FAZER LOGIN婚姻届に判を押した、あの夜から半年が過ぎていた。
季節は二度ほど、ささやかに巡った。家には二人分の家具が増え、二人分の食器が並ぶようになったが、詩織の中に「夫婦」という確かな手応えを、運んできてはくれなかった。
心の中に隙間風が吹くような、寄る辺ない日々。名前ばかりの絆が、ただ重く、詩織の肩にのしかかっていた。
◇◇◇
今夜の詩織はいつもと違い、シャンデリアの光に、深く、深く、照らされていた。
都内の老舗ホテル、最上階の大広間。財界人を一堂に集めた、年に一度の祝賀パーティ。天井から吊り下げられた無数のクリスタルが、床に敷き詰められた深紅の絨毯に、万華鏡のような光の粒を落としている。
上等なドレスの裾がささめき、磨き上げられた革靴が静かに行き交う。空気には香水の甘い香りと、高価な酒の匂い、そして独特の権力的な熱が混じり合っていた。
詩織は、藍色のロングドレスに身を包み、会場の隅にひっそりと立っていた。
壁の陰に身を寄せるようにして、華やかな喧騒から目を逸らす。これは、父からの命令だった。
『勉強がてら、顔を出しておけ』
ただ、それだけ。
愛人の子として認められ人並みに財界の空気を覚えておけ、ということなのだろう。父にとって、自分はやはり、使い勝手のいい駒の一つでしかない。
藍色のシルクは、片方の太ももから、深く、スリットが切られていた。
一歩踏み出すたびに、白い肌が、ちらりと、布の隙間からこぼれる。まるで誰かに品定めをされているような、落ち着かない心地だった。
(こんなドレス、本当は、着たくなかったのに)
このドレスを選び、詩織に着てくるように命じたのは――父だった。自分の所有物であると誇示するかのような意匠に、胸の奥が冷たく凍えていく。
「飲み物、貰ってきたよ」
隣に立つ朔が、シャンパングラスを、するりと差し出した。
長めの前髪の下から覗く瞳が、からかうように細められる。
「こういう場、嫌いだろ。お前」
「……うん」
詩織は、わずかに微笑んだ。強張っていた頬が、彼の声でほんの少しだけ和らぐ。
草薙朔。同い年の、画家仲間。
詩織の、本当の自分を唯一知っている男。父からは「同伴者を一人連れていけ」とだけ告げられ、頼める相手は、彼しかいなかった。
朔は、何も問わない。詩織が抱える事情も、この場に漂う歪な空気も、全てを承知の上で、ただ、隣に立ってくれる。その静かな存在感が、今の詩織には何よりも救いだった。
「先に、お父様に、ご挨拶を」
詩織は、グラスを朔に預けると、会場の中央寄りに立つ父の元へと、歩を進めた。絨毯の上を歩く足音が、自分の耳に妙に大きく響く。
父は、数人の財界人と談笑していたが、詩織の姿に気づくと、ゆっくりと、こちらを振り返った。
その視線が――上から下へ、下から上へ。
ねっとりと、詩織の身体の輪郭を、舐めるように這い回った。まるで競売にかけられた美術品を検分するような、汚らわしい視線。
「お前は、母さんに、そっくりだな」
ぼそりと、囁くように、低く笑う。
「こういうのが、似合うんだ」
胃の底のあたりが、ひやりと、不快に、波打った。
母を、捨てた男だった。冷酷に切り捨てておきながら、こうして、その娘の身体に、母の面影を重ねて、舌なめずりをするように見ている。その歪んだ愛情とも執着ともつかぬ熱に、鳥肌が立った。
詩織は、表情を、一切動かさなかった。人形のように無機質な顔をして、ただ、嵐が過ぎ去るのを待つ。
「お前は、今夜は、儂の娘として、振る舞えよ」
