FAZER LOGINずっと欲しかったピンクダイヤモンドのペアの指輪が、高値で落札されてしまった。 オークション会場を出ると、落札した若い女性が電話の相手に甘えた声を出している。 「もう、わざわざ迎えに来なくてもいいのに。松下さんが一緒だから大丈夫だよ。うん、大好き!」 幸せそうな横顔が、少しだけ羨ましかった。 あのピンクダイヤモンドの指輪は、本当なら私・一ノ瀬梓(いちのせ あずさ)と夫である一ノ瀬朔弥(いちのせ さくや)の結婚5周年の記念に買うつもりだったのに。 オークションが始まる前、朔弥に電話して一緒に来られないかと聞いたのだけれど、返ってきたのは、「そのくらい自分で行け」の一言だけ。 さっきの女性は電話で、このあと一緒に食事をしてお祝いしよう、というような話もしていた。 ちょうど私が呼んでいたタクシーが到着し、乗り込もうとしたそのとき、「あ!松下さん、こっちこっち!」と、その女性が急に嬉しそうな声をあげた。 弾んだ声に、私も何気なく振り返る。 すると、やってきたのはうちの使用人・松下芳恵(まつした よしえ)だった。
Ver mais歪んだ文字を見るかぎり、手が震えていたのだろう。しかし、私はそれ以上見ず、指輪もメモもまとめてゴミ箱に捨てた。琴乃のほうも、その後はうまくいかなかったらしい。書店は朔弥からの資金援助が止まり、ほどなくして経営が立ち行かなくなった。何度か人を介して朔弥に会おうとしたものの、そのたび会社の受付で断られたという。その後は別の男と付き合い始めたらしいが、やがて噂も聞かなくなった。その話を葵から聞いたとき、彼女は少し楽しそうだった。自業自得だよ。ああいう人は一回痛い目を見たほうがいいんだから」「もう私には関係ないけどね」葵は私の顔をじっと見た。そこで、私が強がっているわけではなく、本当にどうでもよくなったのだと分かったらしい。にっと笑って、私の肩を抱いてくる。「やるじゃん、梓。もう無敵だね!」私もつられて笑った。無敵になったんじゃない。ただ、守る価値もない相手のために、わざわざ傷つかなくてよくなっただけ。離婚から半年後、私は財産分与で受け取ったお金を使って、F市に小さな書店を開いた。大きくはない2階建てで、1階は本を売り、2階は静かな読書スペースにして、窓辺にはトルコキキョウを並べた。どうしてこの花なのかと聞かれたことがあるのだが、その時の私は、「きれいだし、長く咲いてくれるから。それに、あんまり手もかからないし」と答えた。オープン当日、葵はたくさんの友達を連れてお祝いに来てくれた。店内の壁に用意していたメッセージボードを見つけると、葵が声を上げる。「はいはい、みんな一言ずつ書いて!店長の商売繁盛を祈ってね!」みんな笑いながら、思い思いに書き込んでいった。【目指せ大富豪】や【男より本のほうが裏切らない】と書く人がいる中、葵は【梓は美しくて、一人でも最強!】と大きく書いていた。たくさんのメッセージで埋まった壁を見ているうちに、ふと5年前のことを思い出した。あの頃も、私は自分の書店を持ちたかった。内装も、棚の配置も、どんな本を置くかも、頭の中で何度も何度も思い描いていた。朔弥にその話をしたとき、彼は私の髪を撫でながら言った。「いいな。いつか君のために俺が店を開いてあげるよ」その店は結局、別の女のものになった。でも、もうどうでもいい。私は自分で始めたのだから。朔弥にもらった店じゃ
しかし、朔弥が差し出してきた花を私は受け取らない。朔弥の腕がしばらく宙で止まり、やがてゆっくりと下ろされた。「朔弥」私は言った。「一度ちゃんと話そう」彼は頷いたが、また目が赤くなりかけている。そういえば、この5年で朔弥が涙ぐんだのを見た回数を全部足しても、この1か月のほうが多い気がした。私たちは近くの静かなカフェに入り、向かい合って座る。席に着くと、私から口を開いた。琴乃のことも、書店のことも蒸し返さない。ただ一つだけ聞いた。「結婚して2年目の頃、私が妊娠してたの……覚えてる?」朔弥の手が大きく揺れた。カップからコーヒーがこぼれ、袖口を濡らす。けれど彼は、それを拭こうともしなかった。覚えているのだ。あの子は突然私のところに来て、そしてあっという間にいなくなった。医師からは原因はいくつも考えられるが、その一つに強いストレスや精神的な負担もある、と言われた。その頃の私たちは、朔弥のスマホに残っていた何人かの女性との曖昧なやり取りが原因で、とてもぎくしゃくしていた。だから私は、妊娠のことをすぐには伝えなかった。彼が私の機嫌を取りに来て、あのメッセージの真相をちゃんと説明してくれるのを、私は待っていた。でも、出血した夜になっても会社で仕事をしていた彼。私は一人で救急車を呼び、一人で冷たい手術台に横たわり、一人で手術の同意書にサインをした。退院して家へ戻ると、朔弥はソファに座っていた。「どこ行ってたんだ?」そう聞かれた私が、少し体調が悪かったと答えると、彼は「あっそ」と言って、そのままスマホへ視線を戻した。本当ならあのとき離れるべきだった。でもそうしなかった。許すことを選び、結婚生活を続けることを選び、彼が変わるのを待つことを選んだ。でも彼はずっと変わらなかった。いや、変われなかったんじゃない。私のために変わる気がなかっただけだろう。私はあの日のことを、最初から最後まで全部話した。話し終えた後、朔弥はそこに座ったまま、長いこと一言も発しなかった。顔にも何の表情も浮かんでいない。なのに、涙だけがぽつぽつと落ち、コーヒーで濡れた袖に染み込んでいった。全身の力を抜き取られたように椅子に崩れ落ち、肩をかすかに震わせていた。「梓……」彼の声はかすれてほとんど聞き取れなかった。
