見捨てた思い出は戻らない

細川蓮（ほそかわ れん）の最愛の女が妊娠したと知って、千葉夕子（ちば ゆうこ）はついに離婚を決意した。

数日後、彼女は最後の利用価値まで搾り取られ、蓮の愛人の代わりに海崎市へ嫁がされ、半身不随の白野家の御曹司の世話をさせられることになった。

「養子縁組を解消してくれるなら、海崎市へ嫁いでもいいわ」夕子は薄く笑みを浮かべ、千葉家の両親に条件を出した。

千葉正宗（ちば まさむね）は眉をひそめ、不機嫌そうに言い返した。「うちが養子にしなかったら、お前はとっくに餓死してたんだぞ。今さら自立したからって縁を切ろうだなんて」

「恩知らずめ。白野家だって細川家に引けを取らないよ。あの息子は不自由な体だが、あなたに一生食べさせてやるだけの財産はある。心と同じ誕生日でなかったら、こんな縁談はあなたと無縁なのよ」千葉菫（ちば すみれ）は彼女を睨みつけ、恩着せがましい口調だった。

夕子は議論する気もなく、「心が半身不随と結婚するか、私との養子縁組を解消するか、どちらか選んでください」と言い放った。

「承知した」正宗は歯軋りしながら答えた。

「では約束だ」夕子は立ち上がってその場を去り、背を向けた瞬間、目頭が熱くなった。

夕子は千葉家の実の娘ではなかった。昔、千葉家の実の令嬢である千葉心（ちば こころ）が行方不明になった時、菫は悲嘆に暮れ、児童養護施設から夕子を養女に迎えたのだ。

最初の数年は夕子も幸せな日々を送っていた。しかし成長するにつれ、その性格が心と似てこないことに、菫は次第に冷たく当たり、虐待するようになった。

実の娘の心が戻ってくると、彼らの態度はさらに悪化し、何もかも心へ譲れと要求するようになった。部屋、奨学金、出場権、数々の栄誉、そして家族の絆や結婚相手まで……

彼らは心の今ある全てを夕子に奪われたと思い込んでいた。

知らぬところで、こっそり心に夕子の夫・蓮と密会させた。

夕子が出産時に、彼らは共謀して夕子の娘を取り替え、何年もの間、心の息子を育てさせていた。

この家には彼女を愛する者など一人もいなかった。もはや夕子は我慢するつもりなどない。ただ一刻も早く逃げ出すきっかけを待っているだけだった。

……

夕子が帰宅して間もなく、夫の蓮が妊娠中の心を連れて現れた。

蓮は黒いシャツの袖を捲り上げ、鍛え上げられた小腕と、彼女が贈ったエントリーラグジュアリー腕時計を露わにしていた。

あの腕時計は、彼女が初めて得た奨学金で買い、彼に贈ったものだった。彼はどうやら気に入っていたらしく、どんな場面でもそれを身につけていた。

今、視線が合った瞬間、蓮の鋭く傲岸な目つきが一瞬揺らぎを見せた。

「お前の子供は亡くなった。心がわざわざ付き添いに来てくれたよ。彼女とお腹の子の面倒をしっかりみて、気を紛らわせて、悲しみに負けるな！」

蓮は彼女のためを思って言っているような態度だった。

一体どの女性が夫の妊娠中の愛人の世話などできようか？それも自分が子供を失った直後に。

夕子の指先が震えた。二日前、第二子の検診に向かう途中で事故に遭い、蓮に十数回も電話をかけたが、一度も出なかった。

最後に届いたのは音声メッセージだった。彼の荒い息遣いの中から、心の喘ぎ声が聞こえてきた。「姉さん、蓮さんを探してるの？彼は今、私の肌の上で種を蒔いてるの。あなたなんかに構ってる暇はないよ、ああ……」

激痛のあまり気を失い、彼女は子供を流産した。

最初から最後まで蓮は姿を見せず、後になれば「役立たずで、自分の子供さえ守れない」と責め立てた。

だが、昔の彼はこんな男じゃなかった。

菫にいびられた時にはすぐに彼女を庇い、令嬢たちに嘲笑われれば代わりにやり返し、水に落ちた時は迷わず飛び込んで助けてくれた……

今では我が子を失った妻に無関心なくせに、愛人の子にはべたべたと甘やかしている。

夕子の目に涙が滲み、そっと視線を逸らした。

蓮の声が再び響いた。「白野家が結婚を迫ってきている。心は昔、俺の命を救ってくれた恩人だ。彼女を不幸にすることはできない。今は心に正式な立場を与え、嫁がせずに済んでもらう。だから、お前はまず離婚してくれ。いずれ機会を見て復縁しよう」