父の唇が、不意に、詩織の耳元へと寄った。甘ったるい酒の匂い。低く、湿った、息遣い。
「――この世界の厳しさを、肌で、感じるがいい」
意地の悪い笑みが、唇の端に、ねっとりと、貼り付いていた。
ぽん、と、一度。父の手が、詩織の腰のあたりを、軽く叩いた。それだけで、父は、もう次の客の方へと、視線を移していた。自分という存在が、単なる装飾品として扱われた事実に、詩織は奥歯を噛みしめた。
詩織は、ゆっくりと、踵を返した。
壁際で待っていた朔のもとへ戻ると、彼は眉根を寄せ、グラス越しに父の背中を睨みつけていた。
「お前の父親……クソだな」
ぽつり、と、低い声。
あまりに直截な言葉に、詩織は、思わず、くすりと、笑った。
会場に来てから、初めての笑みだった。
「もう、朔」
「だって、本当のことだろ」
朔は、シャンパングラスを軽く揺らしながら、不機嫌そうに肩をすくめた。その瞳には、詩織を案じる色が確かに宿っていた。
その時だった。
会場の入口の方から、ざわめきが、ひとつ、波のように、立った。
詩織も、つられるように、視線を上げる。
羽島陵が――そこにいた。
黒のタキシード。一糸の乱れもないシャツの白。鍛えられた体躯を包む仕立ての良い服が、彼の圧倒的な存在感を際立たせている。彼の腕には、しなやかに身体を寄せる、長身の女。アリス・橘。
金褐色の髪が、シャンデリアの光を受けて、まるで彼女自身が発光しているかのように、きらきらと揺れていた。
二人を取り囲む、人の輪。
「お似合いですね」
「いつご結婚を?」
「ぜひ式にはお呼びください」
社交辞令の、甘く、虚飾に満ちた声々。
陵の口元には、完璧な、けれどどこか冷たい笑みが浮かんでいた。アリスの腰に回された手が、ごく自然に――まるで何度もそうしてきたことのある仕草で――彼女の身体を抱き寄せていた。
「あれが、お前の旦那か?」
朔が、グラスの縁越しに、囁いた。
「……そう」
詩織は、小さく、頷いた。
胸の奥のいちばん深いところが、ツキン、と、鋭い針で刺したように痛む。
「こっちもこっちで、クソだな」
朔の声は、低く、平坦だった。その言葉が、詩織の傷口に容赦なく触れる。
「優しい、ところも、あるんだよ」
詩織は、つい、口を挟んでいた。
「結婚してから、優しくされたのか?」
朔が、横顔ごと、こちらを向いた。長い前髪の奥の瞳が、少しも笑っていなかった。
「それは――」
言葉が、続かない。
ちらり、と、視線を会場の中央へと、流してしまった。
その瞬間、陵と、目が、合ったような気がした。
ほんの一瞬。気のせい、かもしれない。けれど、彼の鋼のような瞳に射抜かれた瞬間、背筋に震えが走った。
「あのな、詩織」
朔が、グラスをくるりと回しながら、淡々と続けた。
「優しいってのはな、相手を思い遣って行動できたときに、初めて言えるんだよ。この状況で『優しい』っておかしいだろ。あの男は、ぜんぜん、お前のこと、考えてない」
ぐ、と。
胸の奥のどこかが、鈍く、痛んだ。
反論できなかった。
(――そう、なんだけど)
わかっている。彼は自分のことなど見ていない。この「結婚」自体が、契約でしかないのだから。
「したがって」
朔が、にやり、と、口元だけで、笑った。
「俺が、いい男、ってこと」
「もう……っ」
詩織は、軽く、彼の胸を、手の甲で叩いた。
朔が、声を立てて笑う。長い前髪が揺れて、その奥の瞳が、いつもの飄々とした色に、戻っていた。
ほんの少しだけ、肺に空気が入るようになった。息が、楽になった。
「詩織さん」
ふいに、聞き覚えのある低い声が、すぐ近くから、降ってきた。
