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明月に映る前世

明月に映る前世

By:  空木悠人Completed
Language: Japanese
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立都の最上流にある富裕層の社交界には、昔から暗黙の掟があった。 ——男の子は外でいくらでも女遊びをしていいことになっている。 けれど女の子は、成人の日を境に、こっそりと「専属アシスタント」を抱え、密やかに欲を満たすしかない。 私の成人式の日、百人もの応募者の中から一目で選んだのは、金縁眼鏡をかけた篠宮聖真(しのみや せいま)だった。 彼は成熟していて、落ち着きがあり、しかも潔癖症。 彼が唯一受け入れた条件は「体は触れない、手だけ」というものだった。 そして終わるたびに、消毒用アルコールで百回も手を洗う。 五年の間に、使い切った空き瓶は別荘を七周できるほどに溜まった。 私はいつか彼の障害を乗り越えさせて、この男を完全に自分のものにできると信じていた。 ところがある日、酒に酔った私は、うっかり篠宮の部屋に入り込んでしまう。 枕の下に隠されていたハンディカムから見つかったのは、彼自身の自慰映像。 そこに映っていたのは、私に対して常に冷静で理知的だった男が、母を死に追いやった義妹の下着を前に、喉仏を震わせながら―― 「長馨……愛してる……」 そう呟く姿だった。 その瞬間、私は気づいてしまった。 彼が私に近づいてきた一歩一歩は、すべて彼女への長年の執着に基づいたものだったのだと。 だがその後、私がその愛人の子の代わりに嫁いだのは、別の男だった。 篠宮聖真、どうして泣いているの……?

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Chapter 1

第1話

立都の最上流にある富裕層の社交界には、昔から暗黙の掟があった。

――男の子は外でいくらでも女遊びをしていいことになっている。

けれど女の子は、成人の日を境に、こっそりと「専属アシスタント」を抱え、密やかに欲を満たすしかない。

私の成人式の日、百人もの応募者の中から一目で選んだのは、金縁眼鏡をかけた篠宮聖真(しのみや せいま)だった。

彼は成熟していて、落ち着きがあり、しかも潔癖症。

彼が唯一受け入れた条件は「体は触れない、手だけ」というものだった。

そして終わるたびに、消毒用アルコールで百回も手を洗う。

五年の間に、使い切った空き瓶は別荘を七周できるほどに溜まった。

私はいつか彼の障害を乗り越えさせて、この男を完全に自分のものにできると信じていた。

ところがある日、酒に酔った私は、うっかり篠宮の部屋に入り込んでしまう。

枕の下に隠されていたハンディカムから見つかったのは、彼自身の自慰映像。

そこに映っていたのは、私に対して常に冷静で理知的だった男が、母を死に追いやった義妹の下着を前に、喉仏を震わせながら――

「長馨……愛してる……」

そう呟く姿だった。

その瞬間、私は気づいてしまった。

彼が私に近づいてきた一歩一歩は、すべて彼女への長年の執着に基づいたものだったのだと。

だがその後、私がその愛人の子の代わりに嫁いだのは、別の男だった。

篠宮聖真、どうして泣いているの……?

