LOGIN翌朝、1月6日。私は、自室の鏡の前で何度も練習していた。
氷室様を、名前で呼ぶ練習を。
「蓮さん、おはようございます」
「蓮さん……」
何度呼んでも、頬が熱くなる。
相手が氷室様で、好きな人だからかな?
名前で呼ぶって、こんなにも恥ずかしいことなんだ。
昨日は、氷室様と初めて恋人として手を繋いだ。
あの感触が、まだ掌に残っている。
大きくて、温かい手。指が絡み合った、あの瞬間。
そして──私が無意識に握り返してしまったこと。
「……っ」
顔が、さらに熱くなる。
バレてないよね?私の気持ちが、本物だって。
「落ち着いて、咲希」
鏡の前で、自分に言い聞かせた。
これは、仕事。契約。演技。
深呼吸をして、私は朝食の準備を始めた。
◇
7時。氷室様がリビングに現れた。
黒いスーツ姿。いつもの完璧な装い。
私は廊下で、扉の横の壁に背中を預けた。中から、出汁の香りが漂ってくる。昆布と鰹の、深くて静かな香り。子供の頃から嗅いできた、この旅館の匂い。しばらくして、源さんの声が聞こえた。「……あんたが昨日、ロビーで男を追い返したのを見ていた」蓮さんは何も言わなかった。「氷室グループの代表が、作務衣を着て皿を洗い、客を追い出す。……普通じゃない」「普通ではないかもしれません」蓮さんの声は、落ち着いていた。「だが、ここは俺の家族の場所です。守るのは当然です」源さんが、低く息を吐いた。「……一つだけ、聞かせろ」「はい」「あんたは、この旅館をどうしたいんだ」厨房に、静寂が落ちた。「金儲けの道具にするつもりなら、今すぐ出ていけ。どんな肩書きを持っていようと、俺はこの旅館と、ここの味を守るためにここにいる。それだけは譲らん」蓮さんが、正面から源さんを見ているのが、扉の隙間から分かった。「道具にするつもりはありません」「……ほう」「俺が守りたいのは、妻が愛し、誇りに思っている『この場所』そのものです」源さんの手が、止まった。しばらく、間があった。「……なら、これを飲んでみろ」源さんが、小皿を蓮さんに渡した。「この出汁は、30年かけて作ったものだ。昆布は羅臼。鰹は土佐。水は裏山の湧き水だ」「それだけですか?」蓮さんの声。「それだけじゃない。火加減と時間だ。マニュアルなんてない。体で覚えるしかないものだ」沈黙があった。出汁の香りが、廊下まで流れてくる。長い、静かな間。蓮さんは何も言わなかった。その静けさが、かえって何かを伝えているような気がした。「どうだ」「雑味がない」蓮さんの声は、迷いがなかった。「徹底した温度管理の結果ですね。0.1度の狂いも許さない
夜。客室に戻ると、蓮さんは手のひらを開いて眺めた。「見せてください」私が手を差し出すと、蓮さんは少し迷ってから、その手のひらをこちらへ向けた。二日間の慣れない作業で、皮膚が赤くなっていた。薬指と中指の付け根に、小さな水ぶくれができていた。「痛くないですか?」「これくらい、なんでもない」「でも……」私は洗面台から救急箱を持ってきた。ガーゼと絆創膏を取り出し、蓮さんの手のひらに向き合う。「借ります」蓮さんが何か言う前に、水ぶくれの上にそっとガーゼを当てた。「……」「じっとしていてください」「分かった」テープを丁寧に貼りながら、蓮さんの手をまじまじと見る。普段は高価なスーツに包まれた、ペンとスマートフォンを握るための手。それが今、古びた雑巾と皿の重さで赤く変わっている。「なぜ、ここまでするんですか」「何が」「皿洗いも、掃除も。こんなに手が荒れるまで」蓮さんが、少し考えてから言った。「君が守ってきた場所を知るためだ」「……知るだけなら、話を聞くだけでも」「それでは足りない」蓮さんが、私の目を見た。「頭で理解するのと、体で知るのは違う。源さんが三十年かけて守ってきたものを、俺は数日触れただけだ。それでも、少しは分かった気がする」「……何が分かりましたか」「ここの重さだ」短い言葉だったが、それで十分だった。私は絆創膏を貼り終え、ゆっくりと蓮さんの手を両手で包んだ。「この程度で、音を上げるつもりはない」「分かっています」私の目が潤んだのに気づいたのか、蓮さんが小さく笑った。「泣くな」「泣いていません」「目が潤んでいる」「……蓮さんのせいです」蓮さんが今度は声を出して笑った。珍しい笑い声に、私も釣られてしまった。