詩織が、顔を上げる。
いつの間に近づいたのか、羽島陵が、目の前に立っていた。
その隣には、満面の笑みを湛えた、アリス・橘がいる。至近距離で見る彼女は、人ならざる美しさを放っていた。
「陵、お知り合い?」
アリスが、小首を傾げた。長い睫毛が、ぱちぱちと、羽ばたくように瞬く。
その表情には、一片の悪意もない。
ただ、純粋に――「視界に入った名もなき女」を、見ていた。
詩織の胸の奥で、ことり、と、何かが、小さく、軋んだ。
何度、撮影の現場で、顔を合わせただろう。彼女のための弁当を運び、衣装の手配を確認し、楽屋の前で頭を下げただろう。
その全てが、彼女の中には、欠片も、残っていない。
屈辱、というのとも、少し違う。それは、もっと淡くて、けれど確かに、ちくりと痛む――風船からゆっくり空気が抜けるような、形のない寂しさに、近かった。
「っていうか、朔! なんで、ここにいるの?」
アリスが、ふいに目を見開き、朔へと顔を向けた。その弾んだ声が、詩織の疎外感をより鮮明にする。
「彼女の、エスコートで。誘われたから」
朔が、肩をすくめる。
「ええ? ずるい。私が誘っても、来てくれなかったのに」
アリスの形のいい唇が、子供のように、ぷいと尖った。
その視線が、再び詩織のほうへと、流れる。値踏みするような、わずかに鋭い目つき。先ほどまでの無垢な瞳が、一瞬で女の顔に変わったのを、詩織は見逃さなかった。
詩織は、ドレスの裾を、指先でわずかに摘んで、軽く会釈をした。
「初めまして」
「初めて、じゃ、ないだろう」
冷たい声が、横から、飛んできた。
――陵だった。
詩織の挨拶を、たった一言で、鋭く断ち切った。
「陵、何を言ってるの? 私、彼女のこと、知らないわ」
アリスが、当惑したように、彼の逞しい腕に縋った。
「うちの社員だ。君の撮影現場に、何度も行っているはずだが」
陵の声には、隠しきれない苛立ちが、低く滲んでいた。
アリスの瞳が、ほんの一瞬、戸惑いに揺れた。
「あ――」
わずかな沈黙。
次の瞬間には、彼女は、ぱっと、ひまわりのように明るい笑みを作っていた。
「そうだったわ! ごめんなさい、ぼーっとしてた」
あまりにも、明るすぎる、取り繕った声。
(――思い出せて、いない)
詩織には、わかった。
彼女は、まだ、思い出していない。けれど、陵の機嫌を、損ねたくない。だから、咄嗟に、知っているふりをした。
それだけだった。
自分という人間は、彼女の中で、その程度の存在ですら、なかったのだ。
「詩織です。よろしくお願いいたします」
詩織は、もう一度、丁寧に、頭を下げた。
声には、何の感情も、乗せなかった。自分の心に蓋をして、ただ、役割を演じる。
アリスの頬が、ほんの少し、引き攣った。気まずさを、隠すように、彼女は陵の腕を、ぎゅっ、と、強く引いた。
「ねえ、陵。あっちに、ご挨拶したい人が、いるの」
甘ったるい声で、陵を急かす。
陵は、何も答えなかった。ただ――踵を返す直前、ほんの一瞬。詩織のほうへと、ちらりと、視線を投げた。
怒り、苛立ち、それ以外の――何か、もっと、底知れない、危険な熱。
二人の背中が、人混みの中へと、吸い込まれるように消えていく。
詩織の指先が、シャンパングラスの脚を、白くなるほど強く、握りしめていた。
「俺、食べ物、取りに行ってくる」
朔が、すっと、グラスをテーブルに置いた。
「お前、何か、食えるか?」
「……ううん。私は、いい」
「そっか」
朔は、長い前髪の下から、わずかに、詩織の顔を覗き込んだ。
