LOGIN「……っ」
あまりの距離の近さに、私は息を呑んだ。
心臓が、激しく脈打つ。
氷室様が、こんなふうに笑うなんて……。氷室様も、感情を持つ一人の人間なんだ。
当たり前のことなのに、彼の完璧な冷徹さに慣れていた私は今、初めてその事実に気づいた気がした。
「来てくれてありがとう」
氷室様は、デスクの上の山積みの資料を少し寄せ、スペースを作ってくれた。
「ここに置いてくれ」
私は、胸の奥で温かさを感じながら、バッグから夜食を取り出した。
おにぎり3個。鮭、梅、昆布。温かい味噌汁を入れた保温ジャー。小さなタッパーに入れた、故郷の母の味を真似た漬物。
「おにぎりなら、キーボードを叩きながらでも片手で食べられると思って。スープは、体を温めてくれるように具沢山の味噌汁にしました」
「助かる」
氷室様はおにぎりを手に取った。真っ先に、梅を選んだ。一口、頬張る。
「&
次にやって来たのは、ダイニングテーブルのコーナー。私は、小ぶりな二人掛けのテーブルの前で立ち止まった。「これで十分ですよね、二人なら」蓮さんが、テーブルを見た。「……いや、こっちにしよう」そう言って蓮さんが指さしたのは、四人掛けのテーブルだった。「え?でも、二人なのに」「今は二人だが」蓮さんが、窓の外の春の空を見た。「将来、賑やかになるかもしれない」「賑やかに……?」蓮さんが、私を見た。その目が、少し遠くを映しているような気がした。「君に似た子が、このテーブルで笑っている姿が……想像できるんだ」頬が、一気に熱くなった。「れ、蓮さん……」「変なことを言ったか?」「変じゃないですけど、急に……」私が言葉を失っていると、蓮さんが軽く咳払いをした。「……まあ、そういうことだ。頼む」私は蓮さんのシャツの袖を、そっと掴んで下を向いた。──四人掛けのテーブル。蓮さんが思い描いた未来の食卓。その景色が、私の胸の中でじわりと広がった。私も、同じ未来を見たいと思った。◇食器のコーナーで、私はあるカップの前で立ち止まった。シンプルで素朴な佇まいの、ペアのマグカップ。手に取った瞬間、しっくりきた。「これ……すごく持ちやすいです。蓮さんの大きな手でも、持ちやすそうで」蓮さんが、もう一方を手に取った。しばらく、黙って手の中で確かめていた。「ああ、いいな」「明日からのコーヒーが楽しみになります」「俺もだ」「蓮さんはブラックですよね。私は少しだけミルクを入れて……このカップが並んでいるところを想像すると、なんだか不思議な気持ちになります」「不思議?」「こんなに当たり前の毎日が、私には夢みたいで」蓮さんが、私を見た。何かを言いかけて、やめた。代わりに、カップを静かにトレーに置いた。
4月4日、土曜日。結婚式まで、あと7日。朝食を片付けていると、蓮さんのスマートフォンが鳴った。画面を確認した彼は、短く「祖父上からだ」と告げて通話ボタンを押した。「はい」しばらく聞いていた蓮さんの眉が、わずかに上がった。「……言われなくても、そのつもりです」また聞いている。「分かりました。では、そのように」電話を切った蓮さんが、少し呆れた顔で私を見た。「祖父上から指令が出た」「指令?」「今日、買い物に付き合ってくれ。新居……いや、今の部屋を、君が使いやすいように整えたい」「私が選んでいいんですか?」「それが指令だ」蓮さんが、少し間を置いてから付け加えた。「俺も、そうしたいと思っていた」それだけだった。多くを語らない。でも、その一言の重さを、私はちゃんと受け取った。◇青山にある家具店は、ショールームというより美術館のようだった。吹き抜けの天井、柔らかい照明、どこを見ても洗練されたものばかり。入った瞬間、足がすくんだ。「どうした」「少し、圧倒されてしまって」蓮さんが、私の隣に並んだ。「値段は見なくていい。君の心が動くものを選んでくれ。これから一生使うものだから」その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。スタッフの方に案内されながら、広い店内を歩く。洗練された家具が並ぶ中、リビングコーナーの一角に、ひときわ目を引く大きなソファがあった。チャコールグレーの落ち着いた色味に、ふかふかとした厚みのあるクッション。蓮さんが、その前で立ち止まった。「座ってみよう」五人は掛けられそうな、ゆったりとしたサイズ。私が端に座ろうとした、その時だった。「咲希、こっちだ」蓮さんが、自分のすぐ隣をぽんぽんと叩いた。広いソフ
