LOGINふいに出くわし、二人は同時に足を止めた。真琴が普段着姿なのを見て、信行は穏やかな声で尋ねた。「退院ですか?」その問いかけに、真琴も柔らかな声で応じた。「ええ、今日退院します」そして、言葉を継いだ。「片桐社長も一日も早く回復されて、退院できるといいですね」「片桐社長」というよそよそしい呼び方に、信行の眼差しが暗く沈んだ。だが、すぐにいつもの表情を取り繕い、穏やかに微笑む。「ええ、その言葉、ありがたく受け取っておきます」しかし、こうして向き合っていても、赤の他人よりも遠く感じられた。真琴の態度は、あまりにもよそよそしく、他人行儀すぎたのだ。少しの沈黙の後、真琴が口を開いた。「それでは、病室に戻ります。片桐社長もゆっくり休んでください」そう言うと、信行は慌てて道を譲り、真琴は「ありがとうございます」と事務的に礼を述べた。しかし、その横を通り過ぎようとした瞬間、信行が唐突に右手を伸ばし、真琴の腕を掴んだ。感情を波立たせることも、むきになって腕を振り払うこともなく、真琴は落ち着いた動作で振り返り、信行を見上げて淡々と尋ねた。「まだ何か御用ですか?」そのどこまでも他人行儀な態度に、腕を掴む信行の力が徐々に抜けていく。だが、それでも完全に手を離すことはできなかった。伏し目がちに真琴を見つめ、DNA鑑定結果のことについて、腹を割って話したかった。だが、いざとなると言葉に詰まり、何から切り出せばいいのか分からなかった。腕を掴む信行の手を見下ろし、真琴が何かを口にしようとしたその時、貴博がやって来た。長い脚で、颯爽と風を切るように歩いてくる。エレベーターホールから角を曲がってきた貴博は、信行が真琴の腕を掴んでいるのを目にしても、何食わぬ顔で声をかけた。「西脇博士」低く、耳に心地よく響く、それでいてひどく親密な響きを持った声だった。貴博の姿を認めるや、真琴はごく自然に腕を引き抜き、そちらへ顔を向けて挨拶した。「事務局長」その声に、貴博は洗練された足取りで近づいてきた。信行へ視線を向けても、先ほどの振る舞いを気にする素振りすら見せず、余裕たっぷりに鷹揚な声で挨拶した。「信行もいたのか。回復の具合はどうだい?」その口調は、まるで目下の者を労う年長者のようだった。その余裕
貴博のことはすっかり気に入っていたものの、玉代はもっと人となりを知っておきたいと思い、二人きりで少し話をしたいと考えた。エレベーターホールで、玉代と貴博が一緒にエレベーターに乗り込むのを見届け、真琴は穏やかな声で告げた。「お母さん、ホテルに着いたら連絡してね」玉代は頷く。「ええ、分かっているわ。真琴も安心して」貴博とも軽く挨拶を交わし、エレベーターが下っていくのを見送ってから、真琴はようやく踵を返して病室へと向かった。ここ数日と同じように、自室へ戻るには信行の病室の前を通り過ぎなければならない。病室のドアは少し開いており、何気なく目をやると、由美と信行が病室の中で抱き合っている光景が飛び込んできた。二人の様子からして、何か話し込んでいるようにも見えた。何食わぬ顔で視線を外そうとした瞬間、由美と目が合った。視線が交差する。由美はいつものように愛想よく振る舞うことも、挨拶してくることもなく、信行から離れようともしなかった。むしろ、抱きつく力をさらに強めた。そして……背伸びをして、その頬にキスをした。病室の外からその挑発的な振る舞いを見せつけられても、真琴はあっさりと視線を外し、ただくだらないとしか思わなかった。あまりにもお粗末すぎる。これよりずっと刺激的な修羅場など、それこそ嫌というほど見てきたのだ。信行と結婚していたあの数年間で、あんなものにはもう慣れっこだ。視線を外した後、真琴は足を止めることなく、悠然と自分の病室へと戻っていった。……信行の病室。突然抱きついてきた由美に対し、信行は眉をひそめ、腰に手を当てて後ろへ押しやった。だが由美は離れようとしないばかりか、あろうことか背伸びをして頬にキスをした。一瞬にして、信行の顔色は氷のように冷え込んだ。由美の腕を掴み、乱暴に引き剥がして投げ捨てるように突き放す。そして、厳しい声で言い放った。「由美。俺の我慢を試すな」激しい怒りを前にして、由美は慌てて下手に出た。上目遣いで見上げながら言った。「ごめんなさい。ただ、我慢できなかったの。どうしても好きで……」そのしおらしい態度にも、信行は冷たい顔でドアを指差した。「もう帰れ」これ以上刺激すれば限界だと悟った由美は、バッグを手に取った。「信行、それじゃあしっかり
