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日陰の恋が醒める時

日陰の恋が醒める時

By:  凪波 舟Completed
Language: Japanese
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会社の飲み会。最後に残った空席は二つだけだった。 一つは隅っこの席。もう一つは、私・柳城薊(やなしろ あざみ)が3年間秘密で付き合っている彼氏・石動啓哉(いするぎ けいや)の隣。 私が一歩前に出ようとした瞬間、啓哉は私の親友・早島彩夏(はやしま あやか)を呼んだ。 「早島、こっちに座りな」 周りの同僚たちはすかさず冷やかしの声を上げ、社内のLINEグループも大盛り上がりだった。 【美男美女!並んで座ってるだけで目の保養!】 【社長があんな風に誰かを気にかけるの、初めて見た!】 【絶対に早島さんのこと特別視してるって!もうこの2人、付き合ってるようなもんじゃない?】 飲み会の間中、啓哉は変な疑いを持たれないようにするためか、私とは一度も目を合わせなかった。 店員が料理をこぼして私が火傷をしてしまった時でさえ、彼はお酒を勧められている彩夏を庇っていた。 その瞬間、私の頭を、ふとこんな考えがよぎった。 ――この日陰の恋は、もう終わりにしよう、と。

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Chapter 1

第1話

お手洗いで火傷の応急処置をしていると、30分前に彩夏から届いていたメッセージが目に入った。

【薊、LINEグループで言われてること、変に誤解しないでね。みんな面白がって騒いでるだけだから、気にしないで】

手を拭き、私は【分かってるよ】とだけ返信した。

1分前には、啓哉からもメッセージが届いていた。

【さっきのは、周囲の目を気にして避けただけだ。深く考えないでくれ】

このメッセージを見つめていると、なぜか胸の奥がじわりと重くなる。

入社して3年、社員旅行でも飲み会でも会議の席でも、数えきれないほどの場面で、啓哉の隣に座るのは、いつも各部署の部長や、彩夏や、他の社員たちだった。私だったことは、一度もない。

たとえ私が彼と並んで立つ機会があったとしても、彼は周囲に疑われないようにと誰かと場所を代わり、私の視線に気付かないふりをし、私の言葉を聞き流すのだ。

会社の人たちも彼のそのよそよそしい態度に気づき、私を軽んじて、すっかり蚊帳の外に置くようになっていた。

私はスマホの画面を消し、返信はしなかった。

席に戻ると、皆はまだ賑やかに食事を楽しみ、談笑していて、まるで何事もなかったかのようだ。

ただ、手の火傷の水ぶくれがズキズキと痛むたびに、「もう別れよう」という決意が確かなものになっていく。

飲み会がお開きになると、車を運転するからとウーロン茶を飲んでいた啓哉のそばへ、同僚たちが彩夏を押しやった。

「社長、今日は台風でタクシーが全然つかまりません。早島さんが一人で帰るのも危ないですし、申し訳ありませんが、彼女を家まで送っていただけないでしょうか?」

啓哉は断ることなく頷いた。

「ああ。浜区の方向だけど、他にも同じ方面の人はいるか?」

彼は何気ない様子で口にしたが、その視線はまっすぐ私に向けられていた。

私は喉の奥がキュッと締まるのを感じた。

3年前、仕事帰りに見知らぬ男に後をつけられて以来、一人で夜道を歩くことにトラウマを抱えている。

それを知った啓哉は、それから毎日、私を密かに家まで送ってくれるようになった。

思わず口を開く。

「私も……」

「他の皆は僕が送りますから」

ある男性社員が私の言葉を遮り、目の前に割り込んでくる。

「社長は、早島さんのことをよろしくお願いします」

啓哉は少しの間、私を見つめたままだったが、やがて視線を逸らす。

小さく頷いて背を向け、「頼んだ」とだけ言い残すと、車を出して去っていった。

私が自分の住所を告げると、送ってくれることになった同僚は困った顔をした。

「柳城さん、浜区の方向だったなら早く言ってくださいよ!

もう夜中の1時だし、柳城さんを送ってから帰るとなると、かなり時間かかっちゃうんで……悪いけど、自力でタクシー拾ってくれないかな?

