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嘘だ──この『愛してる』は、全部嘘。なのに、どうしてこんなに胸が苦しいの?
耳元で囁かれた瞬間、心臓が止まりそうになった。
振り向かなくても、誰だか分かる。
昼は彼に仕える完璧な家政婦。夜は、名前で呼び合う偽りの妻。これが、私たちの関係だ。
シャンデリアの光が揺れるパーティー会場で、数百もの視線が私たちに注がれていた。
「っ……」
胸の奥が、強く掴まれたように跳ねる。甘く、苦しく、体の芯まで震える感覚。
蓮さんは、私の腰にそっと手を添える。触れ方は丁寧なのに、拒めないほどの強さを秘めている。
雇用主と家政婦──本来なら、決して触れることのない距離のはずなのに。
今、私たちは、誰よりも近い場所にいる。
「……あなたが望むなら、どこまででも演じます」
震えた声で返すと、蓮さんはほんのわずか、驚いたように目を細めた。
その黒い瞳は冷たく見えるのに、奥底に熱がある。
“演技”だと分かっていても、吸い寄せられてしまいそうだった。
蓮さんの手が、私の背に滑り、そっと抱き寄せる。体温が触れ合った瞬間、息が止まりそうになった。
「咲希」
「はい」
自分の名前を呼ばれるだけで、こんなにも胸が揺れるなんて。
彼の顔がゆっくりと近づき、呼吸のひんやりした温度が頬をかすめる。
──キスされる。そんな予感が、私の鼓動を乱した。
周囲のざわめきが遠ざかる。
世界に、蓮さんと私だけが残ったような錯覚。
そして……蓮さんの唇が、私の額にそっと触れた。ほんの一瞬の、温かさ。
「……っ」
「よくやった。今日は、それで十分だ」
耳元に低く落とされた声は、甘さを押し殺したような優しい響き。
雇い主が従業員にかける労いの言葉なのに、どうしようもなく胸が熱くなる。
これが“偽物”なら、本物はどうなってしまうのだろう。そう思った、瞬間だった。
「久しぶりね、蓮」
氷を撫でるような声が、空気を凍らせた。
振り返ると──深紅のドレスをまとった美女が、そこに立っていた。
白い肌に、赤い色が映えて妖艶なほど美しい。
会場の空気が、わずかにざわめく。
……誰、この人?まさか……。
女性は一歩進み、まっすぐ蓮さんを見つめる。
その眼差しには──私が決して向けることのできない、灼けるような熱があった。
「……椿」
蓮さんは、静かに名を呼んだ。その声には、抑えきれない緊張が滲む。
瞬間、蓮さんの腕の力が強くなる。まるで、私を彼女の視線から隠すように。
それが“演技”なのか、それとも……私を守ろうとしたのかは分からない。
ただ、彼の体温が近すぎて、心臓の音が自分でもうるさい。
椿と呼ばれた女性は微笑んだ。その微笑みは、美しいのに鋭い。
「相変わらずね。人前では完璧に演じるところも」
刺すような言葉。
蓮さんは何も返さない。ただ、私を抱く腕の温度だけが熱かった。
◇
──すべては、2ヶ月前から始まった。
一流ホテルの職を失った私が、月給80万円の偽りの花嫁になった……あの日から。
控室に戻ると、私は椅子に腰をおろした。全身から力が抜けていく。疲れよりも、満たされた感覚の方がずっと大きかった。「お疲れ様」蓮さんが、隣に座った。「蓮さんこそ」私が言うと、蓮さんは少し笑った。しばらくして、ドアがノックされた。「失礼します」神崎さんが入ってきた。「お疲れ様でした。車を用意してあります」蓮さんが立ち上がった。「ありがとう、柊吾」神崎さんが、私たちを見て静かに微笑んだ。「お二人とも、本当におめでとうございます」その一言に、今日一日のすべてが詰まっているような気がした。◇式場を出ると、春の夜気が火照った頬に心地よく触れた。車が、玄関前に停まっていた。「咲希、本当におめでとう!」遠くで萌花が手を振っているのが見えた。彼女の隣には、目を真っ赤にした父と、優しく微笑む母の姿もある。私は何度も振り返りながら、神崎さんが開けてくれた車のドアをくぐった。バタン、と重厚なドアが閉まる。