その言葉に、由美はさっと血の気を失い、大きく見開いた目で彼を睨みつけた。「信行、何を言ってるの!?どうして私がそんなことをしたなんて疑うのよ!」由美には痛いほど分かっていた。あの顔を持つ女に何か起きるたび、信行は決まって真っ先に自分へ疑いの目を向けるのだと。あまりにも、信用されていない。激昂する彼女に対し、信行は冷ややかに言い放つ。「お前と無関係なら、それでいい」真琴があの顔で戻ってきていなければ、由美をここまで疑うことはなかっただろう。だが、その顔と、自分に対する由美の強い欲望と執着を思えば、信行としても嫌でも勘ぐり、疑念を抱かざるを得ないのだ。直接問い詰めたのは、彼女の咄嗟の反応を見て、その表情から綻びを見つけ出したかったからである。疑いの眼差しに射抜かれ、由美はしばらく耐えるように見つめ返していたが、やがてその目を赤く潤ませた。そして、震える声で絞り出す。「信行、そんな風に疑われるなんて、ひどすぎるわ。私がいったい何をしたっていうの?どうしてそこまで疑われなきゃならないのよ。何年も付き合いがあるのに、あなたの目に映る私は、そんな恐ろしい女だったの?第一、私には西脇さんに危害を加える理由なんて一つもないじゃない。内海家や峰亜を道連れにしてまで、あんな恐ろしい真似をするはずないわ!」その必死の弁明を、信行はただ冷たい目で見下ろす。あえて最も疑われやすい状況を作り出し、裏をかくことこそが常套手段でもある。彼が無言を貫くのを見て、由美はさらに泣きそうな顔で訴える。「目を覚まして!西脇さんは真琴ちゃんじゃないわ。それに、仮に彼女が真琴ちゃんだとしても、あなたたちに復縁の可能性なんてないのよ!それに、知ってる?彼女はもう五十嵐さんといい仲になっているのよ。昨日なんて、五十嵐夫人が直々に食事を届けに来ていたんだから!どうして信行はいつも過去ばかり振り返るの?どうして今を見ようとしないの?成美の時もそう、真琴ちゃんの時もそう!私もあの二人と同じように死ななきゃ、愛してくれないって言うの!?どうして一度でいいからチャンスをくれないの!?せめて、私を通して成美を懐かしむことだってできるじゃない!」その痛切な問い詰めに、信行は淡々と真実を突きつける。「俺が成美に抱いていたのは愛じゃない。ただの感
夜になり貴博が姿を現しても、今日に限って玉代は席を外そうとはしなかった。これまで幾度となく二人に場を譲ってきたが、貴博という男の本質を見極め、本当に真琴を託すに足る人物か、その目で見定めたかった。結果として、一晩言葉を交わしただけで、玉代は貴博をすっかり気に入ってしまった。容姿端正なだけでなく、立ち振る舞いまで非の打ち所がないと絶賛するほどである。何よりも、真琴に対する深い愛情と誠実さが真っ直ぐに伝わってきたのが、一番の決め手であった。……一方、信行の病室。母と妹を追い返した彼の元へ、今度は由美が大量の差し入れを抱えてやって来た。由美を冷めた目で見つめる信行の機嫌は、すこぶる悪かった。この数日間、由美は貴博が真琴の元へ通うのと競い合うかのように、足繁く信行を見舞いに訪れていた。だが、信行は彼女の厚意に心を動かされることもなく、二人の距離が縮まることは一切なかった。彼女に微塵の希望も与えるまいと、徹底して冷酷に振る舞っていた。拒絶の意は、すでにはっきりと伝えてある。にもかかわらず、由美は執拗につきまとってくる。持ってきた特製の茶碗蒸しを置き、由美は笑顔で尋ねる。「信行、今日の具合はどう?」彼が口を開く前に、さらに続けた。「さっき上がってくる時、おばさんたちとすれ違ったわ」その押し付けがましい熱意に、信行は冷淡に返す。