……

「わかったわ、保坂家のあの躁鬱の狂人に、清水長馨(しみず ちょうけい)の代わりとして嫁いでやる」

普段は無口な父が初めて机をひっくり返しそうになり、慌てて立ち上がって興奮した顔で叫んだ。

「南枝、お前、納得したのか?保坂家のほうが催促がきつい。来週には式を挙げることになるだろう。どんなドレスがいい?今すぐ手配させる……」

「いいえ、要らない。条件が二つだけある。あなたがそれを承諾すれば、私は嫁ぐ」

父の顔から喜色がすっと引いて、椅子に戻ると警戒を含んだ目で私を見た。

「何を要求するんだ?妹に危害を加えるつもりなら、早くその考えを捨てろ。俺を怒らせるなよ」

「私の妹はとっくに死んだでしょう、覚えてないの?お墓だってあなたが自ら移したのよ」

私は笑みを浮かべた。目の奥は氷のように冷たかった。

長馨は父の初恋の娘で、私より一つ年下だ。

八年前、彼女の母が亡くなった。

父は愛しながらも得られなかった女への未練を断ち切れず、彼女を家へ連れ帰り、養女として迎え入れた。

彼女がうちに来たその初日、母は階段から転落して命を落とした。腹の子も道連れに、一度に二つの命が絶たれた。

母が亡くなって、まだ初七日も過ぎないうちに――

彼女は父に泣きつき、母の墓を掘り返してまで自分の母の墓と取り替えさせたのだ。

母は死んでなお、安らぐことさえ許されなかった。

父は顔色を変え、手元にあった水晶の灰皿を掴んで私に投げつけようとしたが、その瞬間を堪えて声を絞り出すように冷たく言った。

「言え、条件を」

「第一に、清水長馨の母の墓を移してほしい。二度と高野家の霊園に入れさせないでほしい。

第二に、篠宮聖真を清水長馨のそばに配置してほしい。彼はもういらない」

父の顔は完全に陰鬱になった。

「高野南枝(たかの なんし)、お前は正気か?」

私は確かに正気を失っていた。この家に追い詰められて正気を失ってしまったのだ。口元を引き裂くように笑って、低く言った。

「承諾するかどうかだけを言って」

父は黙り、葉巻に火を点け、長く煙を吐き出して感情を何とか抑え込んだ。喉の奥から絞り出すような声で言った。

「わかった。承諾しよう。お前が嫁ぐその日に、すぐ手配する」

「駄目よ」

私は彼をじっと見据え、揺るがぬ調子で言った。

「嫁入り前に、あなたが墓を移すのを私が確認しなければならない。それができないなら、保坂家が清水長馨に報いを求めに来ることを覚悟しなさい」

水晶の灰皿が私の足元で粉々に砕け、父の嗄れた声が聞こえた。

「約束する」

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第1話
立都の最上流にある富裕層の社交界には、昔から暗黙の掟があった。――男の子は外でいくらでも女遊びをしていいことになっている。けれど女の子は、成人の日を境に、こっそりと「専属アシスタント」を抱え、密やかに欲を満たすしかない。私の成人式の日、百人もの応募者の中から一目で選んだのは、金縁眼鏡をかけた篠宮聖真(しのみや せいま)だった。彼は成熟していて、落ち着きがあり、しかも潔癖症。彼が唯一受け入れた条件は「体は触れない、手だけ」というものだった。そして終わるたびに、消毒用アルコールで百回も手を洗う。五年の間に、使い切った空き瓶は別荘を七周できるほどに溜まった。私はいつか彼の障害を乗り越えさせて、この男を完全に自分のものにできると信じていた。ところがある日、酒に酔った私は、うっかり篠宮の部屋に入り込んでしまう。枕の下に隠されていたハンディカムから見つかったのは、彼自身の自慰映像。そこに映っていたのは、私に対して常に冷静で理知的だった男が、母を死に追いやった義妹の下着を前に、喉仏を震わせながら――「長馨……愛してる……」そう呟く姿だった。