何か、言いかけて――けれど、言葉を飲み込んで、やめた。
そのまま、軽く片手を上げて、豪華な料理が並ぶ奥のテーブルへと、歩いていった。
壁際に、詩織は、一人になった。
会場のざわめきが、急に、遠のいて聞こえる。まるで見えないガラスケースの中に閉じ込められたような、奇妙な静寂。
太もものスリットの隙間から、空調の冷気が、ひやりと、肌を撫でていく。その寒けに、身体が小さく震えた。
「――詩織」
低い、低い声が、すぐ後ろから、降ってきた。
その声に心臓が跳ね上がる。
振り向く前に、肘の少し上を、強く、掴まれた。逃げ場を塞ぐような、強引な力。
「ちょっと」
陵は、有無を言わさず、詩織の肘を引いて、人混みの隙間を、奥へ、奥へと、進んでいった。
彼の大きな手から伝わる熱が、冷え切った詩織の肌を、無慈悲に熱く焼いてい
パリの乾いた風を肌に感じながら、詩織は最後のキャンバスに筆を置いた。 拠点を完全に日本へと移す手続きや住まいの移動はとうに終わっていたが、向こうで引き受けていたいくつかの細々とした仕事が残っていたのだ。それらすべてを無事に納品し、長年孤独を癒やしてくれたアトリエを完全に引き払う。 予定よりも二日早いフライトに変更できたのは、単なる幸運だった。連絡を入れようとしてスマートフォンを取り出し、ふと手を止める。驚く彼の顔が見たくて、詩織は内緒のまま帰国の途に就いた。 十数時間の長いフライトを終え、日本の湿気を含んだ空気を深く吸い込む。空港からタクシーに乗り込み、まっすぐに向かったのは彼と暮らすマンションではなく、彼が立派に再建した会社の真新しいオフィスビルだった。 静まり返った休日のエントランスに足を踏み入れる。広々とした大理石の床に、かつてあの冷たい雨の夜に持ち出したのと同じ、小さなキャリーケースの車輪の音が軽やかに反響した。 歩みを止めたのは、エントランスの奥。かつて何もない真っ白だった大きな壁の前に、一枚の絵が堂々と飾られている。 完成したばかりの、詩織の最新作だった。 足を止め、詩織は自らが描き上げたキャンバスを愛おしく見上げた。 かつての詩織は、顔をぼかした一人の男性の姿ばかりを描いていた。決して手の届かない片想いの相手を、隠し部屋という誰にも見られない檻の中でだけ、こっそりと描き続けるしかなかった。言葉にできない情念を、ただ色彩にぶつけるだけの孤独な作業。 だが、今ここにあるのは違う。 柔らかな陽だまりのような光に包まれながら、二つの指輪をはめた男女が、額を寄せ合い、心から幸せそうに微笑み合っている絵だった。表情もはっきりと描かれた、希望に満ちた二人の姿。 もう、一人ではない。長くて苦しかった片想いは終わり、二人で手を繋いで歩む未来が、たしかにそこにあった。 キャリーケースのハンドルを握っていた右手を、そっと持ち上げる。自分の左手の薬指を見つめると、絵の中の女性とまったく同じように、プラチナの指輪が二本、静かに重なって光っていた。 下にはめられた一本は、かつて冷たい契約の証として交わし、離婚して遠く離れた後も、二人がどうしても捨てられなかった古い指輪。細かな傷が刻まれたそれは、すれ違いと痛みの記憶。 そしてその上に重ねられたもう一本
