LOGIN「君の話なら、聞こう」
その言葉は、私の心に深く、そして都合よく刻み込まれた。 氷の騎士、氷室奏は、私の話を聞いてくれると言ったのだ。つまり、天王寺輝との恋物語の幕開けを、彼は静かに、しかし確かに受け入れたのである。ああ、なんて尊い展開だろう。クールな彼が、勇気を出して一歩踏み出したのだ。その歴史的瞬間に立ち会えたという感動で、私は図書館からの帰り道、ずっと頬の緩みを抑えることができなかった。 もちろん、彼を食事会に誘うのは、思ったよりも骨が折れた。私が「実は明日、天王寺先輩と食事をするんですが、ご一緒にどうですか」と切り出すと、彼は一瞬、本当にほんの一瞬だけ、眉間に皺を寄せたように見えた。 だが、それはきっと、照れ隠しだ。私の脳内BLフィルターは、彼の僅かな表情の変化を「素直になれないツンデレの典型的な反応」と瞬時に翻訳した。 「……なぜ、俺が」 「ええっと、それは……天王寺先輩が、きっとその方が、楽しいかなって……」 「君は、どうなんだ」 「え?私ですか?私はもちろん、お二人が揃ってくださった方が、百万倍楽しいです!」 私が満面の笑みでそう答えると、彼は何かを諦めたように小さく息を吐き、「……わかった」とだけ呟いた。 快諾である。完璧な流れだ。 そして翌日。私は、人生で初めて訪れるような、お洒落なイタリアンレストランの前に立っていた。待ち合わせの時間ぴったりに現れた天王寺先輩は、私服姿もまた完璧だった。シンプルな白いシャツに黒いパンツという出で立ちなのに、彼が着ているというだけで、それが世界最高級のブランド品に見える。 「やあ、月詠さん。待った?」 爽やかな笑顔に、私の心臓がまたしても無駄に跳ねる。いかんいかん、この人は私の攻略対象ではない。彼は、彼の隣に立つべき人のものなのだ。 「いえ!全然待ってません!それから、先輩、見てください!」 私は、自分の手柄を披露する子供のように、得意満面で自分の背後を指し示した。そこには、約束通り、少しだけ気まずそうな顔で佇む氷室くんの姿がある。彼は、モノトーンを基調とした、飾り気のない服装。それがまた、彼のミステリアスな雰囲気を際立たせていた。 「じゃーん!サプライズです!氷室くんも誘っちゃいました!」 えへへ、と私が笑いかけると、天王寺先輩は一瞬、本当に一瞬だけ、その完璧な笑顔の裏で驚きに目を見開いた。だが、それも束の間。彼はすぐにいつもの王子様スマイルに戻ると、私の頭に、ぽん、と大きな手を置いた。 「そっか。月詠さんが楽しいなら、それが一番だよ」 頭を優しく撫でられるという、少女漫画の王道シチュエーション。だが、私の脳内では、それは全く別の意味を持っていた。 「(……よくやった、月詠。これで、氷室くんと自然に話せるきっかけができたじゃないか)」 そう、これは私への労い。彼の恋のキューピッドである私への、感謝の頭ポンポンなのだ。 「はい!頑張りました!」 私が胸を張ると、天王寺先輩は楽しそうに笑い、氷室くんに視線を移した。 「氷室くん、だよね。来てくれてありがとう」 「……別に」 そっぽを向いて短く答える氷室くん。ああ、もう!ツンデレ!可愛すぎる! 私は、目の前で繰り広げられる光と影の邂逅に、一人で胸を熱くしていた。二人のために頑張る私、超健気じゃない?この恋、私が絶対に成就させてみせる。自己満足という名の幸福感に浸りながら、私は意気揚々とレストランの扉を開いたのだった。 ◇ 予約されていたのは、窓際の景色の良いテーブルだった。柔らかな間接照明が店内を照らし、テーブルの中央に置かれた小さなキャンドルの炎が、上品に揺れている。明らかに、私のような人間が普段利用するファミレスとは、世界の階層が違った。 