その瞬間、私は気づいてしまった。彼が私に近づいてきた一歩一歩は、すべて彼女への長年の執着に基づいたものだったのだと。だがその後、私がその愛人の子の代わりに嫁いだのは、別の男だった。篠宮聖真、どうして泣いているの……?……「わかったわ、保坂家のあの躁鬱の狂人に、清水長馨(しみず ちょうけい)の代わりとして嫁いでやる」普段は無口な父が初めて机をひっくり返しそうになり、慌てて立ち上がって興奮した顔で叫んだ。「南枝、お前、納得したのか?保坂家のほうが催促がきつい。来週には式を挙げることになるだろう。どんなドレスがいい?今すぐ手配させる……」「いいえ、要らない。条件が二つだけある。あなたがそれを承諾すれば、私は嫁ぐ」父の顔から喜色がすっと引いて、椅子に戻ると警戒を含んだ目で私を見た。「何を要求するんだ?妹に危害を加えるつもりなら、早くその考えを捨てろ。俺を怒らせるなよ」「私の妹はとっくに死んだでしょう、覚えてないの?お墓だってあなたが自ら移したのよ」私は笑みを浮かべた。目の奥は氷のように冷たかった。長馨は父の初恋の娘で、私より一つ年下だ。八年前
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第2話
高野邸を出たときには、もう午前三時を回っていた。家に帰りたくなくて、ひとりバーで酒に溺れた。アルコールが全身にまわった瞬間、思い出したのは聖真のことだった。彼が面接に来たのは、ちょうど母の命日の日。長馨は「不吉だ」と言って、母の写真をすべて池に投げ捨てた。あれほど大勢いた使用人の誰ひとり手を差し伸べなかったのに、聖真だけが袖をまくり上げ、水の中から一枚一枚拾い上げてくれた。胸が震えたのは、その一瞬だった。だが昨日になって初めて知った。あれすら仕組まれた演出だったのだと。彼が水に入ったのは私を憐れんだからではない。長馨の注意を引くためだったのだ。昨日は長馨の誕生日だった。父は祝うために、わざわざ私に「家に帰るな」と言い含めた。私が顔を出せば、長馨の機嫌を損ねるとでも思ったのだろう。聖真もまた「大事な用がある」と言って早々に休みを取った。その夜、私はまた一人でバーに沈み、酒をあおっていた。帰宅したとき、うっかり聖真の部屋に足を踏み入れてしまった。枕の下に隠されていたハンディカムから流れたのは、彼の自慰映像だった。画面の中で、私に対してはいつも冷静で理知的だった男が、わずかな布きれのようなランジェリーを前に、喉仏を震わせていた。そして絶頂の瞬間、私は聞いてしまった。「長馨……愛してる……本当に、心から愛してる……」映像の終わりには、彼と執事の会話が録音されていた。――聖真様、この「専属アシスタント」遊びはいつまで続けられるおつもりです?旦那様も奥様も、もう何度もお戻りになるよう催促されています。このままでは本当にお怒りになりますよ。それに……聖真様は立都の御曹司ですよ。女なんて指一本でいくらでも手に入るのに、どうして三流財閥の養女なんかに執着して、わざわざ身分を隠し、姉のそばで従者のふりまでなさるんです?聖真は金縁眼鏡を外し、欲情に濡れた瞳に柔らかな光を宿しながら答えた。――仕方ないだろう……長馨は純粋なんだ。怖がらせたくない。――では、高野南枝のことは?聖真様は何も感じられませんか?聖真の眉がわずかにひそめられ、嫌悪が一瞬だけ浮かんだ。――感じるさ。吐き気がするほど、ね。映像はそこで終わった。私は腹を押さえ、洗面所の床に膝をついて嘔吐した。心臓は張り裂けそうに痛み
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第3話