台数少ないかもしれないけど、待ってればそのうち捕まると思うから」

私は黙って配車アプリを開く。表示された予想待ち時間は――53分。

LINEグループには、「無事に帰宅しました」という報告が次々と流れてくる。

誰が口火を切ったのか、いつの間にか話題は私と彩夏のことへと移っていた。

【あの人さ、いつも社長にべったりくっついてない?社長から嫌がられてるの、気づいてないのかな?】

【それな!社長が早島さんを呼んでなかったら、絶対あそこに座るつもりだったよね!】

【それにさっき社長が同じ方面の人いるかって聞いたのだって、早島さんと二人きりになりたかったから建前で聞いただけでしょ?本気にしてたの、たぶんあの人だけだよ】

彩夏から控えめなフォローのメッセージが入る。

【みんな、そういう言い方はやめなよ。社長はただ、私が新人だから気を使ってくれただけだよ】

それを見た同僚たちはさらにヒートアップする。

【前、あの人が入社したての頃、チームリーダーに怒られて書類をぶちまけた時なんて、社長素通りだったじゃん】

【それに社長、否定してないじゃん。それが何を意味するか、みんな分かってるよね!】

これらのやり取りを見ていても、私の心はもう何も感じなくなっていた。

そもそも彩夏がこの会社に入ってきたのは、私が職場で風当たりが強いと聞いて、私を助けるためだった。

それが今では、すっかり人気者になっている。

私にかけてくれるのは、当たり障りのない言葉ばかり。

「気にしないで」「悪気はないから」――それだけ。

彩夏と啓哉の噂が社内で広まった時も、啓哉はただ「自分の仕事にでも集中しろ。そんなくだらないことに気を取られるな」と言っただけだった。

――くだらないこと。

本当に大切な相手になら、きっとそんな言葉は言えないはずだ。

冷たい夜風が、頬を撫でる。

私はLINEグループを退会し、スマホから退職届のメールを送信した。

もう別れると決めたのなら、これ以上我慢する必要なんてないのだ。

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第1話
お手洗いで火傷の応急処置をしていると、30分前に彩夏から届いていたメッセージが目に入った。【薊、LINEグループで言われてること、変に誤解しないでね。みんな面白がって騒いでるだけだから、気にしないで】手を拭き、私は【分かってるよ】とだけ返信した。1分前には、啓哉からもメッセージが届いていた。【さっきのは、周囲の目を気にして避けただけだ。深く考えないでくれ】このメッセージを見つめていると、なぜか胸の奥がじわりと重くなる。入社して3年、社員旅行でも飲み会でも会議の席でも、数えきれないほどの場面で、啓哉の隣に座るのは、いつも各部署の部長や、彩夏や、他の社員たちだった。私だったことは、一度もない。たとえ私が彼と並んで立つ機会があったとしても、彼は周囲に疑われないようにと誰かと場所を代わり、私の視線に気付かないふりをし、私の言葉を聞き流すのだ。会社の人たちも彼のそのよそよそしい態度に気づき、私を軽んじて、すっかり蚊帳の外に置くようになっていた。私はスマホの画面を消し、返信はしなかった。席に戻ると、皆はまだ賑やかに食事を楽しみ、談笑していて、まるで何事もなかったかのようだ。ただ、手の火傷の水ぶくれがズキズキと痛むたびに、「もう別れよう」という決意が確かなものになっていく。飲み会がお開きになると、車を運転するからとウーロン茶を飲んでいた啓哉のそばへ、同僚たちが彩夏を押しやった。「社長、今日は台風でタクシーが全然つかまりません。早島さんが一人で帰るのも危ないですし、申し訳ありませんが、彼女を家まで送っていただけないでしょうか?」啓哉は断ることなく頷いた。「ああ。浜区の方向だけど、他にも同じ方面の人はいるか?」彼は何気ない様子で口にしたが、その視線はまっすぐ私に向けられていた。私は喉の奥がキュッと締まるのを感じた。3年前、仕事帰りに見知らぬ男に後をつけられて以来、一人で夜道を歩くことにトラウマを抱えている。それを知った啓哉は、それから毎日、私を密かに家まで送ってくれるようになった。思わず口を開く。「私も……」「他の皆は僕が送りますから」ある男性社員が私の言葉を遮り、目の前に割り込んでくる。「社長は、早島さんのことをよろしくお願いします」啓哉は少しの間、私を見つめたままだったが、やがて視
