推しカプ「ジーク×アーク」のアークに、どことなく雰囲気が似ているせいもあるだろう。儚げで、気高くて、どこか影がある。 よし、と私は心の中で拳を握る。作戦通り、偶然を装って声をかけるのだ。「あら、氷室くん。奇遇ね、あなたもこの本を探しに?」みたいな感じで。 そう決意して、書架の陰から一歩踏み出そうとした、その瞬間。 ばちり、と。 それまで本に落ちていたはずの彼の視線が、真っ直ぐに、私を射抜いた。 「……っ!」 息が止まる。心臓が、鷲掴みにされたかのように軋んだ。 隠れていたはずなのに。なぜ。 彼の灰色の瞳は、何の感情も映していないように見える。ただ、ガラス玉のように冷ややかに、じっと、私だけを見つめている。時間が、凍り付いたかのようだ。 動けない。彼の視線に、蛇に睨まれた蛙のように縫い付けられてしまった。 どうしよう。声を、かけないと。でも、何を? 混乱する私の頭の中で、乃亜の言葉が不意に蘇る。『あんた、最近やたらイケメンに見つめられてるけど自覚ある?』 そして、先日の講義室での、天王寺先輩の行動。 そうだ。氷室くんは、きっと、もう気づいているのだ。天王寺先輩が、私というモブを利用して、自分に近づこうとしていることに。 だから、私を見ているんだ。 私のことを、天王寺先輩からのアプローチを牽制するための、「盾」として認識しているんだ……! 「(……なんて、切ない……!)」 真実に辿り着いた瞬間、私の胸は、BL的な意味での切なさで張り裂けそうになった。 本当は、天王寺先輩のことが気になっている。でも、素直になれない。彼の眩しすぎる光に、気後れしているのかもしれない。だから、私という存在を間に挟むことで、必死に心の距離を保とうとしているのだ。健気すぎる。あまりに、健気すぎる……! 涙ぐみそうになるのを、ぐっと堪える。泣いている場合じゃない。私は、彼のその強固な心の壁を、優しく溶かしてあげなければならないのだから。 もう少しだけ、彼に関する情報が欲しい。そう思った私は、彼の視線から逃れるように、すぐ隣の書架に目をやった。彼が読んでいる本のジャンルだけでも分かれば、会話のきっかけになるかもしれない。 書架の隙間から、もう一度、彼の手元を盗み見る。 そして、私は自分の目を疑った。 彼が読んでいる文庫本の背表紙。そこに印刷された、特徴的な装丁と、作者の名前に、見覚えがあったからだ。 「(うそ……あれって、◇
一歩、また一歩と、私は氷の騎士が待つ聖域へと足を進める。たった数メートルの距離が、永遠のように長く感じられた。私の心臓は、これから始まる神聖な儀式を前にして、早鐘のように激しく脈打っている。大丈夫。私ならできる。私は、彼らの恋を導くために選ばれたのだから。
彼の前にたどり着き、私は、ごくりと唾を飲み込んだ。彼は、私が目の前に立っても、驚いた様子一つ見せない。ただ、読んでいた文庫本から静かに顔を上げ、その冷ややかに澄んだ灰色の瞳で、私をじっと見上げるだけだった。その無表情が、逆に私の決意を鈍らせる。 何か、何か言わなければ。 『偶然ですね』?違う。『その本、私も好きなんです』?いや、それではただの馴れ馴れしい女だ。作戦を、思い出せ。彼の警戒心を解き、自然な流れで食事会に誘導する……。 しかし、彼の射抜くような視線を前にして、私の頭の中にあったはずの完璧な台本は、綺麗さっぱり消し飛んでいた。口の中が、カラカラに乾く。緊張で、指先が微かに震えた。 「あ……あの……」 やっとのことで絞り出したのは、蚊の鳴くような、情けない声だった。ダメだ、このままでは。私は、二人のキューピッド。もっと、堂々としていなければ。 私は一度、ぎゅっと目を瞑り、息を吸い込んだ。そして、脳裏に天王寺先輩のキラキラした笑顔を思い浮かべる。そうだ、彼のために。そして、目の前の不器用な騎士のために。 意を決して、私は口を開いた。全ての始まりとなる、魔法の言葉を紡ぐために。 「あの、天王寺先輩が……!」 ――――食事に、あなたを誘いたいそうです。 そう続くはずだった私の言葉は、しかし、途中で遮られることになった。 