Masuk「君の話なら、聞こう」
その言葉は、私の心に深く、そして都合よく刻み込まれた。 氷の騎士、氷室奏は、私の話を聞いてくれると言ったのだ。つまり、天王寺輝との恋物語の幕開けを、彼は静かに、しかし確かに受け入れたのである。ああ、なんて尊い展開だろう。クールな彼が、勇気を出して一歩踏み出したのだ。その歴史的瞬間に立ち会えたという感動で、私は図書館からの帰り道、ずっと頬の緩みを抑えることができなかった。 もちろん、彼を食事会に誘うのは、思ったよりも骨が折れた。私が「実は明日、天王寺先輩と食事をするんですが、ご一緒にどうですか」と切り出すと、彼は一瞬、本当にほんの一瞬だけ、眉間に皺を寄せたように見えた。 だが、それはきっと、照れ隠しだ。私の脳内BLフィルターは、彼の僅かな表情の変化を「素直になれないツンデレの典型的な反応」と瞬時に翻訳した。 「……なぜ、俺が」 「ええっと、それは……天王寺先輩が、きっとその方が、楽しいかなって……」 「君は、どうなんだ」 「え?私ですか?私はもちろん、お二人が揃ってくださった方が、百万倍楽しいです!」 私が満面の笑みでそう答えると、彼は何かを諦めたように小さく息を吐き、「……わかった」とだけ呟いた。 快諾である。完璧な流れだ。 そして翌日。私は、人生で初めて訪れるような、お洒落なイタリアンレストランの前に立っていた。待ち合わせの時間ぴったりに現れた天王寺先輩は、私服姿もまた完璧だった。シンプルな白いシャツに黒いパンツという出で立ちなのに、彼が着ているというだけで、それが世界最高級のブランド品に見える。 「やあ、月詠さん。待った?」 爽やかな笑顔に、私の心臓がまたしても無駄に跳ねる。いかんいかん、この人は私の攻略対象ではない。彼は、彼の隣に立つべき人のものなのだ。 「いえ!全然待ってません!それから、先輩、見てください!」 私は、自分の手柄を披露する子供のように、得意満面で自分の背後を指し示した。そこには、約束通り、少しだけ気まずそうな顔で佇む氷室くんの姿がある。彼は、モノトーンを基調とした、飾り気のない服装。それがまた、彼のミステリアスな雰囲気を際立たせていた。 「じゃーん!サプライズです!氷室くんも誘っちゃいました!」 えへへ、と私が笑いかけると、天王寺先輩は一瞬、本当に一瞬だけ、その完璧な笑顔の裏で驚きに目を見開いた。だが、それも束の間。彼はすぐにいつもの王子様スマイルに戻ると、私の頭に、ぽん、と大きな手を置いた。 「そっか。月詠さんが楽しいなら、それが一番だよ」 頭を優しく撫でられるという、少女漫画の王道シチュエーション。だが、私の脳内では、それは全く別の意味を持っていた。 「(……よくやった、月詠。これで、氷室くんと自然に話せるきっかけができたじゃないか)」 そう、これは私への労い。彼の恋のキューピッドである私への、感謝の頭ポンポンなのだ。 「はい!頑張りました!」 私が胸を張ると、天王寺先輩は楽しそうに笑い、氷室くんに視線を移した。 「氷室くん、だよね。来てくれてありがとう」 「……別に」 そっぽを向いて短く答える氷室くん。ああ、もう!ツンデレ!可愛すぎる! 私は、目の前で繰り広げられる光と影の邂逅に、一人で胸を熱くしていた。二人のために頑張る私、超健気じゃない?この恋、私が絶対に成就させてみせる。自己満足という名の幸福感に浸りながら、私は意気揚々とレストランの扉を開いたのだった。◇
予約されていたのは、窓際の景色の良いテーブルだった。柔らかな間接照明が店内を照らし、テーブルの中央に置かれた小さなキャンドルの炎が、上品に揺れている。明らかに、私のような人間が普段利用するファミレスとは、世界の階層が違った。