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第2話
ようやくタクシーが捕まったのは、深夜2時を回った頃だった。戻ってきた私に気づき、啓哉がソファから立ち上がる。「さっき、どうして帰る方向が同じだって言わなかったんだ?言えば一緒に乗せて帰ったのに」その悪びれない問いかけを聞いて、思わず言い返したくなる。会社の人たちがあなたと彩夏をくっつけようとして、わざと割り込んで私を無視させたのが分からなかったの?あなたから「送ってく」って、どうして言ってくれなかったの?しかし、喉まで出かかったそれらの言葉は、結局そのまま飲み込んだ。「……うっかりしてた」そう言って彼に近づく。ふと、彼がペアのルームウェアを着ていることに気がついた。以前、突然の来客で怪しまれるのを気にするあまり、家の中でさえ啓哉は私とペアの服を着たことがなかったのに。私は少し胸が熱くなる。「ペアのものは絶対に使わないって言ってたじゃない」啓哉が口を開きかけたその時、バスルームから彩夏が出てきた。あろうことか、彼とお揃いのルームウェアを身に纏って。「私が着替えさせたの」彼女は悪びれもせず、にこにこと笑っている。「クローゼットの奥にペアのルームウェアが仕舞ってあるのを見つけて、つい借りちゃった。私も似たようなの欲しいなって思って、メンズのサイズ感を見ておきたかったの。それで啓哉さんに試着してもらったってわけ」私の表情は凍りつき、先ほどまで胸に抱いていたわずかな期待は跡形もなく消え去った。彼がペアの服を着てくれたのは、私の退職届を見て、引き止めようと交際を公にする気になったからだと思っていたのに――実際は彩夏のためだった。彼女は啓哉のルームウェア姿をまじまじと眺める。「うーん、やっぱり私がメンズを着るにはちょっと大きいかな。まあいいや、やっぱり買うのやめとく。どうせ彼氏もいないし、買っても着てくれる人いないもん」その言葉に滲む残念そうな響きを感じ取って、啓哉はごく自然に言葉を返す。「じゃあ、それを持って帰ればいい」彩夏の目がぱっと輝いた。「えっ、本当にいいの?」啓哉は素っ気ない顔をしているが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。「ああ。どうせ買ってから、薊は一度も着てないからな。置いといても場所を取るだけだ」私はうつむいたまま、拳を固く握り締め、そしてま
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第3話
翌日、リフレッシュルームでは皆が彩夏を囲んで噂話に花を咲かせていた。「早島さん、新しくアップした自撮り、絶対に自分の家じゃないよね!まさか、あれって……」「社長の家に泊まったんでしょ!」「しかもあのルームウェア、ペアっぽくない?わー、進展早すぎ!」「やっぱり社長、早島さんのこと狙ってたんだ!入社した時もわざわざ自分で案内してたし、あの時から『俺の女は俺が守る』みたいな独占欲ダダ漏れだったもんね!」「そうそう、この前早島さんが低血糖でちょっとふらついた時も、会社は次の日にはもう午後のおやつ制度を新設したよね」私はドアノブに手をかけたまま、思わず動きを止めた。あの日の昼、昼休憩を潰して彩夏のデータ修正を手伝い、昼食を摂る暇もなかった。そのせいで午後、リフレッシュルームで低血糖を起こしてふらついてしまった。啓哉はそれを見ていたにもかかわらず、私を通り越して、後ろで同じようにつまずきそうになっていた彩夏を抱き止めたのだ。その瞳に浮かんでいた焦りは、決して演技などではなかった。後になって、私がその件で怒っているのに気づいた啓哉は、こう説明した。「君には俺がいるが、彩夏にはまだ彼氏がいない。俺の会社で彼女が怪我でもしたら、俺の責任になる。君の友達だからこそ、特別に気を配っただけだ。まさか親友にまで焼きもちを焼いてるのか?」私はもう室内の冷やかしの声を聞く気になれず、踵を返して立ち去る。そこへ、人事部の相馬が興奮した様子で駆け込んできた。「みんな、聞いてくれ!とんでもないニュースを2つも仕入れてきたよ!社長、どうやら結婚するらしい!さっき、婚約指輪がどうとかって話が耳に入ったんだ!」同僚たちが彩夏を囲んでからかう声は、さらに大きくなった。「やるじゃん、早島さん!もうすぐゴールインだね!」相馬は咳払いをして言葉を続ける。「2つ目のニュースはこれだ!まだ内密の話だけど、社長が昇進者リストに判を押したみたいで、それって君たちのチームから出るらしいよ」それを聞いた同僚たちはまた大騒ぎを始める。「早島さん以外に誰がいるのさ!」「先に『社長夫人』って呼ばせてもらおうかな――」彩夏はやんわりとかわす。「そんなの分からないよ。薊の方が私より長く働いてるし」私はその先の話を、それ以上
