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第75話……異次元の海

last update publish date: 2026-06-11 18:10:18

 海賊船「モリガン」は、偽装商船「銀の秤」からおよそ二時間遅れでワープを敢行していた。

 重力振の共鳴を避けるためである。

 もし近接した時間差で同一航路へ飛べば、位相の乱れから航跡を読まれる危険があった。

 護衛である以上、影のまま付いてゆく必要があったのだ。

 だが、ワープアウトした直後、艦橋の空気が一変する。

「なんだあれは!?」

 正面スクリーンに映ったのは、「銀の秤」を左右から挟み込む二隻の武装船だった。

 朱色の船体。細長い艦首。獲物へ喰らいつく寸前の牙のような電磁砲塔。

 ただの警備艇ではない。

 その配置、その間合い、その殺気だけで十分だった。

 ツーシームは寝起きの気だるさを一瞬で捨て、鋭い声を飛ばす。

「砲撃長! 電磁砲、発射用意! 方位F-304、D51!」

「了解!」

 艦橋に緊張が走る。

 だが、すぐ横からトロスト技師が慌てて口を挟んだ。

「いやいや、少し様子を見るべきです! ここで撃てば「銀の秤」は助かるでしょうが、戦闘を起こせば連邦の艦艇がすぐ寄ってきます!」

 その理屈はもっともだった。

 ここは敵地深く。

 一発でも派手にやれば、周辺宙域の監視網が目を覚ます。

 「モリガン」の秘匿行動も、ユリウスの帰還路も、一気に危うくなる可能性があった。

 だがツーシームは、まるで迷わなかった。

「いや、乗り込まれてからじゃ遅い。砲撃開始だ!」

 その一言で、皆のためらいは消えた。

 次の瞬間、「モリガン」前部甲板の電磁砲塔が火を噴く。

 加速された徹甲弾が暗黒を裂き、二隻の武装艇の後方へ突き刺さった。

 狙いは見事だった。

 前面装甲ではなく、防御の薄い機関部側面から後尾寄りを射抜いたのである。

「一番艦、命中!」

「二番艦、続けて命中!」

 朱色の船体が「くの字」に歪み、わずか二秒も耐えられず爆散する。

 閃光。破片。噴き出す火球。

 二隻の武装艇は、宇宙の藻屑となって四散した。

 ツーシームは間髪入れず怒鳴る。

「商船『銀の秤』へ打電! 我に構わず逃走すべし!」

「了解!」

「送信完了しだい急速潜航!」

「了解!」

 通信が飛ぶ。

 そのわずかな間にも、「モリガン」の位相エーテル機関は深い唸りを増していた。

 そして次の瞬間、艦体は現実宇宙の輪郭から滑り落ちるように沈み込み、再び異次元の深淵へ姿を消す。

 だが同時に、危険な狼煙も上がった。

 爆沈する間際の警備艇により、海賊船「モリガン」の位置は近隣のパニキア連邦の基地へと知らされたのであった。

◇◇◇◇◇

 星系外縁の闇を、歴戦の海賊船「モリガン」が這うように進んでいた。

 だが、異次元潜航中の速度は通常航行よりはるかに遅い。敵の目を欺けても、追いつかれぬ保証まではなかった。

 探信儀へ顔を寄せていた情報士官が、ひきつった声を上げる。

「敵艦艇、接近!」

 艦橋の空気が一気に張りつめた。

 正面スクリーンの彼方、星系外縁の暗黒へ、連邦艦艇の識別灯が六つ浮かぶ。

 それはまるで、深海の獣が光る眼で獲物に追いすがるような光景だった。

「後方、パニキア連邦の高速巡洋艦! 照準波、来ます!」

 赤い警報灯が艦橋を染める。

 古びた隔壁が低く唸り、計器盤が細かく震えた。

 ツーシームは片目を細め、歪み始めた星図を睨む。

 次の瞬間、敵巡洋艦の腹部ハッチが開いた。

 射出されたのは、黒銀の杭が十八本。

 対異次元潜航艇用兵器である「虚空杭雷」であった。

 それらは青い尾光を引きながら、異次元の海へ沈むモリガンの残影を追った。

 そして、杭の先端が一斉に紫電を噴く。

「まずい!」

 空間そのものへ亀裂が走った。

 異次元の暗流が泡立ち、つづいて凄まじい爆発が艦を襲う。

 爆圧は見えない濁流となって船尾へ噛みつき、装甲を歪ませ、白い衝撃波となって艦内を駆け抜けた。

 床が跳ねる。

 スクリーンが傾く。

 乗員たちは椅子や計器盤へ叩きつけられ、悲鳴と金属音が重なった。

「隔壁損傷! 第三区画、位相膜損耗! 虚圧が艦内へ侵入しています!」

 天井から火花が雨のように降る。

 割れた端末片が若い通信士の頬を裂き、操舵手は肩を押さえながら片手で舵輪へしがみつく。

 ビッグベアは倒れた機関員を抱え上げ、支柱の陰へ転がすように避難させた。

「医療班! 死んでない奴から先に見ろ!」

 その怒号の中でも、ツーシームだけは冷えていた。

 血のにじむ唇をぬぐい、傾いた戦術盤を見つめる。

「まだ沈んじゃいないね。沈没偽装だ。デコイ用の船体部品をばら撒け」

「了解!」

 軋む船体が低くうなり、偽の破片が表の宇宙へ散ってゆく。

 浮上して撃ち合ったところで、敵地奥深くでの六対一。勝ち目はない。

「エーテル機関停止。死んだふりだ」

「了解!」

 それからの時間は、地獄だった。

 異次元へ長く潜れば、位相干渉が蓄積し、船体は虚圧に汚染されていく。

 隔壁はきしみ、空気は濁り、乗員の精神と肉体はじわじわ蝕まれる。

 何時間経ったのか、もう誰にも分からない。

 歴戦の船員ですら次元酔いを起こし、食ったものを床へ吐き散らす。

 血、胆汁、焦げた配線の臭い。

 モリガンの通路は、生きたまま棺桶へ押し込められたような異臭に満ちていた。

 だが、そこで天がわずかに味方した。

 近隣恒星が突如として恒星風を吹き上げたのだ。

 猛烈な磁気嵐が宙域をなめ、観測も射撃もまともに成り立たなくなる。

 情報士官が、かすれた声で叫ぶ。

「敵艦、引き上げていきます!」

 ツーシームの目が鋭く光る。

「よし、急速浮上。すぐワープだ。ここで逃げ切るよ!」

 満身創痍のモリガンは、裂けかけた位相膜を引きずりながら異次元の海を這い上がる。

 そして、傷だらけの船体へ最後の力を振り絞らせ、危険宙域からの離脱を開始した。

 海賊船モリガンはまだ沈まない。

 この程度で沈むようなら、とうの昔に宇宙の藻屑であったかもしれない。

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