LOGIN夫・藤原牧生(ふじわら まきお)は、車椅子に乗って3年間も足が不自由なふりをしていた。 豪華客船が火事になったあの夜、燃え落ちたうつばりが、私・佐山由実(さやま ゆみ)の足をへし折った。私は声が枯れるほど彼の名を叫び、助けを求めた。 けれど彼は車椅子に座ったまま、冷たく私を見下ろして言った。 「遠すぎる。行けない。自分で這ってこい」 その直後、彼の初恋の人が足を滑らせて海へ落ちた。 すると牧生は突然立ち上がり、何事もなかったように駆け出し、デッキの縁からためらいなく漆黒の海へ飛び込んだ。 そのせいで私は炎に焼かれて片足を失い、一酸化炭素中毒で脳まで損傷し、知能は6歳のまま止まってしまった。 それから3年後。 牧生は狂ったように私を探し続け、ようやく路上で物乞いをしている私を見つけた。 彼はその場に膝をつき、目を真っ赤にして言った。 「俺から逃げるために、こんな姿になるまで落ちぶれたのか。割に合うのか?」 私は首をかしげ、その見知らぬ男を見つめると、ポケットから飴を1つ取り出して差し出した。 「おじさん、足、ちゃんと動くのに、どうして私みたいに跪いてるの? ホームレスのまねっこするの?飴、もう1つしかないけど、あげるね」
View More白い柵を隔てた向こうから、彼は遠く離れた場所でその光景を見つめていた。流せる涙は、もうすべて枯れ果てていた。牧生は車椅子を動かし、私のほうへ近づこうとした。車椅子が砂地を轢く音が、私の耳に届いた。私は動きを止め、振り返った。そこに、彼がいた。牧生の心臓が、喉元までせり上がる。彼は口を開き、私の名前を呼ぼうとした。「由実……」けれど私は、彼を一瞥しただけだった。その目にあるのは、見知らぬものへの警戒だ。まるで通りすがりの他人を見るようで、まるで物乞いを見るようでもあった。私は振り返ると、靖彦の背後へ隠れ、牧生を指差した。「お兄ちゃん、あそこに変なおじさんがいる。あの人、ずっと由実の飴を見てるよ」靖彦は顔を上げ、牧生を冷たく見た。その目には嘲りと、勝者が敗者へ向ける憐れみが浮かんでいた。靖彦は私の手を取り、牧生に私の姿が見えないように遮った。「気にするな」靖彦は優しい声で私に言った。「あの人は物乞いだ」私は頷き、納得したように目を丸くした。「そっか。かわいそう」私は手にしていた、剥いたばかりの飴の包み紙を丸めた。そしてゴミ箱まで歩いていき、そこへ捨てる。それから靖彦の手を握り、振り返ることなく歩き出した。「お兄ちゃん、お魚食べに行く?」「うん。魚を食べよう」夕陽が、2人の影を長く伸ばしていた。牧生は、ひとり車椅子に座っていた。私の背中が光と影の中へ完全に消えていくのを、ただ見つめていた。彼は震える手で車椅子を動かし、あのゴミ箱の傍までやって来た。汚れることも気にせず、手を伸ばして、私が捨てた飴の包み紙を拾い上げる。それを強く握りしめ、胸元へ押し当てた。「由実……」牧生は声を上げて泣いた。まるで、この世界のすべてから見捨てられた、役立たずの人間のように。海風が吹き抜ける。最後のため息さえも、遠くへさらっていった。牧生は去らなかった。海辺のあの小さな白い家から200メートルほど離れた場所に、トタン屋根の粗末な小屋を借りた。そこは湿気がひどく、冷え切っていて、魚の生臭さが充満していた。それでも彼にとっては天国だった。窓を開ければ、由実の姿が見えるから。海辺は湿気が多く、麻痺した両脚には感覚がない。や
千代の悪行も、ネット上で徹底的に暴かれた。私は牧生の腕の中で身を縮めたまま、泣き続けていた。「ドレス、壊れちゃった……また叩かれる……」牧生の涙が私の頬に落ちた。驚くほど熱かった。「叩かない……誰にも由実を叩かせない……」千代は完全に狂ってしまった。世間から追い詰められ、誰からも相手にされなくなった彼女は、私を道連れにすることを決めた。牧生が世間への対応に追われている隙を狙い、運転手を買収して、私を郊外の廃工場へ連れ去った。また火だ。千代はガソリンを撒き、周囲に積まれていた古タイヤへ火をつけた。「由実、死ね!」千代はライターを手に、狂ったように笑った。「あなたさえ死ねば、牧生さんは私のもの!私だけを覚えていてくれる!」燃え盛る炎が、私の心の奥底に刻まれた恐怖を呼び覚ました。「火……火……」私は頭を抱えて叫んだ。まるで3年前の豪華客船へ引き戻されたようだった。あれは地獄だった。牧生と靖彦が、同時に駆けつけた。「やめろ!」牧生は目を血走らせ、怒鳴った。千代は牧生の姿を見ると、さらに嬉しそうに笑った。「牧生さん、来てくれたの?ちょうどいいわ。一緒に死にましょう!」彼女はライターを放り捨てた。ドーン!炎は一瞬にして勢いを増し、燃え盛るうつばりが次々と落ち始めた。牧生と靖彦は、同時に火の中へ飛び込んだ。火の勢いはあまりにも激しい。救えるのは、1人だけだった。今度は、牧生に迷いはなかった。彼は私の前へ駆け寄ると、落下してくる燃え盛ったうつばりを思いきり押しのけた。まるで、あの時、私が彼を助けたように。ドンッ!燃えた木材が牧生の背中へ激しく落ち、その衝撃で彼の脚までへし折れた。「ぐっ……!」と、彼は血を吐いた。それでも、私を必死にかばい続けた。「由実、怖くない……」彼は私を見つめた。その瞳は、水のように優しかった。「今度は……俺がお前を助ける。早く行け!」彼は駆けつけた靖彦へ私を押しやった。「彼女を連れていけ!」靖彦は私を抱き上げ、そのまま外へ向かって走った。牧生は炎の中に取り残された。うつばりに脚を押さえつけられ、もう動けない。私は靖彦の肩越しに振り返った。一瞬だけ、後ろを見た。炎の中で、牧生が私
