Share

第4話

Author: 年緒
来希は少し不満そうに言った。「来たならノックぐらいしろよ」

萌花はそのまま中に入って言った。「せっかくの三人家族の和やかなひとときを邪魔したくなかったから」

来希の目つきが鋭くなった。「なに適当なことを言ってるんだ。はなと俺の間には何もない」

萌花の言葉は皮肉めいていた。「あなたたちが潔白なら、路傍の汚れた水溜りに、芳香剤の看板が掲げられるだろう」

「萌花、お前、いつの間にこんなに下品になったんだ?」

萌花はくるりと向きを変え、じっと来希を見つめた。皮肉な笑みを浮かべているが、瞳は真剣だった。「来希、誠実にあなたを愛し、思いやり、あなたを許してきた私は、今この瞬間死んだのよ」

来希は萌花の眼差しに、なぜか胸がざわめいた。

その時、ベッドの方から声がした。

「萌花さん、私と来希さんの関係を誤解なさっているんですね。私たちの間には本当に何もありません」

萌花ははなの方を見た。出産したばかりなのに、薄化粧をしている。上品なナチュラルメイクで、清純そうに見える。彼女が着ているのは白いシルクのガウン。胸はふくよかだが、ウエストは内臓があるか疑うほど細く、清楚なのにどこか色気がある。

はなの目には一瞬、涙が浮かんだ。必死で説明しようと困惑した様子で、「萌花さん、私は帰国したばかりで頼れる人もいないし、友達もいないんです。

だから来希さんに助けを求めただけなのに、萌花さんが私の子供を来希さんの子だと誤解しているなんて……」そう言いながら、目に涙をためて、とても悔しそうな表情をしている。

「もし萌花さんが嫌なら、今すぐ来希さんを返します」

萌花はふっと笑った。「笑えるわ。返すって、元々あなたのものだったみたいね」

萌花ははなに近づいた。「小林さんには頼れる人がいない?少なくとも小林家の本家のお嬢様でしょう?血の繋がりのない令嬢とはいえ、家から追い出されたわけじゃないでしょう?

まぁ良いわ。小林家に戻りたくないとしても、実母がいるでしょ。たった5キロも離れていないマンションに住んでるのに、彼女を頼らないで、他人の夫を頼るのね。人の家庭を壊す気はないって口では言いながら、他人の夫の前で授乳して誘惑するの?

本妻の面前で服をまくし上げ、他人の夫に胸をちらつかせて……あなた、胸に手を当ててよく考えてみて。これが無意識なの? 子どもを盾に曖昧な態度を取り、弱さを武器に男を奪おうとするなんて。他人がみんな馬鹿で、あなたの魂胆を見抜けないとでも思っているの??」

午後、法律事務所で萌花ははなの経歴を調べ上げていた。

はなは叱責されて呆然としていた。少しの間、一言も発することができなかった。

しばらくして、はなの涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。すぐに来希の方に体の向きを変え、「来希さん、萌花さんと一緒に帰ってください。これからはもう私のところに来なくて大丈夫です。一人でどうにかするから、心配しないでください」と言った。

はながそう言えば言うほど、来希の目が悲しそうになった。

彼は子供を抱いたままはなのそばに歩み寄り、優しい声で慰めた。「萌花の言葉を気にするな。ここで安心して暮らせ。母子共にしっかり面倒をみると約束したからには、必ず約束は守る」

そう言い終えると、彼は子供をはなに渡した。

そして数歩で萌花の前に歩み寄り、彼女の腕をつかんで外に引っ張り出した。

廊下をしばらく歩いた後、来希はやっと萌花の腕を放した。

「萌花、今日は一体どうしたんだ?

さっきのお前の様子を見てみろ、教養のない世間知らずな女みたいだぞ」

萌花は顔を上げ、あからさまに馬鹿にしたような表情を浮かべた。「彼女に少し言っただけで、気を病んだの?」

「どうしてはなにあんなふうに言えるんだ。彼女の置かれた状況がどれほど困難かわかるのか。6年前に小林家の本当のお嬢様が戻ってきた時、彼女は小林家に見捨てられたんだ。海外留学させると言いながら、生活費さえ渡さない。彼女の実母はギャンブル中毒で、はなから金を搾り取るだけ。それでも彼女はここ数年、自分の力で西カリフォルニア大学コンピューター工学科の修士課程に合格したんだ。

