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第8話

Author: フカモリ
両手でハンドルを握り、信行は笑ってしまう。

「なんだ?俺と一緒にいるのが、指折り数えるほど苦痛か?」

真琴は説明する。

「そういう意味ではありません。私自身の予定を立てて、今後の計画を考えたいだけです」

数日前にアークライト・テクノロジーへ履歴書を送ったところ、先方からは社長自ら「いつでも入社してくれて構わない」と返信があったのだ。

今は五月の上旬。今月中に退職手続きを済ませ、来月には出社するつもりだ。だから、信行にこれ以上、時間を取らせるわけにはいかない。

信行は言う。

「一ヶ月か二ヶ月ぐらいだろう」

一ヶ月か二ヶ月ぐらいなら、先方との調整もできるはずだ。

心の中で算段を立て、真琴は応じる。

「では、分かりました」

しばらくして、二人は会社に着く。信行は車のキーを警備マネージャーに投げ渡し、真琴と共にビルへと入っていく。

「社長は今日、副社長と一緒に出社したんですか?」

「今日は、社長が副社長とご一緒だなんて。また何か会社の広報活動の一環ですか?」

「社長、副社長、おはようございます」

「社長、副社長、おはようございます」

社員たちの挨拶に、真琴は軽く頷いて応え、信行は両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、視線だけで応じる。

しかし、二人が揃って出社する光景は、やはり社内に大きな波紋を広げる。

オフィスは、その噂話で持ちきりだ。

さらには、二人が平穏を装っているのか、それとも時が経つうちに愛情が芽生えたのか、賭けをする者まで現れる始末。

そして、ほとんどが平穏を装っているだけ、に賭けている。

十時過ぎ、真琴が二つのファイルを手に別の副社長のオフィスから出てくると、前から由美の声が不意に聞こえてくる。

「真琴ちゃん」

顔を上げると、そこにいたのは由美だ。真琴は丁寧に挨拶する。

「由美さん」

由美は親しげに近づき、笑顔で言う。

「真琴ちゃんにデザートを持ってきたの。デスクに置いておいたわ」

真琴は言う。

「ありがとうございます、由美さん。でも、これからはそんなにお気遣いなく」

由美は手を伸ばし、真琴の顔にかかった髪を耳の後ろにかけてやる。

「そんな他人行儀な言い方はやめてよ。私たちの仲でしょ?」

そう言って手を離した時、真琴は彼女の薬指にプラチナのダイヤモンドリングがはめられているのに気づく。

指輪はとてもシンプルで、男女兼用のデザイン。どこかで見たことがあるような気がする。

その指輪のことを考えていると、信行がオフィスから出てきた。

「信行」

由美は笑顔で歩み寄る。真琴も無意識にそちらに視線を向けた。

そして、特に彼の左手に目をやる。

なるほど……信行の左手の薬指で、このデザインの指輪を見たことがあったのだ。だから、あんなに見覚えがあったのか。

二人のペアリングを見て、自分と信行の結婚を思い出す。ただ婚姻届を出しただけで、彼は何も買ってくれなかった。

結婚指輪さえも。

結婚式も挙げず、ただ興衆実業が彼女の副社長就任を公告しただけ。

そんなことを考えていると、由美の声がまた耳元で聞こえる。

「真琴ちゃん、私と信行はこれからお役所に行かなきゃならないの。だから、先に行くわね。お仕事、頑張ってね」

真琴はすぐに我に返り、二人に道を譲る。

「はい」

淡々と真琴を一瞥し、信行の視線は長くは留まらず、挨拶すらしなかった。

まるで、昨夜のあの艶めかしい雰囲気の男は、彼ではなかったかのように。

二人がすれ違う時、由美は小声で信行を窘める。

「信行、真琴ちゃんはなんと言っても、私たちと一緒に育ったのよ。これからは、こういう大きなプロジェクトには、彼女も少しは関わらせてあげなさいよ」

信行は、気だるげに返す。

「自分の体の心配でもしてろ。余計な世話だ」

遠ざかっていく二人を見つめながら、真琴はあのペアリングがひときわ眩しく感じられた。

……

夕方、仕事が終わって家に帰ると、信行の姿はなかった。

美雲と二人きりの夕食。

食卓で、美雲は箸を手に、真剣な顔で向かいの真琴に尋ねる。

「真琴ちゃん、お義母さんに正直に言ってちょうだい。あなたと信行は、今どこまで進んでるの?結婚して三年、あの子は、あなたに触れたことがあるの?」

美雲はずっと考えていた。この二人に子供でもできれば、信行も少しは落ち着くかもしれない、と。
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