応接室には、二人の姿があった。エレガントなスーツを着た女性──レイラちゃんのお母様。そして、その隣で。「咲希さん!」小さな女の子が、私の方を向いて笑顔になった。あの時より少し大きくなったレイラちゃんが、そこにいた。流暢な日本語で、私の名を呼んでくれた。「レイラちゃん……!」「咲希さん、会いたかった!」レイラちゃんが駆け寄ってきて、私に抱きついた。温かくて、柔らかくて──生きている。この子が生きている。それだけで、もう十分だった。「大きくなったね」「うん、もう9歳だよ!」レイラちゃんは、誇らしげに笑った。お母様が、優雅に立ち上がった。「森川さん、お久しぶりです」流暢な日本語だった。「お久しぶりです。本日は、お時間をいただきありがとうございます」私は深く頭を下げた。「こちらこそ。どうぞ、お座りください」ソファに腰をおろすと、レイラちゃんが私の隣にぴたりとくっついた。「森川さん、あの時は本当にありがとうございました」お母様の言葉に、私は顔を上げた。怒っていない。責めてもいない。その目は、穏やかだった。「あなたが何度も確認してくださったこと、すべて見ていました。伝達メモを3部作成して、口頭でも何度も確認してくださった」「でも……私が、もっとちゃんと……」「いいえ」お母様が、首を横に振った。「あなたの細やかな配慮があったおかげで、厨房の他のスタッフがすぐに気づき、エピペンも用意できていた。あなたがいてくれたから、レイラは助かったんです」鼻の奥が、ツンとした。「実は……退院した後のレイラが、毎晩あなたの話をしていたんです」お母様の表情が、柔らかくなる。
4月2日、木曜日。春の柔らかな日差しが差し込む前に、私は目を覚ました。今日──レイラちゃんのお母様に会う日。隣で蓮さんが、静かに寝息を立てていた。私はそっとベッドから抜け出し、キッチンへ向かった。朝食を作りながら、ぼんやりと考える。総支配人から、お母様が私を認めてくださっていると聞いた。でも、直接会うのは別だ。救急車のサイレン。母親の悲鳴。あの事故の夜、倒れた娘を抱きしめていたお母様の顔が、ちらりと過ぎった。ちゃんと、彼女の顔を見て話せるだろうか。手に力が入らず、卵を割り損ねそうになった。「……ふう」深く息を吸って、なんとか気持ちを落ち着ける。「咲希」振り返ると、蓮さんが立っていた。「おはようございます」「おはよう。早いな」蓮さんが私のそばに来る。「眠れなくて……」蓮さんが背後から包み込むように、私の肩を抱いた。「今日は俺がいる。それだけ覚えておいてくれ」その言葉に、少しだけ心が落ち着いた。◇朝食を食べた後、私たちは支度を始めた。鏡の前に立ち、久しぶりに黒のスーツに袖を通す。そして、髪を丁寧にまとめ上げる。かつて、毎日繰り返したルーティンだけれど。ホテルを辞めてからは、いつもエプロン姿だったから。なんだか変な感じ。胸元には、蓮さんから贈られた雪の結晶のネックレス。冷たいシルバーが、今日は不思議と温かく感じられた。鏡の中の私は──あの田中くんたちと会った時よりも、少しだけ顔が違う気がした。怯えていない、とは言えない。でも、逃げようとも思っていなかった。「……よし」小さく呟いて、自分に気合を入れる。「咲希、行こう」蓮さんの呼びかけに、私は静かに頷いた。◇午前10時、車はホテル・グランシエル東京の前に停まった。車を降りると、春風が頬
3月25日、水曜日の夜。カレンダーをめくれば、4月12日の「その日」まで、残された時間はあとわずか。私はリビングのキッチンで、鼻歌を歌いながら夕食の片付けをしていた。今日の献立は、蓮さんの好物である和風ハンバーグ。「美味しいな」と短く、けれど満足げに呟いてくれた彼の声を思い出すだけで、指先の水仕事も全く苦にならない。リビングのソファでは、蓮さんがゆったりと寛ぎながら、仕事の書類に目を通している。時折、ペンを動かす手が止まり、ふと顔を上げた彼と視線がぶつかる。すると蓮さんは、困ったような、けれどこれ以上なく優しい微笑みを私に投げかけてくれた。ああ、幸せだ……。心からそう思った。一時は全てを失い、絶望の淵にいた私が、今こうして愛する人の隣で、穏やかな夜を過ごしている。このまま、この温かな光の中にずっといられたら。名字が変わり、本当の家族として歩んでいく未来を想像するだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。その時だった。幸せの余韻に浸る私の耳に、スマホの無機質な着信音が響いた。液晶画面に表示されたのは、見知らぬ番号。少し迷ったが、私は電話に出た。「もしもし」『……森川さん。夜分に、突然申し訳ありません』聞き覚えのある声に、私の心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。ホテル・グランシエル東京の総支配人だった。「総支配人……どうされたんですか、こんな時間に」今さら何の用があるのだろう。田中くんの証言で、私の身の潔白は証明されたはずなのに。『……実は、どうしてもお耳に入れたい相談がありまして。本来なら私が断るべき案件なのですが、お相手が……』「相談……ですか?」『はい。VIPのお客様が、森川さんを指名されているんです』「え?」布巾を持つ手が、止まった。もう私はあのホテルの人間ではない。それなのに、なぜ。『どうしても、直接お会いし