席に着く段になって、私は重大なミスを犯していることに気づく。 案内されたのは、四人掛けのテーブル席。天王寺先輩と氷室くんが、ごく自然に、私の両隣の席に座ったのだ。つまり、私が、二人の間に挟まれる形になってしまった。 「(しまったああああ!)」 内心、私は頭を抱えて絶叫した。 やらかした。完全に、やらかしてしまった。これでは、二人がお互いの顔を見ながら話せないではないか。私が、物理的な「壁」となって、彼らの恋路を邪魔している!なんてことだ。キューピッド失格だ。 「月詠さんは、何にする?ここのカルボナーラ、美味しいよ」 メニューを広げながら、天王寺先輩が優しい声で話しかけてくる。違う、先輩!あなたが話しかけるべきは、私ではなく、あなたの隣の隣にいる、氷の騎士です! 「わ、私は何でも!そ、それより、氷室くんは!氷室くんは何がお好みでしょうか、天王寺先輩!」 私は必死に、二人の会話のパスを繋ごうとする。しかし、私の焦りをよそに、当の氷室くんはメニューを静かに見つめるだけで、一言も発しようとしない。その沈黙が、私の罪悪感をさらに煽った。 「(ご、ごめんなさい氷室くん……!私が、私がもっと気の利くキューピッドだったら……!)」 注文を終え、料理が運ばれてきても、状況は変わらなかった。天王寺先輩は、私に学校のことやサークルのことを尋ねてくる。その度に、私は「氷室くんはどうなんですか!?」と無理やり話を振るが、氷室くんは「……別に」「……普通だ」と、単語で返すばかり。 気まずい。気まずすぎる。このままでは、せっかくの食事が、ただの気まずい会で終わってしまう。それは、絶対に避けなければならない。 私は、フォークとナイフをカチャリと置いた。覚悟を決める。 ―――こうなったら、私が、消えるしかない。 もちろん、物理的にではない。意識的に、だ。私がこの場にいないかのように、空気のように存在感を消せば、二人は私のことを気にせず、会話を始められるかもしれない。 「(そうだ、私がもっと縮こまれば……!私が透明になれば、二人の間には何もなくなる!)」 私はまず、椅子の上で限界まで体を小さく丸めてみた。しかし、これでは不十分だ。二人の視界から、完全に消えなければ意味がない。 次の瞬間、私は、自分でも信じられないような行動に出ていた。 テーブルの上、二人の視線が交差するであろう直線軌道上から、自分の頭をどかすために。私は、不自然なほどぐぐっと身を乗り出し、ほとんどテーブルに突っ伏すような姿勢になったのだ。 「……月詠さん?」 天王寺先輩の、困惑したような声が聞こえる。 「顔、サラダに付きそうだけど」 「お、お構いなく!どうぞ、続けてください!さあ、お二人で!語らってくださいまし!」 顔を上げられないまま、私はくぐもった声で必死に訴える。私の視界の端で、揺れるキャンドルの炎が、キラキラと輝いていた。 ◇ 結局、私のその奇行は、天王寺先輩が「ふふっ……っ、だめだ、面白い……」と肩を震わせながら笑い出し、しまいには「お願いだから、普通に座って?お腹痛い」と懇願してきたことで、強制的に終了させられた。 私は、彼にそんな苦しい思いをさせてしまったことに深く反省し、その後はできるだけ背筋を伸ばし、しかし決して二人の視線を遮らないよう、斜め45度の角度を保って食事を続けるという高度な技術を駆使した。 そんな私の涙ぐましい努力の甲斐あってか、食事の終盤には、二人の間に微かな、しかし確かな変化が見られたように思う。 天王寺先輩が「このティラミス、美味いな」と呟けば、氷室くんがこくりと頷く。 氷室くんが、ふと窓の外に視線をやれば、天王寺先輩も同じ方向を、優しい目で見つめる。 