私が「天王寺」という名前を口にした瞬間、それまで無表情だった氷室くんの瞳が、ほんの僅かに、鋭く揺らめいたように見えた。 彼は、読んでいた本を、パタンと静かに閉じる。そして、その長い指を栞のようにページに挟んだまま、まっすぐに私を見据えた。 その眼差しは、今までにないほど、真剣そのものだった。 「君の話なら、聞こう」 静かな図書館に、彼の低く、落ち着いた声が凛と響いた。 それは、私の予想を遥かに超えた、あまりにも真摯で、あまりにもまっすぐな答えだった。(……感動してくれてるんだ。嬉しいな) そう思った瞬間だった。 私の脳内で、長らく休眠状態にあった『腐女子フィルター』が、カチリと音を立てて誤作動を起こした。 世界が、歪む。 待って。 あの涙の意味は、本当に純粋な「祝福」だけなのだろうか? 奏くんが、輝くんを見る目。 どこか悔しげで、それでいて相手の実力を認めざるを得ないといった、複雑で熱っぽい感情が入り混じった眼差し。 陽翔くんが、輝くんを見る目。 「先を越された」という男としての敗北感と、それでも「あいつなら任せられる」という友情、そして断ち切れない切なさが同居した濡れた瞳。 そして、輝くんが二人に向けて送った、勝ち誇ったような、けれど揺るぎない信頼に満ちたアイコンタクト。 (……はッ!!) 脳天に電撃が走った。 もしかして。 もしかして、これは『ライバル×輝』の……。 そこまで考えて、私は唇を噛んだ。違う違う。今、自分の結婚式ですから。披露宴の席順で相関図を作っている場合じゃありません。 奏くんも陽翔くんも、私に気持ちを伝えてくれた。その言葉を、都合のいい筋書きに書き換えたくはなかった。 目が合った奏くんに、小さく頭を下げる。陽翔くんは泣いたまま、くしゃくしゃの笑顔で手を振ってくれた。 「……し、栞?」 隣で輝くんが、不審そうに私の顔を覗き込んだ。 奏くんと陽翔くんを見ていた時間が、思ったより長かったらしい。私は慌てて、隣に立つ彼へ向き直った。 「……ううん。なんでもない」 輝くんはまだ少し疑わしそうだ。分かってます。その顔をされても仕方ない人生でした。 私は言い訳を探すのをやめ、自分から彼の手を取った。 「輝くん。私、今、すごく幸せ」 彼の目が、ふっと和らぐ。それを見たら堪らなくなって、背伸びをして頬に口づけた。すぐ近くから歓声が上がり、そこでようやく会場中に見られていることを思い出す。 「あ、いや、今のは……!」 「取り消しはなし」 輝くんが笑い、私の腰を引き寄せる。今度は目を逸らさずに、その顔が近づくのを待った。 カラン、カラン、と祝福の鐘が高らかに鳴り響く。 青空に吸い込まれていくフラワーシャワーの中で、私は輝くんの腕の中にしっかりと抱きしめられていた。その体温が、私を確かな幸福の中心に繋ぎ止
父の手から輝くんの手へ、私の手が託される。 触れた輝くんの手は、大きくて、温かくて、そして少しだけ震えていた。 「……待ってたよ、栞」 彼が誰にも聞こえないほどの小声で囁く。 その声の響きに導かれるように、私は彼の隣に並んだ。 牧師様の言葉が続き、私たちは誓いの言葉を交わす。 指輪の交換。 私の左手の薬指に、ひやりとした金属の感触と共に、永遠の約束が滑り込んでくる。 そして。 「それでは、誓いのキスを」 牧師様の言葉を合図に、輝くんがそっとベールを上げる。 隔てるものがなくなり、至近距離で見つめ合う。 彼の瞳の中に、緊張で強張った私の顔が映っている。 「……愛してる」 唇が触れ合う直前、彼が音のない言葉でそう言ったのが分かった。 私も、心の中で答える。 私も、愛してる。世界で一番。 チュッ、と柔らかい音がして、唇が離れる。 その瞬間、会場中から割れんばかりの拍手が巻き起こった。 私たちは皆の方へと向き直る。 色とりどりの花びらが舞うフラワーシャワーの中、たくさんの笑顔が私たちに向けられていた。 最前列には、見慣れた、そして大好きな顔ぶれが揃っている。 まずは、氷室奏くん。 彼は今、売れっ子のゲームシナリオライターとして第一線で活躍している。私と同じ会社に所属し、時には喧嘩し、時には背中を預け合いながら、一緒にゲームを作り上げている戦友だ。 