翌朝。4月14日。台所で母の朝食準備を手伝っていると、廊下に足音がした。振り返ると、作務衣姿の蓮さんが立っていた。髪は整えられているが、いつもより早起きしたのか、目元がわずかに眠そうだった。「おはようございます」「おはよう」「今日は、何から始めればいいですか」母が驚いた顔をした。「え、蓮さん自ら?」「昨日の客室掃除が、不十分でした。源さんに指摘を受けました」「まあ……」母が申し訳なさそうにしたが、蓮さんは穏やかだった。「正しい指摘です。今日はやり直します」それだけ言って、蓮さんは掃除道具を取りに向かった。私は、その背中が廊下の角を曲がるまで見送った。◇午後。蓮さんは源さんに頼み込み、皿洗いをさせてもらっていた。「邪魔になるだけだ」と源さんは渋ったが、蓮さんは黙って流し台に立った。配膳の合間に、厨房の扉が少し開いていた。私はそこから、そっと中を覗いた。蓮さんが、無言で皿を洗っている。慣れない手つきだった。でも、急がない。雑にしない。一枚一枚を確かめるように、丁寧に。源さんが横目でそれを見ていた。何も言わなかった。それが、かえって試されているようだった。◇夕方、配膳を終えて厨房に戻ると、源さんの声が聞こえた。「皿は、縁から洗え」蓮さんの手が止まる。「客が口をつける場所だ。そこに汚れが残っていたら、板前の恥になる」「……承知しました」蓮さんはすぐに、スポンジを縁に当て直した。正確な動作で、皿を回す。たった
山梨へ向かう車の窓から、景色が少しずつ変わっていくのを眺めていた。東京の高層ビル群が遠ざかり、なだらかな山の稜線が近づいてくる。空の青が、違う。都会の空より深く、澄んでいた。「もうすぐですね」「ああ」短い返事だったが、その声はいつもより少しだけ低かった。「蓮さん、緊張していますか?」「していない」「……眉間に、力が入っています」蓮さんが、前を向いたまま小さく息を吐いた。「……少しだけ、しているかもしれない」「どうして?」「君の父親に、本当の意味で認めてもらえているか。まだ確信が持てない」私は目を丸くした。数千億を動かす男が、小さな旅館の主人を前に、緊張している。「大丈夫ですよ」「根拠は?」「挨拶に来てくれた日から、父はずっと蓮さんのことを話していました。『あの男は、目が本物だ』って」蓮さんが、少し間を置いた。「……そうか」今度の「そうか」は、最初の返事より、ずっと柔らかかった。◇「森川荘」の門をくぐると、玄関に両親の姿があった。「咲希、蓮さん、おかえり!」母が割烹着のまま手を振っている。父は作務衣姿で、穏やかに立っていた。車を降りると、母が駆け寄ってきた。「新婚旅行なのに、こんなところでいいの?」「ここがいいんです。ゆっくりできるから」私が言うと、母は嬉しそうに目を細めた。蓮さんが父の前に立ち、深く頭を下げた。「お邪魔します。しばらくお世話になります」「こちらこそ。歓迎するよ」父が、珍しく表情をほぐして答えた。玄関をくぐった瞬間、懐かしい木の香りが鼻をくすぐった。手入れの行き届いた廊下。囲炉裏のあるロビー。子供の頃から変わらない、この家の匂い。
中には、便箋が一枚だけ。文字は少なかった。けれど、一文字一文字に、重さがあった。『蓮へ。お前がこれを読む時、隣に愛する人がいるはずだ。俺はお前に、孤独な背中を見せたまま逝ってしまった。すまなかった。でも、今のお前を見ていると、俺の分まで幸せになってくれていると分かる。その人を、一生大切にしてやれ。それだけで、俺は十分だ。 隆一郎』私は、手紙を胸に押し当てた。「蓮さんのお父様は……蓮さんのことを、ずっと見ていたんですね」蓮さんは答えなかった。ただ、窓の外を見ていた。朝日が、部屋を金色に染めていく。「蓮さん」「……ああ」「泣いていいんですよ」「泣いていない」「目が、赤いです」蓮さんが、ゆっくり私の方を向いた。「……うるさい」その声が、かすかに震えていた。私は何も言わず、蓮さんの手を両手で包んだ。しばらく、二人で黙っていた。窓の外では、山梨に続く空が、どこまでも青く澄んでいた。「さあ、準備しよう。荷物は、昨夜のうちに車に積んである」「そんなところまで」「サプライズだからな。抜かりなく」蓮さんが立ち上がり、私の手を引いた。私は呆れながら、でも笑った。そして、亡きお父様の手紙を、そっと胸のポケットにしまった。この手紙はきっと、私たちがこれから何度も立ち止まりそうになった時に、また開くことになる。そんな気がした。◇身支度を整えてホテルを出ると、春の朝の空気が頬に触れた。雲一つない青空が、どこまでも広がっている。駐車場へ向かう途中、蓮さんが先に車のドアを開けてくれた。当たり前のように、自然に。車に乗り込むと、蓮さんが運転席に座った。
