LOGIN深夜1時。私は、氷室コーポレーション本社ビルの前に立っていた。
都心の一等地に建つ、ガラス張りの高層ビル。見上げるほど高く、夜でも煌々と明かりが灯っている。周囲のビル群の中でも、最上階だけが特別な光を放っているように見えた。
「何か御用ですか?」
警備員が、怪訝な表情で私に声をかけた。こんな時間に、部外者の女性が訪れるのは異例なのだろう。
「あの、氷室蓮様の家政婦をしている森川咲希と申します。夜食をお届けに参りました」
警備員は少し驚いた表情をしたが、内線で確認してくれた。
「……どうぞ。最上階、社長室です」
「ありがとうございます」
エレベーターに乗り込む。カードキーをかざし、最上階のボタンを押す。
上昇していくエレベーター。最上階へ向かうにつれて、気圧の変化で耳の奥がツンとした。
怒られるかもしれない。勝手に来て、迷惑かもしれない。
心臓が、激しくドキドキしていた。でも、引き返すという選択肢はなかった。
冷たい
夜。客室に戻ると、蓮さんは手のひらを開いて眺めた。「見せてください」私が手を差し出すと、蓮さんは少し迷ってから、その手のひらをこちらへ向けた。二日間の慣れない作業で、皮膚が赤くなっていた。薬指と中指の付け根に、小さな水ぶくれができていた。「痛くないですか?」「これくらい、なんでもない」「でも……」私は洗面台から救急箱を持ってきた。ガーゼと絆創膏を取り出し、蓮さんの手のひらに向き合う。「借ります」蓮さんが何か言う前に、水ぶくれの上にそっとガーゼを当てた。「……」「じっとしていてください」「分かった」テープを丁寧に貼りながら、蓮さんの手をまじまじと見る。普段は高価なスーツに包まれた、ペンとスマートフォンを握るための手。それが今、古びた雑巾と皿の重さで赤く変わっている。「なぜ、ここまでするんですか」「何が」「皿洗いも、掃除も。こんなに手が荒れるまで」蓮さんが、少し考えてから言った。「君が守ってきた場所を知るためだ」「……知るだけなら、話を聞くだけでも」「それでは足りない」蓮さんが、私の目を見た。「頭で理解するのと、体で知るのは違う。源さんが三十年かけて守ってきたものを、俺は数日触れただけだ。それでも、少しは分かった気がする」「……何が分かりましたか」「ここの重さだ」短い言葉だったが、それで十分だった。私は絆創膏を貼り終え、ゆっくりと蓮さんの手を両手で包んだ。「この程度で、音を上げるつもりはない」「分かっています」私の目が潤んだのに気づいたのか、蓮さんが小さく笑った。「泣くな」「泣いていません」「目が潤んでいる」「……蓮さんのせいです」蓮さんが今度は声を出して笑った。珍しい笑い声に、私も釣られてしまった。
翌朝。4月14日。台所で母の朝食準備を手伝っていると、廊下に足音がした。振り返ると、作務衣姿の蓮さんが立っていた。髪は整えられているが、いつもより早起きしたのか、目元がわずかに眠そうだった。「おはようございます」「おはよう」「今日は、何から始めればいいですか」母が驚いた顔をした。「え、蓮さん自ら?」「昨日の客室掃除が、不十分でした。源さんに指摘を受けました」「まあ……」母が申し訳なさそうにしたが、蓮さんは穏やかだった。「正しい指摘です。今日はやり直します」それだけ言って、蓮さんは掃除道具を取りに向かった。私は、その背中が廊下の角を曲がるまで見送った。◇午後。蓮さんは源さんに頼み込み、皿洗いをさせてもらっていた。「邪魔になるだけだ」と源さんは渋ったが、蓮さんは黙って流し台に立った。配膳の合間に、厨房の扉が少し開いていた。私はそこから、そっと中を覗いた。蓮さんが、無言で皿を洗っている。慣れない手つきだった。でも、急がない。雑にしない。一枚一枚を確かめるように、丁寧に。源さんが横目でそれを見ていた。何も言わなかった。それが、かえって試されているようだった。◇夕方、配膳を終えて厨房に戻ると、源さんの声が聞こえた。「皿は、縁から洗え」蓮さんの手が止まる。「客が口をつける場所だ。そこに汚れが残っていたら、板前の恥になる」「……承知しました」蓮さんはすぐに、スポンジを縁に当て直した。正確な動作で、皿を回す。たった