エージェントであるカトリーヌとの最終的な打ち合わせを終え、画家の活動拠点を本格的に日本へ移すことが正式に決定し、帰国した日のこと。 大きなガラス窓から昼の明るい陽光がたっぷりと差し込む日本の国際空港の到着ロビーは、旅立つ者と帰還する者たちが交差する、独特の活気と熱気に満ちていた。 様々な言語が飛び交い、キャリーケースの車輪が滑る音が重なり合う。 詩織は、あの日家を出た時と同じ小さなキャリーケースを引きながら、慣れた足取りで雑踏を歩いていた。 ふと、前方の不自然な光景に気づく。 上等な仕立てのスーツを着た、恰幅の良いイギリス紳士の初老の男性が、抵抗する一人の若い女性の細い腕を乱暴に引っ張りながら、搭乗口へと向かって歩いていたのだ。 すれ違おうと横に避けたとき、床をひっかくような甲高いヒールの音とともに、二人の言い争う声がはっきりと耳に届いた。「パパ、やめて。私は帰りたくないわ!」「いい加減にしろ。お前のくだらないわがままで、どれだけの莫大な損害を出していると思っているんだ」「仕方ないじゃない! 日本支社の社長なんてするつもりなんて、最初からなかったんだから。ああすれば、陵が私のところへ帰ってくると思ったの!」 ぴたりと。 大理石の床を踏みしめていた詩織の足が、止まる。 聞き覚えのある、執着に満ちた甲高い金切り声。 父親に腕を強く掴まれ、美しくセットされていたはずの髪を振り乱して引きずられていた女性は――アリスだった。(……ああすれば、陵さんが帰ってくると思った……?) 詩織は、目を僅かに見開いた。 彼女が父の強大な権力を使って、陵の会社を強引に買収し、奪った理由。それは、経営への野心やビジネスとしての勝算などではなく。ただ、どうしても手に入らない陵という男を、権力と金で無理やり自分に縛り付けるための、ひどく浅はかで愚かな執着でしかなかったのだ。 結果として、彼女は会社を傾かせ、莫大な損害を出し、父の激しい怒りを買い、こうして無様に、日本から連れ去られようとしている。 欲しいものを全て強引に取りにいって、結果として愛する男も、地位も、全てを失った女の、哀れな末路。 詩織が静かにその光景を見つめていると、抵抗して激しく暴れたアリスのせいで、父親がバランスを大きく崩し、よろめいて詩織の肩に軽くぶつかりそうになった。「ソーリー……」
深海からゆっくりと浮上してくるような、心地よい微睡みの時間だった。 重い瞼をそっと押し上げると、視界の端が白くぼやけている。少しだけ開いた遮光カーテンの隙間から、朝の柔らかく、ひどく優しい光が幾筋も真っ白なシーツの上に差し込んでいた。 ふと気づくと、詩織はキングサイズの広く整えられたダブルベッドの上で一人、うつ伏せになった状態で寝ていた。 身じろぎをしようとして、思わず「んっ」と小さな声が漏れた。 昨晩、お互いの失われた数年間を埋め合わせるように、何度も、何度も激しく繋がり合ったせいか、気だるい身体が鉛のようにひどく重い。骨の芯まで溶かされてしまったような、甘い疲労感。 少し動くだけで、上質なシーツに擦れる素肌が異常なほど過敏に反応し、ちりちりとした痺れを伝えてくる。特に、彼を何度も深く迎え入れた下腹部の奥底が、ジンジンと、未だに火を持ったように熱く疼いていた。 目を閉じれば、彼に激しく打ち据えられ、限界まで奥を押し広げられた強烈な快感が鮮明に蘇る。まるで、まだ陵の圧倒的な質量と熱が、自分の中に深々と残されているみたいだった。 彼が隣にいないことに気づき、かすかな不安が胸をよぎる。だが、遠くのリビングの方から微かな物音が聞こえ、すぐに安堵した。 痛む腰を庇いながら、シーツを巻き込むようにしてゆっくりと身体を反転させ、仰向けになって高い天井を見上げた。 ふと、視界の端。 少しだけ開いたままになっている寝室の扉の向こう、リビングの壁の一部が見えた。 そこに、見慣れた額縁が掛かっている。 