席に着く段になって、私は重大なミスを犯していることに気づく。 案内されたのは、窓に沿った長いベンチ席と、向かいの椅子席。天王寺先輩と氷室くんが、ごく自然に、私の両隣の席に座ったのだ。向かい側は空いたまま、窓を背にして私だけが二人の間に挟まれている。店員さんが一度だけ椅子に目をやったけれど、誰も移ろうとはしなかった。 「(しまったああああ!)」 内心、私は頭を抱えて絶叫した。 やらかした。完全に、やらかしてしまった。これでは、二人がお互いの顔を見ながら話せないではないか。私が、物理的な「壁」となって、彼らの恋路を邪魔している!なんてことだ。キューピッド失格だ。 「月詠さんは、何にする?ここのカルボナーラ、美味しいよ」 メニューを広げながら、天王寺先輩が優しい声で話しかけてくる。違う、先輩!あなたが話しかけるべきは、私ではなく、あなたの隣の隣にいる、氷の騎士です! 「わ、私は何でも!そ、それより、氷室くんは!氷室くんは何がお好みでしょうか、天王寺先輩!」 私は必死に、二人の会話のパスを繋ごうとする。しかし、私の焦りをよそに、当の氷室くんはメニューを静かに見つめるだけで、一言も発しようとしない。その沈黙が、私の罪悪感をさらに煽った。 「(ご、ごめんなさい氷室くん……!私が、私がもっと気の利くキューピッドだったら……!)」 注文を終え、料理が運ばれてきても、状況は変わらなかった。天王寺先輩は、私に学校のことやサークルのことを尋ねてくる。その度に、私は「氷室くんはどうなんですか!?」と無理やり話を振るが、氷室くんは「……別に」「……普通だ」と、単語で返すばかり。 気まずい。気まずすぎる。このままでは、せっかくの食事が、ただの気まずい会で終わってしまう。それは、絶対に避けなければならない。 私は、フォークとナイフをカチャリと置いた。覚悟を決める。 ――――こうなったら、私が、消えるしかない。 もちろん、物理的にではない。意識的に、だ。私がこの場にいないかのように、空気のように存在感を消せば、二人は私のことを気にせず、会話を始められるかもしれない。 「(そうだ、私がもっと縮こまれば……!私が透明になれば、二人の間には何もなくなる!)」 私はまず、椅子の上で限界まで体を小さく丸めてみた。しかし、これでは不十分だ。二人の視界から、完全に消えなければ意味がない。 次の瞬間、私は、自分でも信じられないような行動に出ていた。 テーブルの上、二人の視線が交差するであろう直線軌道上から、自分の頭をどかすために。私は、不自然なほどぐぐっと身を乗り出し、ほとんどテーブルに突っ伏すような姿勢になったのだ。 「……月詠さん?」 天王寺先輩の、困惑したような声が聞こえる。 「顔、サラダに付きそうだけど」 「お、お構いなく!どうぞ、続けてください!さあ、お二人で!語らってくださいまし!」 顔を上げられないまま、私はくぐもった声で必死に訴える。私の視界の端で、揺れるキャンドルの炎が、キラキラと輝いていた。◇
結局、私のその奇行は、天王寺先輩が「ふふっ……っ、だめだ、面白い……」と肩を震わせながら笑い出し、しまいには「お願いだから、普通に座って?お腹痛い」と懇願してきたことで、強制的に終了させられた。