先ほどまでの喧騒が嘘のように消え、車内は静寂と、蓮さんの纏うわずかなシトラスの香りに満たされた。車が走り出すと、街の光が窓を流れ始めた。「……疲れたか」蓮さんの声が、披露宴の時よりも一段低く響いた。「いいえ。……でも、何だかまだふわふわしていて」「そうか。なら、俺に預けておけ」蓮さんが私の肩を引き寄せ、自分の胸元へ導いた。「咲希」蓮さんが、私の名を呼んだ。「今日、君は本当に綺麗だった。誰にも見せたくないと思うほどに」「蓮さん……」その独占欲の滲む言葉に、鼓動が跳ねる。「これからの人生で、もっと綺麗になっていくんだろうな」耳元で囁くような低い声に、顔が熱
蓮さんが、ゆっくりとマイクを持った。会場の喧騒が引き潮のように去り、静寂がホールを包み込む。蓮さんは静かに封筒を開け、中から数枚の便箋を取り出した。「咲希に、手紙を読ませてください」凛とした、けれどどこか震えている蓮さんの声が会場に響いた。私は、隣に立つ彼をじっと見つめた。「咲希へ」蓮さんの、独白のような静かな朗読が始まった。「君が初めて俺のペントハウスに来た日のことを、今でも鮮明に覚えている。あの夜、仕事から戻った俺を待っていたのは、場違いなほど温かい肉じゃがの匂いだった。コンビニの袋しかぶら下げていなかった当時の俺は、その優しさが怖くて、一度は君を強く拒絶してしまったね」会場から、小さな驚きの声が漏れる。「だけど、数日後の朝。君が一生懸命に作ってくれたオムレツを一口食べた時、俺は初めて、自分がどれほど孤独だったかを思い知らされたんだ」私は思わず息を呑んだ。あの時、無表情でオムレツを食べていた蓮さんの心の中で、そんな嵐のような感情が渦巻いていたなんて、今の今まで知りもしなかった。「誰かが自分のために火を使い、包丁を握り、温かい皿を用意してくれる。止まっていた俺の時間が、あの朝、君の手料理によってようやく動き出した。誰かの気配で目が覚める。そんな当たり前の幸せを、君が教えてくれたんだ」ただ、彼に元気になってほしくて必死だったあの日々。私の何気ない日常の積み重ねが、彼の孤独を溶かしていたのだと思うと、何か熱いものが込み上げてきた。「君は毎朝、俺の好みを黙って覚えてくれた。それが当たり前になった頃、俺は気づいたんだ。出張から戻る時、会社から帰る時、いつも頭の中にあるのは、仕事のことではなく、灯りのついた部屋と、君のことだということに」蓮さんの声が、かすかに揺れた。「偏頭痛がひどかった夜のことを、覚えているだろうか。俺は、誰にも触れられたくない、誰にも見られたくないと、暗闇の中で殻に閉じこもっていた。けれど君は、立ち入り禁止のルールを破ってまで、俺の部屋の前に生姜湯と薬を置いてくれたね」
次に、萌花が震える足取りで前に出た。私の大学時代からの大親友。楽しい時も、一番辛かった時も、いつも隣にいてくれた彼女。マイクの前に立った瞬間、萌花はもう涙を堪えきれず、鼻をすすっていた。「……咲希とは、大学一年の春に出会いました」萌花の声が、マイクを通して震えながら響く。「咲希が突然仕事を失って、毎日履歴書を書いて……。あんなに努力家な咲希が、夜中に安酒を飲みながら『もうダメかも』って泣いていた時、私、何もできなかったんです」萌花がハンカチを握りしめる。「でも、咲希は諦めなかった。どんなにボロボロになっても、前を向くことをやめなかった。だから、蓮さんと出会えたんだよね。今日の咲希は、人生で一番……ううん、世界中の誰よりも輝いてるよ」萌花が、真っ直ぐに私を見た。「咲希、本当におめでとう。ずっと、ずっと幸せになってほしかったから」萌花の声が限界に達する直前、急に蓮さんに向き直った。「蓮さん!」蓮さんが、少し驚いた顔をする。「咲希を、泣かせたりしないでくださいね!もし咲希を悲しませたら、氷室グループが相手でも、私が黙っていませんから!」静まり返っていた会場が、一気に笑いと拍手に包まれた。まさか会長や役員の前で、そんな啖呵を切るとは。蓮さんが立ち上がり、真剣な顔で答えた。「肝に銘じます」再び、会場が沸いた。萌花が席に戻ってくると、私はたまらず駆け寄って、彼女を抱きしめた。「ありがとう、萌花」「もう……咲希のせいで、高いメイクが全部台無しだよぉ……」泣き笑いの萌花の言葉に、私も笑いながら目元を拭った。◇祝辞の後、私は両親の席へと歩み寄った。手には、実家の旅館の庭に咲く花をイメージした、色鮮やかな花束。立ち上がった両親の前に立
