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第15話

last update Last Updated: 2025-12-30 21:00:00

深夜1時。私は、氷室コーポレーション本社ビルの前に立っていた。

都心の一等地に建つ、ガラス張りの高層ビル。見上げるほど高く、夜でも煌々と明かりが灯っている。周囲のビル群の中でも、最上階だけが特別な光を放っているように見えた。

「何か御用ですか?」

警備員が、怪訝な表情で私に声をかけた。こんな時間に、部外者の女性が訪れるのは異例なのだろう。

「あの、氷室蓮様の家政婦をしている森川咲希と申します。夜食をお届けに参りました」

警備員は少し驚いた表情をしたが、内線で確認してくれた。

「……どうぞ。最上階、社長室です」

「ありがとうございます」

エレベーターに乗り込む。カードキーをかざし、最上階のボタンを押す。

上昇していくエレベーター。最上階へ向かうにつれて、気圧の変化で耳の奥がツンとした。

怒られるかもしれない。勝手に来て、迷惑かもしれない。

心臓が、激しくドキドキしていた。でも、引き返すという選択肢はなかった。

冷たい栄養ドリンクではなく、氷室様には温かいものを食べてほしい。その一心だった。

チーン、という電子音。

扉が開くと、そこは静寂に包まれた廊下だった。カーペットが敷き詰められ、間接照明が柔らかく照らしている。歩く音すら吸い込まれるような静けさだ。

奥に、大きな扉が見えた。

「社長室」と書かれたプレートが、重厚な光を放っている。

私は、深呼吸をして、ドアをノックした。

──コンコン。

数秒後、中から声が聞こえた。冷たい、いつも通りの声。

「入れ」

ドアを開ける。

部屋は想像以上に広大だった。高級な革張りのソファ、大きなデスク、壁一面の書棚。そして、何よりも目を奪われるのは、手前に広がる東京の夜景だ。

宝石箱のように輝く街の明かりが、この部屋の主の地位を物語っている。

その壮麗な景色と、デスクの上の山積みの資料が、氷室様の背負っている重圧を同時に示していた。

氷室様は、デスクの前に座っていた。

パソコン

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