「由実、飴を食べよう」彼は泣くよりも痛々しい笑顔を浮かべた。「全部お前のものだ。好きなだけ食べていい」私はその美しい箱を一目見ると、首を横に振った。「いらない」一歩後ずさる。「紙に包まれてないから、汚い」私はポケットから、あの時彼に踏み潰され、それでもこっそり拾っておいた飴の包み紙を取り出した。大切な宝物のように、そっと広げる。そこにはまだ泥がついていた。「こっちのほうが甘い」私は包み紙を舐め、満足そうに笑った。牧生の胸が、ナイフで切り裂かれたように痛んだ。それは、自分が踏み潰したものだった。彼は私を抱きしめようと近づき、手に持った汚れた包み紙を取り上げようとした。「由実、それは汚い。食べちゃ駄目だ……」「いやぁ!」私は悲鳴を上げて飛び退き、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。「おじさん、叩かないで!由実、言うこと聞くから!もう飴食べない!手を叩かないで!」牧生の手が、宙で固まった。彼の心は完全に崩れ落ちた。ドサッ。牧生は私の前に跪いた。「由実、俺だ。俺はお前の夫だ。お願いだから、俺を見てくれないか?」彼は、帰る場所を失った子供のように泣いていた。私のスカートの裾を握り、地面の底まで這いつくばるような姿になった。「俺が悪かった。本当に悪かった……俺を殴っていいから。だから、俺を怖がらないでくれ……」私は首をかしげ、この奇妙な男を見つめた。その目は澄み切っている。それなのに、残酷なほど何も知らない。「おじさん、足、折れてないのに、どうして跪いてるの?」私は彼の脚を指差した。「おじさんも物乞いするの?でも、由実、もう飴ないよ」彼がどれだけ説明しても、どれだけ懇願しても、私の世界には、もう「藤原牧生」という人はいなかった。いるのは、「悪いおじさん」と「優しいお兄ちゃん」だけだった。牧生はようやく理解した。この世には、一生消えない傷がある。そして、忘れられることこそが、彼に与えられた最大の罰なのだと。……千代は諦めていなかった。すべてを失い、名誉も地位も奪われ、名門一家から追い出された彼女は、私まで道連れにしようとした。彼女は会社の株主たちをけしかけ、牧生に私を記者発表会へ連れてくるよう迫った。理由はこうだった
私は大きく口を開け、必死に新鮮な空気を吸い込んだ。高熱のせいで幻覚を見ていた私は、牧生の顔をはっきりと捉えた。その瞬間、時が3年前へ巻き戻ったような気がした。私はまだ低能児になっていなかった。彼もまだ心変わりしていなかった。「あなた……」私は泣きながら手を伸ばし、彼の袖をつかんだ。「助けて……痛いよ……」それは、まるで死の間際に訪れた最後の正気だった。牧生はその場で凍りついた。3年ぶりに、私は初めて「おじさん」ではなく、彼を「あなた」と呼んだ。彼の目から、瞬く間に涙が溢れた。手を伸ばし、私を抱きしめようとする。「由実、俺はここにいる……」けれど次の瞬間、私の目から光が消えた。力なく手が垂れ下がる。そして私は、またあの幼い子供のような状態へ戻ってしまった。私は怯えきった顔で千代を指差し、牧生の胸へ縮こまった。「悪いおばさん……由実を殺す……枕……苦しい……」牧生は勢いよく千代を振り返った。その目に初めて、疑念と殺意が浮かんだ。「出ていけ」……牧生は調べ始めた。彼は人を遣って、拘置所にいた靖彦を保釈させた。靖彦が出てきた時、手には黒いビニール袋を持っていた。彼はそれを牧生のデスクへ乱暴に放り投げた。「これは、あいつがゴミ箱から拾って書いていたものだ」靖彦は冷たく言った。「自分で読め。読み終われば、自分がどんな畜生だったのか分かる」牧生は震える手で袋を開けた。中には、煙草の箱の紙や古新聞、さらには飴の包み紙まで入っていた。そこには、歪んだ文字がびっしりと書き込まれていた。大きな字もあれば、小さな字もある。まるで小学生が書いたような文字だ。【今日は足がすごくいたい。雨がふってる。お兄ちゃんがかぜぐすりを拾ってくれた。くすりはにがい。あめが食べたい】【おじさんに似た人を見た。でも、私を見なかった。由実、そんなにきたないの?】【おどりたい。でも、足がみにくい。ムカデみたい。自分がだれなのかおぼえてない。でも、昔だれかをあいしてたことはおぼえてる】【その人のなまえは……】名前の部分は黒く塗りつぶされていて、紙まで破れるほど何度も突き刺した跡があった。書きたかったのに、書くことが怖かったのだろう。牧生は最後の1枚をめくった。