結局、朔弥から返ってきたのは【分かった】という一言だけだった。それを聞いた葵は、呆れたように言った。「今さら何を一途な男ぶってんだろうね。だったら最初から大事にしろって話」けれど、私がどれだけそっけなくしても、朔弥は諦めなかった。自分が粘りさえすれば、私はいつか昔のように折れる。たぶん、そう信じているのだろう。でも、人の心はバネじゃないから、押しつけられた分だけ勢いよく戻るわけじゃない。むしろ蝋燭に近く、燃え尽きてしまえば本当に何も残らない。それから朔弥は、私にいろいろなものを送ってくるようになった。高価なブランド物などではない。そんなもので私の気持ちは動かないと、彼も分かっていたのだろう。届いたのは、昔よく食べていた路地裏の店のお菓子や、大学時代に好きだった作家のサイン本。ある年の大晦日、私が何気なく「集めてみたい」と口にしたシリーズのブラインドボックス。どれも昔の私なら喜んだものばかりだった。そして、どれも遅すぎた。届いた品々を見て、葵は珍しく少し黙り込んだあと、ぽつりと呟く。「梓のこと、よく分かってはいたんだね」私はお菓子の箱を開け、一つ口に入れた。味は変わっていなかった。記憶どおり、柔らかくて甘い。けれど噛みしめているうちに、ふと、大した味じゃないように思えてきた。でも、それは私が変わったのではない。昔の私はほんの少しの甘さで、それまでの苦しさまで全部帳消しにできると思っていただけ。今なら分かる。甘いものは甘い、苦いものは苦い。どちらかが、もう片方をなかったことにはしてくれないのだ。そんな日々がひと月あまり続いた。その間、朔弥からのメッセージにはたまに返信し、電話にもたまに出た。彼は関係が少しずつ戻っていると思っていたのかもしれないが、でも私はきちんと終わらせるために、話をするタイミングをただ待っていただけだった。そのきっかけは、思いがけない形でやって来た。ある日、知らない番号から電話がかかってきたので電話に出てみると、聞こえてきたのは遠慮がちな女の声だった。「もしもし、梓さん。向井です」私は何も言わなかった。しかし、琴乃は気にする様子もなく一方的に話し始める。自分が悪かったと思っていること、最近朔弥の態度がひどく冷たくなったこと、書店の運営資金まで止められてしま
私は頷いた。「じゃあ、裁判にする」そうして葵の手を引き、朔弥を避けてドアの方へ歩き出した。しかし、すれ違う瞬間に手首をつかまれた。それは、驚くほど弱い力で、しかもその手は震えている。書店で琴乃を守るために骨が砕けそうなほど強くつかまれたときとは、まるで違っていた。「梓……」掠れた声が背中に届く。「俺が悪かった」私は立ち止まったけれど、振り返りはしなかった。悪かった?5年も経って、ようやく間違っていたと気づいたらしい。でも、欲しかったものも待たされすぎると、もういらなくなる。私は彼の手を振りほどき、そのまま一度も振り返らず店を出た。その夜、帰りのタクシーで葵はずっと怒っていた。「何あれ!今さら追いかけてきて、しかも人まで殴って!本当にどうかしてるでしょ!」さんざん朔弥を罵ったあと、ふいに黙り込み私を見る。「梓、泣きたいなら泣いていいんだよ。我慢しないで」私は首を横に振った。「泣きたくない」強がりではない。昔なら、朔弥のことで息もできないほど泣いた。でも、あの頃そうして痛んでいた場所は、いつの間にか静かに塞がっていた。もう、彼のことで揺れることはない。葵はしばらく私を見つめたあと、ふっと笑った。「そっか」それから、少しだけ嬉しそうに言う。「梓、今度こそ本当に吹っ切れたんだね」うん。ようやく本当に終わった。私はこの夜で全部終わるのだと、そう思っていた。朔弥ほどプライドの高い人なら、大勢の前で拒絶され、裁判にするとまで言われれば、怒って離婚協議書に署名し、そのまま私の人生から消えるはずだった。でも、それは私の思い違いだったらしい。翌朝、葵がものすごい顔でスマホを握り、私の部屋へ飛び込んできた。「梓、朔弥さん……とうとうおかしくなっちゃったかも」スマホを受け取ると、画面には朔弥の会社の公式アカウントが表示され、声明文がトップに固定されていた。長文で堅苦しい文章だったが、要点は単純だった。朔弥は5年前に私と婚姻関係を結び、現在も婚姻関係は継続中であり、破綻など一切ない。さらに、最近ネット上で広まっている「愛人」などの情報は事実ではなく、悪意ある曲解であり、虚偽情報を拡散した者には法的措置を取るという内容。この声明が出されてから1時間もしないうちに、コメント欄は大荒
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