4歳の息子・辰夫（たつお）も父親のまねをしてこう言った。「おばさんは僕の弟を妊娠してるんだ。ママはちゃんと面倒を見て、パパの言うことを聞いて、しばらくの間、パパをおばさんに譲ってあげてね」

蓮は離婚協議書を差し出した。蓮の仲間たちがぞろぞろ入ってきて、夕子を嘲笑った。

「夕子は蓮さんのことが大好きだからな。妊娠中の心の世話をするどころか、死ねと言われても喜んで死ぬだろう。ただ離婚となると、ちょっと難しいかもな」

「俺は賭ける。偽装結婚だって彼女はサインしないぞ。今直ぐ跪いて泣きついてくるぜ」

「俺も賭けよう！子供を抱えて細川お婆さんのところへ泣きつき、追い出さないでって頼み込むに決まってる」

「俺もそう思ってる。しつこく蓮さんにまとわりついて、恥ずかしげもなくベッドに誘うだろうよ、ハハハ」

「蓮さんがうらやましいな、あんなに忠実な犬がいて、いくら追い払ってもついてくるんだからな」

蓮は止めず、目を伏せて言った。「お前は孤児のくせに、心の身分を横取りして、千葉家で18年もぬくぬく暮らしてきたんだ。少しぐらい犠牲になっても当然だ。離婚は一時的なものだから、後で埋め合わせはしてやる」

夕子は苦笑し、胸が締めつけられた。また同じ台詞か。自分から奪い取ったものなど何もないのに、すべてが彼女の罪のように扱われていた。

夕子は一同を見渡し、口元を歪めて嘲った。「一人ずつ二千万円をくれたら、今すぐサインしてやるよ」

場は水を打ったように静まり、皆が呆れた顔で彼女を見つめた。この女、頭がおかしいんじゃないか？

五年もの間、蓮は幾度となく離婚を切り出したが、彼女は毎回泣いて懇願し、細川お婆さんにすがったことさえあった。今日たった数千万で簡単に承諾したのか？

「蓮の親友だと毎日豪語しておきながら、二千万すら渋るとは」夕子が蓮を一瞥すると、彼の瞳が暗く沈んだ。

気の利いた一人がスマホを取り出して夕子に送金すると、他の者もこぞって倣った。

一億円の入金を確認した夕子は、ためらわずペンを握りしめ署名した。

すべての財産を放棄し、辰夫の親権も手放すことで、五年間続いた崩れかけた結婚生活に終止符を打ったのだ。

蓮の表情は幾分緩み、彼女の分別ある態度を認め、気に入ったアクセサリーを一つ選べ、褒美として与えると言った。

夕子は軽く頷くと、階上へと向かい、自身の荷造りを始めた。

階下からは賑やかな笑い声が響いてきた。蓮は自宅で祝宴を催していた。「パパとおばさんにずっと一緒にいてほしい。おばさんにママになってほしい」辰夫の声は大きくて、一つも漏れなく夕子の耳に届いた。

夕子の手がかすかに震え、目が赤くなった。

辰夫は彼女の実の子ではないが、それでも愛を込めて四年間も大切に育ててきた子供だ。その子が彼女に少しの感情も抱いていなかった。

彼女は辰夫が元々冷たい性格だから、自分に懐かないのだとばかり思っていた。

ついさっき初めて、辰夫が心の息子だと知ったのだった。

彼女が蓮と結婚して間もなく、心が戻ってきた。

正宗と菫の取り成しで、あの二人はすぐに結ばれ、彼女とほぼ同時期に子供を産んだ。

彼らは夕子の実の娘を奪い取り、代わりに心の子供を育てさせたのだ。

涙が頬を伝い、夕子の胸は鋭く疼いた。彼女はピエロのように彼らに振り回されていた。

しかし、あの人物が現れ、全ての真実を明かしてくれた。それがきっかけで、彼女はこの場所を離れる決意を固めたのだ。