正直に話すと、彼女が今回帰国したのは、俺が大金を払って幸林テクノロジー社の技術ディレクターとして招いたからだ。産休が終わり次第すぐに就任する。

だから、萌花、これが最後の警告だ。いい加減な事を言うのはやめろ。はなはお前とは違う。彼女は洗濯や料理をして男に媚びるような女性じゃない。ましてお前が言うような男を誘惑するような考えも持っていない。彼女はただ純粋なだけだ。彼女のような高度な人材は、将来きっと光子チップの分野で大いに活躍するだろう」

来希の言葉が刃物のように萌花の心を切り刻んだ。

来希の心の中では、彼女はすでにただ洗濯と料理をし、やきもちを焼くだけの主婦になってしまっていた。一方ではなに対してはリスペクトと同情心でいっぱいだった。

しかし来希は会社が創業したばかりの頃、彼女もまた会社の技術ディレクターを務めていたことを忘れていた。

彼の話にはまだ多くの疑問が残っている。例えば、なぜ彼ははなのここ数年の状況をここまで詳細に知っているのか。はなの子供は本当に彼と無関係なのか。

だけど、彼女はもうこれ以上、深く探り込もうとはしなくなった。事実がどうであれ、もう重要ではなかった。

萌花はカバンから書類の束とペンを取り出し、差し出した。

「来希、あなたの戯言はもう聞きたくない。さっさとサインして」

来希が下を見ると、それは離婚協議書だった。

来希の顔色が曇った。「萌花、これはどういう意味だ?」

「私はあなたと結婚して3年、ほとんど資産と呼べるものはないわ。会社の株式は要らないけど、私の婚前の財産はすべて持ち帰らせてもらう。問題がなければ、早くサインして」

来希は離婚協議書をぱらぱらとめくったが、信じられないという表情を浮かべていた。「お前に聞いてるんだ、これはどういう意味だ?」

萌花は冷静に彼を見つめた。「あなたと離婚するということ。来希、私はあなたを捨てるの」

萌花はとても穏やかに言ったが、来希は拳を強く握りしめた。

彼は萌花の瞳を見つめると、固く結んだ唇がわずかに緩んだ。

「萌花、離婚すると言えば俺が慌てて引き留めるとでも思っているのか?

形ばかりの離婚協議書で俺を脅せると思うなよ。よし、離婚したいんだろう?叶えてやる。あとで泣きついて来るんじゃないぞ」

来希はかなり怒っていた。萌花が離婚協議書を持って彼を脅すとは全く思っていなかったのだ。

萌花はこんな駆け引きに俺が引っかかると思っているのか?

離婚の条件を見ると、萌花は一貫して株式もお金の一銭も要求していない。あえて穏便に済ませて逃げ道を残そうとしているんだろう。

来希は萌花がこれまで自分のために尽くして来た事を思い返すと、その考えは確信に変わった。萌花はただわがままを言っているだけだ。

来希はペンを取り、離婚協議書にサインをした。

「萌花、自分勝手にも程がある。お前がまいた種は自分でどうにかしろよ!」

来希はそう言うと立ち去った。

彼は30分も経たないうちに、萌花が自ら謝罪に来て和解を求めてくるだろうと確信していた。
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 断ち切るのは我が意   第100話

    その声には、隠しきれない皮肉が込められていた。「よくもまあ、ぬけぬけと……散々、人前で恥をかかせた挙句、お義母様の信頼まで奪っておいて。おまけに、あの家宝の翡翠の腕輪まで手に入れたんでしょう?今さら猫なで声で近づいてきて、何のつもりですか?偽善者ぶるのもいい加減にしてちょうだい」「義姉さん、誤解しないでください。僕はずっと義姉さんのことを尊敬していたんですよ。この家のために義姉さんがどれほど尽くしてきたか……ちゃんと見ていましたし、感謝もしています」その言葉に、理香子は押し黙った。時雄は続ける。「今日の義姉さんの行動も、元はといえば、理不尽な状況への憤りからきたものでしょう。長年、この家を完璧に取り仕切り、身を粉にして尽くしてきたのに、誰もそれを当たり前だと思って感謝もしません。そこへ僕が結婚し、心ない連中が新しい嫁が実権を奪うなどと噂を立てました。義姉さんが不安に駆られ、あのような強硬手段に出たのも無理はありません。誰だって、そんな仕打ちを受ければ我慢できませんよ」理香子の鼻の奥がツンとした。彼女はずっと、この家のために尽くしてきた。特に須恵への孝行には心を砕き、毎日の食事だって、調理場に張り付いて栄養バランスを考えた薬膳料理を作らせてきたのだ。だというのに、家族の誰もがそれを嫁の務めとして当然のように受け入れ、労いの言葉ひとつかけてくれたことがない。それを今、よりによって時雄の口から聞かされるとは。理香子の胸に、何とも言えない複雑な感情が広がっていく。「……一体、何が言いたいのです?」「義姉さん、約束しますよ。妻が義姉さんから家を取り仕切る権限を奪うことは決してありません。それどころか、新たにファミリー基金を設立しようと考えているんです。各家の人数に応じて、一人につき月四千万円の手当を支給する制度です」「弘武兄さん一家は人数が多い。これは、長年苦労をかけてきた義姉さんへの、小林家からの感謝と還元のしるしだと思ってください」その提案に、理香子は耳を疑った。人数に応じて、一人につき月四千万円?彼女は信じられないといった様子で問い返した。「はなも入るのですか?」「もちろんです。はなだけでなく、夫の幸田さんも、あの子供も対象ですよ。この家の一員である限り、金は支給されます。それに、この金はすべて義姉さんの口