【咲希side】「それでは、新郎新婦の入場です!」司会者の高らかな声が会場に響き渡った瞬間、オーケストラが華やかな旋律を奏で始めた。巨大な扉がゆっくりと左右に開かれ、真っ白な光が差し込む。スポットライトが、私たちを真っ直ぐに照らし出した。拍手の嵐が、地鳴りのように押し寄せる。私はただ、前を向いて歩いた。シャンデリアの眩い輝き。磨き上げられたカトラリー。白いテーブルクロスの上に置かれた、淡いピンクの薔薇。目に映るもの、耳に届くものすべてが、あまりに美しくて夢の中に迷い込んだかのようだった。けれど、これは夢じゃない。腕を組んでいる蓮さんの上質なタキシードの質感、私の手に重なる彼の掌の温もりが、ここが現実であることを教えてくれる。ゲストたちの顔が、ゆっくりと視界に入ってくる。その中央で、厳造様が孫を見るような温かい目で見守ってくれていた。親族席では、父と母が懸命に拍手をしている。その隣で、萌花はまだ序盤だというのに、もうハンカチで目を真っ赤にしていた。序盤からそれでどうするの、萌花。思わずそう突っ込みたくなって、少しだけ肩の力が抜けた。メインテーブルに着くと、蓮さんが流れるような動作で椅子を引いてくれた。「どうぞ」「……ありがとうございます」隣に蓮さんが腰を下ろし、肩がわずかに触れた。その微かな感触だけで、張り詰めていたものがふっと緩む。誰に遠慮することもなく、大好きな人の隣に、胸を張って座っていられる。その実感が、じわりと沁み込んできた。◇乾杯の後、歓談の時間になった。ゲストたちが、次々とテーブルに挨拶に来てくれる。「それでは、皆様お待ちかね、ケーキ入刀です!」司会者の声が響き、会場の中央に三段重ねの巨大なウェディングケーキが現れた。真っ白な生クリームの上に、繊細なシュガーアートの薔薇が咲き乱れている。私と蓮さんは、一緒に銀色のナイフを握った。
「はい、誓います」俺の声が、静まり返ったチャペルに響いた。「咲希。君と出会う前、俺は何かを失ったまま生きていた。人を信じることも、笑うことも、いつの間にかやめていた」言葉が、わずかに震えた。「でも、君が俺の人生に入ってきた日から、少しずつ変わった。君の作る温かい食事。いつも待っていてくれる笑顔。迷わず本音をぶつけてくる言葉。俺が俺でいられたのは、君がそばにいてくれたからだ」俺は咲希の手を取った。「これからの人生、全部一緒に歩みたい。嬉しい時も、辛い時も、何があっても隣にいる。そして君を、一生守る」俺は力強く告げた。「愛してる、咲希」会場のどこかで、すすり泣く声がした。牧師が、咲希の方を向いた。「森川咲希さん。あなたは氷室蓮さんを夫として迎え入れ……その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか」咲希は、ゆっくりと俺を見た。「蓮さん」唇が少し震えているのに、声には力があった。「私は、どん底にいました。仕事を失い、希望も失って、毎日が真っ暗でした」咲希が涙を流しながら、微笑んだ。「でも、あなたと出会って、全てが変わりました。最初は、月給80万円の契約でした」会場から、小さな笑い声が漏れた。「偽装婚約の契約も、そうでした。でも、契約書には書かれていないことがありました。それは……本気で人を愛することでした」咲希の言葉が、強くなる。「いつの間にか、本気で、あなたを愛していました。あなたの不器用な優しさ。孤独な背中。誰にも見せない、温かい心。全部、全部、大好きになりました」咲希の手が、俺の手を握る。「これからの人生、あなたを支えたい。あなたと一緒なら、どんな困難も乗り越えられる。一生、そばにいることを誓います」会場が、一瞬静まり返った。それから、大きな拍手が湧き起こった。萌花が声を上げて泣いている。柊吾も、目元を拭っていた。最前列で、祖父・厳造がゆっくりと目を閉じ