今日の彼は、隙のない礼服姿で、眼鏡の奥の瞳を和やかに細めてこちらを見ていた。その表情はどこまでも穏やかで、まるで手のかかる弟と妹の晴れ姿を見守る兄のようだ。 その隣には、七瀬陽翔くん。 彼は大学卒業後、厳しい修行期間を経て、念願だった自分のカフェをオープンさせた。今では雑誌やSNSに取り上げられるほどの人気店のオーナーだ。 相変わらずの人懐っこい笑顔で、大きく手を振ってくれている。「先輩、おめでとう!」という口の動きが見えた。 そして、乃亜の隣には……まさかの人物。 西園寺エリカ様だ。 彼女はあれから、持ち前の驚異的なバイタリティと深いオタク知識を武器に、なんとイベント運営会社の社長になっていた。 今日の彼女は、いつもの真紅のドレスではなく、上品なシャンパンゴールドのドレスを身に纏い、扇子で口元を隠しながら優雅に
そして今日、私たちは誓いを立てる。 多くの人に見守られ、祝福されながら、これからの人生を共に歩んでいく約束を。 コンコン、と厚い扉越しに控えめなノックの音が響いた。 「失礼いたします。……新婦様、そろそろお時間です」 式場スタッフのよく通る声に、心臓が跳ね上がる。 いよいよだ。 「よし。行ってきなさい、栞」 乃亜が私の背中をバン、と景気よく叩いた。 少し痛いくらいのその衝撃に、竦みかけていた足に力が戻る。私は肺いっぱいに空気を吸い込み、深く吐き出した。 「うん。……行ってきます!」 ずしりと重いドレスの裾を爪先で蹴り上げ、私は控室の扉を押し開けた。◇ チャペルの大きな扉の前。 父の腕に手を添えながら、私は震えそうになる膝を必死に叱咤していた。 この扉の向こうには、たくさんのゲストたちが待っている。 大学時代の友人たち、会社の同僚、輝くんの仕事関係の方々。 そして何より、私たちがここに辿り着くまでの道のりを、時に厳しく、時に温かく見守ってくれた、かけがえのない仲間たち。 「栞。……綺麗だぞ」 隣で父が、少し湿っぽい声で囁く。 普段は無口で不器用な父の、絞り出すような言葉。危うく涙腺が緩みそうになり、私はぐっと奥歯を噛み締めて堪えた。 今泣いたら、時間をかけて作ってもらったメイクが台無しになってしまう。輝くんに、一番綺麗な私を見てもらいたいから。 厳かなパイプオルガンの音色が、高い天井に響き渡る。 重厚な扉が、ゆっくりと左右に開かれていく。 溢れ出すまばゆい光。 そして、視界いっぱいに飛び込んでくる、祝福の拍手と温かな笑顔の海。 まっすぐに伸びるバージンロードの先、祭壇の前で待っているのは、白のタキシードに身を包んだ私の最愛の人。 天王寺輝。 彼と目が合った瞬間、周りの景色からふっと色が抜け落ちたような気がした。 彼だけが、鮮やかに、圧倒的な存在感を持ってそこに立っている。 (……かっこいい) 付き合い始めてもう何年も経つのに、未だに彼の姿を見るたびに胸が高鳴ってしまう自分がおかしい。 今日の彼は、いつにも増して「王子様」だった。 仕立ての良いタキシードを完璧に着こなし、綺麗に整えられた茶色の髪が光を弾いている。そして何より、私を見つめるその瞳。蕩けるよ
あれから、いくつもの季節が巡った。 窓の外には、目に痛いほどの新緑が広がっている。初夏の陽気を含んだ風が、木々の葉を揺らす音が聞こえてくるようだ。 雲ひとつない突き抜けるような青空の下。 私は今、人生で一番高いヒールの上に危なっかしく立ち、人生で一番重たい布の塊に全身を包まれて、人生で一番強張った顔で鏡と睨めっこをしていた。 「……うぅ、苦しい。ねえ乃亜、これちょっとコルセット締めすぎじゃない?」 「何言ってんの。一生に一度の晴れ舞台でしょ? 内臓の位置なんて気にしてる場合じゃないって」 私の背後で、親友の神崎乃亜がテキパキとドレスの裾をさばいている。 今日の彼女はブライズメイドとして、淡いレモンイエローのドレスを身に纏っていた。相変わらずの切れ長で美しい瞳と、凛とした立ち振る舞い。主役の私の方が霞んでしまいそうなほどの美人っぷりだ。 「ほら、できた。……うん、悪くない」 乃亜が満足げに頷き、私の背中を鏡の方へとぐいと押した。 