私は、彼にそんな苦しい思いをさせてしまったことに深く反省し、その後はできるだけ背筋を伸ばし、しかし決して二人の視線を遮らないよう、斜め45度の角度を保って食事を続けるという高度な技術を駆使した。 そんな私の涙ぐましい努力の甲斐あってか、食事の終盤には、二人の間に微かな、しかし確かな変化が見られたように思う。 天王寺先輩が「このティラミス、美味いな」と呟けば、氷室くんがこくりと頷く。 氷室くんが、ふと窓の外に視線をやれば、天王寺先輩も同じ方向を、優しい目で見つめる。 言葉は、ない。 だが、言葉がなくとも、二人の魂は確かに共鳴し始めていた。私が作り出したこの空間で、二人はお互いの存在を、その鼓動を、確かに感じ取っているのだ。 「(ああ……尊い……)」 私は、目の前の高級そうなティラミスを口に運びながら、感動で泣きそうになるのを必死に堪えた。この一口は、ただのデザートではない。二人の恋の始まりを祝う、祝福の味だ。 最高に後味の良い(と私だけが思っている)食事会は、こうして幕を閉じた。店を出ると、ひんやりとした夜風が火照った私の頬を撫でていく。街のネオンが、昼間とは違うしっとりとした光で世界を彩っていた。 「ごちそうさまでした!とっても、美味しかったです!」 私が深々と頭を下げると、天王寺先輩は「どういたしまして」と柔らかく笑う。その隣で、氷室くんは街の喧騒から逃れるように、少しだけ俯いていた。その儚げな横顔が、また私の腐女子心をくすぐる。 「さて、それじゃあ……」 天王寺先輩が、何かを言いかけた、その時だった。 私たちの間を、まるで運命の合図のように、夜風が強く吹き抜けた。私は思わず目を細め、彼は言葉を切る。 一瞬の、静寂。 その静寂を破ったのは、二つの声。私の左右から、全く同じタイミングで発せられた、二人の声だった。 「家まで送る」 「送っていく」 凛とした、天王寺先輩の声。 静かで、低い、氷室くんの声。 二つの声は、夜の空気の中で綺麗に重なり合い、そして、私の鼓膜を震わせた。 え?と顔を上げると、私の右隣に立つ天王寺先輩と、左隣に立つ氷室くんが、私を挟んで、お互いを真っ直ぐに見つめ合っていた。その瞳には、先ほどまでの和やかな雰囲気など微塵もない。 静かな、しかし燃えるような火花が、二人の間で散っているのが、私にさえ見えた。 ああ、そうか。 ――――これは、宣戦布告なのだ。 私というキューピッドを、どちらが自分の陣営の駒として、家に送り届けるか。 恋の主導権を懸けた、男たちの静かなる戦いが、今、始まったのである。(……感動してくれてるんだ。嬉しいな) そう思った瞬間だった。 私の脳内で、長らく休眠状態にあった『腐女子フィルター』が、カチリと音を立てて誤作動を起こした。 世界が、歪む。 待って。 あの涙の意味は、本当に純粋な「祝福」だけなのだろうか? 奏くんが、輝くんを見る目。 どこか悔しげで、それでいて相手の実力を認めざるを得ないといった、複雑で熱っぽい感情が入り混じった眼差し。 陽翔くんが、輝くんを見る目。 「先を越された」という男としての敗北感と、それでも「あいつなら任せられる」という友情、そして断ち切れない切なさが同居した濡れた瞳。 そして、輝くんが二人に向けて送った、勝ち誇ったような、けれど揺るぎない信頼に満ちたアイコンタクト。 (……はッ!!) 脳天に電撃が走った。 もしかして。 もしかして、これは『ライバル×輝』の……。 そこまで考えて、私は唇を噛んだ。違う違う。今、自分の結婚式ですから。披露宴の席順で相関図を作っている場合じゃありません。 奏くんも陽翔くんも、私に気持ちを伝えてくれた。その言葉を、都合のいい筋書きに書き換えたくはなかった。 目が合った奏くんに、小さく頭を下げる。陽翔くんは泣いたまま、くしゃくしゃの笑顔で手を振ってくれた。 「……し、栞?」 隣で輝くんが、不審そうに私の顔を覗き込んだ。 