もし以前の私なら、きっと反抗心を起こし、「抱いて」と駄々をこねただろう。彼の身体に、私の匂いを一面に染みつかせるまで。だが今日、聖真の警戒に満ちた視線を真正面から受け止めた私は、ただ顔を拭き、静かに目をそらした。「行きましょう」聖真は一瞬、驚いたように固まった。帰り道、車内は重苦しい沈黙に包まれた。彼は誰かにせわしなくメッセージを送り、私は父から届いたウェディングドレスの写真を無感動に眺めていた。突然、彼が冷ややかに声を発した。「停めてくれ」「え……?」と私が振り向くと、彼はさりげなくスマホを隠し、端正な声で告げた。「急用で南区へ行きます。高野さん、あなたはタクシーで帰ってください」外は立都に激しい豪雨が降りしきり、午前四時を過ぎた街には人影も車もなかった。私が「嫌」と拒もうとした瞬間、彼はもう車を停めさせ、ドアを開け、私の身体を外へ押しやった。酒気で足元がおぼつかず、そのまま泥水に転げ落ちる。まるでずぶ濡れの犬のように。「篠宮聖真!」怒りに任せて叫んだが、彼は振り返りもせず、冷淡に運転手へ言い放った。「行け」車は豪雨を切り裂くように走り去り、跳ね上がった泥水が全身を打ちつけた。私はただ雨の中に立ち尽くし、世界から見捨てられたように震えた。どうにかタクシーを捕まえることもできず、びしょ濡れのまま五キロ先の別荘まで歩いて帰った。灯りの点るリビングに入ると、長馨がフランス製のふわふわしたルームウェア姿で、夜食をつつきながら寛いでいた。そこは南区でも名高い高級料理店の品。配達はなく、必ず自分で取りに行かねばならないはずだ。聖真はその傍らに立ち、彼女を見る眼差しには抑えきれない熱情が宿っていた。「お姉さん、帰ってきたのね」長馨は嬉しそうに碗を置き、私の腕に親しげに絡んでくる。「聖真さんが夜食を買ってきてくださったの。一緒に食べましょう?」「触らないで」私は腕を振り払い、軽蔑を込めて後ずさった。長馨はきょとんとしたあと、すぐに目を潤ませ、泣き出しそうに聖真を仰ぎ見た。「聖真さん……私、何か悪いことをしたか?」聖真の瞳に憐れみが滲み、私を見る視線には押し殺した嫌悪が影を落とした。その表情を見て、長馨の頬は満足げに染まり、羞じらいの色を浮かべる。「あの、
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第4話
病院で目を覚ましたとき、もう二度目に見捨てられたことを自覚した。喉は焼けただれたように痛み、息をするたびに骨の奥まで刺すようだった。医師は言った――もしあと一秒遅ければ、一生植物状態になっていたかもしれない、と。薬を飲んで、私はまた意識を失った。途中で揺り起こされると、長馨が聖真の腕にすがりついて、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。「聖真さん、全部私のせいよ。お姉さんを助けなかったのは、私を守るためでしょ?もしお姉さんに何かあったら、私、一生自分を責め続けるわ」聖真は潔癖を忘れたかのように、きめ細かく彼女の涙を拭い、その声までもが信じられないほど優しかった。「そんなふうに責めないでください。何度時間が戻っても、私はまずあなたを助けます」「本当?」長馨は涙に曇った瞳をあげる。聖真の視線は熱を帯び、もはや抑えきれない想いが滲んでいた。「もちろんです。私はあなたのことが好――」バン!モニターを床に叩きつけた瞬間、甘やかに浸っていた二人は現実に引き戻された。聖真は驚愕のままこちらを振り向き、私の青ざめた顔を見ると一瞬言葉を失った。「高野さん、あなたは……」「出て行け」私は低く言った。聖真は信じられないといった顔で訊ねる。私は彼を真っ直ぐに見据え、そこにはもう情など欠片も残っていないことを示した。「あなたと清水長馨、二人とも――出て行きなさい」長馨は眉を寄せ、また涙を溜める。