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第4話
彩夏は少し傷ついたような表情を浮かべる。「薊、もしかして降格されたこと、怒ってる?でも、昇進も降格も社長が総合的に判断したことだし、私にはどうすることもできないよ」私は表情を崩さずに答える。「怒ってなんかないよ。社長の決めたことに、ヒラ社員が口を出せるわけないしね」私のそっけない口調を聞いて、彩夏は目尻を赤くした。「そんなこと言って!私のコーヒーを受け取らないなんて、絶対怒ってるじゃない!」彩夏の涙ぐむ姿を見た周囲の同僚たちが、次々と彼女の味方についた。「柳城さん、早島さんが昇進したからって嫉妬してるわけ?」「会議の後、早島さんはチーム全員に飲み物を奢ってくれたのよ。あなたの分だってちゃんと取っておいたのに、感謝の一つもしないなんて」「早島さん、もうこんな人放っておきなよ。どうせ実力不足だから、3年も社長に昇進を止められてたんでしょ!」「それに3年前、社長とお揃いのものを買って社内の笑い者になってたよね。とっくに嫌われてたはずなのに、図々しくも3年もここにいたなんてね」同僚たちの冷たい視線と心ない言葉が、波のように私に押し寄せてくる。私は深く息を吸い込み、冷静な声で答えた。「コーヒーを断ったのは、カフェインを摂れない体質だから。最初から最後まで、私はあなたの昇進に不満があるなんて、一言も言ってないけど?」コーヒーを持った彼女の手が空中でピタリと止まり、その目にみるみる涙が浮かんできた。「ごめんなさい、薊。カフェインが駄目だなんて知らなくて……」彩夏が涙を流すのを見て、同僚たちはさらに敵意のこもった目を私に向ける。「柳城さん、何その言い方!飲めないなら普通に言えばいいじゃない!」「そもそも、本当は早島さんに嫉妬してるだけでしょ!社長の特別扱いとか、プロポーズの噂があるからってさ!」彼らの悪意に満ちた憶測を聞いているうち、3年間溜め込んできた悔しさがとうとう爆発し、私はついに指にはめたシンプルなペアリングを見せつけた。「啓哉は私の彼氏なの。なんで私が彩夏に嫉妬しなきゃいけないわけ?」その場が一瞬、しんと静まり返る。やがて、誰かが吹き出すように笑い声を上げた。「ウケる!マジで自分のこと社長の彼女だと思ってるの?」「ここまで来ると、もはやストーカーでしょ!自分で自分に
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第5話
啓哉は一瞬、息を呑んで体をこわばらせたが、それでも無理に平静を装って言う。「そんなはずはない。俺は彼女に7日間の出勤停止を命じただけで、辞めさせるなんて一言も言ってないぞ」「柳城さんご自身の意思で退職届を提出されたんですよ」中島課長は少し言葉を区切り、こう続けた。「社長、率直に申し上げますが、柳城さんへの評価は少し厳しすぎたのではないでしょうか。彼女と同期に入社した社員は、とっくにチームリーダーやプロジェクトの責任者になっているのに、彼女だけが、いつまでも同じポジションに据え置かれたままなんです。いつまでも同じ場所に留まりたいと思う人間なんて、どこにもいませんよ」その言葉を聞いて、啓哉の手のひらにじっとりと汗がにじむ。もしかして、本当に薊に対して厳しすぎたのだろうか?彼としては、ただ周囲の目を気にしての判断だった。いずれ二人の関係が公になった時、薊がコネや不正な手段でのし上がったと陰口を叩かれないようにするためだ。だからこそ、彼女の昇進を何年にもわたって却下し続けたのだ。もっと彼女を鍛え、誰からも文句を言われない実力をつけさせたいという思いからだったが、結果として彼女の気持ちを完全に置き去りにしていた。だが、それにしても退職までする必要はないだろう。自分に一言の相談すらないなんて。