蓮さんが扉を開けると、厳造様が立っていた。「蓮、咲希さん、邪魔するぞ」「祖父上、どうぞ」厳造様がリビングに入ってこられ、私は立ち上がった。「お茶をお持ちします」「いや、気にしなくていい」厳造様が手を上げて、私を制した。「少しだけ、話がある」厳造様は、ソファに座った。蓮さんと私も、向かいのソファに腰をおろす。厳造様の表情は、穏やかだった。でも、その目の奥に、何か深いものが宿っているように見えた。「咲希さん、ありがとう」突然の言葉に、私は目を丸くした。「え……?私は何も……」「お前さんは、蓮を変えてくれた。そして……この老いぼれに、家族の温もりを思い出させてくれた」厳造様の声が、わずかに震えた。「隆一郎を失って以来、私の中で何かが止まっていた。蓮も心を閉ざして、ただ仕事だけを続けていた。あの子が一度も笑わずに歳を取っていくのを、指をくわえて見ていることしかできなかった」厳造様は、慈しむような目で蓮さんを見た。「だが、今はどうだ。やっと、家族が増える。隆一郎も、きっと空の上で安堵しているだろう」私の目から、熱いものがこぼれた。厳造様がこれほどまでに蓮さんを、そして私のことを想ってくださっていたなんて。「私こそ、皆さんと家族にしていただいて……本当にありがとうございます」厳造様は静かに頷いた。「4月12日、楽しみにしているぞ」「はい」私は力強く頷いた。厳造様は満足そうに微笑むと、足取り軽くペントハウスを後にされた。扉が閉まった後、しばらく静寂が続いた。蓮さんが、遠くを見つめている。「……祖父が、あんなに話すのは珍しい」「そうなんですか?」「ああ。感情を表に出さない人だから」蓮さんは静かにソファに深く座り直した。何かを思い出しているような、静かな目をしていた。「……そういえば」
「どんな猫だったんですか?」私がそっと尋ねると、氷室様は遠くを見るような目をした。「白い猫だった。名前は、ユキ」その名を聞いた瞬間、私の指先が自然と首元のネックレスに触れた。雪の結晶。ユキ。……彼は、自分が失った最も大切なものの名前を、私に贈ってくれたのだろうか。「ユキ……」「母が拾ってきた。雪の降る日に、捨てられていたらしい」氷室様の声が、少しだけ柔らかくなった。「母は優しかった。ユキを大切に育てた。俺も、ユキが好きだった」「…
12月24日。クリスマスイブ。昨夜、氷室様から『明日、10時にリビングへ。私服で構わない』とメッセージが届いて以来、不安と期待が交錯し、私はほとんど眠れなかった。◇朝10時、私はリビングで氷室様を待っていた。紺色のワンピースに、ベージュのコートを羽織っている。控えめにメイクし、髪は後ろで一つにまとめた。鏡で何度も確認したが、そのたびに心臓が激しく鳴った。どこに行くのか、何の用事なのか。そして――なぜ、私なんだろう。廊下から足音が聞こえ、息を呑む。氷室様が、リビングに現れた。黒い
深夜2時。トイレに起きた私は、喉の渇きを覚えて廊下に出た。冬の夜の冷たい空気が、肌をさす。キッチンへ向かう途中──氷室様の部屋から、低いうめき声が聞こえた。「くっ……」苦しそうな声に、私は思わず足を止める。ドアの前に立ち、耳を澄ます。中から、何かが壁にぶつかったような鈍い音。そして、荒く途切れ途切れの呼吸。ノックすべき?でも、氷室様の部屋は立ち入り禁止。神崎さんにも、はっきりと言われている。私の手がドアノブに伸びかけ、途中で止まった。もし、怒られたら
数時間後。私がリビングで洗濯物を畳んでいると、廊下から物音がした。そっと廊下を覗くと、氷室様の部屋の前に置いたトレイが、きれいさっぱり空になっている。生姜湯のカップも、鎮痛剤の包装も、冷却シートの袋も。全て、部屋の中に持ち込まれていた。よかった……!ほっと、胸をなでおろす。少しでも、楽になってくれたらいいな。◇夕方、17時を過ぎた頃。私がキッチンで夕食の準備をしていると──廊下から足音が聞こえ、氷室様がリビングに現れた。黒いシャツに、