奏くんと陽翔くんを見ていた時間が、思ったより長かったらしい。私は慌てて、隣に立つ彼へ向き直った。 「……ううん。なんでもない」 輝くんはまだ少し疑わしそうだ。分かってます。その顔をされても仕方ない人生でした。 私は言い訳を探すのをやめ、自分から彼の手を取った。 「輝くん。私、今、すごく幸せ」 彼の目が、ふっと和らぐ。それを見たら堪らなくなって、背伸びをして頬に口づけた。すぐ近くから歓声が上がり、そこでようやく会場中に見られていることを思い出す。 「あ、いや、今のは……!」 「取り消しはなし」 輝くんが笑い、私の腰を引き寄せる。今度は目を逸らさずに、その顔が近づくのを待った。 カラン、カラン、と祝福の鐘が高らかに鳴り響く。 青空に吸い込まれていくフラワーシャワーの中で、私は輝くんの腕の中にしっかりと抱きしめられていた。その体温が、私を確かな幸福の中心に繋ぎ止
父の手から輝くんの手へ、私の手が託される。 触れた輝くんの手は、大きくて、温かくて、そして少しだけ震えていた。 「……待ってたよ、栞」 彼が誰にも聞こえないほどの小声で囁く。 その声の響きに導かれるように、私は彼の隣に並んだ。 牧師様の言葉が続き、私たちは誓いの言葉を交わす。 指輪の交換。 私の左手の薬指に、ひやりとした金属の感触と共に、永遠の約束が滑り込んでくる。 そして。 「それでは、誓いのキスを」 牧師様の言葉を合図に、輝くんがそっとベールを上げる。 隔てるものがなくなり、至近距離で見つめ合う。 彼の瞳の中に、緊張で強張った私の顔が映っている。 「……愛してる」 唇が触れ合う直前、彼が音のない言葉でそう言ったのが分かった。 私も、心の中で答える。 私も、愛してる。世界で一番。 チュッ、と柔らかい音がして、唇が離れる。 その瞬間、会場中から割れんばかりの拍手が巻き起こった。 私たちは皆の方へと向き直る。 色とりどりの花びらが舞うフラワーシャワーの中、たくさんの笑顔が私たちに向けられていた。 最前列には、見慣れた、そして大好きな顔ぶれが揃っている。 まずは、氷室奏くん。 彼は今、売れっ子のゲームシナリオライターとして第一線で活躍している。私と同じ会社に所属し、時には喧嘩し、時には背中を預け合いながら、一緒にゲームを作り上げている戦友だ。 今日の彼は、隙のない礼服姿で、眼鏡の奥の瞳を和やかに細めてこちらを見ていた。その表情はどこまでも穏やかで、まるで手のかかる弟と妹の晴れ姿を見守る兄のようだ。 その隣には、七瀬陽翔くん。 彼は大学卒業後、厳しい修行期間を経て、念願だった自分のカフェをオープンさせた。今では雑誌やSNSに取り上げられるほどの人気店のオーナーだ。 相変わらずの人懐っこい笑顔で、大きく手を振ってくれている。「先輩、おめでとう!」という口の動きが見えた。 そして、乃亜の隣には……まさかの人物。 西園寺エリカ様だ。 彼女はあれから、持ち前の驚異的なバイタリティと深いオタク知識を武器に、なんとイベント運営会社の社長になっていた。 今日の彼女は、いつもの真紅のドレスではなく、上品なシャンパンゴールドのドレスを身に纏い、扇子で口元を隠しながら優雅に