山梨へ向かう車の窓から、景色が少しずつ変わっていくのを眺めていた。東京の高層ビル群が遠ざかり、なだらかな山の稜線が近づいてくる。空の青が、違う。都会の空より深く、澄んでいた。「もうすぐですね」「ああ」短い返事だったが、その声はいつもより少しだけ低かった。「蓮さん、緊張していますか?」「していない」「……眉間に、力が入っています」蓮さんが、前を向いたまま小さく息を吐いた。「……少しだけ、しているかもしれない」「どうして?」「君の父親に、本当の意味で認めてもらえているか。まだ確信が持てない」私は目を丸くした。数千億を動かす男が、小さな旅館の主人を前に、緊張している。「大丈夫ですよ」「根拠は?」「挨拶に来てくれた日から、父はずっと蓮さんのことを話していました。『あの男は、目が本物だ』って」蓮さんが、少し間を置いた。「……そうか」今度の「そうか」は、最初の返事より、ずっと柔らかかった。◇「森川荘」の門をくぐると、玄関に両親の姿があった。「咲希、蓮さん、おかえり!」母が割烹着のまま手を振っている。父は作務衣姿で、穏やかに立っていた。車を降りると、母が駆け寄ってきた。「新婚旅行なのに、こんなところでいいの?」「ここがいいんです。ゆっくりできるから」私が言うと、母は嬉しそうに目を細めた。蓮さんが父の前に立ち、深く頭を下げた。「お邪魔します。しばらくお世話になります」「こちらこそ。歓迎するよ」父が、珍しく表情をほぐして答えた。玄関をくぐった瞬間、懐かしい木の香りが鼻をくすぐった。手入れの行き届いた廊下。囲炉裏のあるロビー。子供の頃から変わらない、この家の匂い。
中には、便箋が一枚だけ。文字は少なかった。けれど、一文字一文字に、重さがあった。『蓮へ。お前がこれを読む時、隣に愛する人がいるはずだ。俺はお前に、孤独な背中を見せたまま逝ってしまった。すまなかった。でも、今のお前を見ていると、俺の分まで幸せになってくれていると分かる。その人を、一生大切にしてやれ。それだけで、俺は十分だ。 隆一郎』私は、手紙を胸に押し当てた。「蓮さんのお父様は……蓮さんのことを、ずっと見ていたんですね」蓮さんは答えなかった。ただ、窓の外を見ていた。朝日が、部屋を金色に染めていく。「蓮さん」「……ああ」「泣いていいんですよ」「泣いていない」「目が、赤いです」蓮さんが、ゆっくり私の方を向いた。「……うるさい」その声が、かすかに震えていた。私は何も言わず、蓮さんの手を両手で包んだ。しばらく、二人で黙っていた。窓の外では、山梨に続く空が、どこまでも青く澄んでいた。「さあ、準備しよう。荷物は、昨夜のうちに車に積んである」「そんなところまで」「サプライズだからな。抜かりなく」蓮さんが立ち上がり、私の手を引いた。私は呆れながら、でも笑った。そして、亡きお父様の手紙を、そっと胸のポケットにしまった。この手紙はきっと、私たちがこれから何度も立ち止まりそうになった時に、また開くことになる。そんな気がした。◇身支度を整えてホテルを出ると、春の朝の空気が頬に触れた。雲一つない青空が、どこまでも広がっている。駐車場へ向かう途中、蓮さんが先に車のドアを開けてくれた。当たり前のように、自然に。車に乗り込むと、蓮さんが運転席に座った。
翌朝。4月13日、日曜日。朝日が、カーテンの隙間から差し込んでいた。私は、ゆっくりと目を開けた。最初に感じたのは、蓮さんの体温だった。昨夜と同じように、腕の中にいる。枕元には、白い封筒があった。昨夜、蓮さんが「着いてから開けろ」と言っていたもの。でも、その前に──。明日、話すことがある。眠りに落ちる前の、蓮さんの声が蘇った。蓮さんはまだ眠っている。私はそっと封筒を手に取り、静かに開いた。中には、一枚のカードだけが入っていた。『明日の朝、君を連れていきたい場所がある』裏を返すと、旅館の名前と住所が書かれていた。見覚えのある地名。──山梨。私は、カードを胸に押し当てた。「……もう、しょうがない人」声に出したら、笑いが込み上げてきた。そして、蓮さんの頬にそっと触れようとした……その瞬間、蓮さんが目を開けた。「……おはよう」少しかすれた声。「お、おはようございます」急いで手を引っ込めると、蓮さんは見透かしたように言った。「触っていいぞ」「み、見てたんですか?」「起きた瞬間に気づいた」蓮さんが、悪びれた様子もなく言う。その顔が珍しく無防備で、私は思わず笑ってしまった。蓮さんも、小さく笑った。こんな顔、他の誰も知らない。この人の朝を、これから毎日私が見るんだ。その事実が、胸に沁みた。「封筒、開けたか?」「はい。ずっと教えてくれなかった、新婚旅行の行き先……」「ああ、山梨だ。新婚旅行は、君のご両親とゆっくり過ごしたい。旅館の手伝いもしながら、二人の時間も持ちたい」「でも……それって、私にとっては普通の帰省では?」「旅館の立て直しを、具体的に動かし始め