昨夜、玄関から抱き抱えられて通り過ぎた時には、暗さと情熱に浮かされてはっきりと認識できなかったが、それは間違いなく、かつて詩織自身が描き上げた絵だった。 顔をぼかした、彼の肖像画。 彼が私を愛していると証明してくれた、大切な過去の欠片。 朝の光の中でぼんやりとそれを見つめていた詩織の口から、ふと、無意識のうちに声が漏れた。「……あれ?」 違和感の正体を探るように、詩織は自分の裸体を包み込んでいるシーツを、指先でそっと撫でた。 なめらかで、少しひんやりとした肌触り。 そして、ゆっくりと視線を巡らせ、視界に入るファブリックの色合いや、枕カバーの縁に施された控えめな意匠を確認する。 昨晩は深い暗闇と、理性を吹き飛ばすほどの激しい情熱にすっかり浮かされ
詩織の弱音を完全に塞ぎ、すべての言い訳を消し去るような、深く、そして貪欲なまでの激しい口づけだった。 互いの体内の酸素をすっかり奪い尽くし、熱い口内を幾度も味わい尽くしたあと、名残惜しそうに、微かな銀の糸を引きながらゆっくりと二人の唇が離れていく。 はぁ、はぁ、と、未だに荒く上下を繰り返す互いの胸が、コートやスーツの厚い布地越しに、ぴったりと隙間なく触れ合っていた。衣服の擦れる微かな音が、静まり返った空間にやけに生々しく響く。重なり合った鼓動のリズムが、一つの巨大な地鳴りのようになって詩織の全身の皮膚を揺るがしていた。 陵は、骨ばった大きな両手で詩織の後頭部を優しく包み込み、引き寄せる。そのまま、詩織の額に自らの額をぴたりと押し当てた。至近距離で見つめ合う漆黒の瞳には、かつての冷徹な仮面など微塵も残されておらず、ただ熱い情動だけがゆらゆらと揺らめいている。 陵が、微かに震える熱い息を吐き出した。「……詩織を抱きたい――だが、その前に、どうしても君に聞いてほしいんだ」 低く、ひどく切実な、どこか祈るような響きを孕んだ声が耳元に落ちる。 そのあまりの必死さに、詩織は胸を突かれ、彼の広い胸に顔をうずめたまま、こくりと小さく頷くことしかできなかった。 靴も脱がないまま、小さなキャリーケースを床に転がしただけの、無機質な高級マンションの玄関。 一定の静止時間を過ぎた頭上のセンサーライトが、カチッ、という冷たい電子音を立てて、再び無情に消え去った。 不意に訪れた、完全な暗闇。 一切の光が遮断され、網膜の奥に深い黒が広がる。視覚を完全に奪われたことで、残された他の五感が、恐ろしいほどの鋭敏さで目を覚まし始めた。 静寂の中で、すぐ目の前にある彼の雄としての高い体温が、じわじわと詩織の肌を焦がすように伝わってくる。首筋の柔らかな皮膚を直に撫でる、彼の熱く甘い吐息。ウールコートの繊維の匂いに混じる、彼特有の清涼で重みのある体臭。 その濃密な気配と、どこにも逃げ出すことのできない絶対的な質感が、詩織の心を激しく、そして痛いほどに震わせていた。 陵が、これまで長い歳月の間、ずっと胸の奥底に堰き止めていた不器用な言葉を、暗闇の中に一つずつ、慎重に置き始めた。「アリスとは……ただのビジネス関係だったんだ。身体の関係が全くなかったとは言わない。少なからず俺は、表