  • 断ち切るのは我が意   第99話

    二人の賭けを見て、はなは胸を撫で下ろした。もし萌花がパーセクテックの技術責任者になろうものなら、殺されるよりも苦痛だ。光代叔母様が口を出してくれて本当によかった。シャドウといえば、業界公認の天才であり、そのコードが博物館に展示されるほどの唯一無二の神だと言える。萌花ごときがその名を口にするだけでも、神への冒涜というものだ。さて、どんな無様な結果になるか、高みの見物といこう。晩餐会はようやくお開きとなり、招待客たちが三々五々、帰路についていく。本来なら、理香子が客の見送りを担当するはずだが、宴席が終わった直後、理香子は須恵の部屋に呼ばれ、それきり姿を見せていない。客が全員帰り去るまで、誰も彼女の姿を見ていなかった。萌花と時雄が帰ろうとした時だ。時雄がふいに言った。「ちょっと理香子義姉さんに挨拶してくるよ」萌花は尋ねた。「お義姉さんなら、とっくに自分の部屋に戻ったんじゃないの?」時雄は首を横に振った。「いや、仏間で罰を受けている」萌花は驚いた顔を見せたが、すぐに納得した表情に戻った。考えてみれば当然だ。今日の首の折れた観音像の一件、志津が理香子の身代わりになったことなど、見る人が見れば一目瞭然だ。海千山千の須恵が気づかないはずがない。あの翡翠の腕輪は自分に対するなだめであり、補償だったのだろう。だが、事が済んだ後に、きっちりと罰を与えるあたりはさすがだ。「今さら会いに行ってどうするの?」時雄は意味ありげに笑った。「ちょっと頼み事があってね」「頼み事?」「秘密だ」時雄の悪戯っぽい笑顔を見て、萌花はろくでもないことだろうと直感した。ほどなくして、時雄は仏間へと足を踏み入れた。堂内の中央で、理香子が座布団の上に跪いていて、その顔は涙で濡れ、悔しさに歪んでいた。その時だった。仏間の灯りが突然、すべて消えた。あたり一面が闇に包まれる。理香子はぎょっとして立ち上がろうとした。その拍子に、ふと自分の服に目を落とした。こめかみの血管が、ドクンと激しく脈打った。金粉なんて……どこにもない。自分の体には、光るものなど何一つ付着していなかった。理香子の体は石のように固まった。一つの可能性が脳裏に稲妻のように走った。すべてを悟った瞬間、彼女の胸の奥から業火のような怒りが噴き出した