最初は、確かめるような優しい口づけ。けれど一度離れそうになった瞬間、蓮さんの腕が私の腰を強く引き寄せ、逃がさないと言わんばかりに深く、激しく舌が絡み合った。「……んっ」息ができなくなる。蓮さんの香りと体温に包まれ、膝の力が抜けそうになった時、彼は私を軽々と抱き上げた。「きゃっ」驚いて、首に腕を回す。「ベッドに行こう」シーツに散らされたバラの香りが、ふわりと舞う。蓮さんは私をベッドに横たえ、覆いかぶさってくる。「……痛かったら、すぐに言ってくれ」蓮さんの声は、もう隠しようがないほど荒くなっていた。私が頷くと、蓮さんの唇が耳たぶから首筋、そして鎖骨へと熱い痕を残していく。触れられるたびに肌が粟立ち、体の芯から得体の知れない熱が広がっていく感覚。「蓮、さん……あ……っ」自分の口から漏れた声が、あまりに甘く艶っぽくて、自分でも驚いてしまう。蓮さんがゆっくりと私の中に入ってきた瞬間、思わず彼の背中にしがみついた。最初は、鋭い痛みに身を固くした。けれど蓮さんが、額に、瞼に、鼻筋に、慈しむような細かなキスを何度も落としてくれるたびに、痛みは次第に甘い痺れへと変わっていった。繋がっている。かつては「契約」で結ばれただけの私たちが、今、魂ごと一つに溶け合っている。「咲希……愛してる、愛してる。もう、誰にも渡さない」蓮さんの掠れた声が、耳の奥に深く響く。あの日、冷徹だった彼が今、こんなにも愛おしそうに私を呼んでいる。「私も……愛してます」二人の息が重なり、時間の感覚がなくなっていく。私はただ、彼という名の大波に飲み込まれていった。◇しばらく、そのまま抱き合っていた。荒い息が、少しずつ落ち着いていく。蓮さんは私の体を抱き寄せたまま、額の汗を優しく指で拭ってくれた。私も、心地よい倦怠感の中で、彼の胸の鼓動に耳を澄ませる。
私は、息を呑んだ。死──?「死ぬって、そんな大袈裟な……」「いいえ、大げさじゃないんです」神崎さんは、真剣な目で続けた。「過労死、という言葉をご存知ですか?」「はい……」「氷室様は、その一歩手前です」私は、胸がぎゅっと締め付けられた。「氷室様は仕事ばかりで、自分の健康を顧みない。朝は7時に家を出て、夜は0時を過ぎることもある。食事は全てコンビニか外食です」「……そんな」「なので、どうか氷室様を救ってあげてください。
氷室様はふっと表情を引き締め、繋いでいた手を静かに離した。先ほどまでの柔らかな空気は一瞬で消え去り、そこには「氷室グループの若き首領」としての冷徹な眼差しが戻っていた。「咲希。感傷に浸るのは、ここまでだ。明日から、本格的な訓練を始める」「え……?あ、はい。覚悟はしているつもりですけど」急な態度の変化に、私は瞬きを繰り返した。さっきまでの優しい空気から一変して、彼が仕事モードの『氷室社長』に戻ってしまったことに戸惑う。「神崎にも協力してもらう。氷室家の婚約者として、誰
『契約書を作り直そう』そう言って、氷室様は書斎へ向かった。私は、その背中を見つめた。氷室様の肩が、少し震えているように見えた。3年前のことを思い出して、苦しんでいる。私は、拳を握りしめた。大丈夫。私がそばにいる。氷室様は、一人じゃない。◇しばらくして、氷室様が新しい契約書を持って戻ってきた。それをテーブルに置く。「読んでくれ」私は、契約書を手に取った。***【婚約者契約書】期間:本日
「氷室様の秘密を、全て教えてください」「……なに?」氷室様の声が、低くなった。明らかに警戒している。今まで見せてくれていた穏やかな空気は一瞬で消え去り、そこには氷室グループを率いる冷徹な若き首領の顔があった。「好きな食べ物、嫌いなもの、趣味、過去……」私は、氷室様の鋭い目を見据えた。ここで引いてはいけない。「そして、3年前のアメリカでのこと。あのスキャンダルの、本当の真相も」瞬間、氷室様の顔色が変わった。氷室様の瞳の奥に、触れられたくない過去への鋭い拒絶が走る。