言葉は、ない。 だが、言葉がなくとも、二人の魂は確かに共鳴し始めていた。私が作り出したこの空間で、二人はお互いの存在を、その鼓動を、確かに感じ取っているのだ。 「(ああ……尊い……)」 私は、目の前の高級そうなティラミスを口に運びながら、感動で泣きそうになるのを必死に堪えた。この一口は、ただのデザートではない。二人の恋の始まりを祝う、祝福の味だ。 最高に後味の良い(と私だけが思っている)食事会は、こうして幕を閉じた。店を出ると、ひんやりとした夜風が火照った私の頬を撫でていく。街のネオンが、昼間とは違うしっとりとした光で世界を彩っていた。 「ごちそうさまでした!とっても、美味しかったです!」 私が深々と頭を下げると、天王寺先輩は「どういたしまして」と柔らかく笑う。その隣で、氷室くんは街の喧騒から逃れるように、少しだけ俯いていた。その儚げな横顔が、また私の腐女子心をくすぐる。 「さて、それじゃあ……」 天王寺先輩が、何かを言いかけた、その時だった。 私たちの間を、まるで運命の合図のように、夜風が強く吹き抜けた。私は思わず目を細め、彼は言葉を切る。 一瞬の、静寂。 その静寂を破ったのは、二つの声。私の左右から、全く同じタイミングで発せられた、二人の声だった。 「家まで送る」 「送っていく」 凛とした、天王寺先輩の声。 静かで、低い、氷室くんの声。 二つの声は、夜の空気の中で綺麗に重なり合い、そして、私の鼓膜を震わせた。 え?と顔を上げると、私の右隣に立つ天王寺先輩と、左隣に立つ氷室くんが、私を挟んで、お互いを真っ直ぐに見つめ合っていた。その瞳には、先ほどまでの和やかな雰囲気など微塵もない。 静かな、しかし燃えるような火花が、二人の間で散っているのが、私にさえ見えた。 ああ、そうか。 ―――これは、宣戦布告なのだ。 私というキューピッドを、どちらが自分の陣営の駒として、家に送り届けるか。 恋の主導権を懸けた、男たちの静かなる戦いが、今、始まったのである。瞼の裏が、じりじりと焦げ付くように熱い。 知らないはずの景色が、熱に浮かされた意識の暗闇で、閃光のように激しく明滅していた。 燃え盛る城、天を覆い尽くす黒い翼、そして空から降り注ぐ無数の漆黒の羽根。誰かの、胸を掻きむしるような悲痛な叫び声が、現実の音を遮断して耳の奥で木霊している。 ああ、知っている。これは、私がこの世の何よりも愛してやまないBLゲーム『Fallen Covenant』の、最も胸を締め付けられる悲劇のシーンだ。 そうだ。私は魔王なんかじゃない。私は、この物語の登場人物ですらない、ただの観測者。いつだって安全な場所から、神の視点から、彼らの過酷な運命を見守ることしかできなかったはずなのに……。 ハッとして、まるで溶けた鉛を塗りたくられたかのように重い瞼を、ありったけの力でこじ開けた。 ぐにゃり、と視界が歪む。見慣れたはずの自室の天井が、まるで水面のように不気味に揺らめいていた。喉がカラカラに渇いて、息を吸い込むたびにガラスの破片が突き刺さるような痛みが走る。 その朦朧とした視界の、すぐ間近に、誰かの顔が映り込んでいることに気づいた。 私の顔を、静かに、心配そうに覗き込んでいる。 光を吸い込むような、艶のあるサラサラの黒髪。その隙間から覗く、嵐の前の湖面のように静まり返った灰色の瞳。熱に浮かされた私の肌とは対照的な、血の気を感じさせないほど透き通るように白い肌。 その、現実感を失わせるほど人間離れした美しい姿が、私の魂に深く、深く刻み込まれた最愛のキャラクターの姿と、ぴたりと重なった。 追放された天使、アーク。 神に背き、魔王ジークフリートにその魂と身体を捧げた、哀れで、気高くて、そしてどうしようもなく美しい私の最推し。 いつもどこか世界を拒絶するような悲しみをその瞳に湛え、誰にも心を開かず、ただ一人、主君であるジークフリートだけをその灰色の瞳に映している、健気で愚かな天使。 目の前にいるのは、氷室奏。わかってる。熱で機能不全に陥った脳の、片隅に残った冷静な回路が必死に警鐘を鳴らしている。わかっているのに、心が、魂が、言うこと