「こんなことをする必要はない。毎日通ってくるなと言ったはずだ」冷たい拒絶に由美の顔は一瞬引きつったが、すぐに持ち直して愛想笑いを浮かべた。「そんなに邪険にしないで。別に深く考えているわけじゃないし、これで信行の気を引こうなんて思っていないわ。あなたなら、身の回りのお世話をしてくれる人には事欠かないのでしょうけれど」信行が口を開く前に、さらに畳みかける。「それに、この数年間、信行は峰亜や内海家のことをずっと気にかけてくれたじゃない。あなたが入院したと聞いて、見舞いに来るのは当然の義務よ。成美だって、きっとそう望んでいるはずだわ」またしても成美の名を持ち出す彼女に、信行は無表情を貫いた。かつてのような感傷を見せることは、もう二度とない。由美を見据え、氷点下の声で告げる。「俺が峰亜や内海家に力を貸してきたのは、成美が命を懸けて俺を救ってくれた、その恩を返すためだ。
ただ、帰りの道の一歩一歩が、まるで鉛のように重くのしかかり、呼吸をすることさえ苦しいほどだった。真琴の幸せを願って身を引こう、祝福の言葉を贈ろうと思う反面、心の中ではどうしても彼女を手放しがたく、断ち切れない想いが渦巻いている。だが、今の信行が気づいていないのは、真琴との間において、もはや彼の身勝手な「祝福」など、これっぽっちも必要としていないということだ。彼女はとうの昔に「辻本真琴」であることを捨て、浜野の「西脇家の次女」として生きているのだから。しばらくして。自室の病室に戻っても、信行の心は一向に静まらず、脳裏には貴博と楽しげに談笑する真琴の姿が焼き付いて離れなかった。それを思い出すだけで、耐えきれずに激しく咳き込んでしまう。「信行お兄ちゃん、ママは帰ってくる?」「信行お兄ちゃん、ママが欲しいよ」「信行お兄ちゃん、今から飛び降りるから、絶対に受け止めてね」「信行さん……」今この瞬間、無性に真琴に会いたかった。彼女のあの日記帳を思い出す。ページを埋め尽くすように、自分の名前ばかりが書き連ねられていたあのノートを。もし時間を巻き戻せるなら。もしもう一度彼女とやり直せるなら。今度こそ、絶対に大切にする。絶対に真琴を幸せにする。だが無情なことに、彼女は自分が「真琴」であることすら頑なに認めようとはしない。そこまで考え、再びあのDNA鑑定書を思い出す。「西脇茉琴」は、間違いなく「辻本真琴」なのだ。……同じ頃、真琴の病室。昼食を終え、貴博が用事があるからと腰を上げると、真琴も立ち上がって見送った。エレベーターホールまで並んで歩く。エレベーターを待つ間、貴博が不意に振り返って告げた。「退院したら、ぜひ私の家で食事でもどうかな」そして、真剣な眼差しで続ける。「両親が、君に正式に会いたがっていてね」その言葉の意図は明白だった。彼女と正式に交際し、恋人として実家に連れて行きたいという意志表示だ。二年間もすれ違ってきた末の、今回の再会。その眼差しには、もう二度と彼女を手放すまいという、強烈な決意が宿っていた。誰が相手であろうと、真琴を自分のものにし、大切に守り抜くという揺るぎない意志だ。その真っ直ぐな誘いに、真琴は彼を見つめ返し、堂々と頷いた。「ええ、喜んで」
もちろん、このお見舞いには由美なりの思惑があった。信行と茉琴の事故が偶然ではなく人為的なものだと聞きつけ、探りを入れるためにやって来たのだ。彼女がこの件についてどう考えているのかを見極めるために。しかし、いくら話を振っても、茉琴の口から有益な情報は一切引き出せなかった。彼女は冷淡で、余計なことは何一つ語ろうとしない。隙という隙を完全に塞がれていた。結局、由美は立ち上がり、帰るほかなかった。「西脇博士、それではゆっくり休んでくださいね。私はこれで」真琴も立ち上がり、淡々と見送った。だが、ドアの前で遠ざかる由美の背中を見送りながら、真琴の表情はみるみる険しくなっていった。病室に戻るなり携帯を手に取り、光雅へ電話をかけて声を潜める。「内海由美の周辺を洗ってみて。今回の件に彼女が関わっているかどうかを」本来なら由美をそこまで疑う理由はなかった。