  • 断ち切るのは我が意   第98話

    パーセクテックの技術責任者といえば、極めて重要なポストだ。それを三年間も主婦をしていた女に任せるなど、正気の沙汰とは思えない。萌花自身も驚きを隠せなかった。自分は技術部で働きたいとは言ったが、責任者になりたいなどとは一言も言っていない。それに、現場を離れて久しい自分が、いきなりそんな大役を担えるはずがない。だが、時雄が自分の顔を立てようとしてくれているのは分かっていたので、彼女はあえて口を挟まなかった。はなは数秒間凍りついた後、引きつった笑みを浮かべて「おめでとうございます」と絞り出し、逃げるように席に戻っていった。しかし、時雄のこの発言に対し、光代が黙ってはいなかった。「時雄、パーセクテックはあなたの管轄だけれど、私の手掛けているいくつかのプロジェクトとも密接に関わっているわ。だから黙って見過ごすわけにはいかない。技術責任者がどれほど重要な戦略的ポストか分かっているの?何も知らない素人をいきなり将軍の座に据えて軍配を振るわせるなんて、長年心血を注いできた開発チームへの冒涜よ。会社は戦場なのよ。女のご機嫌取りのために、火遊びをする場所じゃないわ」光代の言葉は鋭利な刃物のようだ。小林家において、光代と時雄が拮抗し合っていることは周知の事実だ。「姉さん、萌花は素人じゃない。僕と同じく竜鱗プロジェクトの選抜メンバーだ。専門能力に関して言えば、間違いなく僕より上だよ」光代は、時雄が萌花をそこまで高く評価するとは思ってもみなかった。竜鱗プロジェクトについては彼女も知っている。そのメンバーのほとんどが、今やテクノロジー業界を牽引するエリートたちだ。中にはユニコーン企業を創設した者も少なくない。それでも、光代はこの人事が単なるおふざけにしか思えなかった。「それでも反対よ。パーセクテックの前の技術責任者は百年に一人の天才だったわ。辞めて独立した後、自ら会社を立ち上げ、今や我が社の最大のライバルになっているじゃない。長年、多くの人材を面接しても適任者が見つからなかったというのに、いきなり実績のない新人を、しかも自分の妻を任命するなんて。公私混同も甚だしいわ」「姉さんも言った通り、あのポストはずっと空席だった。空けておくくらいなら、適任だと思う人間に任せて何が悪い?それとも、姉さんにはもっと適任者がいるとで

  • 断ち切るのは我が意   第97話

    その腕輪の価値は、単なる金銭的なものに留まらない。それは一族の歴史と承認の証なのだ。代々、当主の妻だけが受け継ぐことを許された、言わば「奥」を取り仕切る権力の象徴である。長年、喉から手が出るほど欲しかったその腕輪が、今まさに、小林家に足を踏み入れたばかりの新参者の手首に収まっている。これまでの自分の献身と苦労は一体何だったのか。理香子は、奥歯が砕け散るほど強く噛み締めた。だが、先ほどの騒ぎがあったばかりだ。下手に口を開くわけにはいかない。彼女は助けを求めるように、車椅子の夫へと視線を向けた。しかし弘武は相変わらず薄ら笑いを浮かべ、酒をちびちびと舐めているだけだ。まるで今夜の出来事が、自分とは何の関係もないとでも言うように。妻の窮地も恐怖も彼には見えていないし、彼女のこれまでの苦労など眼中にない。ましてや、彼女が苦境に立たされた時に、矢面に立って守ってくれることなどあり得ないのだ。理香子の胸に堪え難い虚しさと痛みが込み上げてきた。一方、萌花はまだ腕輪を押し返そうとしていた。すると時雄が口を挟んだ。「受け取りなさい。母さんの気持ちだ」須恵の決意は固い。衆人環視の中、これ以上拒むのは無粋というものだ。萌花はひとまずそれを受け取ることにした。その光景を目の当たりにしたはなは、心穏やかではなかった。彼女はふと横にいる来希を見た。来希はグラスを持つ指先が白くなるほど、強く力を込めていた。その姿から、彼がどれほど深い憎しみを抱いているかが痛いほど伝わってくる。それを見て、はなの気は少し晴れた。はなはグラスを手に取ると、自ら須恵のもとへと歩み寄った。「お祖母様、お誕生日おめでとうございます。乾杯させてください。いつまでも健康で、長生きしてくださいね」須恵ははなを見て、感慨深げに目を細めた。「はな、長いこと帰ってこなかったけれど、いつの間にか妻になり、母になったんだねぇ」はなは愛想よく答える。「お祖母様、立場が変わっても、いつだってお祖母様の一番の孫娘ですよ」須恵の顔に笑みが戻る。「よしよし、はなは孝行者だね」はなは乾杯を終えても立ち去らず、手酌でもう一杯注いだ。「叔母様、この場を借りて、叔父様と叔母様にも乾杯させてください。ご結婚おめでとうございます。末永くお幸せに」萌花ははなを見つめた。ある意