どうやって自分のアパートまで辿り着いたのか、記憶はひどく曖昧だ。 医務室で意識を取り戻したものの、熱は一向に下がる気配を見せず、身体はぐったりとベッドに沈んだまま。結局、見かねた乃亜がタクシーを呼んでくれて、私を家まで送り返してくれることになった。 そこまでは、よかったのだ。 問題は、乃亜が「あんたたち、原因作ったんだから一人くらい責任持って手伝いなさいよ」と釘を刺したことだった。その一言が、新たな戦争の火種となった。「当然、俺が行く」「いや、僕が送る」「俺が付き添います!」 三者三様の、しかし決して譲らないという固い意志のこもった声。結局、誰か一人に絞ることなどできるはずもなく、乃亜は早々に交渉を諦めた。「……もう知らない。全員で来れば」と吐き捨てた親友の顔は、般若のように見えた。 そんなわけで、タクシーの後部座席で、私は三人のイケメンにサンドイッチにされるという、状況さえ違えば天国のような地獄を味わうことになった。右隣の天王寺先輩から感じる高い体温と、仄かに香る上品なコロン。左隣の氷室くんの、触れているわけでもないのに伝わってくる、ひんやりとした静謐な空気。そして、助手席から何度も振り返って「先輩、大丈夫ですか!?」と心配そうに声をかけてくる七瀬くん。 熱で朦朧とする頭で、私はぼんやりと思う。 乙女ゲームなら、ここはスチルが発生する重要イベントのはずだ。ヒロインが熱に倒れ、誰か一人のヒーローが献身的に看病し、二人の距離がぐっと縮まる……。 なのに、どうして私の現実は、三人の男たちの無言の圧力が渦巻く、息苦しい空間になっているんだろう。◇ アパートに着くと、鍵を開けた乃亜が呆れたように言った。「はい、あんたたち、さっさと必要なもの買っておいで。栞の看病に必要なもの。誰が一番役に立つか、ここで決めなさいよ」 その言葉は、まるで闘牛士が赤い布を振ったかのようだった。三人は一瞬顔を見合わせ、火花を散らすと三者三様の方向へと駆け出していった。 数分後。私の狭いワンルームに、三人の騎士がそれぞれの武器を手に帰還した
目の前が、ぐにゃりと歪んだ。さっきまで見ていた大学の廊下のありふれた景色が、水に落とした絵の具のように滲んで溶けていく。「……あれ?」 おかしい。なんだか自分の身体が自分のものではないみたいに、ふわふわと浮いている感覚。周りの学生たちの声がやけに遠い。すぐ隣を通り過ぎていくはずの雑談も、分厚いガラスを一枚隔てた向こう側から聞こえてくるようだ。 ――ヤバい。 そう思った瞬間、足から力が抜けた。視界が急速に暗転していく。最後に聞こえたのは、誰かの短い悲鳴と、自分の名前を呼ぶ親友の切羽詰まった声だった。◇「――だから! 俺が付き添うって言ってるだろ!」「……どうして君である必要がある。最も長く彼女の側にいたのは僕だ」「はぁ!? 一番心配してるのは俺なんですけど! 先輩たちは黙っててください!」 誰かの声がする。 低く、苛立ちを隠そうともしない声。 静かだが、有無を言わせない強い意志を感じさせる声。 少し高く、焦りと必死さが滲んでいる声。 頭に響くその声が、ひどく不快だ。まるで質の悪いスピーカーで三つの曲を同時に流されているみたいだ。今はただ、この身体を包む柔らかいシーツの感触と、消毒液の微かな匂いだけに意識を委ねていたかった。 