「お姉さん……」私は花瓶を掴み、床に叩きつけた。粉々に砕ける陶の音に、私は薄く笑みを浮かべた。「まだ出ないの?それとも私があなたたちを殺すまで居座るつもり?」長馨は凍りつき、嗚咽とともに涙が溢れ出した。彼女は聖真に哀願するような視線を投げ、そして走り去った。聖真は無意識に追いかけようとして足を上げたが、ぐっとその動きを抑えた。しばらくして、ようやく一言だけ吐き出した。「高野さん、どうかお怒りをお鎮めください」私は彼を見ず、そのまま横になって目を閉じた。結婚までは、あと三日だった。翌日、私は医師の制止を振り切って退院を強行した。明日、私は嫁ぐ。私は自分の目で、長馨の母の墓が移されるのを確かめなければならない。あの日、彼女が父を焚きつけ、私に彼女の母へ頭を擦りつけさせた、あの屈辱の時と何ひ
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第5話
目を覚ますと、聖真は窓辺に立っていた。低くかすれた声が落ちてくる。「清水さんが全部話してくれました。あなたは彼女を責めるべきじゃないです」私は一瞬理解できず、手の甲に涙が落ちた。「何て言ったの?」「あなたのお母様を高野家の霊園から移すと決めたのは旦那様で、清水さんじゃないです。彼女はまだ子どもです。何もわかりはしないです。それに……」聖真は言葉を切り、初めて私から目を逸らした。「昨夜、郊外の霊園にあるお母様の墓が荒らされ……棺も遺体も、消えていました。聞いた話では……立都の篠宮家の者の仕業だと。旦那様も止められなかったそうです」篠宮家。止められなかった。——それは、あなたの家だろう、篠宮聖真!口を開けて声を出そうとしたが、いくら力を込めても一言も発せなかった。痛みが極限に達すると、人は声さえ出せないのだと知った。私は発狂したように点滴の針を引き抜き、聖真に飛びかかった。——殺してやる。絶対に殺してやる。だが聖真は、私が悲しみに暴れているだけだと勘違いし、強く抱きしめて離さなかった。その声には、微かな慈しみすら滲んでいた。「もう大丈夫、大丈夫です。もう大丈夫……」私は彼を噛んだ。だが痛がりもしない。物を投げつけても、彼はただ同情するように見下ろしてくるだけ。まるで駄々をこねる子供でも見守るように。やがて力尽きた私は、彼を部屋から追い出し、引き出しからこれまでの「愛」の証をすべて引っ張り出した。片思いの日記は破り捨て、大事にしまってきた誕生日の贈り物は叩き壊し、彼に触れられた服は全部集め、火を点けた。燃え上がる炎の前で、私は冷たい床に座り込み、ただ夜明けを待った。夜が明けると、冷水を浴び、入念に化粧を施し、鏡に向かって笑顔を何度も練習した。そして母が遺してくれたアルバムを抱え、保坂家へ向かう車に乗り込んだ。出発のとき、聖真が庭に立っていた。彼は驚いたように目を見開き、初めて私に行き先を尋ねた。「どこへ行かれるのですか?」それは、彼が初めて私の行き先を気にかけた瞬間だった。そして、私が初めて彼に嘘をついた瞬間でもあった。「少し気晴らしに」聖真は深く追及せず、頷いた。「お供いたしましょうか?」「いいわ」私は目を逸らし、瞳の奥に潜む死
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第6話