今後、詩織の絵が飾られる予定の、真っ白な空白の壁。 その巨大なキャンバスのような壁面を前にして、二人は仕事の話を始めた。 ついさっき、唇が触れ合う寸前まで近づいた。互いの熱い吐息が混じり合い、理性が焼き切れるかと思った、あの生々しい熱が、まだ二人の間に色濃く燻っている。 ふとした拍子に視線が交差するたび、心臓が跳ね、気まずさと、隠しきれない甘い余韻が空気を微かに揺らした。空調の効いたエントランスの空気が、そこだけひどく湿度を帯びているように感じる。 それでも、絵を飾る場所の確認は、社長である陵と、画家である詩織の間で、あくまでビジネスライクに進められていく。 絵のサイズ。窓からの光の入り方。壁の色とのコントラスト。 当たり障りのない、無機質な仕事の言葉。しかし、その合間に、少しずつ、まるで氷が溶け出すように、私的な言葉が混じり始めていた。「ここなら、夕方の光が綺麗に入る」「ええ……そうね。西日が直接当たらないのも、絵の具の劣化を防ぐにはちょうどいいわ」「君の描く青は、少し暗い方が映えるから」 陵の声が、少しずつ低く、柔らかみを帯びていく。 かつての冷徹で、命令するような硬いトーンはそこにはない。(彼は、私の描く絵を深く理解してくれている) 単なるビジネスとしての評価ではない。世界的な覆面画家として名前が売れる前から、彼は詩織の絵を買い、見つめ続けてくれていた。水瀬詩織という人間の内面が剥き出しになったキャンバスの「青」を、彼はずっと深く愛してくれている。 その事実が、詩織の胸の奥を温かいもので満たした。 数年間、ずっと凍りついていたぎこちない空気が、静かに、ゆっくりとほどけていくのを感じていた。「ここに、詩織が一番描きたいものを描いて欲しい」 それは、愛おしむような、ひどく甘い響きだった。 同時に、陵の大きな手が、ふと、詩織の右手に伸びた。 そっと、大切に包み込むように握られる。手のひらから直に伝わってくる、懐かしく力強い体温。びくりと肩が跳ねたが、振り払うことなどできなかった。「今夜、夕食を一緒に……」 耳元に低く落ちた声に、詩織の鼓動が、とん、と小さく跳ねる。 無言で応じようとした瞬間、握られた手から、陵の長くて骨ばった指が、ゆっくりと詩織の指の間へ滑り込んでくる。 ごつごつとした男の指先が、華奢な指の隙間を押し
彼が他の女性と、あの寝室で、私の描いた絵を見上げながら新しい夜を紡いでいる。その残酷な想像が、鋭い爪を立てて心臓の柔らかな部分をぐちゃぐちゃに掻き毟る。息をするたびに肺が軋み、目の前がチカチカと点滅し始めた。「本当に、社長ったら寝室の絵を――」「余計なことを言わなくていい」 背後から、不意に声が落ちた。 ピシャリと、冷や水を浴びせかけるような鋭い響き。 低く、ひどく静かな、けれど有無を言わさぬ絶対的な威圧感を孕んで、鼓膜の奥を直接震わせるような男の声。 聞き覚えのある、いや、細胞の隅々にまで染み込んで決して忘れることのできなかったその声に、詩織の肩がびくりと大きく跳ねた。 呼吸が、完全に止まる。 高いヒールを履いた靴の裏が、大理石の床にべったりと張り付いてしまったかのように、身体がぴくりとも動かない。指先から急速に温度が奪われ、代わりに全身の血液が心臓に向かってドクドクと逆流していくのがわかる。 気のせいではない。幻聴でもない。 恐る恐る、軋む首を動かし、スローモーションのようにゆっくりと振り返る。 そこに、彼が立っていた。 数年ぶりの彼が――。 仕立ての良い、深いネイビーのスリーピーススーツに身を包み、長身を静かにそびえ立たせている。かつての傲慢な若さは削ぎ落とされ、代わりに幾多の修羅場を潜り抜けてきた大人の男としての、研ぎ澄まされた凄みが漂っていた。 感情を一切読ませない、氷のように冷たく端正な無表情。 それは、記憶の中に刻み込まれた彼の姿そのものだった。 時が、完全に止まった。 