私が廊下で倒れたらしいという事実を、まだ夢うつつの中でしか認識できていない。 乃亜からの連絡を受けた天王寺先輩が講義を抜け出して駆けつけ、ほぼ同時に、図書館で私を探していたらしい氷室くんも異変を察知して現れた。そして、たまたま大学に来ていた七瀬くんが、騒ぎを聞きつけて飛んできたのだという。 ――そんな都合のいいこと、ある? まるで、出来の悪い乙女ゲームの強制イベントみたいだ。もちろん、そんなことになっているとは、意識の途切れた私には知る由もなかったけれど。 三人が医務室に殺到したのは、ほぼ同時だったらしい。白いカーテンで仕切られた簡素なベッドで眠る私の姿を認めた瞬間、彼らの間に走った緊張感は、火花が散るようだったと、後から乃亜が呆れ顔で教えてくれた。
世界が、ぼんやりと霞んで見える。 意識と現実の境界線が曖昧で、まるで水の中にいるみたいに、耳に届くすべての音がくぐもって聞こえた。 原因は、分かっている。睡眠不足だ。 グループ課題のレポート作成、カフェの新人教育(という名の陽翔くんの恋の応援)、そして、何よりも優先すべき、我が魂の結晶である同人誌原稿の締切。この三つが、私の貧弱なキャパシティの上で、無慈悲なデッドライン・ダンスを踊っていた。「……ジーク……アーク……待ってて、今、最高の、シチュエーションを……うへへ……」 大学の講義中も、私は机に突っ伏し、意識の半分を『Fallen Covenant』の世界に飛ばしていた。時折、自分の口から漏れる不気味な笑い声で我に返るが、数分もすれば、また強烈な睡魔と妄想の波に飲み込まれていく。 周りの学生が、私を「いよいよヤバい奴」という目で見ているのは知っていた。だが、どうでもいい。私には、成し遂げなければならない使命があるのだから。 そんな、ゾンビのようにキャンパスを徘徊していたある日の放課後。グループ課題の簡単な打ち合わせを終え、よろよろと席を立とうとした私を、天王寺先輩が呼び止めた。「月詠さん。ちょっと、いいかな」「ひゃい!?あ、あの、なんでしょうか、先輩!」 突然の王子様の声に、私の脳が無理やり再起動する。ぼやけた視界に、相変わらずキラキラとした、完璧な笑顔が映った。彼は、少しだけ困ったように眉を下げると、すっと一本の小さな瓶を差し出してきた。 金色の、高級そうなラベルが貼られた、栄養ドリンクだった。「……これ。最近、すごく顔色悪いみたいだから。無理、してない?」 心配そうに、私の顔を覗き込む、甘い声。 私の心臓が、きゅっと奇妙な音を立てた。いかん、いかん。これは、私への優しさではない。 私の脳内BLフィルターが、ガコン、と音を立てて作動する。
しぃん、と静まり返った図書館。ここは、私の聖域の一つだ。普段なら、この古い紙の匂いと、ページをめくる微かな音だけに包まれて、心ゆくまで妄想(という名の創作活動)に没頭できる場所。 だけど、今日だけは事情が違った。 私の左右には、この静寂とはあまりにも不釣り合いな、二つの輝かしいオーラが存在している。右に、学園の太陽・天王寺先輩。左に、氷の騎士・氷室くん。 私たちは、あの地獄の(私にとっては天国だった)グループ課題のための資料を探しに、こうして連れ立って図書館に来ていた。 乃亜には「乙女ゲーの主人公になってる自覚持て」と本気でキレられたけれど、彼女は何もわかっていない。私が今感じているこの高揚感は、決して恋愛のそれではない。これは、公式から「推しカプの共同作業」という、最大手の供給を与えられた、一介の腐女子としての歓喜なのだ。「コミュニケーション論の棚は、あっちだね」 天王寺先輩が、私にも聞こえるように、少しだけ声を潜めて囁く。