胸腔の奥で、心臓が制御を失ったかのように激しく打ち始めた。まるで見えない手が神経を引き裂くように、一拍ごとに鈍い痛みが走り、思考をどうしても落ち着かせてはくれない。聖真は胸元を押さえ、深く息を吸い込んだ。――もうすぐ堂々と長馨のそばに立てる。その高揚のせいだろうか。だが、床に散らばる水晶の粒に視線が触れるたび、心臓は鋭く刺されるように痛んだ。「彼女は、誰に嫁いだ?」「保坂家の、保坂彦成(ほさかひこなり)だよ」垂れ下がった聖真の手が、不意に固く握りしめられる。保坂彦成――あの放蕩ぶりで名を馳せた御曹司。聖真と肩を並べる存在でもある。一見、温和で人当たりのよい顔立ちの裏に、冷酷非情な手腕を隠し持つ男だった。社交界で「第一の美女」と謳われた女が、わざと彦成の腕に身を投げたことがあった。だが次の瞬間、彼は容赦なく彼女を蹴り飛ばし、三本の肋骨を粉砕した。その余波は彼女の背後にいた一族にまで及び、誰一人として無事では済まなかった。南枝が、そんな男に嫁ぐというのか。――本当に自分を見限ったのか。脳裏に浮かぶのは、別れ際の決然とした背中。そして、何年も前、水辺で絶望に沈んだあのか細い姿と重なっていく。五年前、彼は長馨の目を引くために、あえて写真を拾い集めた。嫌悪する南枝のそばに留まったのも、長馨に近づきたい一心からだった。そして今、長年の願いがついに叶い、彼の周囲から煩わしい存在は消えた――本来なら喜ぶべきなのに、なぜ口の中はこんなにも苦いのか。長馨は、聖真の心ここにあらずの様子に気づき、少し不満げに声をかけた。「聖真さん、私と一緒にいて楽しくないの?」聖真は我に返り、胸の奥のざわめきを抑え込みながら小さく答える。「いいえ。清水さんのお傍に仕えること、それが私の幸せです」その言葉に満足した長馨は、嬉しげに彼の腕に絡みつき、期待を込めて言った。「今日ね、友達とクルーズパーティーを約束したの。一緒に行きましょう!」聖真は口元にかすかな笑みを浮かべ、機械仕掛けの人形のようにその背中を追った。――ようやく堂々と、彼女を守れるのだ。豪奢なクルーズ船の上で、聖真は長馨に心を尽くし、かつて私のそばにいたとき以上の献身を示していた。長馨が「日差しに弱い」と言えば、聖真は丹念に日焼け止
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第7話
背後から、誰かが聖真の肩を軽く叩いた。振り返ると、磨き抜かれた男モデルが列を成して入ってきて、女客の席に一人ずつ腰を下ろす。長馨の視線が、ようやく入り口に立つ聖真を捉えた。乱れた前髪、傷つきながらも耐え忍ぶ表情。長馨は眉を上げ、甘えたような仕草で声をかける。「聖真さん、どうしてこんなに遅かったの?」彼女は聖真の手にある丁寧に包まれたケーキを見て、満足げに口角を上げた。聖真はうつむき、低く言う。「長馨……列に並んでいる間に、どうしてもあなたに伝えたいことができたんだ」昨日、病院では告白できなかった。だから友人に頼み込み、盛大な舞台を用意したのだ。薔薇の城、オーケストラ、街を染める花火、宝石の冠――長馨の好むものはすべて揃えた。友人は苦笑まじりにからかった。「告白に数億も使うなんて、これから先どれほど甘やかす気だ?そもそも清水長馨のどこに、そこまでの価値がある?」聖真は笑って答えた。「わからないだろう。五年前、彼女は俺の命を救ったんだ」長馨の友人が男モデルの腹筋を撫でながら、わざと声をあげた。「専属アシスタントの聖真さん、長馨は三杯分の借りがあるの。『聖真が戻ったら一緒に』って言ってたわ」長馨はケーキを無造作に脇へ投げ置き、酒を一杯手に取って差し出す。「聖真さん、さっきゲームで負けちゃって……もう飲めないの。代わりに飲んでくれる?」赤、白、黄が混じり合ったカクテル「三色の罰酒」さらにウイスキーが半分注ぎ足される。その瞬間、彼は思い出していた。――高野南枝のことを。ある夜会で、聖真は周囲に煽られて南枝の代わりに酒を飲み干した。その晩、アルコールアレルギーで病院に担ぎ込まれた彼の手を、南枝は泣きながら握りしめていた。「どうして私のために飲んだの!死んじゃうじゃない!」罵りながらも、彼が吐いた汚れを必死に拭い取り、高価なドレスが汚れても気にもしなかった。そして退院の日、真っ赤な目で彼に誓ったのだ。「これからは絶対に、あなたにお酒を口にさせない」だが今――長馨は酒をさらに押しつけるように差し出し、目に冷たさを帯びて囁いた。「できないの?じゃあ、私……」聖真は眉をひそめ、それを受け取ると淡々と言った。「飲んだらすぐ休んでください。無理はなさらないで」