啓哉はなんとか冷静さを保とうとして尋ねる。「彼女が退職を申し出たのは、いつだ?」中島課長は少し間を置き、手元のパソコンで人事システムを確認してから答えた。「あの飲み会があった日の、深夜です」啓哉の脳裏に、1週間前の記憶が蘇る。あの飲み会の日の、薊の異変が次々と思い出された。以前なら、ほんの小さなすり傷でもLINEで何度も痛いと甘えてきた彼女が、あの日は火傷を負ったにもかかわらず、文句一つ言わずに一人で処置をしていた。深夜の2時になるまで一人で待ち続け、ようやくタクシーを捕まえて帰宅したのだ。そして、あのルームウェアを彩夏に譲った時でさえ、彼女は何も言い返さなかった。出勤停止を命じられた日に至っては、自ら指輪を外してしまった。胸の奥から、掴みどころのない不安が湧き上がってきて、啓哉は早足で薊のデスクへ向かう。机の上には、何一つ残されていなかった。数人の同僚たちは、社長が彩夏に会いに来たのだと思い込
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第6話
退職した社員の私物は、小さな段ボール箱にまとめられている。数はさほど多くないが、指輪は小さすぎるため、探し出すのにひどく苦労した。啓哉は箱の中身を次から次へとひっくり返し、ようやく目立たない隅っこで二人のペアリングを見つけ出した。用具入れから出てきたときには、啓哉のいつも隙のないスーツ姿が埃まみれになっていた。その姿を見た社員たちは目を丸くする。「社長、それは一体……」しかし啓哉はそんな視線など気にも留めず、指輪を握りしめたまま彩夏の腕を掴んで歩き出す。「薊と連絡が取れない。君のスマホからならメッセージが届くか?」そう言って、彩夏のスマホを半ば奪い取るように手にし、啓哉はそのままメッセージを打ち込んだ。【薊、どこにいるんだ?】だが、送信したメッセージは既読がつかないままだった。啓哉の心に焦りが走った。どうしてだ。なぜ薊は、俺だけでなく彩夏までブロックしたのだろうか?彩夏はわざとらしく悲しげな表情を作る。「啓哉さん、薊はやっぱり昇進の件でまだ怒っているんでしょうか?いっそ、チームリーダーを薊に譲ったほうがいいんじゃ……どうせ私はまだ社歴が浅いですし、私が彼女の上司になったら、薊も絶対に納得できないはずですから」啓哉は眉をひそめたまま答えなかった。先ほどの焦りが通り過ぎると、突然心が落ち着きを取り戻し、薊が大げさに騒いでいるだけだと思えてきたのだ。彩夏の言う通りだ。彼女はただ、役職のことで機嫌を損ねているに違いない。数日も放っておけばいい。……それから、啓哉から薊に連絡してくることはなかった。あの日のちょっとした騒動が過ぎ去ると、彩夏と啓哉の噂は再び社内で勢いを増していく。二人が同じ車から降りてくるのを目撃した者までいるらしい。彩夏本人は否定したものの、それを信じない一部の野次馬が帰宅経路をチェックし、なんと彼らが同じ高級マンションに帰っていくことまで突き止めたそうだ。同僚たちがその噂をネタに、「近々おめでたい報告があるのでは」と問い詰めると、彩夏は言葉を濁して言った。「まだそういう段階じゃないですから、変な想像はしないでくださいね」その曖昧な返事を聞いた人たちはますます彼女を社長夫人扱いするようになった。啓哉がどれだけ待っても薊から折れてくる気配はない。
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第7話
私は無表情のまま、何も答えなかった。啓哉が私の母親に電話をかけていなければ、今日ここへ来ることは絶対になかった。母は私たちが別れたことを知らず、私の新しい住所を彼に教えてしまったのだ。このままでは彼が家まで押しかけてくるかもしれない――それを避けるため、私は仕方なくこの場に足を運ぶことにした。それにしても、会社の人間がこんなに揃っているとは思いもしなかった。何人かの元同僚はバツの悪そうな顔をして、引きつった笑いを浮かべている。「柳城さん……本当に社長の彼女だったんですか?」「でも、あの日会社では『上司と部下の関係』だって……」その話題を蒸し返され、啓哉の顔色がサッと曇る。あの時はただ保身のつもりで口にした一言だったのに、まさか私がそのせいで本当に別れを決意し、会社まで辞めるとは思っていなかったのだろう。啓哉は神妙な面持ちで頭を下げた。