そして今日、私たちは誓いを立てる。 多くの人に見守られ、祝福されながら、これからの人生を共に歩んでいく約束を。 コンコン、と厚い扉越しに控えめなノックの音が響いた。 「失礼いたします。……新婦様、そろそろお時間です」 式場スタッフのよく通る声に、心臓が跳ね上がる。 いよいよだ。 「よし。行ってきなさい、栞」 乃亜が私の背中をバン、と景気よく叩いた。 少し痛いくらいのその衝撃に、竦みかけていた足に力が戻る。私は肺いっぱいに空気を吸い込み、深く吐き出した。 「うん。……行ってきます!」 ずしりと重いドレスの裾を爪先で蹴り上げ、私は控室の扉を押し開けた。◇ チャペルの大きな扉の前。 父の腕に手を添えながら、私は震えそうになる膝を必死に叱咤していた。 この扉の向こうには、たくさんのゲストたちが待っている。 大学時代の友人たち、会社の同僚、輝くんの仕事関係の方々。 そして何より、私たちがここに辿り着くまでの道のりを、時に厳しく、時に温かく見守ってくれた、かけがえのない仲間たち。 「栞。……綺麗だぞ」 隣で父が、少し湿っぽい声で囁く。 普段は無口で不器用な父の、絞り出すような言葉。危うく涙腺が緩みそうになり、私はぐっと奥歯を噛み締めて堪えた。 今泣いたら、時間をかけて作ってもらったメイクが台無しになってしまう。輝くんに、一番綺麗な私を見てもらいたいから。 厳かなパイプオルガンの音色が、高い天井に響き渡る。 重厚な扉が、ゆっくりと左右に開かれていく。 溢れ出すまばゆい光。 そして、視界いっぱいに飛び込んでくる、祝福の拍手と温かな笑顔の海。 まっすぐに伸びるバージンロードの先、祭壇の前で待っているのは、白のタキシードに身を包んだ私の最愛の人。 天王寺輝。 彼と目が合った瞬間、周りの景色からふっと色が抜け落ちたような気がした。 彼だけが、鮮やかに、圧倒的な存在感を持ってそこに立っている。 (……かっこいい) 付き合い始めてもう何年も経つのに、未だに彼の姿を見るたびに胸が高鳴ってしまう自分がおかしい。 今日の彼は、いつにも増して「王子様」だった。 仕立ての良いタキシードを完璧に着こなし、綺麗に整えられた茶色の髪が光を弾いている。そして何より、私を見つめるその瞳。蕩けるよ
あれから、いくつもの季節が巡った。 窓の外には、目に痛いほどの新緑が広がっている。初夏の陽気を含んだ風が、木々の葉を揺らす音が聞こえてくるようだ。 雲ひとつない突き抜けるような青空の下。 私は今、人生で一番高いヒールの上に危なっかしく立ち、人生で一番重たい布の塊に全身を包まれて、人生で一番強張った顔で鏡と睨めっこをしていた。 「……うぅ、苦しい。ねえ乃亜、これちょっとコルセット締めすぎじゃない?」 「何言ってんの。一生に一度の晴れ舞台でしょ? 内臓の位置なんて気にしてる場合じゃないって」 私の背後で、親友の神崎乃亜がテキパキとドレスの裾をさばいている。 今日の彼女はブライズメイドとして、淡いレモンイエローのドレスを身に纏っていた。相変わらずの切れ長で美しい瞳と、凛とした立ち振る舞い。主役の私の方が霞んでしまいそうなほどの美人っぷりだ。 「ほら、できた。……うん、悪くない」 乃亜が満足げに頷き、私の背中を鏡の方へとぐいと押した。 そこに映っていたのは、純白のウェディングドレスに身を包んだ、見知らぬ誰かのような自分の姿。 繊細なレースが鎖骨のラインを縁取るオフショルダー。ふわりと空気を含んで広がるAラインのスカートには、無数の小花が散りばめられ、動くたびにさざ波のように揺れる。プロの手によって丁寧に編み込まれた髪の上には、照明を受けてキラキラと瞬くティアラが鎮座していた。 「……私、本当にお嫁に行くんだね」 鏡の中の自分と目を合わせ、ぽつりと漏らす。 なんだか、足元がふわふわとして実感が湧かない。まるで、スクリーンの向こう側で繰り広げられる物語を、客席から眺めているような不思議な浮遊感がある。 「何寝ぼけたこと言ってんのよ。ここまで来て夢オチでしたなんて言ったら、私が許さないからね」 乃亜が呆れたように笑い、私の肩にぽんと手を置いた。 その掌から伝わる確かな体温と重みに、ようやく少しだけ、ここが現実なのだという感覚が戻ってくる。 そう。今日は、私の結婚式だ。 机を紙で埋め、送信ボタンの前で固まっていた日が、今も時々夢に出てくる。二次募集で内定をもらった『株式会社アルカディア・ワークス』で、私は今、プランナーとして走り回っている。好きだけでは済まないことばかりだけれど、会議に出す企画書の最初の読者は、相変