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第8話
「だって、もうすぐ結婚するんでしょ?保坂家に知られたら大変よ。弱みを握られたら、新婚当日に命だって危ういじゃない」長馨は笑みを浮かべた。「そうね。わざわざ私が手を下して、母娘をあの世で再会させる手間も省けるわ」友人は目を見開いた。「まさか、あの時の事故って、本当にあなたが?」長馨は気にも留めないように唇を尖らせた。「だって、あの女が私の母の座を奪ったから。私はただ軽く押しただけ。そしたらあの馬鹿、私を信じて『わざとじゃない』なんて言い出して……笑わせる。死んで当然よ」「じゃあ、学生時代に『母親が愛人だった』って記事が出たのも……?」「私よ」「成人式で、私生活が乱れてるって週刊誌に載ったのも?」「私」……一つひとつ明かされる真実に、聖真の頭は次第に冴えていった。これまで心の中心に据えてきた女が、こんなにも醜悪だったとは。そして——冷たく突き放してきた南枝こそ、本当の被害者だった。会話はさらに続き、最近の出来事へ。「じゃあ、最近の……南枝の母親のお墓が掘り返された件、それもあなたが?」「それは違うわ」長馨は軽やかに言い放った。「あれは篠宮さんが私のために出たんだから。でも場所を漏らしたのは私よ。だって、五年間も無縁仏の墓地に放置されてた遺骨、普通なら誰も気づかないでしょ?」——無縁仏の墓地。聖真の心臓がぎゅっと縮み上がった。もし南枝の母がそこに眠っていたのなら……あの時、自分を救った人は——長馨ではなかった。ざわめく視線を浴びながら、聖真はよろめくように立ち上がり、出口へと歩き出す。「止まりなさい!」長馨は悟った。聖真は酒で朦朧としつつも、多くを聞いてしまったのだ。「篠宮聖真!過去に高野南枝がどうであれ、今あなたは私のもの。今日ここで聞いたことは、墓場まで持って行きなさい!」だが彼は振り返りもせず、止めに入ったモデルを拳一つで吹き飛ばした。「放っておきなさいよ。ただの犬じゃない。どうせまた尻尾を振って戻ってくる」友人は肩をすくめた。「自分が大事だとでも思ってるのかしら。高野南枝が、宝物みたいに崇めてただけよ」夜風が冷たい。船縁に立った聖真の脳裏に、五年前の記憶が蘇る。仇に十九度も突き刺され、無縁仏の墓地に置き去りにされた——あの時のことだ。
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第9話
とりわけ彼が誰に会っても大声で「彼女は俺の婚約者だ」と宣言するたび、私の頬は何度も赤く染まった。控室で、司会者が迎えに来るのを落ち着かない気持ちで待っていると――扉のところに、長年会っていなかった伯父の姿があった。母の死以来、高野家と段谷家は完全に袂を分かったはずだった。「まさか本当に、お前が身代わりで嫁ぐことになるとはな!俺たちが保坂さんの評判を散々貶めてきた甲斐があったというものだ」私は苦笑をこぼした。――いったい、どういう話なのだろう。そこへ彦成が扉を開けて入ってきた。声音は軽やかだった。「南枝を娶れるのなら、たとえ世間に悪鬼と呼ばれても構わない」そして柔らかく笑った。「本当はずっと前から結婚を申し込むつもりだった。でもお前の父親の目には養女しか映っていなかったし、お前自身も……心を寄せる相手がいた。だから、俺は待つしかなかった」彼は一拍置き、私の瞳を真摯に見つめる。