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第8話

Author: ゴブリン
晨也は、誕生日の前日午後に帰国した。

約束通りなら、彼は必ず菜月と一緒に誕生日を過ごすはずだった。

空港では、まだ煩わしいアナウンスが流れていた。

「賀来澄さま、ただいま搭乗が始まっております。お急ぎ搭乗口まで……」

賀来澄。

晨也はその名前の漢字がどれか分からないが、なにかが引っかかったようだ。

心にぽっかり穴が開いたような、説明しようのない虚しい雰囲気が彼を包んでいた。

搭乗口の方に見ると、見覚えのある姿が早足で歩いていくのが見えた。

彼は咄嗟に目を細めて、無意識に追いかけようとした。

だが、その一歩を踏み出す直前、桜子に呼び止められた。

彼女はホットコーヒーを手にやってきて、甘えた声で言った。

「あなたの一番好きなモカを買ってきたよ。どこに行くの?」

「いいえ」

晨也の顔色が優れないのを見て、桜子は心配そうに聞いた。

「具合、悪いの?熱でもある?」

そう言いながら手を伸ばして彼の額に触れようとしたが、晨也は何気ない動きで避けた。

「何も」と冷たく言った。

晨也は人通りの空港のロビーに立って、隣には美しい女性が寄り添って

る。

こんな生活はどれほどの人が求めても叶えないはずだったが、彼には何か違ったような感じがあった。

まるで、大切なものを知らぬ間に奪われてしまったようだ。

桜子は彼が何も言わないのを見て、いっそ彼の肩に手を置き、甘えるように身体を寄せた。

「どうせ今夜は菜月さんのところに帰るんでしょ?だったらその前に私が先にお祝いしてあげようか?」

その言葉はほとんど耳元で囁かれた。

いつもなら、晨也はそんな誘惑に断るはずはないだろう。

けれど今日は違った。

彼は急に立ち上がり、「家に帰る」と言った。

「家に?」

桜子は不満そうに彼の服の裾を掴んだ。

「今夜帰るんでしょ?もうすぐじゃない。しかも明日はあいつと一緒に誕生日過ごすんでしょ?今は他の女に渡したくないの」

「あいつ」という呼び方が、晨也の地雷を踏んだのだ。

彼の顔色が一気に悪くなり、鋭い視線を桜子に向けた。

その目の厳しさは、今まではない。それを見た彼女は慌てて、すぐに甘えるような声で取り繕った。

「晨也、私、あのね……」

だが彼女の言葉は途中で、冷ややかに遮られた。

「桜子、前にも言ったはずだ。自分の立場をしっかり認識しろ。菜月は俺
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