その様子は真剣そのものだった。「薊、あの時はただ、公私を分けたかっただけで、俺たちのプライベートな関係を公の場に持ち込みたくなかったんだ。もしそれで君を怒らせたなら、謝る。本当にすまなかった」先ほどまで半信半疑だった元同僚たちも、啓哉が頭を下げる姿を見て、私が社長の本当の彼女であることを完全に確信したようだ。かつて私に投げつけた数々の暴言を思い出し、大半の顔から血の気が引いていく。彼らも慌てて私に謝罪し始めた。「柳城さん、まさか本当に社長の彼女だったなんて知らなくて……」「会社でのひどい発言、どうか許してください……!」怯えたように取り繕う彼らの顔を見て、私はただ滑稽でならなかった。彼らは心から悪いと思っているわけではない。ただ自分の首が飛ぶのを恐れて、こうして手のひらを返したように謝り、すり寄ってきているだけだ。私は静かに答えた。「謝る必要なんてありません。もう退職した身ですから」そして、啓哉の方へと視線を移す。「それに、そんなこともうどうでもいいの。私たち、とっくに別れてるでしょ」その言葉を聞いた啓哉の眉間に、深いしわが刻まれる。元同僚たちは空気が険悪になったのを察し、そそくさと謝罪の言葉を残してその場から逃げ去っていった。啓哉は切羽詰まった様子で私の手を掴み、まるですがるような声で言う。「薊、どうして許してくれないんだ?
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第8話
気まずそうに黙り込んだその顔を見て、私は冷ややかに口を開く。「つまり、何もしなかったから自分は悪くないと、そう思っているの?啓哉、私が低血糖で倒れそうになった時も、深夜1時の夜道に一人で置き去りにされた時も、あなたは他の女を庇って、家に連れて帰ったじゃない。それでも自分は悪くないって思ってるの?確かにあなたは決定的な浮気はしていないかもしれない。でもね、私はもう、こんな日陰の恋を続けるのはごめんなの」私の言葉を聞いて、啓哉の顔色がすっと暗くなる。彼はポケットから婚約指輪を取り出した。「でも、薊……俺はもう、君にプロポーズする準備ができているんだ。見てくれ、これは特注で作らせた婚約指輪だ。君の名前のイニシャルまで刻んである。別れることなんて、一度だって考えたことはない。関係を隠して君に辛い思いをさせたことは分かってる。でも、今はもう会社の人間も俺たちが付き合っていることを知っているじゃないか。今さら別れる必要なんてないだろう?」私はただ、静かに彼を見つめ返す。「一度割れた鏡は、いくら繋ぎ合わせても元通りには映らないわ。もう終わりにしましょう、啓哉。あなたの謝罪は受け入れられない」それまで黙っていた彩夏が歩み寄り、啓哉を庇うように口を挟む。「薊、社長と別れる必要なんてないと思う。あの日からずっと、彼は仕事も手につかない様子だったし、あなたが退職したと知った日には、全身ホコリまみれになりながら、あなたの指輪を探し回ってたんだよ。彼が本気であなたを愛しているのが、私には分かる」啓哉の肩を持つ彼女の言葉を聞いて、私は思わず鼻で笑ってしまう。「彩夏、私のためって顔をして、そんな綺麗事を言うのはやめて。最初、あなたは私の味方になるためにこの会社に入ってくれた。でもその後どうした?結局は他の人たちと一緒になって、私を仲間外れにしたじゃない。私と啓哉の関係を知っていたくせに、ずっと知らないフリをして、他の人たちが私を攻撃するのも黙って見ていたわよね。あなたがどんな下心でそんなことをしていたのか、あなた自身が一番よく分かってるはずよ」痛いところを突かれ、彩夏の顔色が一瞬にして変わる。口を開きかけたまま、しばらく言葉が出てこない。最初は確かに、彼女は私を助けるためにこの会社に入ってきた。しかし実際
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第9話