茉琴という確固たる身分がある以上、彼女も迂闊な真似はできないはずだからだ。だが、今日の見舞いで執拗な探りを見て、疑念を抱かざるを得なかった。電話の向こうの光雅は冷静に答える。「すでに調べている。心配しなくていいが、あの内海にはくれぐれも気をつけておけ」「分かった」真琴は頷き、仕事の話を少し交わした後、通話を終えた。もし由美が自分を狙っているとすれば、十中八九信行絡みだろう。だが、自分を消したいのなら、一人で車に乗っている時を狙えばいい。なぜわざわざ信行が同乗しているタイミングを選んだのか?まさか、二人まとめて始末するつもりだったとでも言うのだろうか。携帯を握りしめたまま考え込んでいると、再びドアがノックされた。顔を上げると、貴博が食事を持って現れた。その姿を見て、真琴の口元に笑みが広がる。「いらっしゃい」「ああ」と応じ、彼は続ける。「上の連中に口利きしておいた。あと二日したら退院していいそうだよ」ついに退院できると聞き、真琴の顔がパッと明るくなる。「ありがとうね、事務局長」その歓喜の声に、貴博は優しく返す。「礼には及ばないよ、西脇博士」相変わらず「事務局長」、「西脇博士」と堅苦しく呼び合っているが、その声のトーンには以前にはない甘い響きが含まれていた。二人で食事を並べ、いつも通り談笑しながら箸を進める。毎日顔を合
真琴はスープを一口飲み、静かに言った。「麻雀なんてできないし……それに、信行さんもいるんでしょう?私は遠慮しておくわ」今日は金曜日だ。信行がそちらにいるなら、どうせ由美もいるに決まっている。わざわざお邪魔虫になりに行く趣味はない。それに、結婚してからの数年、真琴は彼らの集まりを避けてきた。信行に疎まれている以上、顔を出しても空気が悪くなるだけだからだ。最後に同席したのは、拓真の誕生日の時だったか。あの日、バルコニーで信行と拓真の会話を聞いてしまった。信行が離婚協議書にサインしないのは、財産分与を惜しんでいるからだと。真琴の言い訳を、紗友里は容赦なく突き崩す。「真琴、
真琴はちょうど、自分用のカップにお茶を注いだところだった。子供を作ろうと言われ、口に含んだお茶を危うく吹き出しそうになる。激しくむせ返り、顔も耳も真っ赤になった。カップを置き、呼吸を整えて彼を睨む。必死に話題を変えた。「……社長との商談は順調だったはずですよね。どうして今日サインしなかったんですか?」信行は淡々と答える。「急な変更があってな。まだ協議中だ」「そうですか……」真琴は短く応じ、気を取り直して尋ねる。「まだお昼食べてないですよね。何か出前でも頼みましょうか?」「いらん」信行は腕時計を見た。「まだ用事があるから、行くぞ」「分かりました
「近くにいる。迎えに行く」信行はそれだけ言って電話を切った。数分もしないうちに、彼の車がやって来る。家に入って祖父と少し過ごし、将棋を二局指した後、信行はようやく真琴の手を引いて去った。庭を出ると、真琴は自然に手を抜き、後部座席のドアに手をかける。開かない。車に乗っている信行を見下ろし、静かに告げる。「鍵、かかってますけど」運転席で、信行は振り返って真琴を見つめ、さらりと言った。「前は開いてる」真琴は動かない。「後ろでいいです」頑なな態度に、信行は思わず失笑した。「乗れよ。新車だ。助手席にはまだ誰も乗せてない」「……」まさか、同じ車種の新
オフィスで、信行は書類に目を通している。その傍ら、由美は彼の椅子の肘掛けに、リラックスした様子で腰を下ろしている。親密すぎず、しかし他人行儀ではない、絶妙な距離感。書類を読み終え、信行は感情のこもらない声で言った。「高瀬との提携は問題ないだろうが、あいつは峰亜工業とは直接組みたがらないだろう。お前と武井の間で第三者契約を結んで、興衆実業の名義で提携すればいい」肘掛けに座り、由美は嬉しそうに微笑む。「分かったわ。全部信行の言う通りにする」信行の介入がなければ、智昭は会ってさえくれず、提携など夢のまた夢だったのだ。仕事の話を終え、由美が別の話題を切り出そうとしたその時、