  • 断ち切るのは我が意   第96話

    理香子の言葉は巧みだ。志津もその言葉の裏にある脅しを敏感に感じ取っていた。もしこの責任を被らなければ、息子夫婦の将来はすべて潰されてしまう。それに、ただの使用人である自分に15億もの大金など払えるはずがない。どうせ払えないのなら、刑務所に入る方がマシだ。少なくとも、息子夫婦を巻き込むわけにはいかない。志津は膝をついたまま萌花の足元へとにじり寄った。「二条様、本当に悪気はなかったんです。ただの出来心で……どうか、どうかお許しください。お願いします、お願いします」志津は額が割れるほど何度も床に頭を打ち付けた。その様子を見て、理香子の瞳の奥に冷酷な笑みが浮かんだ。時雄があのような提案をしたのは、志津に黒幕である自分を告発させるためだということは分かっている。だが彼らは知らないのだ。志津の夫や子供たち、一族全員の生活と将来が、自分の掌中にあるということを。自分を裏切ることなど、できるはずがない。今、志津は必死に萌花に慈悲を乞うている。もし萌花がこれ以上追い詰めれば、冷酷で情け容赦のない女だと陰口を叩かれるのは彼女の方だ。時雄が口を開いた。「志津、金が返せないのは仕方ないとしても、過ちを犯した以上、それ相応の代償は払ってもらわなければな」時雄はテーブルの上にある箸を一本手に取ると、無造作に志津の目の前に放り投げた。「観音像を壊した方の手を、その箸で突き刺せ。そうすれば、この件は水に流してやろう」時雄は薄く笑った。「もちろん、もしあなたがやったんじゃないなら話は別だ。いい歳をして、他人の罪を被る必要はないと忠告しておくよ」志津は呆然とした。時雄様は、箸で手のひらを貫けと言っているのだ。彼女の瞳は恐怖に染まり、震えながら理香子の方を見た。理香子の顔色も真っ白になった。まさか時雄がここまで執拗に追い詰めてくるとは思わなかったのだ。テーブルの下で握りしめた手が止まらない震えを帯びている。志津は高齢だ。賠償金なら泣きついて誤魔化せても、身体への拷問となれば耐えられる保証はない。案の定、志津は再びすがるような目を向けてきた。「奥様、お助けください……」理香子は即座に立ち上がり、罵声を浴びせた。「志津!私を見てどうするの。私とは何の関係もないでしょう。日頃いつも親切にしてあげて、子供たちの就職まで世

  • 断ち切るのは我が意   第95話

    もし本当に電気が消され、自分の体に金粉が浮かび上がれば、すべてはおしまいだ。観音像を故意に破損し、時雄たちを陥れようとした事実が、ここにいる全ての招待客の知るところとなる。そうなれば、家事を取り仕切る権限を失うどころか、激怒した須恵に屋敷を追い出されかねない。名声は地に落ち、身の破滅だ。絶対にそれだけは阻止しなければならない。理香子は顔を巡らせ、志津を睨みつけた。志津は理香子の実家の叔母であり、最も信頼できる身内でもある。理香子の凶悪な眼差しを見て、志津は即座にその意図を悟った。自分と家族の運命は、すべて理香子に握られている。息子や娘も、理香子のコネで職を得て生活しているのだ。もし理香子が小林家を追放されれば、一家の頼みの綱も断たれてしまう。志津は意を決した。彼女はそのまま須恵の前に進み出て、どさりと膝をついた。「大奥様、私でございます。観音像を壊してしまったのは、私でございます」志津は床に頭を擦り付けた。「先ほど、奥様に言われて贈り物を取りに行った際、魔が差したと申しますか……好奇心に負けて、箱の中身を覗いてしまったのです。まさか蓋を開けた拍子に観音様が滑り落ちて、机にぶつかってしまうとは……すべて私の責任でございます。大奥様、罰ならどうか私に」志津が突然土下座をして罪を被ったことに、周囲は呆気にとられた。だが、誰の目にもそれが身代わりであることは明らかである。とはいえ、名家の内情とはこういうものだ。表沙汰になれば家の顔に泥を塗るような不祥事には、罪を被る哀れな生贄が必要になる。須恵も海千山千の古狸で、裏で何が起きているかなど、鏡を見るように明らかだ。この件に長男の嫁が関わっていることは百も承知だ。身内だけなら家法で厳しく裁くところだが、今日は大勢の客がいる。これ以上恥をさらすわけにはいかない。志津が自ら罪を被りに出てきたのなら、それに乗っかるのが得策だ。「志津、あなたは二十年以上も小林家に仕えてきた人だ。家の掟は分かっているだろう。これほどの不始末をしでかしては、もうこの家には置いておけない。明日、荷物をまとめて実家へ帰りなさい」志津は床に額を打ち付け、涙を流して懇願した。「大奥様、二十年以上、誠心誠意お仕えしてまいりました。ほんの手元が狂っただけなのです。どうかお許

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status