翌朝。4月13日、日曜日。朝日が、カーテンの隙間から差し込んでいた。私は、ゆっくりと目を開けた。最初に感じたのは、蓮さんの体温だった。昨夜と同じように、腕の中にいる。枕元には、白い封筒があった。昨夜、蓮さんが「着いてから開けろ」と言っていたもの。でも、その前に──。明日、話すことがある。眠りに落ちる前の、蓮さんの声が蘇った。蓮さんはまだ眠っている。私はそっと封筒を手に取り、静かに開いた。中には、一枚のカードだけが入っていた。『明日の朝、君を連れていきたい場所がある』裏を返すと、旅館の名前と住所が書かれていた。見覚えのある地名。──山梨。私は、カードを胸に押し当てた。「……もう、しょうがない人」声に出したら、笑いが込み上げてきた。そして、蓮さんの頬にそっと触れようとした……その瞬間、蓮さんが目を開けた。「……おはよう」少しかすれた声。「お、おはようございます」急いで手を引っ込めると、蓮さんは見透かしたように言った。「触っていいぞ」「み、見てたんですか?」「起きた瞬間に気づいた」蓮さんが、悪びれた様子もなく言う。その顔が珍しく無防備で、私は思わず笑ってしまった。蓮さんも、小さく笑った。こんな顔、他の誰も知らない。この人の朝を、これから毎日私が見るんだ。その事実が、胸に沁みた。「封筒、開けたか?」「はい。ずっと教えてくれなかった、新婚旅行の行き先……」「ああ、山梨だ。新婚旅行は、君のご両親とゆっくり過ごしたい。旅館の手伝いもしながら、二人の時間も持ちたい」「でも……それって、私にとっては普通の帰省では?」「旅館の立て直しを、具体的に動かし始め
ある日の午後。神崎さんが書類を届けにやって来た。「森川さん、これから買い物ですか?」「はい」「実は、氷室様のことでお話したいことがありまして。少し、お付き合いいただけませんか」その真剣な表情を見て、私は直感した。もしかして、前に家を訪ねてきたときに、話そうとしていた、あの続きではないだろうか。◇近所の、少しざわめいたカフェで、私たちは向かい合ってコーヒーを飲んだ。神崎さんはカップを両手で包み込み、温めるようにしながら、静かに話し始める。「氷室様…&
──目が覚めた。私は、ベッドの上で激しく息を切らしていた。心臓が、警鐘のようにドクドクと鳴り響いている。夢……だった。トランクを開けた、悪夢のような夢。中には、何が入っていたんだろう。見た、はずなのに。目が覚めた瞬間、あの光景は霧のように消えてしまった。思い出せない。ただ──恐怖だけが、胸に残っている。私は、クローゼットをじっと見つめた。あの中に、トランクがある。本当に開けてしまいそうで、何よりもそれが怖かった。時計を見ると、午前
私の手が止まる。『違法なことはさせない。だが、俺の言うことは絶対だ。それが嫌なら、今すぐ帰れ』と、氷室様は言った。……これでいいのか?私は今、ここにサインをして、本当にいいの?この理不尽な条項は、間違いなく私の人生を大きく変えることになる。私は、目を閉じた。母の弱々しい声。旅館の屋根。父の薬代。通帳の残高32万円。選択肢は……ない。私は、ペン先を契約書に当てる。そして、『森川咲希』とサインをした。「契約成立だな」ふっと口角を上げた
私は、息を呑んだ。死──?「死ぬって、そんな大袈裟な……」「いいえ、大げさじゃないんです」神崎さんは、真剣な目で続けた。「過労死、という言葉をご存知ですか?」「はい……」「氷室様は、その一歩手前です」私は、胸がぎゅっと締め付けられた。「氷室様は仕事ばかりで、自分の健康を顧みない。朝は7時に家を出て、夜は0時を過ぎることもある。食事は全てコンビニか外食です」「……そんな」「なので、どうか氷室様を救ってあげてください。