「え? うん、いいけど……」 三人は私から少し離れた、広場の片隅へと歩いていく。 夕陽を背にして立つ三つのシルエット。 何か重要な話をしているようだけれど、ここからでは風に流されて声は聞こえない。 胸騒ぎがする。 でも、不思議と不安はなかった。 彼らの背中から漂う空気が、決して険悪なものではないと分かっていたからだ。 しばらくして、話が終わったのか、三人がこちらへ戻ってきた。 その表情は、どこか吹っ切れたような、清々しいものだった。 「……終わったよ、栞」 輝くんが戻ってきて、再び私の手を取る。 「何の話だったの?」 「ん? ……男同士の、秘密の話」 彼は悪戯っぽく笑って、教えてくれなかった。 奏くんと陽翔くんを見ると、二人は何かを納得したように、満足げな顔でこちらを見ていた。 「……月詠。俺は先に行く」 奏くんが、私に近づいてくる。 そして、そっと手を差し出した。 「え?」 「握手だ。……今日の記念に」 戸惑いながらも手を出すと、彼は私の手をギュッと強く握りしめた。 その手は意外なほど熱く、そして優しかった。 「……幸せになれよ」 ボソッと呟かれた言葉に、目頭が熱くなる。 「奏くん……」 「それと、天王寺」 奏くんが輝くんへ向き直った。 「式の日取りが決まったら、早めに知らせろ。仕事を空ける」 「……ああ」 「さっきも言ったが、知らせるのは月詠任せにするなよ」 輝くんが頷いた。その顔を見届け、奏くんは鞄を肩に掛け直した。 「じゃあな」 奏くんはひらりと手を振り、雑踏の中へと消えていった。 「俺も帰ります!」 陽翔くんが元気よく手を挙げる。 「先輩! またバイトで!」 「うん、お疲れ様!」 「あ、輝先輩。……約束、忘れないでくださいね」 陽翔くんが意味深な言葉を残し、輝くんに拳を突き出す。 輝くんも拳を合わせ、コツンとぶつけ合った。 「ああ。分かってる」 陽翔くんもまた、笑顔で去っていった。 二人を見送った後、私は輝くんを見上げた。 「……ねえ、本当に何の話だったの?」 「内緒」 輝くんは人差し指を唇に当て、ウィンクする。 「式の話をされた。……あいつら、来てくれるって」 「え……」 「ちゃんと招待状、送ろうな。……二人で
会場の外へ出ると、空は茜色に染まっていた。冷たい風が頬に触れ、ようやく自分がどれだけ泣いたか分かる。 入口から少し離れた場所で輝くんが手を挙げた。隣には奏くんと陽翔くんもいる。私はエリカ様とそちらへ向かい、まず輝くんの前で足を止めた。 「一緒に来てくれて、ありがとう」 彼は一瞬驚き、それから笑った。 「うん。楽しそうだったね、栞」 差し出されたハンカチを受け取ると、私の手ごとそっと握られた。 「物語もよかったけど。あとで栞が何を話すか、そっちが楽しみだった」 また泣きそうになってしまう。舞台の二人に感動した気持ちを、この人に話したくてたまらなかったことまで、見抜かれた気がした。 「……長くなるよ?」 「知ってる」 後ろから陽翔くんがティッシュを差し出す。 「先輩、まず鼻。話す前にそっちです」 「う、うるさいっ。これは感動の涙なの!」 笑いながら受け取ると、奏くんが静かに眼鏡をかけ直していた。