エントランスの空調の音も、遠くから聞こえていたはずの都市の喧騒も、周囲の空気から一切の音が消え去る。ただ、早鐘のように激しく打つ自分の鼓動だけが、耳の奥でやけに大きく、暴力的に響いている。 彼の漆黒の瞳が、真っ直ぐに詩織を捉えていた。その奥で、何かが微かに揺らめいたように見えたが、由衣が目を丸くして慌てた声を上げたことで、その機微はかき消された。「お兄ちゃん? あれ、会議は?」「お前が気にすることじゃない」「いやいやいや、外せない重要な会議があるって言ってたじゃん!」「いいから。お前は席を外せ」「もうっ、なによそれ……」(……お兄ちゃん?) 張り詰めていた糸が、ぷつん、と音を立てて切れた。 陵の、妹。「羽島」という同じ苗字。少し
さらさらと紙の上を走る筆の音だけが、静まり返ったアトリエに響いている。 キャンバスに向かい、無心で筆を動かしていると、詩織の意識はいつしか現実の輪郭を失い、深い記憶の底へと沈んでいった。 絵を描いているときは、いつもそうだ。指先の微細な動きだけが確かな現実となり、それ以外の世界は霧の向こうへと遠ざかっていく。集中が極限に達したとき、心の奥底に鍵をかけて仕舞い込んでいた記憶の引き出しが、ひとりでに、音もなく開いていくのだ。 あれは――まだ、今の会社に入社して間もない頃のこと。 若さゆえの希望と、それ以上に大きな不安を抱えていた。 ◇◇◇ 初夏の、長く明るい午後だった。 郊
深夜一時を過ぎていた。 リビングの灯りはとうに落とされ、闇に沈んだ部屋を、カーテンの隙間から漏れる街灯のかすかな光だけが、青白く撫でている。 二重サッシの隙間から、冬の冷気が音もなく忍び寄ってきた。靴下越しの足の指は、もう感覚をなくしかけている。しんと静まり返った室内には、自分の呼吸の音だけが、妙に大きく響く。 詩織はソファに深く身を沈めたまま、視線をダイニングテーブルへと流した。 そこには、二人分の食器が虚しく並んでいる。丹念に焼き上げ、美しく盛り付けたはずのローストビーフには、冷えて固まったグレイビーソースがまとわりついていた。湯気の消えた味噌椀は、暗がりの中でひっそりと冷え切
整然とデスクが並ぶ宣伝部のフロアには、キーボードを叩く乾いたタイピング音と、電話越しの控えめな話し声だけが規則正しく響いていた。 窓の外には、都心の無機質なビル群が切り取られたように並んでいる。空調のよく効いた社内の廊下を、詩織は手元のタブレットに視線を落としながら、静かな足取りで歩いていた。 結婚を機に主任へ昇進して、ちょうど一年が経つ。今では数人の後輩の指導や、会社の根幹に関わるいくつかの重要案件の進行管理を任されている。感情を一切表に出さず、どんな理不尽な要求にも眉一つ動かさず、淡々と正確に仕事をこなす水瀬主任。それが、この会社における詩織の姿だった。 プライベートを見せず、誰
財界人パーティを早退した詩織は、タクシーで帰宅し、シャワーも浴びる気力もなく、薄手のネグリジェだけを身に着けて寝室のベッドに横たわっていた。 下腹部がまだ、じくじくと灼けている。少し動いただけで、内側のいちばん深い場所が鈍く脈打って、息が詰まった。 好きな人に抱かれた。籍を入れて半年、形だけの夫婦を続けてきたあの人に。それなのに、胸の奥はむしろ、ますます痛む。 眠りたいのに――身体は鉛のように重く疲労していたが、瞼の裏だけが妙に冴え渡っていて、暗闇の中でじっと天井を見つめ続けていた。 その時、階下で玄関の鍵が回る音がした。 詩織の身体が、跳ねるように強張る。 震える指で携帯電話







