LOGIN会社の飲み会。最後に残った空席は二つだけだった。 一つは隅っこの席。もう一つは、私・柳城薊(やなしろ あざみ)が3年間秘密で付き合っている彼氏・石動啓哉(いするぎ けいや)の隣。 私が一歩前に出ようとした瞬間、啓哉は私の親友・早島彩夏(はやしま あやか)を呼んだ。 「早島、こっちに座りな」 周りの同僚たちはすかさず冷やかしの声を上げ、社内のLINEグループも大盛り上がりだった。 【美男美女!並んで座ってるだけで目の保養!】 【社長があんな風に誰かを気にかけるの、初めて見た!】 【絶対に早島さんのこと特別視してるって!もうこの2人、付き合ってるようなもんじゃない?】 飲み会の間中、啓哉は変な疑いを持たれないようにするためか、私とは一度も目を合わせなかった。 店員が料理をこぼして私が火傷をしてしまった時でさえ、彼はお酒を勧められている彩夏を庇っていた。 その瞬間、私の頭を、ふとこんな考えがよぎった。 ――この日陰の恋は、もう終わりにしよう、と。
View Moreスマホに次々と送られてくる罵詈雑言を目にした彩夏は、すべて自分のせいだと思い詰め、SNSのアプリをすべて削除した。それでも罵倒の電話は鳴り止まず、最終的に彼女はスマホを解約し、誰も知らない新しい街で人生をやり直す道を選んだ。一方、私は母に啓哉と別れたことを伝え、これからは彼の電話に出ないように、そして私の近況も教えないようにと頼んだ。母は理由を尋ねることもなく、それきり啓哉に私のことを話すことはなかった。それから1年後、私が婚約した時のことだ。母は嬉しさのあまりその報告をSNSに投稿してしまい、うっかり啓哉をブロックするのを忘れていたのだ。すぐに啓哉から電話がかかってきた。電話越しの声はひどく沈んでいた。「薊……結婚するのか?」私は短く答えた。「ええ」しばらく黙り込んだ後、啓哉が口を開く。「もう一度だけ、チャンスをくれないか?君が嫌がっていたこと、全部直すから。もう二度と、君との関係を隠したりしない。薊、君を失いたくないんだ」必死に懺悔する彼の言葉を聞いても、私の心は少しも揺れ動かなかった。思い返せば、啓哉と付き合っていた頃、彼は外では冷徹な社長でありながら、家の中では私だけの優しい彼氏だった。公にしたがらないこと以外は、これといって不満もなかった。周りの友人たちも「彼なりの考えがあるんだよ」「社長という立場上、プライベートをあまり表に出せないのは仕方ない」と言ってくれていた。彼なりに十分大切にしてくれているのだから、これ以上高望みする必要はないと、当時の私は自分に言い聞かせていたのだ。しかし、今の婚約者である瀬名彰(せな あきら)に出会って、その考えは変わった。彼の会社は啓哉の会社ほど規模は大きくないが、彰は出会って間もない頃から、周りの誰に対しても「俺は彼女に本気なんだ」と堂々と公言してくれていた。そのおかげで、私は自分が本当に大切にされているのだと実感できた。だからこそ彼に心を開き、交際を経て、最終的に結婚を決意したのだ。「もうチャンスはないわ。今の彼が、私をすごく大切にしてくれているから」……その後、結婚式に啓哉を招待することはなかったが、かといって式場に出入り禁止の手配まで回すようなことはしなかった。だから式の当日、啓哉はやはり姿を現した。彼はご祝儀を渡
帰宅した啓哉は、まるで抜け殻のように心ここにあらずだった。薊のあの言葉を聞いた彼は、ずっと開かずにいた会社のLINEグループを開く。あの日のやり取りまで遡り、そこから下へスクロールしていくうちに、次第に目が冴え、眠気などとうに吹き飛んでいた。そうして彼はようやく知る。薊がこれまで、どれほど理不尽な扱いを受けてきたかを。彼が二人の関係を公にせず、意図的に距離を置いていたせいで、会社の人たちはLINEグループの中で好き勝手に薊の陰口を叩いていたのだ。「妄想女」という言葉は、彼らの間で面白おかしく使われ続け、薊のちょっとした一挙手一投足でさえも、誰かがLINEに書き込んでは嘲笑の的にされていた。画面を見つめる啓哉の額に、青筋が浮かぶ。翌朝、出社するなり彼はまっすぐ人事部へ向かい、中島課長を問い詰めた。「柳城さんが会社にいた時、多くの人間から嫌がらせを受けていたというのは本当か?」中島課長は直接的な明言は避けつつも、ただ静かにこう言った。「社員たちは、社長と柳城さんの間によそよそしさがあると気づいてから、社長の機嫌を損ねないようにと、彼女をまるで空気のように扱っていました。柳城さんはいつも一人で食事をしていましたし、飲み会でも、彼女の隣に座りたがる人はほとんどいませんでしたね。最初は柳城さん自身、そんなことを気にも留めていませんでした。でも昇進の件が何度も却下され、ペアグッズの一件まで広まってからは、彼女に『妄想女』というレッテルまで貼られて……彼女をネタにすることが、いつしか彼らの日課のような暇つぶしになっていたんです」中島課長は深くため息をつく。「柳城さんは基本、そんなくだらないことを相手にしていなかったので、放っておけば自然と収まっていったはずなんです。ですが、社長がまた彼女をあからさまに避けるような素振りを見せるたびに、過去のことが蒸し返されてしまって。そのたびに彼らはまたLINEグループで盛り上がり、会社全体で柳城さんを仲間外れにするよう仕向けていたんですよ」その話を聞きながら、啓哉の胸は締めつけられるように重くなった。自分は今まで、薊のことなど何一つ気にかけていなかったのだと、今さらながら思い知った。ただ彼女に「あんな連中のことなど気にするな、どうでもいい奴らだ。仕事に集中しろ」としか言って