その目元も少し赤い。からかう気にはなれず、私は何も言わずにティッシュの袋を差し出した。 「ふぅ……。魂が浄化されましたわ」 エリカ様が、満足げに溜息をつく。 その顔は憑き物が落ちたように晴れやかで、いつもの棘々しさが嘘のようだ。 「ええ。……最高のイベントでした」 奏くんも頷き、受け取ったティッシュをそっとポケットへ収めた。 「また、イベントがあったらご一緒しましょうね、同志よ」 答えようとした時、彼女が扇子を閉じた。 「その前に。……あなたに、謝らなくてはならないことがありますわ」 急に改まった声に、私も背筋を伸ばした。 「あの日、召使いだの、平民だのと。知らない方を、あんなふうに呼ぶべきではありませんでした」 彼女は私を見ていた。言葉を急いで継ぎ足すことも、笑い話にすることもなかった。 あの日の痛みが少し戻った。それでも、今日、隣で同じ台詞に泣いた人の顔を、私はもう知っている。 「……嫌でした。あれは」 「ええ」 「でも、今日は楽しかったです。また、一緒に見たいと思いました」 エリカ様が小さく息を吐いた。扇子を持つ手が、胸元から下りる。 「……では、次の抽選も、二人で申し込みましょう」 私とエリカ様は、固い握手を交わした。 かつての恋敵が、今や最強のオタク仲間。 人生、何が起
もしかして、私を元気づけるために、慣れない場所をわざわざ選んでくれたのだろうか。「どれがいい」 彼はコートの袖をまくり上げ、真剣な眼差しでクレーンゲームの筐体を睨みつけた。その横顔は、難解な論文を読解する時と同じくらい鋭い。「え、いや、悪いよ……」「遠慮するな。……今日は俺がエスコートすると言ったはずだ」 有無を言わせぬ圧力。 私はおずおずと、端の台に入っていた、ぶさかわいい白い猫のぬいぐるみを指差した。「じゃあ……あの
「……最低だ」 自分の性格のねじ曲がり具合に、吐き気がこみ上げてくる。 私は、こんなに醜い人間だったのか。 輝くんや奏くん、陽翔くんが向けてくれた「好き」という純粋な感情に、今の私は到底見合わない。 気づけば、私は繁華街を抜け、ひと気のない公園のベンチに座り込んでいた。 枯れ木が寒々しく枝を伸ばし、冷たい風がヒュウヒュウと音を立てて足元を吹き抜けていく。手袋をしてこなかった指先がかじかんで、感覚がなくなっていく。 でも、その痛みがむしろ心地よかった。身体が痛むことで、心の痛みを少しだけ誤魔
輝くんは、前に進んでいる。 天王寺家という巨大な後ろ盾を失い、ゼロから、いやマイナスからのスタートだったにも関わらず、彼は自分の腕一本で道を切り拓き、着実に結果を手繰り寄せている。 ニュース画面越しに見る彼は、自信に満ちていて、直視できないほどに眩しい。 それに比べて、私はどうだ。 彼に守られ、支えられ、甘やかされながら、何一つとして結果を出せていない。「隣にいても恥ずかしくない自分になる」なんて大見得を切ったくせに、現実はこのザマだ。(……惨めだなぁ) 自分が、道端に転がる
世界からふいに色が剥がれ落ちていく感覚を、私はこの時初めて知ったような気がする。 一月の朝のことだった。 カーテンの隙間から、冬特有の鋭利で白い光が差し込んでいる。暖房の風が唸り声を上げているのに、部屋の空気はちっとも温まらない。私は部屋の隅で、スマートフォンを握りしめたまま、まるで石像になったみたいに動けなくなっていた。 液晶画面に浮かんでいるのは、たった一通のメールだ。 件名は『選考結果のご連絡』。 差出人の欄には、『株式会社アルカディア・ワークス 採用担当』の文字が並んでいる。 そこは私の夢そのものだった。私