その低く甘い声が、静かな空間でやけに響いて、耳がくすぐったい。いやいや、違う。これは私への配慮ではなく、その隣の氷室くんへ「こっちだよ」と伝えるための優しさだ。「……ああ」 氷室くんが短く応じる。ああ、尊い。会話が成立している。 私は、二人の崇高な空間を邪魔しないよう、カニ歩きのように横移動しながら、必死に背表紙を追う。あのファミレスでの一件以来、二人の間には(私の脳内では)確かな絆が芽生え始めていた。私がやるべきことは、二人が次のステップに進むための、触媒(カタリスト)になることだけ。「あ、あれかも」 私が探していたのは、社会心理学の権威が書いた、分厚い専門書。それは、運悪く書架の一番上の棚に鎮座していた。 私は自分の身長を呪った。150cmちょっとの私では、どう頑張っても手が届かない。「うぅ……」 ぴょんぴょんと、その場で軽くジャンプしてみるが、指先がかすりもしない。近くに脚立(きゃたつ)も見当たらない。 どうしよう。二人に頼む?いや、だめだ。今、二人は二人で、何か目に見えないオーラ(たぶん恋の駆け引き)を交換している最中。私が「取ってください」なんて言ったら、その神聖な儀式を妨害してしまう。 私はもう一度、ぐっと背伸びをした。かかとを限界まで上げ、腕を、これ以上ないというくらい伸ばす。指先が、あと、ほん
そうして私たちが流れ着いたのは、大学の門を出てすぐの、ごく普通のファミリーレストランだった。ガヤガヤとした店内の雰囲気は、先ほどのカフェテリアとはまた違う騒がしさがある。 席に着くなり、天王寺先輩は「さて」と楽しそうにメニューを広げた。「俺、お腹空いちゃったな。月詠さんは?あ、そうだ、ドリンクバー頼むよね?」「は、はい!もちろんです!」「じゃあ、俺、先になんか取ってくるよ。何がいい?」 彼が、私に天使の笑顔を向ける。違う、先輩!あなたが聞くべきは、私じゃなくて!「わ、私は後で……!そ、それより、氷室くんは!氷室くんは何が飲みたい気分ですか!?」 私が、必死の形相でパスを出す。 すると、氷室くんは私と天王寺先輩の顔を交互に一度だけ見ると、静かに、しかしはっきりと立ち上がった。「……僕が行こう」「え?」「君は、座ってていい」 そう言って、彼は私の分のコップまで手に取ろうとする。 その瞬間、それまで笑顔だった天王寺先輩の空気が、すっと変わった。「いや、いいよ氷室くん。俺が行くって言ったんだから。君こそ座ってて」「……君は、テーマの骨子をまとめておいてくれ。飲み物は、僕がやる」「その必要はないよ。俺がやるから」「……僕が、やると言っている」 ばち、ばち、ばち。 テーブルを挟んで、私の目の前で、見えない火花が激しく散っている。二人の視線が、ドリンクバーのコップを巡って、鋭く交差する。 始まったわ、二人の痴話喧嘩!「(氷室くんに格好いいところを見せたいから)俺が飲み物を持ってくる!」「(天王寺先輩の手を煩わせたくないから)いや、僕がやる!」という、お互いへのアピール合戦! 私への親切を口実にした、高度なイチャイチャ……! 尊い……!尊すぎる……!ファミレスのど真ん中で、こんな神々しいやり取りを見られるなんて……! だが、このままでは、二人の戦いが終わらない。そして、私は、二人の共同作業を、何よりも見たいのだ。「あ、あの!」 私は、意を決して、二人の間に割って入った。「せっかくですし、お二人で、行ってきてはいかがでしょうか!?私は、ここで、おとなしく、二人の愛の巣(テーブル)を守っておりますので!」 私の完璧な提案に、二人はぴたりと動きを止めた。そして、同時に私を見ると、何とも言えない、複雑な表情を浮かべる。「……月詠さ