帰宅した啓哉は、まるで抜け殻のように心ここにあらずだった。薊のあの言葉を聞いた彼は、ずっと開かずにいた会社のLINEグループを開く。あの日のやり取りまで遡り、そこから下へスクロールしていくうちに、次第に目が冴え、眠気などとうに吹き飛んでいた。そうして彼はようやく知る。薊がこれまで、どれほど理不尽な扱いを受けてきたかを。彼が二人の関係を公にせず、意図的に距離を置いていたせいで、会社の人たちはLINEグループの中で好き勝手に薊の陰口を叩いていたのだ。「妄想女」という言葉は、彼らの間で面白おかしく使われ続け、薊のちょっとした一挙手一投足でさえも、誰かがLINEに書き込んでは嘲笑の的にされていた。画面を見つめる啓哉の額に、青筋が浮かぶ。翌朝、出社するなり彼はまっすぐ人事部へ向かい、中島課長を問い詰めた。「柳城さんが会社にいた時、多くの人間から嫌がらせを受けていたというのは本当か?」中島課長は直接的な明言は避けつつも、ただ静かにこう言った。「社員たちは、社長と柳城さんの間によそよそしさがあると気づいてから、社長の機嫌を損ねないようにと、彼女をまるで空気のように扱っていました。柳城さんはいつも一人で食事をしていましたし、飲み会でも、彼女の隣に座りたがる人はほとんどいませんでしたね。最初は柳城さん自身、そんなことを気にも留めていませんでした。でも昇進の件が何度も却下され、ペアグッズの一件まで広まってからは、彼女に『妄想女』というレッテルまで貼られて……彼女をネタにすることが、いつしか彼らの日課のような暇つぶしになっていたんです」中島課長は深くため息をつく。「柳城さんは基本、そんなくだらないことを相手にしていなかったので、放っておけば自然と収まっていったはずなんです。ですが、社長がまた彼女をあからさまに避けるような素振りを見せるたびに、過去のことが蒸し返されてしまって。そのたびに彼らはまたLINEグループで盛り上がり、会社全体で柳城さんを仲間外れにするよう仕向けていたんですよ」その話を聞きながら、啓哉の胸は締めつけられるように重くなった。自分は今まで、薊のことなど何一つ気にかけていなかったのだと、今さらながら思い知った。ただ彼女に「あんな連中のことなど気にするな、どうでもいい奴らだ。仕事に集中しろ」としか言って
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第10話
スマホに次々と送られてくる罵詈雑言を目にした彩夏は、すべて自分のせいだと思い詰め、SNSのアプリをすべて削除した。それでも罵倒の電話は鳴り止まず、最終的に彼女はスマホを解約し、誰も知らない新しい街で人生をやり直す道を選んだ。一方、私は母に啓哉と別れたことを伝え、これからは彼の電話に出ないように、そして私の近況も教えないようにと頼んだ。母は理由を尋ねることもなく、それきり啓哉に私のことを話すことはなかった。それから1年後、私が婚約した時のことだ。母は嬉しさのあまりその報告をSNSに投稿してしまい、うっかり啓哉をブロックするのを忘れていたのだ。すぐに啓哉から電話がかかってきた。電話越しの声はひどく沈んでいた。「薊……結婚するのか?」私は短く答えた。「ええ」しばらく黙り込んだ後、啓哉が口を開く。「もう一度だけ、チャンスをくれないか?君が嫌がっていたこと、全部直すから。もう二度と、君との関係を隠したりしない。薊、君を失いたくないんだ」必死に懺悔する彼の言葉を聞いても、私の心は少しも揺れ動かなかった。思い返せば、啓哉と付き合っていた頃、彼は外では冷徹な社長でありながら、家の中では私だけの優しい彼氏だった。公にしたがらないこと以外は、これといって不満もなかった。周りの友人たちも「彼なりの考えがあるんだよ」「社長という立場上、プライベートをあまり表に出せないのは仕方ない」と言ってくれていた。彼なりに十分大切にしてくれているのだから、これ以上高望みする必要はないと、当時の私は自分に言い聞かせていたのだ。しかし、今の婚約者である瀬名彰(せな あきら)に出会って、その考えは変わった。彼の会社は啓哉の会社ほど規模は大きくないが、彰は出会って間もない頃から、周りの誰に対しても「俺は彼女に本気なんだ」と堂々と公言してくれていた。そのおかげで、私は自分が本当に大切にされているのだと実感できた。だからこそ彼に心を開き、交際を経て、最終的に結婚を決意したのだ。「もうチャンスはないわ。今の彼が、私をすごく大切にしてくれているから」……その後、結婚式に啓哉を招待することはなかったが、かといって式場に出入り禁止の手配まで回すようなことはしなかった。だから式の当日、啓哉はやはり姿を現した。彼はご祝儀を渡
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