気まずそうに黙り込んだその顔を見て、私は冷ややかに口を開く。「つまり、何もしなかったから自分は悪くないと、そう思っているの?啓哉、私が低血糖で倒れそうになった時も、深夜1時の夜道に一人で置き去りにされた時も、あなたは他の女を庇って、家に連れて帰ったじゃない。それでも自分は悪くないって思ってるの?確かにあなたは決定的な浮気はしていないかもしれない。でもね、私はもう、こんな日陰の恋を続けるのはごめんなの」私の言葉を聞いて、啓哉の顔色がすっと暗くなる。彼はポケットから婚約指輪を取り出した。「でも、薊……俺はもう、君にプロポーズする準備ができているんだ。見てくれ、これは特注で作らせた婚約指輪だ。君の名前のイニシャルまで刻んである。別れることなんて、一度だって考えたことはない。関係を隠して君に辛い思いをさせたことは分かってる。でも、今はもう会社の人間も俺たちが付き合っていることを知っているじゃないか。今さら別れる必要なんてないだろう?」私はただ、静かに彼を見つめ返す。「一度割れた鏡は、いくら繋ぎ合わせても元通りには映らないわ。もう終わりにしましょう、啓哉。あなたの謝罪は受け入れられない」それまで黙っていた彩夏が歩み寄り、啓哉を庇うように口を挟む。「薊、社長と別れる必要なんてないと思う。あの日からずっと、彼は仕事も手につかない様子だったし、あなたが退職したと知った日には、全身ホコリまみれになりながら、あなたの指輪を探し回ってたんだよ。彼が本気であなたを愛しているのが、私には分かる」啓哉の肩を持つ彼女の言葉を聞いて、私は思わず鼻で笑ってしまう。「彩夏、私のためって顔をして、そんな綺麗事を言うのはやめて。最初、あなたは私の味方になるためにこの会社に入ってくれた。でもその後どうした?結局は他の人たちと一緒になって、私を仲間外れにしたじゃない。私と啓哉の関係を知っていたくせに、ずっと知らないフリをして、他の人たちが私を攻撃するのも黙って見ていたわよね。あなたがどんな下心でそんなことをしていたのか、あなた自身が一番よく分かってるはずよ」痛いところを突かれ、彩夏の顔色が一瞬にして変わる。口を開きかけたまま、しばらく言葉が出てこない。最初は確かに、彼女は私を助けるためにこの会社に入ってきた。しかし実際
私は無表情のまま、何も答えなかった。啓哉が私の母親に電話をかけていなければ、今日ここへ来ることは絶対になかった。母は私たちが別れたことを知らず、私の新しい住所を彼に教えてしまったのだ。このままでは彼が家まで押しかけてくるかもしれない――それを避けるため、私は仕方なくこの場に足を運ぶことにした。それにしても、会社の人間がこんなに揃っているとは思いもしなかった。何人かの元同僚はバツの悪そうな顔をして、引きつった笑いを浮かべている。「柳城さん……本当に社長の彼女だったんですか?」「でも、あの日会社では『上司と部下の関係』だって……」その話題を蒸し返され、啓哉の顔色がサッと曇る。あの時はただ保身のつもりで口にした一言だったのに、まさか私がそのせいで本当に別れを決意し、会社まで辞めるとは思っていなかったのだろう。啓哉は神妙な面持ちで頭を下げた。その様子は真剣そのものだった。「薊、あの時はただ、公私を分けたかっただけで、俺たちのプライベートな関係を公の場に持ち込みたくなかったんだ。もしそれで君を怒らせたなら、謝る。本当にすまなかった」先ほどまで半信半疑だった元同僚たちも、啓哉が頭を下げる姿を見て、私が社長の本当の彼女であることを完全に確信したようだ。かつて私に投げつけた数々の暴言を思い出し、大半の顔から血の気が引いていく。彼らも慌てて私に謝罪し始めた。「柳城さん、まさか本当に社長の彼女だったなんて知らなくて……」「会社でのひどい発言、どうか許してください……!」怯えたように取り繕う彼らの顔を見て、私はただ滑稽でならなかった。彼らは心から悪いと思っているわけではない。ただ自分の首が飛ぶのを恐れて、こうして手のひらを返したように謝り、すり寄ってきているだけだ。私は静かに答えた。「謝る必要なんてありません。もう退職した身ですから」そして、啓哉の方へと視線を移す。「それに、そんなこともうどうでもいいの。私たち、とっくに別れてるでしょ」その言葉を聞いた啓哉の眉間に、深いしわが刻まれる。元同僚たちは空気が険悪になったのを察し、そそくさと謝罪の言葉を残してその場から逃げ去っていった。啓哉は切羽詰まった様子で私の手を掴み、まるですがるような声で言う。「薊、どうして許してくれないんだ?