「確かに、子どものころの許婚というだけで、お前にとっては誤解の方が多いだろう。でもこれから少しずつ互いを知っていければいい。一緒に歩んでみないか?」涙を滲ませた伯父の視線を受けて、私は思わず首を縦に振っていた。そこからは、すべてが流れるように運んだ。私は伯父の腕に手を添え、彦成のもとへ歩いていった。これから共に生きるはずの人のもとへ――ちょうどその時。「待て!俺は同意しない!」宴会場の扉が轟音とともに開かれた。私は全身を硬直させ、ゆっくりと振り返る。聖真が立っていた。乱れたスーツ、額を汗に濡らした髪、荒く上下する胸――駆けつけてきたことが一目でわかる。彼は一直線に私の前まで走り寄り、片膝をついた。懐から取り出したのは、細工の凝ったペアリング。だが――私の薬指に輝くダイヤを見た瞬間、彼の瞳は真紅に染まった。「南枝……彼と結婚しないでくれ……お願いだ、どうか俺を見てくれ」場内が一気にざわめき立つ。「篠宮の御曹司じゃないか?なんでこんな格好で……」「まさか花嫁を奪いに?」「でも彼が想っていたのは、養女の清水長馨じゃ……」囁きが波のように広がる中、私は手のひらに爪を立て、冷たい視線を投げた。「何しに来たの?」聖真の呼吸が止まり、苦悩が目に溢れる。「すまない。俺が間
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第10話
「……ごめん……ごめん……」聖真は何度も繰り返した。だが、その声は私の胸に一片の波紋すら立てなかった。彦成が、私の冷え切った掌を包み込む。そしてそのまま強く抱き寄せ、冷たい視線を聖真に向けた。「篠宮聖真。お前が南枝に犯した罪は、俺が一つひとつ償わせる。今すぐ連れて行け。ここから消えろ」最終的に、聖真は警察に連行された。容疑は―― 故意にクルーズ船を破壊し、沈没を引き起こした罪。乗船していた者の多くが鮫の餌食となり、ただ一人、生き残ったのは長馨だった。彼女は友人を囮に差し出し、必死で泳いで安全圏に辿り着いたのだ。だが岸に上がったあと病院へは行かず、父の手で密かに匿われた。ところが長馨は、その父の目を盗み警察へ通報し、聖真を殺人の容疑者として告発した。その一件で篠宮家は世間の非難の渦に巻き込まれ、彦成はその隙を突いて、篠宮の主要事業を次々と切り崩していった。裏社会にも影響力を持つ保坂家に嫁いだ私は、母の死の真相を探り始める。――あの日。父はコネを使って診断書を偽造し、さらには長馨にアリバイを与え、罪を免れさせていたのだ。だからこそ、今度こそ彼らに報いを受けさせる。保釈の身となった聖真は、まず高野家の事業を徹底的に叩き潰した。一夜にして父は髪を真っ白にしながらも、沈黙を貫き、長馨の居所を明かさなかった。「隠しても無駄だ。必ず見つけ出す」愛してきた養女が、ついには彼の命取りとなった。そして――ある雨の夜。彼は望んだ形で願いを遂げる。長馨の母と合葬されるよう命じられ、生きたまま棺に釘打ちされたのだ。その後、篠宮家の別荘の地下室からは、毎夜、女の悲鳴が響き続けた。そこに閉じ込められた長馨の衣服は無残に裂かれ、身体を覆うのもやっとだった。聖真は椅子に腰を下ろし、足を組んだまま、淡々と部下から差し出された資料に目を通す。「さて……今日は、南枝の留学枠を奪った件から清算しようか」「篠宮聖真……違う……聖真様、お願い、許して……!」長馨は怯えながら隅へ身を縮めた。だが彼は無表情で、塩水に浸した鞭を手に取ると、容赦なく振り下ろした。肉が裂ける音とともに、冷然と言い放つ。「これで百九十六件目だ」捕らえられて十三日。聖真は毎夜、彼女が南枝に犯してきた罪を
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