そこに映っていたのは、純白のウェディングドレスに身を包んだ、見知らぬ誰かのような自分の姿。 繊細なレースが鎖骨のラインを縁取るオフショルダー。ふわりと空気を含んで広がるAラインのスカートには、無数の小花が散りばめられ、動くたびにさざ波のように揺れる。プロの手によって丁寧に編み込まれた髪の上には、照明を受けてキラキラと瞬くティアラが鎮座していた。 「……私、本当にお嫁に行くんだね」 鏡の中の自分と目を合わせ、ぽつりと漏らす。 なんだか、足元がふわふわとして実感が湧かない。まるで、スクリーンの向こう側で繰り広げられる物語を、客席から眺めているような不思議な浮遊感がある。 「何寝ぼけたこと言ってんのよ。ここまで来て夢オチでしたなんて言ったら、私が許さないからね」 乃亜が呆れたように笑い、私の肩にぽんと手を置いた。 その掌から伝わる確かな体温と重みに、ようやく少しだけ、ここが現実なのだという感覚が戻ってくる。 そう。今日は、私の結婚式だ。 机を紙で埋め、送信ボタンの前で固まっていた日が、今も時々夢に出てくる。二次募集で内定をもらった『株式会社アルカディア・ワークス』で、私は今、プランナーとして走り回っている。好きだけでは済まないことばかりだけれど、会議に出す企画書の最初の読者は、相変
「え? うん、いいけど……」 三人は私から少し離れた、広場の片隅へと歩いていく。 夕陽を背にして立つ三つのシルエット。 何か重要な話をしているようだけれど、ここからでは風に流されて声は聞こえない。 胸騒ぎがする。 でも、不思議と不安はなかった。 彼らの背中から漂う空気が、決して険悪なものではないと分かっていたからだ。 しばらくして、話が終わったのか、三人がこちらへ戻ってきた。 その表情は、どこか吹っ切れたような、清々しいものだった。 「……終わったよ、栞」 輝くんが戻ってきて、再び私の手を取る。 「何の話だったの?」 「ん? ……男同士の、秘密の話」 彼は悪戯っぽく笑って、教えてくれなかった。 奏くんと陽翔くんを見ると、二人は何かを納得したように、満足げな顔でこちらを見ていた。 「……月詠。俺は先に行く」 奏くんが、私に近づいてくる。 そして、そっと手を差し出した。 「え?」 「握手だ。……今日の記念に」 戸惑いながらも手を出すと、彼は私の手をギュッと強く握りしめた。 その手は意外なほど熱く、そして優しかった。 「……幸せになれよ」 ボソッと呟かれた言葉に、目頭が熱くなる。 「奏くん……」 「それと、天王寺」 奏くんが輝くんへ向き直った。 「式の日取りが決まったら、早めに知らせろ。仕事を空ける」 「……ああ」 「さっきも言ったが、知らせるのは月詠任せにするなよ」 輝くんが頷いた。その顔を見届け、奏くんは鞄を肩に掛け直した。 「じゃあな」 奏くんはひらりと手を振り、雑踏の中へと消えていった。 「俺も帰ります!」 陽翔くんが元気よく手を挙げる。 「先輩! またバイトで!」 「うん、お疲れ様!」 「あ、輝先輩。……約束、忘れないでくださいね」 陽翔くんが意味深な言葉を残し、輝くんに拳を突き出す。 輝くんも拳を合わせ、コツンとぶつけ合った。 「ああ。分かってる」 陽翔くんもまた、笑顔で去っていった。 二人を見送った後、私は輝くんを見上げた。 「……ねえ、本当に何の話だったの?」 「内緒」 輝くんは人差し指を唇に当て、ウィンクする。 「式の話をされた。……あいつら、来てくれるって」 「え……」 「ちゃんと招待状、送ろうな。……二人で