新婦控室は、広くて明るい部屋だった。大きな鏡、白いソファ、飾られた花。到着してすぐ、私は再びあの純白のドレスに袖を通した。スタイリストさんたちが手際よくベールを整え、ティアラの角度を微調整してくれる。山梨でみんなに見送られた時よりも、さらに輝きを増した「花嫁」が鏡の中に戻ってきた。しばらくして、扉がノックされた。開くと──黒いモーニングコートを着た父が立っていた。いつもの作務衣姿とはまるで違う。背筋をまっすぐ伸ばし、どこか緊張した面持ちで立っている。こんな父を、見たことがなかった。父は部屋に入ると、私をじっと見つめた。しばらく、何も言わなかった。「……本当に綺麗だな」父の言葉が、かすかに震えていた。「お母さんに似て」その一言が、静かに胸に落ちた。込み上げるものを、私はぐっと堪えた。泣いたら、メイクが崩れてしまう。父が腕を差し出した。私は何も言わず、その腕をしっかりと取った。固くて、温かい、父の腕。◇チャペルの扉の前に着いた。重厚な扉の向こうから、オルガンの音色が響いてくる。荘厳で、静かで、どこか温かみのある音色。「大丈夫か?」父が、小声で尋ねた。「大丈夫です」力強く答えると、父が私の手をぎゅっと握った。扉が、ゆっくりと開いた。光が、溢れてくる。◇一歩、踏み出した瞬間、世界が変わった。白とグリーンで飾られた会場。シャンデリアの光。そして──バージンロードの先に、蓮さんが立っていた。遠くて、まだ表情は分からない。でも、その姿だけで、足が前に動いた。参列者たちの視線が、一斉に私に集まる。「わあ……」と誰かが息を呑む声が、静寂の中に溶けていく。私には、もう蓮さんしか見えなかった。一歩、また一歩。父の腕が、私を支えてくれている。白いバージンロー
ペントハウスに戻った時、窓の向こうはすっかり暗くなっていた。東京の夜景が輝いている。いつもなら美しいと思えるのに、今日は何も心に響かなかった。『本当の、契約内容』氷室様の言葉が、頭の中で繰り返される。リビングに入ると、氷室様はコートを脱いでキッチンへ向かった。「コーヒーを淹れる」「あの、私が……」「いい。俺がやる」その声は、いつもより重い。私は、ただ黙って頷いた。コーヒーメーカーが動き出す。豆を挽く音が、静寂を埋めてい
1月2日の朝。私は氷室様と並んで、タクシーの後部座席に座っていた。目的地は氷室本邸――氷室様の祖父、厳造様のお屋敷。新年の挨拶に伺うのだという。でも、いまいち納得がいかない。「あの、氷室様……」私は、恐る恐る口を開く。「なぜ、私も同行することに?」「祖父に会わせたい」短い答え。それ以上は何も言わない。祖父に、会わせたい?家政婦を?意味がわからなかった。氷室様は窓の外を見たまま、それ以上何も語らなかった。
ある日の午後。神崎さんが書類を届けにやって来た。「森川さん、これから買い物ですか?」「はい」「実は、氷室様のことでお話したいことがありまして。少し、お付き合いいただけませんか」その真剣な表情を見て、私は直感した。もしかして、前に家を訪ねてきたときに、話そうとしていた、あの続きではないだろうか。◇近所の、少しざわめいたカフェで、私たちは向かい合ってコーヒーを飲んだ。神崎さんはカップを両手で包み込み、温めるようにしながら、静かに話し始める。「氷室様…&
『氷室様より緊急の指示です』緊急の指示……なんだろう?神崎さんの声は、電話越しでもいつもの落ち着きを欠き、微かな緊張を孕んでいた。「リビングの革のトランクを、あなたの部屋のクローゼットの奥に保管してください」「トランク……ですか?」私は、リビングを見回した。ソファの横には、今朝はなかったはずの黒い革のトランクが、静かに鎮座していた。いつの間に、ここに置かれたのだろう?「トランクの内容は、私にも不明です。ただ氷室様からは『誰