会場の外へ出ると、空は茜色に染まっていた。冷たい風が頬に触れ、ようやく自分がどれだけ泣いたか分かる。 入口から少し離れた場所で輝くんが手を挙げた。隣には奏くんと陽翔くんもいる。私はエリカ様とそちらへ向かい、まず輝くんの前で足を止めた。 「一緒に来てくれて、ありがとう」 彼は一瞬驚き、それから笑った。 「うん。楽しそうだったね、栞」 差し出されたハンカチを受け取ると、私の手ごとそっと握られた。 「物語もよかったけど。あとで栞が何を話すか、そっちが楽しみだった」 また泣きそうになってしまう。舞台の二人に感動した気持ちを、この人に話したくてたまらなかったことまで、見抜かれた気がした。 「……長くなるよ?」 「知ってる」 後ろから陽翔くんがティッシュを差し出す。 「先輩、まず鼻。話す前にそっちです」 「う、うるさいっ。これは感動の涙なの!」 笑いながら受け取ると、奏くんが静かに眼鏡をかけ直していた。その目元も少し赤い。からかう気にはなれず、私は何も言わずにティッシュの袋を差し出した。 「ふぅ……。魂が浄化されましたわ」 エリカ様が、満足げに溜息をつく。 その顔は憑き物が落ちたように晴れやかで、いつもの棘々しさが嘘のようだ。 「ええ。……最高のイベントでした」 奏くんも頷き、受け取ったティッシュをそっとポケットへ収めた。 「また、イベントがあったらご一緒しましょうね、同志よ」 答えようとした時、彼女が扇子を閉じた。 「その前に。……あなたに、謝らなくてはならないことがありますわ」 急に改まった声に、私も背筋を伸ばした。 「あの日、召使いだの、平民だのと。知らない方を、あんなふうに呼ぶべきではありませんでした」 彼女は私を見ていた。言葉を急いで継ぎ足すことも、笑い話にすることもなかった。 あの日の痛みが少し戻った。それでも、今日、隣で同じ台詞に泣いた人の顔を、私はもう知っている。 「……嫌でした。あれは」 「ええ」 「でも、今日は楽しかったです。また、一緒に見たいと思いました」 エリカ様が小さく息を吐いた。扇子を持つ手が、胸元から下りる。 「……では、次の抽選も、二人で申し込みましょう」 私とエリカ様は、固い握手を交わした。 かつての恋敵が、今や最強のオタク仲間。 人生、何が起
パーティー会場の隅、少し人目が避けられるテラスへの出入り口付近。 そこへ避難した私たちは、しばらくの間、言葉もなく寄り添っていた。 夜風が、火照った頬と震える体を冷やしていく。 総帥が去った後の会場は、何事もなかったかのように再び談笑と音楽に包まれている。けれど、私たちに向けられる視線の質が変わったことは明らかだった。 好奇心、同情、あるいは「終わったな」という冷ややかな嘲笑。 輝くんの手が、私の肩を抱く力を強めた。「……ごめん」 絞り出すような声だった。「せっか
運命の日は、皮肉なほどの日本晴れだった。 雲ひとつない青空を見上げながら、私の心の中はどしゃ降りの大雨警報が発令されていた。「……無理。やっぱり無理。お腹痛い。仮病使いたい」「はいはい、往生際が悪いよ。あんたが『行く』ってタンカ切ったんでしょ」 私の狭いワンルームアパートで、親友の神崎乃亜が仁王立ちしている。彼女の手には、今日のためにレンタルした(というか、乃亜がコネを駆使して調達してきた)ドレスの入ったガーメントバッグが握られている。 今日は、天王寺総帥の誕生日パーティー当日。 すなわち、私が「平民」として公開処刑されるかもしれない、運命の決戦日だ。「でもさぁ、乃亜。相手は
「……新しい召使い?」 エリカ様のその言葉が、秋の冷たい風に乗って私の鼓膜を震わせた。 普通なら、ここでショックを受けたり、怒ったり、あるいは自分の不甲斐なさに俯いたりする場面なのだろう。ヒロインなら「そんな、ひどい……」と涙を浮かべ、ヒーローが「彼女に謝れ!」と怒鳴るのが王道の展開だ。 けれど、今の私の脳内は、それどころではなかった。 エリカ様の後ろで、微動だにせず控える執事さん。その、主人の一挙手一投足を、まるで精密機械のように見守る瞳。彼女が不機嫌そうに扇子を広げれば、絶妙なタイ
ゼミ合宿という名の、私の人生史上最大かつ最も高密度な逆ハーレム・イベントから戻って数日が経った。 大学のキャンパスを吹き抜ける風は、ほんのりと秋の気配を孕み始めている。けれど、私の首筋に残った微かな熱——輝くんが刻んだ、あの独占欲の証——は、どんなに冷たい風に晒されても消えてはくれなかった。 鏡を見るたびに顔が火照り、指先でそこをなぞっては、あの嵐の夜の、彼の熱い吐息と低い声を思い出してしまう。「(……ダメ、落ち着け月詠栞。日常に戻るんだ、日常に。私は壁、私は空気、私はただの







